夢見る都(8)
学校を飛び出した翔子は、泣きながらポケットからケータイを出して、ある人物に電話をかけた。
「……今から家行っていい?」
《アタシんち来るの、爆マジ!?》
電話の相手は撫子だった。
「うん……だって……ううっ……うっ」
目からボロボロと涙を流し、ケータイを持つ手はぶるぶると震えていた。
《翔子、もしかして泣いたりしちゃってるの!? にゃにがどうして、どうしたの?》
「だから……うう……撫子の家行っていい?」
《翔子アタシんち知らないじゃん》
「じゃあ、迎えに来てよ」
《それ烈マジで言ってんの?》
「やっぱりいい、家の場所教えて」
《えっと、いつも別れるY字路を進むと酒屋さんがあって、その前におっきくて新しいマンションがあるから、そこの505号室》
「……わかった。電話切るね」
撫子と話をしたせいか、翔子の気持ちが少し落ち着いた。涙が止まり、身体の震えが止まった。
翔子はとりあえずいつも撫子と別れるY字路まで向かい、そこで自分がいつも帰る道とは違う撫子が帰る道を進んだ。
この辺りは自転車で来たことがあるので翔子も知っている。
小さな公園があり、しばらくすると酒屋の近くにある大きなマンションが翔子の視界に入って来た。やっぱりここなんだと改めて翔子は実感した。
一年ほど前にできたマンション。この場所は知っていたが、撫子の家がここだったと翔子は今日はじめて知った。
マンション内に入った翔子はエレベーターで五階に上った。そして、505という数字を頭の中で反復させながら、505号室の前まで来た。
表札には撫子の苗字である『涼宮』と書かれている。
表札に間違いないことを確認した翔子はインターフォン押した。すると、ややあったインターフォンから声が聞こえた。
《どにゃたですかぁ?》
「撫子? 私、翔子」
《本当に来たんだ翔子》
「本当に来たってどういうこと? それよりも中入れてよ」
《ちょっと待ってて》
ガチャと鍵の開く音がして、少し開いたドアの隙間から撫子の顔が覗いた。だが、チェーンロックが掛かっている。
「にゃば〜ん! 翔子」
明るい感じで撫子は翔子に挨拶するがチェーンロックは掛かったままだ。
「撫子……チェーンロック外してくれないかな?」
「にゃんで?」
「家の中に入れたくないの?」
「入りたいの?」
「当たり前でしょ」
「……にゃにがあっても人に口外しにゃいことが条件」
「……家の中に何かあるの?」
「いいから、とにかく約束してよぉ」
「約束します。入れてください」
「しかたにゃいなぁ〜」
撫子はしぶしぶと言った感じでチェーンロックを外した。
玄関を潜った翔子を歓迎しようと、撫子は片手を大きく部屋の中に向けて言った。
「じゃじゃ〜ん、撫子んち、爆初公開だよ〜ん!」
しぶしぶ家の中に入れたわりには、先ほどと態度が豹変して明るい。
玄関で靴を脱ごうとした翔子はあることに気がついた。靴が一足しか出されていないのだ。他の靴は全部下駄箱に入れてあるのだろうか。だとしたらとても几帳面な家族なのだろう。
ダイニングに通された翔子はまた少し疑問を感じた。家具がほとんどなく、生活観があまりないのだ。置いてある家具といったら、こじんまりしたテーブルとテレビだけであとの家具がない。
「あのさ、翔子……聞いてもいいかな?」
「ダメ、ダメダメだよ、うちの家庭事情についてはあんまり聞かにゃいで。あと、トイレとお風呂とここ以外は入っちゃダメだからね」
「……そういう言い方されると、気になるんだけど。もしかしてなんだけど、ここに住んでるのって撫子だけ?」
「にゃ、にゃに言ってるのぉ!? あっははぁ〜、まっさか中学生に分際でマンションに一人暮らしにゃんて、爆裂ナイナイだよ」
「してるんだ。でも家族はどうしてるの?」
「だから、してな――」
『してない』と言おうとしたのだが、翔子が自分のことをじーっと見つめているので、撫子はため息をつきながら白状した。
「星稜中学に転校して来てから、ずっと一人暮らししてる」
「それって大問題なんじゃないの?」
「お願いだから、これ以上はアタシんちの家庭事情に触れにゃいで、お願い」
すぐにでも涙が零れ落ちそうな瞳で、撫子は翔子を見つめた。
中学生がマンションで一人暮らししているなんてとんでもない話だが、撫子が触れられたくないようなので翔子はもう何も聞かなかった。
「ごめんね、もう聞かないから」
「翔子物分り爆いいね。じゃ、飲み物持って来るけど、にゃに飲む?」
一気に撫子は元気を回復した。撫子は気持ちの切り替えがとても早いのだ。いや、もしかしたら気持ちなど、最初から変わっていないのかもしれない。
「何があるの?」
「ええっと、牛乳とミルクとホットミルク、それともイチゴミルクにする? あっ、バナナミルクもあるよ」
「全部牛乳じゃない。他の飲み物はないの?」
「アタシ飲み物牛乳しか飲まにゃいんだよねぇ」
そう言えば翔子は撫子が乳製品以外の飲み物を飲んでいるのを見たことがなかった。いつも学校でもイチゴミルクを飲んでいるのしか見たことがない。
「牛乳ばっかり飲んでるのに、撫子ってちっちゃいよね」
「ちっちゃいって言うにゃ」
「ちっちゃくても可愛いんだから、怒らない怒らない。じゃあ、私はバナナミルク」
「うんじゃ、ちょっくら待ってて」
しなやかな脚を弾ませ、風のよう台所に走って行った撫子は、風のようにグラスを二つ持って戻って来た。
「お待ちぃ〜、バナナミルク一丁」
「ありがと」
「適当にゃところ座っちゃって」
「うん」
バナナミルクを飲みながら翔子は床に座った。それに合わせて撫子も床に座る。
「ところで翔子はにゃんでうちに来たの? さっき電話越しに泣いてたけど……ま、まさか! 変にゃ男教師に襲われて、体育館裏に無理やり連れられて……きゃ〜、みたいにゃ感じ?」
「う〜ん、ほんの少しだけ近いかも」
「じゃあ、センパイたちに校舎裏に連れて来られて、きゃあ?」
「あのね……」
翔子は言葉に詰まり、ゆっくりと深呼吸をして改めて言った。
「あのね、麗慈くんに無理やりキスされそうになって、逃げて、そのことを麻那先輩に相談して、その後みんなの前でそのことを麻那先輩がバラしたの」
「……掻い摘んで話し過ぎでわかんにゃいよぉ」
「だから、麗慈くんが私にキスしようとしたことを麻那先輩がみんなにバラしたの!」
「大したことにゃいじゃん」
あっさりと撫子に言われてしまって翔子はショックだった。撫子に相談に来たのに、そんな言い方されるなんて夢にも思っていなかったのだ。
適当にあしらわれたような感じのした翔子は頭に血が上ってしまった。
「そんな言い方ないでしょ! 私には大したことなんだから」
「翔子カリカリし過ぎだよぉ。バナナミルク飲んでカルシウム摂って。イライラにはカルシウムがいいんだって」
撫子に言われた翔子は当て付けでバナナミルクを一気に飲み干して、顔を膨らませてムスッとした。
怒って何も言わない翔子に撫子は呆れてしまった。
「翔子、子供みた〜い」
「まだ子供だもん」
「そうやってほっぺた膨らませるところが子供だね。それにキスされそうににゃったことぐらい、誰に知られてもいいと思うけどにゃぁ」
「だって、恥ずかしいし、みんなにどう思われるか心配で……」
「アタシは別にキスにゃんて恥ずかしくにゃいから誰とでもできるよ。でも、愁斗クンとか麗慈クンみたいにゃ人だと、爆いいかにゃ」
「だ、誰とでもできるって……撫子、男の人とキスしたことあるの!?」
「わぁ〜、烈うっそぉ〜、翔子キスの経験にゃいんだぁ〜、きゃはきゃはだね」
「あ、あるわけないでしょ!?」
翔子怒りはどこかに吹き飛び、今度は別のことで顔が真っ赤になってしまった。
「アタシはにゃん度もあるよ〜ん。でも、女の子とはまだ一度もにゃいかにゃ」
「女の子とないのは普通でしょ。まさか、女の子ともしたいの?」
「翔子とだったらキスしたいにゃぁ〜、にゃんていつも思ってるよ」
ニッコリと言う撫子だが、翔子には衝撃的だった。自分が撫子に狙われていたなんて考えたくもない。
「私はお断り」
「女の子同士のキスならぜんぜん平気って子よくいるけどにゃぁ〜」
「私はノーマルなの」
「女の子同士でキスする子たちもノーマルだよ。親友同士のスキンシップだよぉ」
翔子は背筋がゾクゾクとして、勢いよく立ち上がった。
「私帰るね」
帰ろうとする翔子を見て撫子も立ち上がり、熱い眼差しで引き止めた。
「えぇ〜っ、せっかく来たのに帰るのぉ〜、夜はまだまだ長いのにぃ」
「絶対帰る」
「ジョーダンだよぉ。翔を襲いたいって気持ちはあるにはあるけど、自制心で抑えてるから、ね?」
「襲いたいって気持ちがある時点でダメ。もう、今日から友達止める!」
「ごめ〜ん、許してよぉ。翔子は引っ越して来て一番初めにできた友達にゃんだから、翔子に嫌われたら、これからの人生、ぶっ落ちるよ。アタシは翔子のこと親友だと思ってるんだよ、そんにゃアタシを見捨てるの?」
段ボール箱の中に入れられて、電信柱の影に捨てた猫みたいな表情をした撫子に、翔子は根負けした。
「……変な素振り見せたら絶交だからね」
「うん!」
翔子はゆっくりと床に再び座った。
「絶対変なことしないでよ」
「ごめん、全部ジョーダンだから、怒らにゃいでね。本当に翔子に嫌われると、泣きそうににゃっちゃうから」
そう言う撫子はすでに泣いていた。
泣き出してしまった撫子を見て、翔子はひどく慌てる。
「泣かないでよ、絶交しないから」
「爆うれしぃ〜! そんにゃ翔子が爆裂大好きだよぉ」
泣いていたと思ったのに、次の瞬間には撫子は笑顔だった。それを見て翔子は疑いの眼差しで撫子を見る。
「嘘泣きだったの?」
「ウソ泣きじゃにゃいよぉ〜。本当に涙が出たの、でもすぐに爆裂元気ににゃったんだよぉ」
「……どっちでもいいか」
「あ、信じてないの、ひっど〜い」
「信じる信じる」
翔子態度に撫子は頬を膨らませた。もし、撫子にしっぽがあったならば、きっと立っているに違いない。
「ふんふんふ〜んだ」
「怒らないでよ」
「怒ってにゃんか、にゃいにょ〜ん」
「じゃあ、今度イチゴミルクおごってあげるから」
「えっ!? イチゴミルクおごってくれるの? 爆うれしいぃ〜」
「撫子って簡単ね」
「そんなことにゃいよ、撫子の攻略はA難度にゃんだから」
『難度って何?』と翔子は聞こうとしたのだが、そんなことよりも重要なことを思い出した。
「それよりも、ここに私が来た理由。私は撫子にいろんな相談があって来たの」
「でも、もう烈元気そうだから、相談にゃんてぶっ飛んでいいんじゃにゃいのぉ?」
「ダメ、撫子の家に押しかけたからには相談聞いてもらう」
話が途中でだいぶ逸れてしまったが、翔子は再びに麗慈のことから話しはじめた。
「さっき、麗慈くんにキスされそうになったって言ったでしょ? 私、麗慈くんより愁斗くんが好きだって気づいたから、麗慈くんに言い寄られて来られても困るの」
「ちゃんと、愁斗クンが好きだから変なマネしにゃいでって言ったの?」
「愁斗くんの方が好きって言ったのに、『絶対自分の方を振り向かせて見せるから』って言ったんだよ麗慈くん」
「麗慈クンって自信アリアリの過剰クンにゃんだ。じゃあ、アタシから麗慈クンにガツンと言ってあげるよ」
「本当にいいの?」
「翔子とアタシの仲だもん、爆裂いいに決まってるじゃん」
胸を堂々と張って言い切った撫子であるが、翔子には心配事があった。その心配事が自分でもっとガツンと麗慈に言えない理由でもある。
「でも、ガツンと言ってケンカとかにならないよね……もし、撫子と麗慈くんがそれで仲悪くなったら、私のせいだし……」
「その時は笑って相手を屠ればいいよん」
「屠るって……麻那先輩みたいな言い方……!?」
翔子はあることに気がついて騒ぎ出だした。
「ダメ、ケンカはダメ。私のせいとか、そういうことじゃくてケンカはダメなの!」
「どうして、害虫駆除のどこが悪いのぉ?」
「麻那先輩最近ピリピシしてて、私とケンカまでしちゃったし、このまま部の雰囲気が悪くなると公演ができなくなっちゃうよ。撫子がいなくなってから練習最悪だったんだから……」
最悪だった要因に自分が大きく関わっていることを思い、翔子は胸を締め付けられる思いだった。
「翔子言うとおりだよね。公演できなくにゃったら嫌だもんね。明日までにアタシ衣装仕上げて部活出るよ」
「……本当? 撫子がいてくれると場の空気が少しはよくなると思う」
「じゃあ、そういうことで、翔子ちゃんさらばじゃ〜!」
「帰れってこと?」
「そうだよ、これからアタシは衣装作りで、美容と健康に悪い徹夜だもん」
翔子はうなずいた。相談はあんまりできなかった気がするけれど、少し気持ちが楽になったような気がする。
「じゃあ、よろしくね撫子」
「おうよ、任せとけ!」
翔子は撫子に玄関まで見送られ、自宅への岐路に着いた。
黄昏時はすでに過ぎ去り、冷たい青が世界を包み込み、日はすっかり暮れてしまっていた。