草稿完結
淡い光が灯った。
この世界で唯一の輝きだった。
淡く輝き透き通るシオンの霊体が柩の上に浮かんでいる。
《この日がくると信じていましたが、まさかこのような形になるとは思いませんでした》
脳に直接響く優しげだが芯の強い声音。
凜とした表情でシオンは三人を見つめた。
《お母様の目的はわかっています。ですが、蘭魔さんまで巻き込むとは……》
蘭魔が紫苑を傍らに携えながら前へ一歩出た。
「紫苑の魂をこの傀儡に移す。それですべては元通りだ、平穏な世界が取り戻せる!」
《わたしが蘭魔さんの元を去ったあと、あなたになにがあったのか知りません。けれど、今のあなたは明らかに道を誤っています。母にそそのかされたのですか?》
「ふふふっ、妾はそそのかしてなどおらぬ。家族を救いたいという行動原理は当然じゃろう。着いてきた孫も同じじゃろうて」
顔を向けられた愁斗は複雑な表情をしていた。
「ずっと母さんに会いたかった。けど、どの選択が正しいのかわからない」
《わたしがあなたたちの元を去った日のことを覚えていますか?》
誰よりも前へ出て蘭魔が声を大にする。
「俺はあの日のことを悔やんでも悔やみきれない! あとになって紫苑が殺されたことを聞いた。俺にもっと力があったなら、こんなことにはならなかった。だが、力を得た今ならすべてを変えられる」
《いいえ、おそらくこうなる運命だったのだと思います。ねえ、愁斗、あの日のことを覚えていますか? あなたにとってつらい過去だったかもしれません》
「覚えています。つい先ほど、視てきたばかりです」
この場にいた全身が神妙な面持ちで愁斗を見つめた。
全員が押し黙った中、愁斗が話を続ける。
「おそらく、母さんを殺してこの場所に閉じ込めたのは……僕ですね?」
蘭魔は驚きを隠せず愁斗の両肩をつかんで揺さぶった。
「本当なのか愁斗!」
「はい……今の僕ではありませんが」
《ええ、今よりも成長した未来の愁斗です》
妖女の含み笑いが響き渡る。
「ふふふっ、思ったとおりじゃ。今や世界の外に属する妾の感じた違和感はそれなのじゃな。この世界は改変されたのじゃ。新たな時間軸が産まれたのじゃ」
青年も嗤っていた。
「ククククッ、なんとなーくだが理解したぜ。何かかが可笑しいと思ってたんだ。俺様にとってこのシーンは二回目だ。一回目は躰を乗っ取られてて視てるだけだったがな」
驚いた愁斗はすぐさま身構えた。
「麗慈、お前は麗慈なのか!」
「可笑しなことをいうなよ、俺様はずっと俺様だぜ。ちょっと席を外してただけだ」
麗慈は愁斗の首に目掛けて妖糸を放った。すぐさま愁斗がそれを相殺したと同時に、別の方向からも妖糸が放たれていた。
「ぐわっ!」
麗慈の異形の手が刎ねられた。妖糸を人物を麗慈は睨みつける。
「二対一の弱い者イジメかよ?」
別方向からの妖糸は蘭魔が放ったものだった。
鮮血が噴き出す手首を妖糸できつく縛り上げ止血した。
その様子を見ていて愁斗は気付いた。
「今のお前は生身の人間なのか?」
「……そう、らしいぜ」
世界が改変された中で麗慈はダーク・ファントムに乗っ取られなかったのだ。
麗慈の躰は〈闇〉で構成されていない。彼が死都東京で死ななかった歴史が生まれた。今の麗慈はオリジナルといえる。
なぜ死都東京で死ぬ歴史が改変されたのか?
それはこの世界が〈聖戦〉の起きた世界だからだ。死都東京は〈向う側〉ではなく、〈こち
ら側〉に存在している。
その歴史の違いを麗慈も記憶に残していた。それは彼が二回目だと言ったことからもわかる。
「前回はどうしたんだっけか。テメェのオヤジがフタを開けたんだよな。今回は俺様が開けるぜ!」
麗慈の妖糸が柩の鎖を切り刻んだ。
幻影のシオンが消える。
慌てて蘭魔が傀儡紫苑を抱きかかえて、その中から無色の〈ジュエル〉を取り出した。
「魂[アニマ]は新たな器へ。輝ける〈ジュエル〉となりて黄泉返れ!」
無色だった〈ジュエル〉に色が差しはじめる。
優しく慈悲深い紅紫色に輝いた〈ジュエル〉が、蘭魔の手によって傀儡の心の臓を収める場所へ。
その間に麗慈は柩の蓋に手を掛けていた。
「やめろ!」
叫びながら愁斗が放った妖糸は軽くあしらわれ相殺された。
「テメェの嫌がることをするのが大好きなんだよ」
〈聖柩〉が開かれる。
「さあ、俺様の肉体を憑代にしてもいいんだぜ。今度は俺様の意識が勝ってみせるけどな!」
柩の中から暗黒が噴き出し、麗慈が遙か後方に吹っ飛ばされた。
《キミじゃ器になれないよ》
少女の声はそう言って〈闇の塊〉はセーフィエル――翔子の〈ジュエル〉に飛び込んだ。
漆黒のドレスはより暗く、漆黒の髪もより暗く、黒瞳は妖しく輝いた。
そして、妖女は無邪気に笑った。
「やあ、おはよう世界」
〈闇の子〉の背中から生えた六枚の漆黒の翼が羽根を広げた。
「セーフィエルはアタシの眷属だからね、この器を押っ取るのは簡単だったよ。それから――」
蘭魔に顔を向け続ける。
「キミにもお礼をいわなきゃね」
「どういうことだ?」
「キミの躰の大部分は傀儡だろう。動力源のソースはアタシだ。キミは無意識下にアタシを復活させるために働いていたわけ」
「そんな馬鹿な。己の意思で紫苑を救おうとしていただけだ」
「キミがどう思おうが結果は出た。そして、最後に一働きしてもらうよ」
〈闇の子〉の髪が長く長く伸び、槍と化して蘭魔に襲い掛かる。
神技とも呼べる早業で蘭魔は一〇本の指から同時に鋭い妖糸を放った。
鞭打つように一〇本も妖糸が踊り狂いながら槍を切り落とす。
世界を闇が覆っていた。
「蘭魔さん!」
シオンの叫びで蘭魔は空を見上げた。
巨大な漆黒な翼が蘭魔を丸呑みにしようとしていた。
地面を蹴り上げたシオンは蘭魔を押し飛ばそうとしたのだが、その足は急に硬直してしまった。足には妖糸が絡みついていた。
蠢く〈闇の塊〉が蘭魔に覆い被さり呑み込んだ。
人の形をしていた〈闇の子〉は溶けて繭と化した。
シオンは繭に手を当てた。
「きゃっ!」
その瞬間、電撃が奔ったように躰が痺れ、後方に吹き飛ばされた。
「母さん!」
「わたしは平気です。孵化する前に破壊しなくてはなりません!」
「はい!」
愁斗は〝両手〟から鋭い妖糸の刃を放った。
繭から伸びた触手が鞭のように妖糸を打ち落とす。
さらに触手はシオンの足首に巻き付き宙に持ち上げた。
シオンは空中で躰を曲げて足首に巻き付いた触手を鷲掴みにする。塵と化して千切れた触手。地面に落下するシオンに触手の槍が襲いかかる。
愁斗の放った妖糸が触手の槍を切り落とした。
「ありがとう愁斗」
「大丈夫ですか?」
「ええ、けれど……間に合わなかったようです」
鬼気迫る。
繭の中で身の毛もよだつ怖ろしい何かが蠢き、鉤爪が天高く突き出された。
人間を遙かに超越した存在。
悪魔、鬼、魔神、天魔、自然災害ともされた。
かの存在は魔王とも呼ばれた。
繭を突き破り産まれ出るその御身。
漆黒の鎧のような皮膚を持ち、蠍のような尾を鞭のように撓らせ、長い黒髪の間から伸びる山羊のような二本の角。
中性的な艶麗たる尊顔に浮かぶ瞳は、此の世を焼き尽くすように紅蓮に燃えていた。
六枚の蝙蝠のような漆黒の翼が、緞帳のように世界に幕を降ろす。
「おやすみ世界」
玲瓏でいて妖艶たる声音。
辺りは一瞬にして天も地も夜空となった。
「光と闇は共依存。闇の中で輝く星々は美しいと思わないか?」
〈闇の子〉が手を振り払うと、太陽の炎を消えた。
「強すぎる光はよくない。闇が深いくらいがちょうどいい」
鬼気が鎖となり愁斗とシオンは金縛りに遇い動けなかった。
全速力で走ったあとのように息が切れる。
懸命にシオンは躰を振るわせ抵抗した。
「封印しなくてはっ」
「アズラエルよ、汝一人では解き放たれた我を封じることはできぬよ。二人とて同じ」
燃える眼光が愁斗を射貫く。
「汝も我と戦うつもりか?」
愁斗は固い息を呑んだ。
〈闇の子〉はさらに続ける。
「我と戦う理由がどこにある? アズラエルにはワルキューレとしての使命がある。充分な行動原理があるといえる。だが、汝は何故戦うのだ?」
「お前が……この世界の〈神〉となれば多く人々が死に、世界は混沌に陥るからだ」
自分が死んだ未来も愁斗は幻視していた。
「神などという俗物になるつもりはない」
強く威厳のある声音だった。どんな可笑しなことをいわれても、認めてしまいそうになる力ある声だった。それでも愁斗は視たものを曲げなかった。
「僕は視た、お前は〈神〉と呼ばれていた」
「いかような世界を視たのかは知らぬが、それは身勝手な人の子がそう呼んでいただけではないのか?」
「……なに?」
「都合の良いこと悪いこと、人の子は自分たちの都合で神を使う」
声には落胆が含まれていた。
夜空を舞う箒星の群れ。隕石同士がぶつかり合い、燃えたぎる星が産まれた。
「人の子は自分たちの祖先は神に創られたと信じている者がいる。神の手によって創られたとすることで、自分たちの存在を特別で崇高なものとしたいのだろう。だが、それは間違いだ」
〈闇の子〉は傍らに浮かぶガスや曇に覆われた星を指差した。
「人の子は我々が遺伝子操作で創り出した実験体。××××が我々を創ったように、その真似事をしたの過ぎぬ。モルモットを特別で崇高なものだと思うか?」
星に雨が降り注ぎ、それは海となる。青い星の誕生である。
「原始の地球にはすでに××××が種を撒いていた。我々がリンボウに堕とされたのは四億年ほど前、同時期に地球上の生物に手を加えた。ここまでの道のりは我々の感覚からしてもそれはとても長い月日だった」
生物は生き残るために多種多様な進化を遂げる。多くの種は移りゆく環境の変化に適応できず絶滅していった。生き残れたのはほんのわずか。
「汝ら人類が出来上がるまでに、手間もかからず早い方法でいくつもの人類を創ったが、やはり手間を掛けたほうがいいらしい。ほかは全部滅ぼしてしまった」
滅んだのではない。滅ぼされたのである。人為的な環境の変化といえる。
「我々の当初の目的は楽園の再現だった。決して還ることができぬのなら、同じような場所を創ろうと考えた。我はこの世界に定住するつもりだったが、片割れは今もまだ還るつもりでいる。片割れに与する汝もそうであろう?」
燃える瞳はシオンを見下ろした。シオンは黙したまま愁斗を一瞥して、再び〈闇の子〉に視線を戻した。
いつかは還る。
還らないと決めた〈闇の子〉が目指す楽園の到達点はどこか?
その道の途中のはなにが待ち受けているのか?
愁斗は再び幻視したことを思い出していた。
「その楽園をつくるために、多くの人々が死ぬことになるんだ。僕の視た世界では世界中の軍隊がお前に壊滅させられた。それによって世界は急激に荒れていった」
「汝の視た世界で我は種としての人間をすべて滅ぼしたか? 否、我はそのようなことはせぬだろう。ただ道を歩いておるだけでも、危機感を覚えた蜂が襲ってくることもあろう。虫とは言葉が通じぬのであれば殺すこともやむなし。火が大きくなる前に巣を破壊することもあるだろう。だが、関係ないすべての蜂を根絶やしにしようとは思わぬだろう?」
「お前にとっては些細なことでも人間の社会は荒れ果てるんだ」
〈闇の子〉は近くにあった星を握りつぶした。すると、その輝きに隠れていた弱い光の星が見えた。
「それも一時的なことだ。やがては今と変わらなくなる。世界を司る天秤はバランスを重んじておる」
「一時的かどうかは問題じゃない。多くの人が犠牲になると言ってるんだ」
「ふむ、汝は種ではなく個の問題を重んじているのだな。故に我と戦うと?」
「多くの人々の命が失われるとわかっていて見過ごせるものか」
「汝の行動原理は人類を救うためだというのか?」
〈闇の子〉が少し笑ったように見え、さらに話を続ける。
「フィクションのヒロイズムにはよくある話だが、その行動原理は大きすぎる。現実の人間はもっと身近なもののために行動をするものだ。生活のため、物欲を満たすため、家族や愛するもののため、汝は本当に人類を救うなどという大義を掲げているのか?」
愁斗の傍らには母がいた。
「お前のいうとおりだ。僕は母を救うため、父を救うため、大切な……ひとを救うために、お前と戦わなければならない」
大切なひと?
うまく思い出せず言葉が詰まってしまった。
改変された世界からなにかが抜けて落ちしまっている。
愁斗は瞳を静かに閉じた。
〈闇の子〉がいた場所に別の存在がいる気がする。
セーフィエル?
違う。
もっと奥底に彼女は存在している。
「僕には探しているものがあるらしい。それを見つけるためにお前と戦うんだ」
「言葉によってか、武力によってか?」
「言葉が通じないのであれば」
武力が通じる相手なのか?
「よかろう、力ずくでくるがよい」
鬼気に怖じ気づかずに愁斗は足を踏み出した。それを押し退けたのは紫苑だ。
「愁斗の敵う相手ではありません。ワルキューレが束になっても勝てない相手です」
それはすでに一つの過去として体験している。
あのときは駆けつけたワルキューレもこの場に現れない。〈闇の子〉の素体が変わってしまったからかもしれない。〈光の子〉を連れてきたセーフィエルもいないのだ。
「愁斗は逃げなさい。わたしが時間を稼ぎます」
「母は子を守るために自己を犠牲とする。其方はワルキューレである前に母なのだな」
シオンが翔る。
〈闇の子〉は動じない。
母の背を視界に入れながら愁斗は妖糸を放った。
鋭い妖糸は〈闇の子〉によって軽く振り払われ、そのときに起きた突風でシオンは後方に吹き飛ばされた。
古来、荒ぶる自然現象は鬼に例えられた。まさに〈闇の子〉は軽く手を振り払うだけで突風を起こし、息を吐くだけで吹雪を起こした。
生ける災害。
猛吹雪で躰が凍え、視界が奪われる。生身の愁斗は激しく手を振るわせた。これでは妖糸を放つこともままならない。
シオンが愁斗の前に立ち吹雪を背に受けながらいう。
「逃げなさい」
「母さんをひとりにはさせない」
宙に描かれる魔法陣。星々が騒がしく輝く。遠くの太陽が激しい炎を噴きだした。
〈闇の子〉に当てられる〈それ〉の敵意。〈それ〉の怒りが生み出した〈黒い者〉が魔法陣を燃やし尽くしながら召喚された。
燃える剣を持つ巨人の影。豪快な剣の一振りで吹雪を掻き消し、渦巻く焔は〈闇の子〉に絡みついた。
「地上なら焼き尽くせるかもしれぬが、地獄の業火に比べれば生ぬるい」
〈闇の子〉は炎を我が物とし纏いながら、堂々たる足取りで〈黒い者〉に近づくと、拳を振り下ろした。
炎の剣が受けて立つ。
だが、剣刃が拳に当たった瞬間、皹が奔り刃が毀れてしまった。
毀れた箇所から烈火が噴き出し〈闇の子〉と〈黒き者〉を灼熱が包み込む。
真っ赤に燃えていた炎がどす黒く変色していく。
肉が焼ける臭い。
黒炎の中で揺らめく魔神の影。
「つまらぬものを寄越すな〈混沌王〉よ」
静かに、それでいてぞっとするような声音で〈闇の子〉は囁いた。
炎は消え、灰の山に立つ〈闇の子〉。
その背後にシオンが忍び寄っていた。
「生けるものに死を!」
魔力を帯びた手刀が〈闇の子〉の厚い腹筋に突き刺さる。さらに力を込めて腕まで刺し入れたところで、手刀が腹を突き抜けた。間近で見るとそれほどの巨躯なのである。
シオンは宙ぶらりんのまま足が付かない。彼女は一八〇センチ近い長身だ。それを優に越える三倍近い巨躯であった。
怖畏にシオンは囚われ顔を青ざめさせた。
シオンの能力は細胞を超活性化させて老化のサイクルを早め、刹那にして死をもたらす。
〈闇の子〉の腹を抉った腕から魔力が注ぎ込まれている筈だった。だが、勝ったのは〈闇の子〉の超絶的な生命力であった。
シオンは〈闇の子〉の腰を足場にして、腕を引き抜こうとしたが抜けない。死を上回る再生力によって腕が取り込まれ癒着してしまったのだ。
「我が一部として取り込まれないのは、其方の能力が抗っているからだろう」
〈闇の子〉は腹を突き出ている腕を見下げながら言った。
その間もシオンは腕を引き抜こうと必死だった。
現状に気付いた愁斗が駆け寄ろうとしたが、シオンの声に止められる。
「来てはなりません!」
一瞬、愁斗は足を止めてしまったが、再び駆け出した。
見よう見まねで妖糸を足場にして宙を駆け上がり、渾身の一撃を〈闇の子〉の首目掛けて放った。
無傷。
鋭い妖糸は〈闇の子〉の首にかすり傷一つ負わすことができなかった。
「か弱き人の子よ、首など飾りに過ぎぬ」
そう言いながら〈闇の子〉は自らの頭を鷲掴みにして、果実を収穫するようにもぎ取ったのだ。
手に持った頭部が差し出される。
「この姿はただの形に過ぎぬ。首がなくとも死にはせぬのだ」
もがれた傷口からは血の一滴も流れない。そこには〈闇〉が蠢いていただけだった。
愁斗は大量の汗を流した。
勝てる気がしない。その道筋が見えない。圧倒的な力の差があるのだ。
しかし、絶望はしていない。
そこに母がいるからだ。
そして、大切な誰かが暗闇の向こうにいる。
〈闇の子〉の中に愁斗は零れる光の筋を見た。
「……しょう……こ?」
頭の中を覆っていた霧が晴れていく。
「せな……しょうこ……翔子」
生まれて初めての恋。
そして、愛を知る。
高く跳んだ愁斗が妖糸を放つ。
〈闇の子〉の溜め息は炎となりて妖糸を焼き尽くし愁斗を呑み込まんとする。
神速で魔法陣が描かれた。
〈それ〉の号令で地獄の番犬が魔法陣から飛び出してきた。
炎を喰らい尽す三つ首の魔獣。
咆哮しながら魔獣は〈闇の子〉に喰らいつこうと飛びかかる。
〈闇の子〉の拳が魔獣の頭を一つ潰しながら地面に叩きつけ、藻掻き苦しむ頭の一つを踏み砕き、残る頭は恐怖で絶命した。
その間に愁斗は〈闇の子〉の背後に回って妖糸を放っていた。
〈闇の子〉の落胆は重力に変化をもたらし、愁斗の躰を地面に叩きつけた。
蛙のように地に伏した愁斗を〈闇の子〉が見下す。
「妖糸では我は斬れぬ。斬ったところで無意味だと……ん?」
愁斗の手から伸びていた妖糸はシオンの四肢に繋がれていた。
傀儡を支配する操り糸だ。
「母さん、僕といっしょに戦ってください!」
傀儡師に操られた者は、本来の力を以上の力を発揮することができる。
さらにシオンの躰は、傀儡師の業が生み出した傀儡なのだ。
傀儡師と紫苑。
一心同体として戦うのだ。
紫苑は〈闇の子〉の腰を足蹴にして、一気に腕を引き抜いた。
傷口から〈闇〉が迸る。
纏っていたローブに魔力を込めて降り注ぐ〈闇〉の飛沫を払った。消滅する〈闇〉の欠片たち。本体から小さな零れた破片では超再生能力を発揮できない。
猪突するように紫苑が駆ける。そのまま〈闇の子〉に飛びかかると見せかけて、大きく飛び退いた。その瞬間に、紫苑の手から放たれた妖糸。
少し驚いた顔をした〈闇の子〉の手首が切り落とされ宙を舞った。
「我が肉を断つとは、だがそれまでのこと……ではないのか?」
斬り飛ばされた手首に妖糸が巻き付き、紫苑の元へ引き寄せられる。
「これがわたしたち親子の力です」
引き寄せた手首を紫苑は両手で受け止め魔力を込めた。
手首が溶け出し、〈闇〉を溢しながら、それは塵と化して消えた。
〈闇の子〉は感嘆した。
「愉快なことだ。妖糸にアズラエルの死の魔法を纏わせたのだな。故に我の肉を断つことができた。そして、本体を離れた破片であれば殺すことができると?」
肩を震わせ〈闇の子〉は低く笑っていた。
「だが、我が躰をあと何回削ぎ落とすつもりだ。途方も無いその作業に人の子が耐えられるのか?」
〈闇の子〉は目の前の紫苑の奥に構える愁斗を見据えていた。
息を切らせている愁斗。運動量の問題よりも、〈闇の子〉と対峙しているだけで、疲労困憊となり小さな咳が出る。目に見えぬ鬼気の攻撃を常に受けているのだ。
すでに再生させた手首を振り上げて〈闇の子〉は彗星を呼んだ。
帚星としては小さな物だが、その大きさはシロナガスクジラに匹敵するほど。それが愁斗に向かって落ちてくるのだ。〈闇の子〉も巻き込まれるだろうが、おそらく傷一つ付かないのだろう。
風のように走る紫苑が妖糸で宙を一直線に切っていく。
次元の裂け目が大きな口を開く。
それはまさしく口である。牙が生えそろい、波のような舌が動いている。その巨大な口が彗星を丸呑みにした。
巨大な口から燦然と輝く金色の鎧を着た者が現れ、手に持っていた角笛を口に当てた。
叫び声のような音色が響き渡り、宇宙の彼方へと続く虹の橋が掛かった。
〈闇の子〉は金色の者を軽く屠ると、遠い目をして虹の橋からやってくる者を見た。
虹の橋を翔る赤い稲妻のごとき古代の戦車。
赤髪の巨人が戦車から飛び降りながら金槌を〈闇の子〉の脳天に叩き落とす。
稲妻が四方六方に奔った。
頭を潰された〈闇の子〉は動じることになく、蠍のような尾で赤髪の巨人を串刺しにした。
赤髪の巨人は尾を引き抜いたものの、猛毒が全身に廻り倒れ込んでしまった。
紫苑が舞う。
〈闇の子〉の片膝が妖糸で切断され、巨躯が大きく傾いた。
その隙に切り離された脚を妖糸で細切れにして、さらに網にした妖糸で包み込む。また少し〈闇〉が消滅した。
虹の橋を巨大な船が渡ってくる。
船首に断つ隻眼の老人が槍を放った。
生成したばかりの〈闇の子〉の顔面に槍が突き刺さった。抜かれ投げ捨てられた槍は空を飛び持ち主の元へ戻る。
世界が激しく揺れた。それは〈闇の子〉の咆吼だった。潰された顔が盛り上がり、狼のような形に変形すると、隻眼の老人に襲い掛かった。
隻眼の老人が嵐を巻き起こす。それをものともせず〈闇の子〉は牙を剥いて口を大きく開けた。
丸呑みにされた隻眼の老人。骨を砕く音と、不気味な咀嚼音が鳴り響く。
〈闇の子〉が歯に詰まった槍を吐き出し言葉を吐く。
「古き者どもは〈混沌王〉に与するというわけか」
口を開けていたその中に〈強い靴〉を履いた男が飛び込み、下顎を踏みつけながら、上顎を掴んで引き裂いた。
引き裂かれた半分の頭部を妖糸が切り裂き消滅させる。
天から降りてくる太陽の剣を持った戦士が〈闇の子〉を一刀両断した。
割れた二つの半身の傷口から〈闇〉の触手が伸び、〈強い靴〉を履いた男と太陽剣の戦士に巻き絞め殺した。
二つに分かれた半身から伸びた触手が絡みつき互いを引き寄せ結合する。
愁斗は視た。割れた半身の中に微かな輝きを――。
両手両膝をついて立ち上がろうとしていた〈闇の子〉の背に、槍を持った紫苑がのし掛かった。
胸を貫いた槍の一撃。そのまま〈闇の子〉が立ち上がり、紫苑は槍を放さずぶら下がった。
鉄棒競技のように紫苑は槍を軸にして、大回転を繰り返し〈闇の子〉の胸を抉りながら掻き回し、宙返りしながら着地した。その手に戻ってくる槍。
抉られて大穴が空いた傷口は治りが遅かった。そこに見えた微かな輝きは、真紅と天色が混ざり合うことなく、渦を巻きながら存在していた。
再生する過程でその輝きは〈闇〉に覆われ隠されてしまった。
「古き者どもは滅した。蘇るには刻が必要だろう。さあ、次は如何様か?」
〈闇の子〉は愉しんでいるのだ。この戦いは戯れに過ぎぬということだ。
紫苑は槍と太陽剣を両手に構えていた。
槍を投げる動作をして紫苑は槍を掴んだまま宙を飛んだ。
「グングニルは決して的を外さない!」
槍に刻まれたルーン文字が輝く。
胴に刺さる寸前で〈闇の子〉は槍を掴んだ。だが、不思議な力によって槍は進み続け、〈闇の子〉に握られながら胴を貫いた。
紫苑はどこか?
すでに槍から降りていた紫苑は宙に舞っていた。
太陽剣が燦然と輝く。
脳天に太陽剣が振り下ろされる寸前、刃が止まった。
紫苑の躰に巻き付く〈闇〉の触手。空中で紫苑は拘束されてしまったのだ。だが、紫苑はすぐさま魔力を纏って〈闇〉の触手を消滅させ、宙を舞いながら妖糸を放つと着地した。
妖糸は〈闇の子〉の肩から腰まで両断すると、そのまま落ちていた金槌を拾い上げ、強烈な鈍激を下半身に喰らわせ吹っ飛ばした。
粉々に砕け散った下半身は神速で放たれた妖糸によって消滅させられ、両腕で上半身を断たせようとしていた〈闇の子〉の首は太陽剣によって刎ねられた。
転がった頭部が首を傾げる。
「何かが可笑しい」
呟いた頭部は妖糸で振り下ろされた金槌に潰された。
槍が持ち主の元へ戻る。〈闇の子〉の上半身に突き刺さりながら――。
構える紫苑。巨躯が生成しながら迫ってくる。
〈闇の子〉は鋭い鉤爪を振り下ろそうとしている。
躰はまだ完全には生成されていない。胸の近くが開けたままだった。そこに見える微かな輝き。
鋭い爪が紫苑の上半身を抉った。
「きゃあああっ!」
絶叫しながら紫苑は背中から倒れた。
「母さん!」
叫んだ愁斗は思わず操り糸を弛めてしまった。
その瞬間、床を蹴り上げ飛翔したシオンが〈闇の子〉の胸に手刀を差し込んだ。
何かを握っている。
真紅と天色が混ざり合うことなく渦巻いている珠。
〈闇の子〉はシオンの頭部を鷲掴みして潰そうと力を入れようとした。だが、力の入っている筈の手は震えるだけで頭部を潰せない。
〈闇の子〉の全身から妖糸が噴き出し自らを拘束した。
「何事ぞ?」
困惑する〈闇の子〉に構わずシオンは珠の半分を引き千切って脱出した。
その刹那、〈闇の子〉を拘束していた妖糸が締め上げられ、肉を細切れにしたのだ。
肉片は原形を保てず溶けて、泥と化した〈闇〉が波打つように蠢く。
シオンの手の中では真紅の破片がまばゆい輝きを魅せていた。
夜空が大回転しながら、星々が落ちていく。
この空間が崩れ落ちる。
そして、瞬きをひとつすると、世界は赤い荒野がどこまで続いていた。
六枚の漆黒の翼を持つ少女が荒れ果てた大地に佇んでいた。
「夢が覚めた」
大地にはシオンと蘭魔が手を繋ぎ横たわっていた。
立っているのは〈闇の子〉と愁斗のみ。
「まだ戦うのかい、人の子よ」
「まだだ」
「だからアタシは人の子が好きなんだ」
ゆったりとした足取りで〈闇の子〉が近づいてくる。
愁斗は手に汗を握りながら横目で確認した。
放たれる妖糸。それは操り糸だった。
シオンに巻き付けようとした妖糸は〈闇の子〉の髪が矢となり打ち落とされてしまった。
「まだ戦うのかい、人の子よ」
「まだだ!」
放たれた鋭い妖糸は〈闇の子〉の腕に当たって弾かれた。
「人の子は独りでは弱い。独りでは生きていけない。世界が弱肉強食であるなら、人の子は地球では弱者の部類だろうね。それでも生き残っているのはなぜか?」
次々と放たれる妖糸を〈闇の子〉はすべて軽く腕であしらっていく。
「人の子の世は、弱き者を生かそうとする。それが足手まといだとしてもだ。人の子の命は皆平等なのかな?」
「なんの話をしているんだ」
「キミという存在の強さについてだよ」
神速によって間合いを詰めた〈闇の子〉は愁斗の手首を掴んでひねり上げた。
骨が砕かれ苦痛を浮かべる愁斗。
〈闇の子〉は耳元で囁いた。
「砕くつもりはなかったんだ。あまりにも脆くて砕けてしまった。でも、心は砕けていないのだろう?」
愁斗は掴まれている手首を自ら妖糸で切断して、急いで飛び退いて間合いを取った。
鮮血が噴き出す傷口をきつく縛り上げる。
片手では自身で戦うことも、何かを使役することもままならない。
どこからか青年の嗤い声が聞こえてくる。
「手を貸してやろうか?」
宙を舞う麗慈の手から放たれた槍が〈闇の子〉の胸を射貫いた。
「気付いたらテメェら全員消えてやがる。ずいぶんと探したんだぜ」
異形の手から矢継ぎ早に妖糸の斬撃が放たれる。
〈闇の子〉は胸に刺さった槍を引き抜きへし折ると、短くなった槍の刃で麗慈の妖糸を受けた。
「このしつこい槍にはうんざりだ」
すべての妖糸を防ぎきると、〈闇の子〉は短い槍を短剣のように投げた。
迫る槍を躱した麗慈は宙を舞った。
「なにぼさっとしてやがんだ!」
叱咤は愁斗に向けられたものだった。
すぐさま愁斗は気を失っているシオンに操り糸を巻き付けた。
紫苑が地上から妖糸を放つ。
麗慈は空中から妖糸を放つ。
挟まれた〈闇の子〉は翼によって嵐を巻き起こした。
妖糸ともども紫苑と麗慈が吹き飛ばされる。
愁斗は地面を駆けていた。
拾い上げられる太陽剣。
渾身の力を込めて愁斗は太陽剣を投げた。
魔剣である太陽剣は意思を持ち〈闇の子〉を腹を突き刺した。
灼熱によって〈闇の子〉は身を焦がされ、思わず膝を突いた。
「この身に少々堪えるね」
太陽剣を引き抜き構えた〈闇の子〉が愁斗に襲い掛かる。
「お返しだよ!」
天高く切っ先を向けた太陽剣が振り下ろされる。
「させるかっ!」
男の怒号と共に妖糸が〈闇の子〉の手首に巻き付いて攻撃を阻止した。
〈闇の子〉は横目で見た。
紅黒いインバネスを纏った蘭魔の姿。
麗慈の妖糸が〈闇の子〉の脚に巻き付いた。
構える愁斗。
三人の傀儡師は天を見上げた。
魔鳥のごとく飛来する紫苑から放たれる雷光のごとき妖糸。
〈闇の子〉は瞳をカッと見開いた。
漆黒の六枚の翼が広がり世界を覆い隠す。
〈闇の子〉の胸が淡く輝いた。
雷光の妖糸が〈闇の子〉を激しく両断した。
崩れ落ちる〈闇の子〉。
「まだだ」
だれかが呟いた。
「人の子とは、その程度のものなのか?」
〈闇の子〉の全身が崩れ、〈闇の塊〉と化した躰から幾多もの触手が渦を巻いて伸ばされた。
地面を趨る〈闇〉の絨毯。
天を覆う〈闇〉の緞帳。
麗慈は〈闇〉の触手に脚を拘束され、斬り飛ばそうとしたところを両腕も拘束されてしまった。
妖糸を足場にして宙に逃れた蘭魔に、天から降り注ぐ矢のような〈闇〉。四肢を射貫かれ蘭魔は墜落した。
〈闇〉の海から少女の影が這いだした。
「少し本気を出せばこの程度だ」
〈闇の子〉は紫苑の背後に立って囁いていた。
「おやすみ」
鋭い鉤爪に変化した〈闇の子〉の手が紫苑の腹を貫いた。
腕が引き抜かれ支えを失った紫苑がぐったりと前のめりになって、そのまま力なく倒れてしまった。
すべてを見ていた愁斗は歯を噛みしめた。言葉も出ない。
〈闇の子〉が遠くから愁斗を見つめている。
「キミだけを生かした。仲間、父、母が次々と倒れる光景を見せるためにね」
地に這いつくばって〈闇〉に呑まれそうな麗慈がすぐさま返す。
「仲間じゃねーよ……んぐ!」
口腔に〈闇〉を突っ込まれ口を塞がれてしまった。
〈闇の子〉は哀れみの瞳を向けながら愁斗に静かに歩み寄ってくる。
「これでもまだ戦うのかい、人の子よ」
「まだだ」
「もう片手を失ってもかな?」
〈闇の子〉の髪が鞭のように撓り愁斗の腕を狙ってきた。
妖糸で相殺しようとするも、鞭はそれをはじき返し勢いを弱めることなく叩きつけられた――地面に。
首を傾げる〈闇の子〉。
「躱したのか? いや、外したのか?」
〈闇の子〉は髪を槍と化して愁斗を串刺しにしようと放った。
だが、槍は硬さを失って地面に落ちたのだ。
〈闇の子〉が足下をふらつかせる。
「可笑しい……胸が……苦しい」
膝をついて胸を押さえる〈闇の子〉の躰から、淡い光が立ち上った。
ホログラムのように透き通った少女の影。
その顔は――。
「翔子!」
愁斗は歓喜と驚きに入り交じった声で叫んだ。
悲しそうな顔をする翔子。
《さよなら……愁斗君》
その言葉を理解できぬまま、愁斗の目の前で驚くべきことが起きた。
なんと〈闇の子〉が自らの胸に手を突き刺し、中から何かをえぐり出したのだ。
それは淡く天色に輝く宝玉だった。
翔子の〈ジュエル〉。
握られた〈ジュエル〉を握りつぶそうとする〈闇の子〉。それは己の意思ではない。翔子の力が働いているのだ。
「おのれ……か弱き人の子の精神が……これほどまで……幾星霜を生きたアタシの精神を蝕むとは……」
力の籠もった手に握られた〈ジュエル〉に皹が奔る。
「憑代が失われれば……またアニマだけの存在に……」
渾身の力で〈闇の子〉は立ち上がり、〈ジュエル〉を鷲掴みにする手首を残る手で掴んだ。
〈闇の子〉の全身が震える。
地震が起きて大地に亀裂が奔った。
霊魂の翔子が〈闇の子〉の躰を抱きしめ包み込む。
《愁斗君……お願い》
涙を流す翔子を見つめながら愁斗は首を横に振った。
「できない!」
翔子の意図することはわかっていた。
〈闇の子〉の手が少しずつ開かれ、〈ジュエル〉を潰す力が弱まっていた。
真摯な眼差しで翔子は愁斗から眼を離さない。
《愁斗君といっしょに生きたかった……でも、わたしと愁斗君は生きる世界が違った。これからもそれはずっと変わらない。だから、もう……》
〈闇の子〉は大きく口を開けて己の手ごと〈ジュエル〉を喰らおうとした。
一筋の輝線が流れた。
天色の宝玉が静かに真っ二つに割れた。
瞬く間に色を失う〈ジュエル〉。
霞のように消えていく翔子の姿を見て愁斗は慟哭した。
――最期に彼女は微笑んだ。
肉体を崩壊させる〈闇の子〉。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!」
呻き声、鳴き声、嗤い声が木霊する。
天と地を覆っていた〈闇〉が消え失せ、赤い荒野が広がった。
呆然と立ち尽くす愁斗の前に少女の影が立つ。
「人の子よ、これで勝ったと思うなよ。戯れに過ぎぬことを教えてやる!」
狂気に駆られた幻影が愁斗に襲い掛かろうとしていた。
だが、眼前に防護結界が現れ、それにぶつかった幻影は妖糸によって四肢を拘束された。
糸を握る紅黒い影。
「終焉だ」
蘭魔は紫苑を抱きかかえながら、糸を引いて幻影を手繰り寄せる。
「厄災は封じ込める。それが妻の望みだからな……紫苑と共にいる望みが叶えばそれでいいのだ」
開かれたままになっていた柩の中に蘭魔は紫苑と共に飛び込んだ。
幻影が柩の中へ吸いこまれる。
「闇は永遠だ、常に傍にいることを忘れるな!」
言霊を吐き捨てながら幻影は〈聖柩〉に中に呑まれ、蓋は固く閉じられた。
世界が揺れる。
大地だけではない。空も揺れている。
遠くで火山が次々と爆発した。
異形の羽虫たちの群れが空を覆い尽くす。
再び大きな地震が起き、裂けた大地の深淵に〈聖柩〉が落ちていった。
この場所にいては危ない。
だが、愁斗はただ呆然と立ち尽くしていた。
嗤い声がした。
「ククククッ、もう失うモノがないのか愁斗?」
傷だらけの麗慈が問うた。
「…………」
返事は無かった。
「俺様にははじめからそんなもんはねえ。いや、失いたくないものならあった――テメェへの憎悪だ」
何度も何度も麗慈は敗北しながら、それでも執念深く愁斗に挑んだ。愁斗を苦しめ、紫苑を奪い、勝ちを目前にしていた。
「俺様は傀儡師の模造品の一つとして創られた。ほかのやつらはみーんな壊れて廃棄された。生き残ったのは失敗作っていわれ続けた俺様だけだった」
オリジナルを越えることが模造品たちの価値だった。
「愁斗、テメェを越えることだけが俺様の生きる目的だった。俺様はテメェを越えられたか?」
勝ちを目前にして麗慈は愁斗に止めを刺さなかった。
「今のテメェを見てると、虚しいだけだぜ」
急に麗慈は倒れ込んだ。
全身から流れ出る血。
麗慈の命は尽きようとしていた。
「起きたらまた殺り合おうぜ」
血の海に頬を浸けながら麗慈は静かに目を閉じた。
そして、その最期に放たれた妖糸は次元を切り裂いていた。
空間の裂け目が風を唸らせる。
突風に巻き込まれながら愁斗は裂け目の中に投げ込まれたのだった。
暗転。
死都東京の瓦礫の山に立つ人影は見ていた。
伊瀬とキラは決着の時を迎えようとしていた。
激戦で劣化したヨーヨーの糸が切れ、あらぬ方向に飛んでいく。
その隙を突いてサイボーグの拳がキラの顔面を抉り殴った。
気を失って地面に倒れたキラに止めを刺そうと伊瀬が近づこうとすると、その前にタキシードの人影が立ちはだかった。
「この子の命の代わりにこれをあげるよ」
シュバイツは手に持っていた生首を放り投げた。
転がった生首が伊瀬の足下で止まった。
恐怖におののき眼を見開いたまま絶命しているメディッサの首。
シュバイツはキラを抱きかかえながら説明する。
「真の本体さ。そいつの血清から石化を治す薬が作れる」
「裏切り者の言葉が信じられると思うのか?」
「はじめから誰も裏切っていないよ」
空からサングラスの男が飛来してくる。手首には翼が装着されていた。
着地をすると手首の翼は〈鴉〉に変形して男の肩に止まった。
伊瀬は訝しげに尋ねる。
「死んだはずでは?」
「ええ、シュバイツさんに滅ぼされました」
復活した彪彦だった。
上空に鎮座していた巨大な門がゆっくりと閉じられていく。
彪彦はシュバイツに目配せをして頷いた。
「負けたようですね」
「せっかく俺が暗躍したのに、計画は全部パーってわけか」
「いいえ、クライシスは成功しましたよ」
「クライシス?」
彪彦は不気味に嗤った。
「世界は破壊され、ひとつになった」
その声は彪彦ではなく少女のような声だった。
〈鴉〉が飛び立つ。
空に鎮座していた〈裁きの門〉は消えていた。
上空から見る地上。
死都と化した東京に存在する原生林。そこは先ほどまで〈裁きの門〉があった真下である。その中心地に植物を寄せ付けぬ開けた場所がある。
巨大な魔法陣に守られた聖地。
〈鴉〉はその場所で倒れている青年を見つけて滑空した。
気を失い倒れている愁斗。
傍らに降り立った〈鴉〉が囁く。
「生きますか? それとも死にますか?」
まるで愁斗は死んだように動かない。
「世界は改変されましたよ、貴方のお陰です。傀儡士紫苑さん」
返事はなかった。
「ひとつだけ朗報です。この世界の瀨名翔子は死んでいませんよ。なにせ、貴方のことすら知らないのですから」
微かだか愁斗の指先が動いた。
「会いに行きますか?」
〈鴉〉は嗤っているようだった。
そして、〈鴉〉は飛び去った。
桜咲く卒業式。
三年間を過ごしたこの学校とも今日でお別れだ。
部室で後輩たちに最後の挨拶をして、翔子は学校をあとにすることにした。
友達たちにパーティーに誘われたが断ってしまった。
もう会うこともない友達もいただろうに。
そして、もう会えない人も……。
名残惜しさで少し胸が苦しくなる。
卒業までの数日間、翔子は思い悩んでいた。
なにか大切なものを残してきてしまったような気がする。
校門を一歩出た瞬間、後ろから肩を叩かれた。
「しょーこちゃーん! 親友のあたしをおいていくとかマジありえなくない?」
息を切らせて汗を拭う撫子の姿。
「あ、ごめん」
「なにその素っ気ない態度。すっごく傷つくんですけどー。今日はどんな日かわかってる? 卒業だよ卒業!」
「でも、わたしたちずっと友達でしょ?」
「……そ、そうだけどっ!」
撫子は顔を真っ赤にして後退った。
「それに同じ高校に通うんだから、会えなくなるってわけじゃないんだよ?」
翔子は自分の言葉に引っかかった。
頭の中で靄のかかった光景が一瞬だけ浮かんだ。
少女が煮えたぎる溶岩に落ちていく光景。
翔子は大きく首を横に振った。
丸い瞳で撫子が翔子の顔を覗き込む。
「どーしたの?」
「ううん、なんでもない」
もう忘れてしまった。
白昼夢でも見ていたのだろうか?
サイレンの音がどこかから聞こえる。だんだんと音が大きくなり近づいてくる。
翔子たちの前まで走ってきた逃亡者の男。見るからに異形だとわかった。その指がすべて赤紫の触手だったからだ。
男は下卑た顔を翔子たちに向けて舌舐りをした。
帝都エデンに住んでいれば、このような異形犯罪者の事件など日常茶飯事である。だが、巻き込まれるかは別である。
異形犯罪者は翔子たちに飛びかかろうとしていた。
その時だった、火炎の玉が飛んできて異形犯罪者の鼻先を掠めた。
思わずたじろぐ異形犯罪者の前に現れたタイトなスーツを着た女性。手に炎を宿している。
すぐにあとを追ってきた覆面パトカーから、中年男が銃を構えて降りてきた。
「華艶さん単独行動しないでくださいよ!」
「はいはい、次回から気をつけまーす草野警部補」
帝都警察だった。
華艶が少し異形犯罪者から目を離した隙に悲鳴が上がった。
「きゃぁあ、助けて!」
視線を戻すと翔子が人質に獲られていた。
異形犯罪者は嫌がる翔子の首に舌を這わせながら、ゆっくりとパトカーに近づいていく。
「車はもらうぜ、変な真似をしてみろ……わかるよなぁ?」
下卑た笑みを浮かべ異形犯罪者は運転席に乗り込んだ。助手席には触手で拘束された翔子が乗せられた。
パトカーが走り出す。
華艶が炎を撃とうと構えが、すぐに草野が制止した。
「人質がいるんですよ!」
「うるさい、あんたのせいでしょ!」
「違いますよ、元はといえば華艶さんが!」
言い合いをする二人を尻目に撫子が駆けていた。
人を越えた脚力。この街では珍しくないが、隠して生きている者もいる。しかし、友達のためなら正体がばれてもいとわない。
撫子の頭に猫のような耳が生え、その顔は豹に近いものに変化した。
二足歩行から四足に切り替えた撫子が車の背後まで追いついた。
雌豹がアスファルトを蹴り上げ跳躍する。
何かを落ちてきたような音に気付いて異形犯罪者は天井を見た。
天井を何度も何度も引っ掻くような音。
「嘘だろう!」
異形犯罪者は驚愕した。
車の天井を突き破った鋭い爪。裂け目から獣人が眼を光らせていた。
異形犯罪者は大きくハンドルを切った。
車体が大きく揺れ、獣人が振り落とされそうになる。
「翔子ちゃんを返せ!」
裂け目から手を伸ばし異形犯罪者の顔を引っ掻こうとしたところで、激しい衝突に見舞われた。
横から急に車が突っ込んできたのだ。それもまるで投げ飛ばされるように、車が飛んできて車体の横に激突した。
「にゃっ!」
撫子が屋根から振り落とされて、アスファルトに激しく落下しそうになった。だが、そうはならなかった。不可視のネットのようなもので受け止められたのだ。
車の中から翔子が這いながら下りてくる。どうやら無傷のようだ。
車外に出て起き上がろうとしたとき、その脚に車内から伸びた触手が巻き付いた。
「お嬢ちゃん、逃がしはしないぜ」
「やめて、放して!」
「逃げ切れたらな。ただし、可愛がって……ギャッ!」
翔子の脚を掴んでいた触手が切断されて血と汁が噴き出した。
怯えながら眼を丸くする翔子。
いったいなにが起きたのか?
車から飛び降りた異形犯罪者が逃げ出す。
「どうなってやがるんだ!」
鬼気を孕んだ風が吹く。
姿を戻した撫子が翔子を抱き寄せる。
「だいじょうぶ?」
「う……うん」
しばらくして華艶たちがやってきた。
「犯人はどっち?」
「向こうです」
翔子は指を差して伝えた。
雨がぽつりぽつりと降りはじめ、翔子は曇天を見上げた。
そのとき、ふと視線を感じたような気がしてビルの屋上に目をやった。
だれもいなかった。
この不思議な視線は翔子がずっと感じているものだった。いつのころからだっただろうか、三年生になったころだったかもしれない。時折感じる視線に気付いて、何度も振り返ったことがあった。
しかし、そこにはだれもいなかった。
はじめのうちは怖ろしく感じたが、やがて見守られていると感じるようになった。
今日もそうだ。
きっと助けられたに違いない。
翔子は急に真顔になって撫子を見つめ、しばらくして笑顔になった。
「卒業おめでとう」
「……にゃ、突然どうしたの?」
「なんとなく、明日から新しい生活がはじまるって思ったら、言っておこうかなって」
「ええー、入学式までまだまだあるよ。明日から遊んで暮らして堕落した生活をするって決めてるんだから、気が早くない?」
「そういう意味じゃないんだけど」
「どういう意味?」
「だから、えっと……」
少女たちが歩いていく。
「そうだ、事情聴取とか受けなくていいのかな?」
「べつにいいんじゃにゃーい。めんどくさし、刑事さんたちどっかいちゃったし」
「そう?」
「そうだよ。それよかさ、卒業祝いにケーキ食べに行かない?」
「きのうも前夜祭とかいって食べに行ったよね?」
「きのうはきのう、過去は過去。今を楽しまなきゃ」
世界は地続きで繋がっている。
未来に向かって進んでいくのだ。
笑い合う少女たちの背中を見送りながら、その人影は白い仮面で顔を隠した。
「さようなら、卒業おめでとう」
その人影は街の裏路地へと姿を消した。
この日以降、翔子は不思議な視線を感じることがなくなった。
一つの物語の幕が降りた。
そして、新たな物語が幕を開けようとしていた。
傀儡士と般若面の姉妹の物語。
ダークネス-紅-に続く。