夢見る都(6)
翌朝、教室に入り席につくと、すでに横には麗慈が座っていた。
「おはよ、翔子ちゃん」
「おはよう、麗慈くん。……頬の傷どうしたの? それに制服の上着は?」
麗慈の頬には切り傷があり、セーターを着ていて制服の上着を着ていなかった。
「この傷は、うちで飼ってる猫に引っ掻かれて、制服は汚れちゃってさ」
「麗慈くんのうち猫飼ってるんだ。いいね、うちもペット飼いたいんだけど、お母さんがダメって言うんだよね」
「うちの猫は躾がなってなくてさ、この有様だよ」
笑ってみせる麗慈。翔子はその笑顔を信じきっている。
「麗慈くんが何かしたんじゃないの?」
「そんなことないよ、あいつが喧嘩っ早いだけ」
「ふ〜ん。ところで飼ってる猫は一匹だけ?」
「二匹だよ。もう一匹はわけわかんない性格しててさ、まあ、猫っぽいって言ったら猫っぽいんだけどな」
「にゃ〜んと、おはよ、お二人さん」
声をかけて来たのは撫子だった。それを見た翔子は小さく呟く。
「ここにも猫がいた」
「にゃ〜ん、撫子は猫だよ〜ん」
翔子は撫子のお尻にしっぽが生えていても可笑しくないと思っている。
「ああっ!?」
突如、撫子が声をあげて、クラス中の人が振り向いた。
「激ショック! 麗慈クン、その傷どうしたの!?」
「うちの猫に引っ掻かれてさ」
「痛くにゃいの、だいじょぶぅ!? だいじょぶじゃにゃかったら、撫子は夜も眠れません」
呆れ顔で翔子は撫子を見つめた。
「心配しすぎだよ撫子。騒いでないで自分のクラス帰ったら?」
「もしかして、アタシお邪魔にゃのぉ〜、ふたりの邪魔しちゃった?」
「違うから、もぉ、どうでもいいからクラス帰りなさいよ、先生もうすぐ来るよ」
「えぇ〜っ、だってアタシ一番前の席でさ、先生にロックオンされちゃって、びしばし注意されまくり」
「それって、撫子が授業中に騒いでるからでしょ?」
「うっそ〜、騒いでにゃいよぉ。それに違うクラスにゃんだから、翔子が知ってるわけにゃいじゃん」
「知ってるよ、だって撫子の叫び声が授業中に聴こえてくるもん」
撫子は翔子のとなりのクラスで、授業中に翔子のクラスが静かだと、撫子の大声がよく聴こえて来ていた。
「爆マジ!? アタシの声聴こえてるの?」
撫子が横を見ると麗慈が笑っていた。
「そう言えば昨日も聴こえてた。『うっそ〜、爆マジ!?』って叫び声がさ」
「うっそ〜、爆マジ!? それって烈恥ずかしいじゃん」
「恥ずかしいって思うんだったら、授業中叫ぶの止めなさいよ。何だか、私まで恥ずかしくなるでしょ?」
「にゃんで翔子が恥ずかしがる必要あるの?」
「今も恥ずかしいよ。ここで撫子が大声出して、友達として一緒にいると恥ずかしくなるよ」
「えぇ〜っ、翔子ったらアタシのことそんにゃ目で見てたの……爆裂ショック! もう翔子と友達やってける自信ナサナサぁ〜、ぐすん」
目頭に手を当てて泣いたフリをはじめる撫子。人々の視線が撫子を中心にたくさん集められる。近くにいる翔子と麗慈まで変な目で見られている。
「うあ〜ん、翔子ちゃんが苛めるよぉ〜ん。この学校来てはじめてのお友達だったのに、こんな破局を迎えるにゃんて、劇的展開って感じぃ」
人々の視線が次第に痛くなり、翔子は耐えられなくなってしかたなく撫子に謝った。
「ごめんね撫子、私が爆悪かったから許して」
「にゃ〜んてね」
顔を上げた撫子は満面の笑みを浮かべていた。嘘泣きだったのわかっていたが、こんなことをされると腹が立つ。だが、また嘘泣きをされると困るので、翔子は怒りをぐっと腹の中に押し込めた。
「もう、いいから早くクラス帰りなさい」
「だから、今の席イヤにゃんだって。早くクラス替えしにゃいかなぁ。それで、麗慈クンか愁斗クンと同じクラスににゃったら爆ラッキー。そうそう、そう言えばさぁ、愁斗クンまだ来てにゃいみたいだけど?」
愁斗の姿はまだなかった。もしかしたら、今日も休みなのかもしれない。
翔子の顔に少し不安の色が浮かんだ。
「愁斗くん、どうしたのかな? もしかして、昨日無理して部活来てたのかな……?」
チャイムが鳴り、急に撫子が慌て出した。
「烈ヤバヤバって感じぃ。急いで帰らにゃいと遅刻にされるよぉん、てにゃことで、うんじゃ、さらばにゃ〜ん!」
撫子は軽快なステップで走り去っていた。
なぜか翔子はどっと疲れた。
「あーっ、何か疲れた」
「撫子ちゃんって、いつでもハイテンションだよな。本人は疲れないのかな?」
「私の知る限りは二十四時間あんな感じ」
机に突っ伏しながら翔子はそう麗慈に話した。麗慈はそれを聞いて笑みを浮かべた。
「そうなんだ。毎日だと付き合ってる方が死ぬかもな」
「今の私を見たとおり」
『今の私』とは、机に突っ伏して疲れきった表情をしている翔子のことである。
しばらくして、先生が教室の中に入って来た。そして、今日もいつも通りの授業が展開されていく。
放課後になり、翔子は麗慈に声をかけた。
「麗慈くん、部活行こうか?」
「ああ、行こう」
教室を出て廊下を抜け、ホールの中に入る。
廊下と違ってここには人がいない。いたとしても演劇部の部員たちだけだ。
「麗慈くん」
「なに?」
「あのね……」
「顔赤いよ」
「えっ、嘘!?」
どうやら自分でも気づかない間に翔子の顔は真っ赤になっていたらしい。それを指摘された翔子はすぐに顔を伏せた。
そんな翔子の顔を意地悪く覗き込もうとする麗慈。
「顔下向けることないじゃん」
「止めてよ、覗き込まないでよぉ」
「だって、そんな翔子が可愛いからさ」
「……麗慈くん、そのことなんだけど」
急に翔子の声のトーンが下がった。
「麗慈くんのこと、嫌いじゃないんだけど、でも、ダメなの」
「やっぱり、秋葉のことが好きなの?」
「うん、だからダメ」
「ふ〜ん。昨日は翔子ちゃんが秋葉のこと好きなら、俺はあきらめるって言ったけど、あれ撤回。俺はいつまでも翔子ちゃんのことが好き、で、絶対自分の方を振り向かせて見せるから」
「えっ、でも……」
口ごもる翔子を麗慈は壁に無理やり押し付けた。翔子は身動き一つできなくなった。
「麗慈……くん?」
「俺、翔子ちゃんが欲しい」
麗慈の顔が自分の顔に近づいて来て、はっとした翔子は、麗慈の身体を思いっきり突き飛ばしながら叫んだ。
「ダメッ!」
押し飛ばされた麗慈は床に倒れ、翔子はその場から居た堪れなくなって逃げだした。
麗慈から逃げた翔子は舞台に急いだ。誰かにいて欲しいと翔子は思った。麗慈とふたりっきりになるのが嫌だったのだ。
運良く、舞台では隼人と麻那が他の部員たちを待っていた。
「部長こんにちは、麻那先輩もこんにちは」
麻那が掛ける眼鏡の奥で瞳が妖しく光った。
「顔が赤いわね、風邪? それとも他に何かあったのかしら……あたしの相談窓口はいつでも開いてるわよ。初回相談料はタダだから、いつでも相談しなさい」
この言葉に翔子は少し考えた。いつもは即答で断るのだが、今の気分は違った。
「あの、麻那先輩、ちょっと……」
「あら、本当に相談事があるの?」
翔子は小さくうなずき、それを見た麻那は隼人に言った。
「そういうわけだから隼人、舞台裏に誰も近づけないように」
麻那は翔子の腕を引っ張って舞台裏に向かった。
舞台裏は薄暗く、そこを抜けて廊下に出た。
「あの、舞台裏で話すんじゃなかったんですか?」
舞台裏を通り過ぎて翔子はどこに連れていかれようとしているのか?
麻那は妖艶な笑みを浮かべた。
「いいとこよ」
「あ、あの変なところに連れ込まれたりしないですよね?」
「さあ、どうかしら?」
「わ、私帰ります」
逃げようとした翔子の腕を麻那が力強く掴んだ。
「冗談よ、楽屋に行くの」
「でも、楽屋って鍵が掛かってるんじゃないですか?」
このホールにはもちろん楽屋が存在している。だが、その楽屋は外部から公演に来る人たちのもので、演劇部が使うことは本番当日以外には許可されていない
「あたしと隼人が鍵持ってるの知らなかったの?」
「そうなんですか、でも、なんで鍵持ってるんですか?」
「だいだいうちの部活に受け継がれてるのよ。あたしたちが卒業する時に鍵はあなたに託してあげるわ」
「楽屋の鍵なんて持ってて、何に使うんですか?」
「こういう時みたいに内密の人と話す時とか、後は学校にばれないようにドンチャン騒ぎする時とか、部室でパーティには限界があるからね」
「そうなんですか」
二人が話しているうちに楽屋の前まで来た。
麻那が鍵をドアに差し込むと、本当にドアが開いた。
「開いた、本当に開くんですね」
「信用してなかったの? こんなことくだらない嘘つくわけないでしょ」
二人は楽屋の中に入り、麻那はすぐに鍵を閉めた。
ガチャという音が聴こえ、翔子は閉じ込められた気分になる。相手が麻那だから、そういう気分がするのだ。
「適当なところに座りなさい」
床は畳で鏡台やテーブルなどもある。大部屋らしく結構広い。
翔子が適当に畳に腰を下ろすと、麻那がその前に座った。
「さてと、話を洗いざらい聞かせてもらいましょうか、とその前に――」
麻那は制服のポケットから二本の缶飲料を出した。一本はコーヒー、もう一本は炭酸飲料水だった。
「どっち飲む?」
「そんなのポケットに入れてたんですか。もしかして、いつでも持ち歩いてるとか?」
「さっきホールの自販で買ったのよ」
二本買ったということは誰かと一緒に飲むつもりだったのか?
ちなみに、この学校には自動販売機が職員室前とホール内に設置されていて、生徒も買うことが許可されている。
「じゃあ、PONTAオレンジをください」
「はい、どうぞ。もし、コーヒーを選んでたら屠ってたわよ」
「屠るってなんですか?」
「コーヒー選んでたら、殺ってたってことよ」
『やってた』という言葉はすぐに翔子の頭の中で『殺ってた』に変換された。
「……コーヒー好きなんですか?」
「別に好きでもないけど、雰囲気」
「雰囲気?」
「悪い?」
翔子の背中にゾクゾクと寒気が走った。麻那な目が少し恐かった。
「い、いえ似合ってると思います」
「ありがと。じゃあ、話の本題に入りましょうか。で、どうしたの?」
そう言って麻那はコーヒーを飲みはじめた。翔子もプルトップを引いて、ジュースを飲もうとすると、プシューと少し泡が出た。きっと、麻那のポケットに入っている時に少し振られてしまったに違いない。
翔子は異様に喉が渇いていたらしく、ぐびぐびっと一気に半分くらいを飲み干して、大きく息を吐いた。
「はぁ〜、あの、実は、愁斗くんと麗慈くんのこと何ですけど」
「ふ〜ん、あんたはどっちが好きなわけ? 今までは愁斗一筋だったのに、昨日は麗慈を見る目が妖しかったわね」
「……そんなにわかりやすいですか、私?」
「顔や行動に出すぎ」
ちょっと翔子はショックだった。昨日は撫子に図星を突かれて、今日は麻那に突かれてしまった。この分だと、もっと多くの人に自分の気持ちがバレバレかもしれないと、翔子は焦った。
「あの、どのくらいの人にバレてると思いますか?」
「それは地球の人口比で言った方がいいかしら、それとも演劇部内限定で言った方がいいのかしら?」
「演劇部内でお願いします」
「そうね、あんたが愁斗のことを好きだと思ってる人は八割くらいかしら。麗慈の方はまだあんまり気づかれてないと思うから気をつけなさい」
「ほぼ全員じゃないですか」
「でも、愁斗は演劇部&学校のアイドルだから、好きな人いっぱいいるし、あんたもその中のひとりってことで、そんなに気にしなくてもいいと思うわよ」
翔子は黙り込んでしまった。『その中のひとり』という風に括られてしまったことがショックだったのだ。自分は他の人とは違うという感情が翔子の中にはある。
「私は愁斗くんに憧れてるだけじゃありません。本当に好きなんです。愁斗くんはアイドルなんかじゃありません!」
「ふ〜ん、愁斗の方が好きなわけ?」
「……そうです、愁斗くんが好きです」
「ふ〜ん、いい脅しのネタができたわね」
「えぇっ!? ひどい、ひどい、ひどいです麻那先輩!」
「冗談よ、あんたのことは嫌いじゃないから、からかうぐらいで本気で傷つけようとはしないわ」
「からかわれた時点で傷つきます」
「あら、そうなの。それはあんたの判断基準であたしの判断基準外」
「やられてるのは私ですけど」
「やってるのはあたしよ」
この問題についてはどこまで行っても平行線を辿りそうなので、翔子の方が折れた。
「この件についてはいいです。それよりも、話の本題していいですか?」
「どうぞ、ぶっちゃけなさい」
「麗慈くんに告白されちゃって」
「いいじゃない、付き合いなさよ」
「だから、私は愁斗くんが好きなんです!」
「知ってるわよ。そんなに好き好き連発して恥ずかしくないの?」
この言葉を言われた瞬間に翔子の顔は一気に沸騰した。
「からかわないでください」
「翔子みたいのってからかい甲斐があるのよね。で、コクられてどうしたの?」
「断りました。そしてら、それでも好きだって言われて、キスされそうになって、逃げたんです」
「ふ〜ん、それでさっき走って来たわけ」
「私、どうしたらいいんですか?」
「あんたがフリーでいるのがいけないのよ。早く愁斗にコクって、付き合って、愁斗に守ってもらいなさい」
「えぇっ!? あの、えっと……」
翔子は思わず声を荒げてしまった。息も少し苦しくて荒い。
愁斗に告白する――そうしようと昨日誓ったけど、改めて人から言われると動揺してしまう。それに、もし断られたと考えると、この世界から消えたくなってしまう。
麻那は呆れたような顔をして翔子見つめた。
「あんたたち、どっちもどっちね」
「どういうことでしょうか?」
「愁斗もあんたのこと好きだと思う。けどね、愁斗は翔子に好かれてると思ってないみたい。あの子も隼人と一緒で超鈍感クンね」
「愁斗くんが私のことを!?」
そんなまさか、そんなことあるはずがないと翔子は思っていた。愁斗が自分のことを好きだったら、それほどうれしいことはないけれど、そんなこと……ない。でも、何を根拠にそう思うのか?
愁斗が自分のことを好きじゃなかった時の保険。最初から、ありえないことだと思っていれば、傷つかなくて済むと翔子は自分でも気づかないうちに思っていたのだ。
「じゃあ、ちゃっちゃか愁斗に告白してみなさい。それで何かトラブルが起きたら、またあたしに相談しなさい、そしてたらまた新しい助言をあげるから」
「……はい」
「じゃあ、部活やりに行くわよ。あんたが戻らないと練習が進まないからね」
麻那に相談をしたのは正しかったのか。翔子の気持ちは少し楽になって、新たな問題ができて、収穫もあった。これからどうするかは翔子次第だ。