プロローグ
「――ついにお別れの日がやってきた!」
二〇✕✕年、五月十四日、日曜日。
その朝、僕は浮かれていた。
それはそうだ。
守りたくもないのにひたすら連れ添ってきたものとお別れの日がやってきたのだから。
苦節三十年、彼女が初めて泊りがけのデートをOKしてくれたのだ。
いや、小さい頃は普通に彼女とかには興味がなかったから、実際には思春期からの苦節十五年とかそんなところか。
やっふううううう! と叫んで走り出したくなるくらいには嬉しい。
実際にやったら変な人認定で済めばいい方で、下手すると警察に通報されかねないからやらないけど。
ともあれ魔法使いになるのにギリギリアウトな年齢で念願の初の彼女をゲット。
当然ながら三十歳になったところで魔法なんか使えなかったけどね!
あれは恋とかに見向きもしないで何かに打ち込んだ人が、魔法みたいなことができるほどの専門性を得るという意味で言われてるんじゃないかと思うけど、僕はそんなに一つのことにひたむきに打ち込んだことなんてなかったし。
運にも恵まれてできた彼女は僕と同じで、軽いオタクで軽いコミュ障だった。
漫画やアニメは好きだけどそこまで詳しいわけでもなく、人と表面上は普通に付き合えるけど、深い付き合いのある人はほとんどいない。
ディープなマニアとは話が合わせられず、さりとて普通の人との会話も苦手。
同じくらいのレベルの僕らは気があったんだと思う。
そこから順当にデートを重ねてようやくの運びとなったわけだった。
その日はとても楽しい一日だった。
そうなるはずだった。
夕刻、ひとりの男とすれ違うまでは。
* * *
――目の前に黒いシミのようなものが広がっていく。
薄暗くて良く見えない。
何だったろう、これは。
胡乱な頭でぼんやりと考える。
大事なもののような気もするし、そうじゃないような気もする。
「――――!」
うん、今おぼろげに聞こえた叫び声の方がきっと大事だ。
「楽しいねぇ……」
大事な声は遠くて聞きとれないというのに、その男のつぶやきは耳障りなくらいはっきりと聞こえた。
「幸せな奴らを、その絶頂からどん底に叩き落とす。いやぁ、愉快愉快。これ以上楽しいことって他にあるかなぁ? なあ、君はどう思う?」
そいつは僕を見おろして陽気な声でのたまう。
痩せぎすの、暗闇に溶け込むかのような褐色の肌の男。
つまり、そいつが寝転んで人を見上げるような特殊性癖でも持っていない限りは、男は立っていて僕は地面に転がっているということになる。
……少しずつ、思い出してきた。
彼女と談笑しながら歩いていた僕は、こいつとすれ違った。
その瞬間に脇腹に焼けた鉄でも押し付けられたかのような感覚がして、そこから記憶が飛んでいるようだった。
「なん……」
ごぼ、と喉が鳴って言葉が消える。
代わりにびちゃびちゃびちゃ、と音を立てて地面に落ちたそれは、さっきのシミと同じ色で。
「お、生きてたか? 頑張るねぇ。いや、嬉しいよ」
体に力が入らない。
倒れているのは分かるのに、起き上がるどころか、顔を上げるのも思うようにいかない。
さっきの焼けたような感覚はどこへやら、今はとても寒い。
でも、そんなことより。
彼女は、どこだ。
「ああ、女かい? ――あっちだよ」
男はそれを察したのか、もがく僕の髪を乱暴につかんでそのまま頭をぐい、ととある方向へと向けた。
そこで彼女は壁に背を預け、足を投げ出すようにしてうずくまっていた。
そして、その壁にはさっき見たものと同じ色のシミが広がっていて。
「あ゛――あ゛ぁぁぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!!」
その瞬間理解した。
自分がどうなっているのかも理解した。
「ひゃははははは! いいね、いいねぇ、その絶望した顔!」
悦に入った声をあげる男の手をどうにか振り払う。
「お、お?」
上体を起こす。
ただそれだけの動きに、多大な努力が必要だった。
そして上体を起こしたことで彼女の惨状がよりはっきりと目に入った。
「ぐううおあああああ!」
「おーおー、テンションあげちまってよお」
どうでもよかった。
傍らに立つ男も、自分の状態も。
彼女以外は目に入らなかった。
言うことを聞かない体に生まれてこのかた、これ以上したことはないというくらいに集中してどうにか立ち上がる。
脇腹から温度がこぼれ落ちていくのを感じたが、僕の目には彼女しか映っていなかった。
「火事場の馬鹿力ってかぁ? よく立ち上がれたもんだな」
男の意外そうな声。
と、彼女がかすかに顔を上げたのが分かった。
良かった、生きてる。
「……に、げて」
声は聞こえなかった。
けれど、間違いなく彼女の口はそう動いた。
「く、くくくく、楽しませてくれるよなぁ、本当。どうするよ、彼氏。逃げてもいいぜ? 助かるかは知らねぇけどな」
馬鹿にしたように、いや、実際馬鹿にしているんだろう、男が笑う。
逃げるのはいい。
僕は喧嘩は弱いし、負けたところで潰れるような面子も何もありはしない。
そんなものより命が大事だ。
でも、彼女を置いて逃げるなんてあり得ない。
自分もひどい怪我をしているはずなのに、こんな恐ろしい男を前にしているのに、僕に逃げろと言った。
だから、彼女と一緒に、逃げる。
そう決意して踏み出した一歩は、けれど地面を踏みしめることは無かった。
どしゃり、と地面より柔らかいけどそれなりに重量のあるものが崩れ落ちる音がした。
視界が暗くて彼女が見えない。
そっちに行かなければいけないのに。
「あー、こりゃ限界かな? まあ楽しませてもらった礼だ。彼女もすぐ後を追わせてやるよ。特別にな」
駄目だ。
彼女を守らなきゃならないのに。
「――――!」
悲鳴のような声が聞こえたのを最後に、僕の意識は暗闇に呑まれた。
* * *
――何がいけなかったのだろう。
[何も悪くは無かったと思うよ]
悪くもなくて、人生初の泊まり掛けデート真っ最中に死ぬとか、普通無いと思うんだけど。
ああ、そう言えばついにお別れはできなかったんだな、僕。
[運は悪かったんだろうね]
運か。あんまり良いと思ったことは……って、あんた誰?
[うーん、反応が遅いね。まあ死んだ直後だとそういうものかな。私は君たちが神と呼ぶようなものだと思えばいいよ。ハチとでも呼んでくれれば]
……やっぱり僕は死んだのか。
それで、神様? 何かお願いを叶えてくれるんだろうか。
あんまり威厳が無い青年みたいな声だし、僕は神様は信じていない方だったけれど、死んだ奴に話しかけられるなら本当に神様なんだろう。
[そうとも言えるし、そうではないとも言えるね]
じゃあ何をしに?
[その前に。君は今、一つ願いが叶うなら何を願う?]
その問いに対する答えは一つしかなかった。
――彼女を助けたい。
僕の答えに、ハチと名乗った存在はなぜか満足そうに頷いたような気配がした。
[それなら私は君に一つの道を示すことが可能だよ]
一つの道?
[君は死んだ。それは確かな事実。けれど、その女性はまだ死んでいない]
それは朗報だけど、あの異常な男が彼女を見逃すとは思えない。
[そう。ゆえに、君が救うんだ]
僕が? 死んだのに?
だいいち生き返ったとしても僕では、あの男から彼女を逃がすのすら難しい。
[説明している時間は無いかな。女性が死んでしまう]
――救うことができるんだな? 彼女を。
[ああ。君次第だけどね]
なら、迷うまでも無い。
僕は、彼女を救う。
自分も怖ろしい目に遭っているというのに、僕の身なんかを案じたお人好しの彼女を、必ず。
[そう言うと思っていた]
満足げな言葉と同時に、僕はまるで空に打ち上げられたかのような浮遊感に襲われ、そして光に包まれた。