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ご感想ありがとうございます。
励みになります。
鴻野道場での楽しいひとときを過ごした僕は、送ってくれるという春樹さんの申し出を謝絶して、いつも通りに走っての帰途についた。
秋の日はつるべ落としというけれど本当に最近は日が暮れるのが早く、稽古が終わると真っ暗だ。
さすがにここまで暗いと、ルートの新規開拓などはせずに通い慣れたルートをひた走る。
学校に行き始めて最初のうちは、少し暗くなると前が見えなくなって林の木の枝に正面から突っ込んでしまったり、岩につまずいて転んだりしてかなり痛い目を見た。
最近は目が慣れたのかうっすら見える他、物の気配というか、空気の流れのようなものを感じられるようになって、暗くても明るい時とほとんど変わらないペースで走ることができるようになった。
我ながらこういうことができるようになるとは思わなくて、思わず天狗になってもおかしくはないところだった。
が、一度お師さんと一緒に夜の山を走る機会があった。
熊事件のときに見たフィルムの早回し現象のような速度で走るお師さんが、僕の視界の中であっという間に点になって消えていった。
目の前で起きたことなのに、しばらく現実感がなかった。
天狗の鼻どころかなけなしの自信が、ミジンコはおろかケンミジンコくらいにしぼんでいったのを覚えている。
今の僕程度の全速力でも暗闇では無理なのに、あのお師さんの速度に達するにはどれだけ頑張ればいいんだろうか。
なお走り終わった後、お師さんに「若いのに遅すぎる。もっと精進しろ」とかなり理不尽なお言葉をたまわった。
つらつらととりとめのないことを考えながら走っているうちに、三隅村へと着いた。
所要時間はだいたい一時間半。
お昼なら一時間ちょっとなのだが、暗いとこんなものだ。
まだお師さんは帰っていないかな、と思いつつ母屋に入ろうとした僕は、道場から人の気配がすることに気づいた。
(お師さん帰ってきてるのかな?)
そう思って道場の方に回る。
さく、さく、と玉砂利の鳴る音が秋の虫の音に混じる。
山間の村であるここは、虫の類いはとても多い。
虫の音は綺麗だけれど、目の前に出てこられれば綺麗なだけで済む話でもない。
飛んでくるくせに回避能力皆無で、当たればとても痛いカブトムシ。
稲の収穫後にまさに雲霞のごとくわいて出て、その時期は主婦が死闘を余儀なくされるハエの群れ。
挙げていけばキリがないが、とにかく虫嫌いな人は田舎にだけは住んではいけないのだ。
環境が綺麗ということは虫にとっても棲みやすいということなのだから。
道場の前に来ると、明かりが点いていなかった。
「お師さん?」
呼びかけた瞬間。
道場の入り口から真っ黒なものが噴出したように見えて、慌てて僕は跳び退った。
距離を取ってそちらを見直すと、そこにはそんな痕跡は一切なく、道場から出てきたらしいひとりの男が暗闇の中で立っているだけだった。
「おや……? 先代三日月はひとり暮らしだと聞いていましたが」
星明かりの下で良く見ると、それはごく目立たないグレーのスーツを着た、中肉中背のどこにでもいそうな男だった。
意味は良く分からないが、状況から男が言う先代三日月というのは、お師さんを指しているようだ。
男は僕を見ると口を開いた。
「これは可愛らしいお嬢さんですね。お孫さんでしょうか。お爺さんはご在宅ですか?」
静かで落ち着いた声。
柔和な笑顔を浮かべた顔。
けれど違和感を感じる。
少し考えて、違和感の正体はすぐに分かった。
さきほどまでうるさいほどだった虫の音が、いつの間にか止んでいるのだ。
なぜか、と考えてやはりこれもすぐ思い当たった。
虫が鳴くのをやめるのは、敵が近くに来たときだ。
遠慮のない蝉でさえ、捕まえようとすれば鳴くのをやめて飛んで逃げる。
つまり、周囲の虫はこの男がここに来たことでどこかへ行ったのだ。
男が、ここに来ただけで。
そのことに思い至ったときに、背筋に冷たいものが走った。
口を開いてはいけない、立ち向かおうとしてはいけない、ここにいてはいけない。
何が何でもここから逃げ出さなければならない……!
「ふむ……? 勘のいいお嬢さんだ。先代三日月から何か聞いているのでしょうか? それとも……」
じり、と下がった僕の目の前。
ごきり、ごきり、と男から、まるで骨が軋むような音がする。
「あなたもけんじんなのでしょうか……?」
耳慣れない言葉を口にし、男は笑顔のまま地面を蹴った。
その動きは読めていた。
読めていたのに、気づくと男は目の前だった。
踏み込みの鋭さが尋常じゃない。
僕と稽古しているときのお師さんより速い……!
「……っ!」
どうにか身を翻し、母屋の玄関扉を体当たりで破って転がり込む。
ぎりぎりでも反応できたのは、常日頃のお師さんとの稽古のおかげだ。
それでも袖を何かが掠めた。
ちらりと見えたそれは見間違いでなければ、まるで鉤爪のように変化していた男の手。
前回り受け身を取って土足のまま廊下を振り返らずに走り抜ける。
余計なことを考えている暇はない。
気配はすぐ後ろまで迫っている。
「なかなかにすばしこい」
声がしたと同時に今度は右の部屋へとふすまを蹴破って飛び込む。
僕の部屋として与えられている、六畳間。
今度は髪に男の手が掠って千切れ飛んだ。
どれだけ切れ味の良い手なんだ!?
それでもどうにか、片隅に立てかけてあった僕の刀を手に取ることに成功する。
「どうやらけんじんではない。ですが、放置して良い腕前でもないようですね」
笑顔のまま僕との距離を詰める男。
真正面から見てはっきりと分かった。
見間違いなんかじゃなかった。
男の両手はまるで鬼のような鉤爪になっている!
「きじんを見るのは初めてですか?」
「きじんとかけんじんって、何のこと?」
ようやく口を開いた僕に、男はその張り付いたような笑みを深くした。
「剣の人と書いて剣人。鬼の人と書いて鬼人、と言います」
それだけの説明で分かるはずもないが、男は両手をひょいと肩の高さまで持ち上げる。
「この手は作り物じゃあないですよ。本物です。ほら」
男が部屋の入り口の壁を鉤爪でつまむように持つと、さして力を入れたようには見えなかったのに漆喰の壁がすっぱりと切れた。
「良い切れ味でしょう? それだけじゃなくて割と便利でしてね。こういうこともできるんです」
その右人差し指の鉤爪が僕の方に向けられたときに、半ば本能的に僕は持っていた刀を鞘ごと盾にするようにして体をひねった。
視界を何かが稲妻のように走り、刀を持つ手に重い衝撃が走る。
「おや」
直感に従って正解だった。
男の人差し指の爪はたったいま僕の脇腹があった位置まで伸びていた。
爪を受けた刀の鞘が割れて本身が露わとなる。
何もしないでいれば、串刺しになっていたところだった。
冷や汗を流す僕をよそに、こともなげに爪を元の長さに戻す男。
「悪くない。悪くないですよ。本番前の軽い準備運動のつもりでしたが、それはどうやらもったいないようです」
その顔には先ほどまでとは違う、ぞっとするほどの悪意に満ちた、まるで舌舐めずりするような笑みが浮かんでいた。
「初代三日月の前に、あなたで飢えを満たすとしましょう」
さっきから逃げ出す隙を窺っているのだが、男に隙はまったく見当たらない。
それどころか、僕がそれを狙っているのを看破している節がある。
つまり、分かりきっていることだが男は僕の遙か格上だ。
まともに戦ったところで勝ち目はない。
割れた鞘を捨て、刀を正眼に構える。
この構えは防御力が高い。
何となれば、相手と自分の間には相手に向けられた刃が存在するからだ。
相手はこれを無視して攻撃することはできない。
そして正中線に据えられたそれは、自分の急所をガードする役割も果たす。
とはいえ、規格外の相手に僕がどこまで持ちこたえられるか。
刀を取るためにここに来たものの、とにかく家の中はいかにもまずい。
これが普通の大人相手なら、僕はリーチ差が有利に働かない家の中で戦うことを選択していただろう。
しかし、この相手にそれは意味がないどころか僕の方が不利だ。
あの鉤爪の前に壁は何ら障害物に成り得ず、逆に僕の行動は制限される。
そればかりか鉤爪で抉り取ったものは相手の武器に成り得るし、そのまま床に投げ捨てられるだけでも足場が加速度的に悪くなって行く。
一撃でも貰えば終わりの僕には厳しすぎる条件だ。
「さて、頑張ってくださいよ?」
無造作に間合いを詰めて右手を振りかぶる男。
今までと較べて緩慢とも言える動きを前に、僕はがら空きに見える男の右脇目掛けて、刀を上に掲げて踏み込む。
(来た……!)
上に掲げた刀に何かが触れたのを感じた瞬間に、僕はスライディングに移行して男の横をすり抜け、床を滑って廊下へと躍り出る。
「ほう! これはやられました。上に構えた刀は防御のためではなく、センサーとして使うためとは!」
楽しげに男が叫ぶが、僕は構わずに家の外へと走り出る。
咄嗟の思いつきだったけれど、どうにかうまく行ったようだ。
男は鬼人とかいう、人間かどうかすら怪しい生物だが、その形状は人間と大体変わらない。
腕を下げようとすれば、人体の構造上必ず先に肘が下がる。
僕はそれを利用して男が振り上げた腕の肘の下を鋒が通るように踏み込み、攻撃しようと腕を急加速させて振り下ろしたことを刀で感じて回避した。
あわよくばその肘を斬り裂けないかと思ったけれど、それは甘かった。
鋒に当たった感触は、まるで鎧か何かのように硬いものだった。
本当に鎧ならまだ気が楽なんだけど、刃に当たって裂けたスーツの下に何か着込んでる様子はなかった。
最初からスライディングをしなかった理由は、そうしたら男の対応もそれなりのものになって、すり抜けに失敗する確率が上がるからだ。
何が目的なのかは分からないが、男は僕を殺したいのと同時に戦いを楽しみたがっているようだ。
だから右手を振り上げてわざとらしく誘い、僕がどう工夫してそれを切り抜けるかを見たがった。
工夫が足りなければ殺すことに躊躇はなさそうだが、その遊びの余地は唯一の僕の勝機と言っていい。
正面からでは勝てないなら、逃げられないなら、工夫して勝つ。
僕は死ぬわけにはいかないのだ。
家から走り出てすぐ振り返ると、男が余裕の表情で玄関から出てくるところだった。
「判断も的確です。そのまま走って逃げていれば後ろから串刺しだったものを」
これ見よがしに鉤爪を伸ばしたり引っ込めたりしながら、男は残念、とでも言いたげに肩をすくめた。
「………楽しいの?」
最初の攻防からここまで翻弄されっぱなしで余裕がなかった僕だったが、安全とは言い難いものの少し距離を置けたことで余裕ができた。
しかし、そこで男の言葉に心が反応してしまった。
させられてしまったと言うべきか。
「ええ、とても。弱者を蹂躙するのも嫌いではありませんが、やはりそれなりの強者の方が狩りは趣深い」
「狩り?」
「そうですよ、子うさぎさん」
男が嗤う。
「優れた師、強くなるための努力、そして時間。それらを積み上げた結果として強者となる。その丹念に積み上げた結果を食らう鬼こそがこの私」
挑発に乗って心を動かしてはいけない。
「子供とはいえ、あなたの積み上げた時間は濃厚のようです。実にそそる」
分かっている。
心を乱して勝てる相手じゃない。
けれど。
「……ふざけるな」
思いは口をついて出た。
――思えば前世は悪いものじゃなかった。
気楽に生きて、それでも人並みには苦労して。
大切に想う彼女もできて、それなりにハッピーだったと思う。
でもそれは突然、僕が殺されたことによって断ち切られた。
同じく殺される寸前だった彼女を救うために、僕はハチと名乗る神にすがって過去へと転生した。
そこからは必死に走ってきた。
師とライバル、友を得て剣を磨く濃密な時間。
前世では考えられないくらい、ひたむきに生きてきた。
絶対に果たさなければならない願いのために積み上げてきた、かけがえのない十年。
それを、こんな奴なんかのために、失っていいはずがない……!
「おまえなんかに、僕の命は渡せない」
発する言葉に怒りが滲むことを抑えられない。
怒りそのもののコントロールは難しい。
そして怒りは力を生むが、同時に力みをも生む。
このまま怒りを男にぶつけるのはどう考えても愚策だ。
僕の攻撃の威力が多少あがったところで男には通じず、柔軟性を失えば結果は火を見るより明らか。
ならば、どうする。
僕は怒りの矛先を変える。
男の言葉は見逃せない。
だが、それを言わせるのは僕自身の非力のためだ。
だから、怒るべきは己の弱さ。
煮えたぎる溶岩のような怒りは、冷えて沈み込むそれのように、肺腑の奥へと押し込まれた。
「だから、おまえを倒す」
急に落ち着いた僕の声音に、男はかすかに困惑の色を浮かべる。
果たさなければならない願い。
かけがえのない時間。
大事なものを守るために自らを奮い立たせたそのとき、己の弱さへの怒りは、不退転の覚悟へと変わった。