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傀儡師紫苑  作者: 秋月瑛
狂い咲く奈落花
53/54

草稿

 現在に戻ってきた愁斗が目にしたものは、漆黒のドレスを纏った翔子の姿。

 開かれた木箱の中には蒼く澄んだ宝石――〈ジュエル〉が眠っていた。

「愛しき妹よ、まだ目覚める時ではない。躰が見つかっておらぬのでな」

 翔子の声であって翔子ではないもの。

 旅をした愁斗はその正体を知っていた。

「セーフィエルだな?」

「……ふむ、ぬしはたれじゃ?」

 黒瞳に映る愁斗の姿。

 セーフィエルはすぐに微笑んだ。

「嗚呼、あのときの小僧か。あれはどの世界の妾じゃったか……この世界の東京はどうなったかえ?」

 突然の不可思議な質問に愁斗は訝しげな表情をした。

 撫子は心配そうに翔子の顔を覗き込んでいる。

「どうしちゃったの翔子ちゃん。頭とか打っちゃったの?」

 その言葉を無視してセーフィエルは伊瀬に顔を向けた。

「この中でもっとも賢そうな顔をしておる。東京はどうなったのかえ?」

「どうとは、いつの東京と比較してでしょうか?」

「一九九九年に決まうておろう。あの年、東京は聖戦の地となり……嗚呼、ここはやはり死都が生まれなかった劣弱な世界なのじゃな。故に妾が本来とは違う不完全な形で顕現したわけじゃ」

 だれかに語るというより独り言のようだった。

 セーフィエルは愁斗の顔を覗き込んだ。

「ほう、今わかったぞよ。正史の世界とは似ても似つかぬ弱い瞳をしておるが、愁斗じゃな?」

「そうですが。あなたはここで父――蘭魔と傀儡と〈ジュエル〉の研究をしていたんですよね?」

「蘭魔と研究……ふむ、まだその時点であったか。過程は違えど、おそらく辿り着く場所は同じじゃろう」

「あなたの言っていることはよくわからない」

「妾は現在、過去、未来、幾多の平行世界、同時に存在しておるのじゃ。ただし、ここにおる妾は幻のようなものだがな」

 セーフィエルの説明は愁斗たちの理解できるものではなかった。ただ、翔子の肉体が乗っ取られたということはわかる。

「その体の持ち主はどうなったんですか?」

 愁斗は丁寧な口調で尋ねたが、内心では感情が渦巻いている。

「妾はこの〈ジュエル〉の不純物が見せる幻に過ぎぬ。たとえウイルスだとしても、ウイルスが宿主に取って代わることなどできぬ。わかるかえ?」

 翔子の意識は生きているということだ。少しは安心することができた。

「自分のことを不純物と言いましたが、〈ジュエル〉を創ったのはあなただ。意図して混入させたのではないですか?」

 過去あるいは、平行世界を幻視した愁斗は、セーフィエルになんらかの目的があると感じさせていた。

 蘭魔は尋ねた――〈ジュエル法〉は本当にあんたの妹を蘇らせるためだけのものなのか?

「そうじゃ、妾が世界に顕現する憑代とするために」

「……翔子は本当にもとに戻るんだろうな?」

 愁斗の口調が変わった。

「妾は幻にすぎぬ。この世界には本物の妾が存在しておる。おそらく追放され、今はこのリンボウ――地球に還ろうとしておる途中じゃろう。まだ先の未来じゃな」

「還ってくるまで、翔子の躰を乗っ取ったままじゃないだろうな?」

「妾は必要なときに顕現する」

「目的は?」

「蘭魔やお主と同じじゃ。シオンを救うこと」

「それだけか?」

 セーフィエルは月のような微笑みを浮かべた。言葉はなかったが、その笑みが答えだろう。

 急にセーフィエルの表情が冷たくなった。

 躰を包んでいた漆黒のドレスにモザイクがかかる。まるで画像の解像度が落ちているようだ。

「――来る」

 と、だけ言い残してセーフィエルの意識が消えた。残された翔子は倒れそうになり愁斗に抱きかかえられる。

 微かに翔子の瞼が動く。

 愁斗が投げかける。

「翔子」

「……ん、んん」

 静かに翔子が瞳を開けた。

 目と鼻の先で愁斗が自分の顔を覗き込んでいる。

「……愁斗君っ!」

 驚いた翔子は目を丸くして、自分の躰を包む腕に気付いて顔を真っ赤にした。

 時間にすれば1日もない。だが、この再開まで愁斗に様々なことが起きた。それがとても時間の流れを長く感じさせた。

「……よかった」

 心から安堵することができた。愁斗は翔子を抱きしめる腕に自然と力が入った。言葉にはしなかったが、もう決して離しはしないという決意が感じられた。

 しかし、再開を喜ぶ時間はなかった。

《オペレーションシステム再起動》

 館内に機械的で淡々とした少女の声が響いた。聞き覚えのある声だった。

《屋敷に対する攻撃を感知。魔導結界70パーセントダウン、復旧に必要なエネルギーが不足しております》

 撫子が辺りを見回す。

「にゃ、だれが話してるの?」

 超人的な聴覚をもってしても、その人物がどこにいるのか特定できない。

 なぜなら屋敷の声だからだ。

《わたくしの名はアリス壱式。この屋敷を管理する人工知能システムでございます》

 さらにアリスは続ける。

《魔導結界が破られました。敵の数は一体、正面ホールに侵入、生体反応なし、傀儡と思われます》

 敵は知れた。

 傀儡と聞いて愁斗は嫌な予感しかなかった。

 翔子を撫子に任せ、愁斗と伊瀬は玄関ホールに急いだ。

 2階に続く大階段の踊り場にその影はあった。

「どこから探すか考えてたとこだ。そっちから来てくれて助かったぜ」

 声は麗慈、だがその姿は紫苑だった。

「母さんの傀儡を……!」

 愁斗の瞳に苦渋と憎しみが浮かんだ。

 麗しい紫苑の顔で悪意を浮かべ嗤っている。

「この人形を隅々まで調べさせてもらったぜ、よくできたダッチワイフだ。乳首はピンク、あそこも精巧に――」

 シャンデリアが突然落ち、轟音で言葉は遮られた。

 歯を食いしばる愁斗を見ながら、紫苑がしなやか足取りで階段を下りてくる。

「威嚇しかできないのか?」

 紫苑の手から殺気を孕む妖糸が放たれた。

 すぐさま愁斗も妖糸を放ち相殺する。

 その姿を見ながら麗慈は小馬鹿にした。

「俺は殺す気だった。てめえはどうだ?」

 答えのわかっている質問をわざわざした。

 愁斗は拳を強く握る。

 ――できない。

 そこに立っている傀儡と幾多の戦いをともにした。傀儡はただの操り人形ではないパートーナーなのだ。それだけではない、その傀儡は母の顔を持っている特別な存在だった。

 ずっと死別したと思っていた母。実際は死んだわけではなかったらしいが、愁斗にとって母は幼いころの記憶の中と、この傀儡に見いだすしかなかった。紫苑という傀儡は愁斗の支えであったのだ。

 傀儡といえど、母と同価値の存在。それが憎っくき敵に手に落ち、今この時、対峙する運命になってしまった。

「てめえはこのダッチワイフを取り戻す方法を考えてるはずだ。あきらめろ、このダッチワイフは俺様のもんだ。いつでも好きにできるんだぜ」

 紫苑の腕がいきなり落ちた。

 目を剥く愁斗。

「貴様!」

「おっと失礼、操り糸に力を入れすぎたぜ。でもよ、これでわかったろ? いつでも壊せるんだぜ」

 紫苑は落ちた腕を拾い上げ、瞬く間に妖糸で縫合して元に戻した。

 動けずにいる愁斗を押し退けて伊瀬が前へ出た。

「私がやります」

 愁斗は戦いそのものを避けたかったが、麗慈にその気がないのなら、やむを得ない選択だった。伊瀬が戦うしかない。

 だが、麗慈はそれを許さない。

「おいおい部外者はお呼びじゃないぜ。これは俺様と愁斗のゲームなんだ」

「貴様の都合など知るか」

 疾風のごとく伊瀬が駆け、豪鬼のごとく拳を振るう。

 紫苑から鋭い妖糸が放たれた。

 輝線が機械仕掛けの腕に弾かれた。傀儡師の妖糸で斬ることができないのだ。

 楽しそうに微笑んだ紫苑の眼前に拳が迫る。

 拳が急に止まった。見えないなにかに押し戻される。ネットだ、弾力性を持った妖糸が拳を防いでいる。

 伊瀬の足腰に力が入る。

 ゆっくりと拳が前に進み、ついにネットが破られた!

 大きく横殴りにされた拳を受けて紫苑が遙か後方に吹っ飛ぶ。

 踊り場の壁に背中を打ちつけ、紫苑は床に尻をついて項垂れた。その頭上には不気味な門の絵画が飾られている。

「クククク……」

 くつくつと壊れたように嗤う麗慈。

「ったくよ……邪魔なんだよ」

 紫苑が幽鬼のように立ち上がる。

「俺様は愁斗と遊びてえんだよ。そうだ、てめえと遊びたがってるガキがいるんだった。すぐに紹介してやるよ」

 紫苑から闇色の妖糸が放たれた。

 どこに?

 門が開く。

 紫苑の頭上、油絵の具で描かれた門が、まるで本物のように口を開ける。

 〈闇〉が触手を伸ばして呼んでいる。

 開かれた門から幾多の触手が溢れ出し伊瀬の四肢を拘束する。

「……ぅ」

 口も塞がれた。

 身動きができない。

 愁斗は伊瀬を助けようと妖糸を放つ。

 駄目だ、切っても切っても新たな触手によって絡め取られる。

「伊瀬さん!」

 叫ぶ愁斗の視線の先で伊瀬が扉の向こうへ引きずり込まれる。

 門は伊瀬を丸呑みして閉じられた。

 一時の静寂。

 やがてこちらに駆けてくる足音が聞こえた。

 紫苑の顔はそれを見て嗤う。愁斗は顔を強ばらせた。

「来るなっ!」

 もう遅い。麗慈に目を付けられた。

 妖糸を軽く放った紫苑。

 すぐさま撫子が庇うように翔子の前へ出た。

「危にゃい!」

 両腕を顔の前で立てて妖糸をガートした。ガントレットが装備されていたのだ。

「魔法のガントレットなら傀儡師の妖糸だって防げるんだから!」

 撫子は鼻を鳴らしながら勝ち誇った。

 だが、紫苑の顔は口の端を吊り上げて余裕を見せていた。

「今のは攻撃じゃねーからだよ」

 再び紫苑の手から放たれた妖糸は、さきほどを比べものにならないほど疾い。それでも撫子の優れた動体視力をもってすれば防ぐことはできる。そう撫子も考えてガントレットを構えたのだが――。

「避けろ!」

 叫ぶ愁斗の声を耳にして、とっさに翔子を抱きかかえながら押し倒した。

 妖糸は床を深く抉って爪痕を残した。

 紫苑は撫子たちを一瞥したあと、愁斗に向き直った。

「あいつはバカだ、てめえは正しい」

 バカだと言われて撫子は強く否定するような顔で愁斗を見た。

 愁斗が答える。

「奴の言葉のとおりさ。今のが攻撃だった……だから、さっさと翔子を連れて逃げろ!」

「そうは行くかよ」

 助走もなしに紫苑が宙を跳ぶ。

 その足首に妖糸が巻き付き床に引き寄せられる。

 階段を転げ落ちる紫苑が愁斗の足下まで来た。

 床に口づけをするくぐもった声がする。

「足首に巻き付いた糸をなんで切らなかったかわかるか?」

「……っ!?」

 愁斗は紫苑の手から伸びている妖糸の先に目をやった。四肢を拘束され芋虫のように床でもがく撫子の姿。

「俺様の勝ちだ」

 足首に巻き付いていた妖糸を妖糸で切り、立ち上がった紫苑は飛翔する。

 翔子の瞳に映る魔鳥。

「なにをする気だ!」

 愁斗の妖糸が再び紫苑を拘束しようと放たれた。

 それよりも紫苑の妖糸は疾かった。

 翔子に迫る鋭い妖糸。

 もがく撫子。

 眼を見開いた愁斗。

 妖糸は翔子の頬を軽く撫で、空を切り裂いた。

 紫苑の顔は不気味に嗤う。

 しゅーしゅーと風が音を立て、斬られた空間の裂け目が広がっていく。

 紫苑は真後ろから迫る妖糸を妖糸で弾き飛ばし、そのまま駆けながら翔子を抱きかかえた。

「あばよ!」

 そのまま紫苑は裂け目に飛び込み、二人は深い闇の中に呑まれてしまった。

 慌ててすぐさま愁斗も裂け目に飛び込もうとしたが、寸前で跡形も無く消えてしまったのだった。

「…………」

 無言で拳を握る愁斗。

 撫子も唇を噛みしめている。

 はじめからこれが目的だったに違いない。

 愁斗との戦いに執着する麗慈が、戦わずに逃げるわけがないのだ。

 だが、なぜ?

「僕と決着をつけたいならここですればいい……なんで翔子を」

「もしかしたら……」

 撫子が口を挟んで、そのまま続ける。

「メディッサが翔子ちゃんの魔力を欲しがってたの思い出した」

「〈ジュエル〉か? いや、セーフィエルの断片か」

「きっと元首領を蘇られるのに使うつもりだよ!」

「生贄か」

 愁斗は麗慈の思惑も読めた。

 協力関係にあるメディッサのために動いているように見せて、動機は愁斗を苦しませようとしているだけだ。

 紫苑を奪い、翔子を奪い、大切なものを奪っていく。

「早く翔子を見つけないと……クソッ、どこに消えたんだ」

 居場所がわからない。

《マイマスター、お困りでしたら、わたくしがお力になれるかと存じます》

 アリスの声だった。

 愁斗は辺りを見回す。

「力を貸してくれ」

《喜んで》

 その弾んだその声は、十代の少女のようだった。

「翔子の居場所を探せるのか?」

《はい、〈ジュエル〉を感知することが可能でございます》

 床で撫子がもがいている。

「アタシも連れてって、次は絶対に絶対に翔子ちゃんのこと守るから!」

 いつになく真剣な眼差しの撫子を愁斗は見下ろしている。

「絶対だな?」

「九つの命を賭けても」

「なら付いてこい」

 輝線が撫子を拘束していた妖糸を切り裂いた。

 アリスの声がする。

《座標を確認いたしました。転送装置がございます》

「転送装置?」

 その扉が開かれる。

 大階段の踊り場に飾られた地獄の門。それこそが転送装置だった。麗慈はそれを知ってから、知らずか門の扉を無理矢理開けて伊瀬を転送させた。

 愁斗は階段を一歩一歩踏みしめながらのぼる。無言のまま撫子はあとに続いた。

《どうかご無事で》

 待ち受けるは暗き闇。


 足を踏み込むたびに沈む黒土。

 立ち止まることを決して許さない。

 世界は夜。

 満月が静かに蒼さめている。

 湿った黒土から立ち上る臭いがのどの奥をむせさせる。

 亡者どもが起こした冷たい風。

 薬草の匂い、赤い飛沫の鉄臭さ。

 いくつもの円柱が屋根を支える白亜の神殿。

 歩くたびに足裏に張り付く気色の悪い感触に気づき、撫子は口元を押えて冷や汗を流した。

 血の川。

 血の海。

 血の世界。

 床はおびただしい血に染まっていたのだ。

 構わず愁斗は歩き続けた。素顔でありながら、その表情は仮面をかぶっているように無機質だ。

 神殿の奥にまるで墓標のように聳え立つ門。

 その前に立つ不気味な人影が二人。

 無邪気の中に邪気を孕んだ笑みを浮かべる麗慈。

 血塗られた躰と蛇の髪を持つ蛇人メディッサ。

 そして、彼らの前には巨大な穴が空いていた。そこから噴き出す紅蓮の炎。穴の底を覗き込むと、真っ赤に燃える流動物質が鈍り鈍りと蠢いていた。

「愁斗君っ!」

 少女の叫びが天井から聞こえた。

 高温の風が噴き上げる先、天井近くに二つの影が吊されている。一つは翔子、もう一つは傀儡紫苑だった。

 苦しそうな顔をしている翔子。

 彼女を吊しているのは両手首を縛り上げ、そこから伸びている一本のロープ。少しでも負担を減らそうと縄を両手で掴んでいるが、全体重を支える手首は縄が食い込み血が滲んでいる。

 紫苑は糸を切られた操り人形のようにぐったりと首を曲げている。

 よく天井を見ると、二人を吊した縄は定滑車で繋がれていた。今は絶妙なバランスで天秤のように保たれているが、縄を切れば両方が落ちる。

 血を滴らせながらメディッサの美しい脚が前へ出た。

「舞踏会の招待状はお持ちかしら?」

 愁斗は怒りのあまり返す言葉もなく歯軋りを鳴らしている。

 その顔を見て麗慈は愉しげだ。

「怖い顔すんなよ、これは愉しいゲームなんだぜ」

 撫子が天井を見上げる。

「絶対に助けるから、もうちょっとの辛抱だからね!」

「……う……ううっ」

 もう翔子はしゃべる気力も残されていない。

 メディッサは〈蘇りし心臓〉を掲げた。

「愛しき貴方の心臓はこの手に。あとは生贄を捧げるだけ。二つの生贄の持つ豊潤な魔力で、貴方はさらに逞しく蘇るの……嗚呼」

 自らの躰を抱きしめメディッサは身悶えた。その手から〈蘇りし心臓〉がかすめ取られた。麗慈の仕業だ。

 妖糸を使って〈蘇りし心臓〉を奪った麗慈は、それを自らの腹の中へとずぶずぶ押し込めて呑み込んでしまったのだ。

 目と牙を剥くメディッサ。

「なんてことを!?」

「ゲームだって言ったろ。これは俺様と愁斗のゲームなんだよ、ババアはすっこんでろ」

「キエエエエーーーッ!」

 金切り声で叫びメディッサは麗慈に襲い掛かった。

 嗤う麗慈。

 編み目に張られた妖糸に勢いよく突っ込んだメディッサが細切れにされた。

 肉塊は溶けて血となり海に沈んだ。

「さあ、ゲームをはじめようぜ」

 麗慈は手をくいっと軽く引いた。すると天井のロープが微かに動き翔子が呻いた。ロープと妖糸が繋がっているのだ。

「今からロープを切る。するとどうなる? そうだ、ぶさがったもんが二つ同時に落ちる。同時にだ。どっちを助けるんだ?」

「…………」

 黙る愁斗を一瞥して撫子が答える。

「どっちもに決まってるじゃん!」

 小馬鹿にしたように麗慈が大きな口で笑う。

「はははっ、それは無理だ。まず撫子、てめえは論外だ。ゲームの参加者じゃねーし、お前の脚力じゃそもそも届かないだろ。ここにはハシゴもなにもありゃしねー」

 麗慈は愁斗を指差す。

「使えそうなもんは、妖糸くらいだ。召喚をさせる時間も与えねえ。妖糸の力でどうにかするしかねーってことだよ」

「間違った答えを誘導するつもりか?」

 重々しい口調で愁斗が反論する。

「妖糸自体は魔法じゃない。変幻自在の動きを成すことができたとしても、物理法則に縛られる」

 麗慈は舌打ちをした。

「……っ気付いたか。そうだな、落下してる女に妖糸を巻き付けたとしても、体重と腕力がなきゃ支えきれずにいっしょにマグマ溜りにドボンするのがオチだな」

 そう言った途端、麗慈はロープを切ったのだ。合図もなかった不意打ちだった。

「きゃああぁっ」

 翔子の悲鳴。

 無言のまま落ちる紫苑。

 一瞬にして床に空いた穴の入り口に達してしまう。

 翔子と紫苑を交互に見る愁斗は動揺せずにはいられなかった。

 落ちる翔子と紫苑の先で麗慈が嗤っている。

 すでに撫子は動いていた。ロープが切られた瞬間、愁斗が動けずにいる間、撫子に迷いなどなかった。

 ただ一直線に翔子のもとへ!

 それを見て愁斗が遅れて動く。放たれた妖糸は――紫苑に巻き付けられた。

 眼を見開く翔子。

 床に空いた巨大な穴は直径八メートルはある。翔子までは四メートル。そこまでは軽く跳ぶことができる。

 真っ逆さまに落ちる翔子の足首を撫子の手をつかむ。その瞬間、さらに落下が加速する。

 撫子の目に映る麗慈の姿が上っていく。

 汗を流しながら懸命に腕を伸ばす撫子の爪が穴の縁を掴んだ!

 振り子のように揺れる撫子と翔子。

 縁を掴んでいる腕が震え、爪から血が滲む。登ることはできず、限界も近かった。

「私の足を放して!」

 叫ぶ翔子。

 言葉を返す余裕すら撫子にはなかったが、握った足首を放さないのが答えだ。

 二人が落ちそうな様を見て愁斗は歯を食いしばり涙を浮かべた。

「うあぁぁーッ!」

 叫びながら愁斗は握っていた手を開いて妖糸を解いた。

 灼熱の底へ向かって落ちていく紫苑。

 一筋の輝線。

 新たな妖糸を放った愁斗。

 だが、もうそれは間に合わなかった。

 翔子の頬に雫が落ちた。

 最期の力を降り濡った撫子が縁を掴んでいた手を軸にして、振り子の原理で翔子の躰を持ち上げながら放り投げる。

「くぅ……あーーーッ!」

 天を舞う翔子。

 赤く燃える世界へ落ちていく撫子は微笑んでいた。

 慌てて愁斗は放った妖糸を捨て、新たな妖糸を撫子に向けて放とうとした。

 だが、その妖糸は宙で切断されてしまったのだ。

 歯を剥いて嗤う麗慈。

「ククククククッ……ハハハハハハッ、ハーハハハハハハッ!」

 一瞬にして呑み込まれた。

 その瞬間を見た者はいなかった。

 助かった翔子が穴の縁にしゃがみ込んで覗き込む。

 跡形もない。

 そのまま彼女は顔を上げ、止まらない涙を流しながら愁斗を見つめた。

 魂が抜けたように愁斗は呆然としていた。

 迷いだ。

 迷った挙句、後手に回り、後手に回り、手遅れになった。

 笑いが治まらない麗慈は猫背で腹を抱えている。

「どっちを助けるのかと思ったら、人形のほうを助けようとしやがったぜ。人の命と人形、人の命をゴミ屑だと思ってる俺様だって、どっちが正解かわかる問題だぜ」

 翔子は泣きながら床に両手をついて項垂れている。

 なにも反論しない愁斗。俯き重い表情のまま口を結んでいる。

 麗慈は笑いすぎて鼻水をすすった。

「あーあ、最高に笑えるぜ。決定的瞬間を見てたせいで、人形が落ちるとこが見れなかったけど、まーそれはしゃーないな……代わりに……くあ……ぐぐあっ……オオゥ」

 腹を抱えている麗人の様子が可笑しい。

「げぼっ」

 口から闇色の液体がどぼどぼと吐き出される。

「なんだ……くる……し……」

 足下をふらつかせてよころめく麗慈。

 女の笑い声が聞こえる。

「キャハハハハハ……キャハハハハハハハ!」

 血の水面に波紋が走った。

 ぬらりぬらりと血で彩られた妖艶な裸婦が海から這い上がってきた。

「予定は狂ってしまったけれど、子猫の生贄が捧げられたわ」

 顔を強ばらせながら麗慈は復活したメディッサを睨んだ。

「クソババア!」

 妖糸を放とうとした麗慈の手がふいに止まった。

 背筋を凍らす生臭い風。

 静かに開いた巨大な門の隙間から、光る眼がこちら側を覗いている。

 眼はひとつではなかった。

 人の眼球ほどの大きさのものあれば、人の頭蓋骨ほどのものもあり、さらにずっと小さい眼も、無数の眼がこちら側を覗いている。

 巨大な門からヘドロに似た原形質状の流動体が這い出てくる。そこに無数の眼がついているのだ。

 それの眼には持ち主たちがいた。よく見ると人や動物、異形たちの顔がうっすらと浮かび上がっているのだ。取り込まれた犠牲者たちだった。

 腐臭を漂わせながら謎のヘドロは触手をつくりだして伸ばした。

 腹を押えながら膝を折って片手を床についていた麗慈。

「あれが……首領なのか?」

「いいえ、あれは成れの果てよ。これから黄泉返るのよ!」

 ぐちゃ!

 触手がメディッサの上半身を喰らい、そのままの勢いで麗慈に飛びかかる。

 体内に〈蘇りし心臓〉を取り入れてしまった麗慈は、躰が重くそのまま仰向けに倒れ込んでしまった。

「この……俺様が……ぐぼ」

 口から闇色の液体が流れ出る。

 ヌメヌメとした触手が花弁を開いたように口を開けて麗慈の胴を噛みきった。

 血の海から首を出したメディッサが叫ぶ。

「次はその娘を喰らうのよ!」

 触手が翔子に襲い掛かる。

 翔子は魂が抜けたように放心している。もう涙も涸れた。

 立ち尽くしていた愁斗の肩からふっと力が抜け、次の瞬間、鬼気迫る表情で顔を上げた。

 輝線、輝線、輝線、幾重もの輝線が縦横無尽に暴れ狂う。

 細切れにされる触手の体液が翔子の顔にかかる。

 先を細切れにぐたりと力を失った触手が巨大な門の奥へと消えた刹那、無数の触手が槍のように飛び出してきた。

 血塗られた大地を駆ける愁斗の手から連撃が放たれる。

 肉が飛び、血飛沫が舞い、愁斗が踊る。

 鋭い眼をした愁斗と床から顔だけを出したメディッサの眼が合った。

 女の生首が宙を舞う。

「キャハハハハハハッ!」

 血の海から次々とメディッサがたちが這い上がってくる。

 巨大な門の向こう側から攻め込んでくる触手も途絶えることがない。

 愁斗は翔子の腰を抱き寄せた。

「まずは君を安全な場所へ」

 淡々と冷静な口調。

 翔子は返事をしなかった。

「……翔子?」

 急に愁斗は不安そうな子供のような表情をした。

 深く瞳を閉ざした翔子は、ゆっくりと目を開けて真剣な眼差しをした。

「……もういいの」

「なにが?」

「……ごめんなさい、もういいの」

「だからなにが?」

「生きていたら、ずっと抜け出せない気がするの」

 翔子の背後に触手が迫る。

「危ない!」

 愁斗はとっさに翔子を押し倒し、触手に目掛けて妖糸を放った。

 妖糸が外れた。

 触手は翔子に覆い被さっていた愁斗の背中を掠めた。

 再び放たれた妖糸。

 飛び散る肉塊。

 すぐに愁斗は立ち上がり、翔子の腕を掴んで立たせようとした。そのときに翔子の手は愁斗の背に回っており、生温かいぬめりとした感触が手に伝わってのだ。

「もしかして愁斗君……背中」

「全部、僕のせいだ……守りたいと思ってるのに……」

 愁斗の脳裏に撫子の犠牲が浮かんだ。その犠牲に触発されたわけではない。もっと前から、はじめから翔子を守りたいと思っていた。

 だが、結果はうわべだけだった。

 翔子が強く愁斗を抱きしめた。

「もういいの」

「だめだ!」

 四方から襲ってくる触手を愁斗は八つ裂きにした。

 斬っても斬っても切りが無い。

 そこら中から女の笑い声が木霊してくる。

「嗚呼、愛しき貴方……早く〈こちら側〉にいらして」

 流動体だった躰が少しずつだが固形になっていく。

 すべて触手だ。無数の触手が絡みつき球体になり、転がりながら巨大な門から出てきた。

 その中心には人が手を広げても届かないほどの単眼が世界を凝視していた。

 メディッサはその単眼にすり寄り、舌で舐めながら接吻をした。

「嗚呼、愛くるしい貴方の眼だわ……早く完全な貴方の姿を見たいわ」

 触手に覆われた単眼の首領。かの者の触手は伸ばされ愁斗たちを囲んでいた。

 眼、眼、眼、大中小の眼が触手にはついており、それらが愁斗を凝視して放さない。

 周りを囲まれ逃げ場を失ってしまった。

 翔子を連れてどう切り抜けるか?

 まだ愁斗はあきらめていないが、あきらめた人間を連れて逃げることができるのか?

 愁斗は唇を噛む。

 触手は愁斗たちの回りを蠢いている。

 なにかが血の海で動いた。上半身だけの麗慈だった。

「なあ愁斗、共闘しねえか?」

 下から話しかけられ愁斗は冷たく見下す。

「うるさい黙れ」

「邪険にするなよ。下半身が時間を稼げ、俺様が復活したら二人で毛玉野郎をぶっ殺そうぜ」

「……あとどのくらいだ?」

「カップラーメンと同じ」

 すでに麗慈の上半身からは闇色の糸が無数に伸び、下半身と繋がろうとしていた。

 単眼の首領が太く逞しい触手を何本も伸ばしてきた。

 うねるうねる鞭のように触手がうねり狂い、床を叩き壊し、神殿の柱を折り倒す。

 愁斗は目にも止まらぬ早さで限界を超えて妖糸を繰り出す。

 とにかく防御に徹する。

 触手を自分たちの半径三メートル以内に近づかせない。このラインを死守しながら、その場から足は動かさずに次々と妖糸を放った。

 紫色の血飛沫が噴き上がり、飛び散った肉塊は腐臭を放つ。

 触手に混ざって朱い妖女も襲い掛かってきたが、すべて細切れにした。

 やがて一分、二分、三分と時間が過ぎ去る。

「まだか!」

 叫んだ愁斗が麗慈に眼だけを向けた。

 嗤いながらそこに立っていた麗慈。

「復活したぜ」

 構える麗慈。

 そして、妖糸が放たれた!

「ぐはっ!」

 眼を見開いた愁斗の手首に輝線が趨った刹那、繊手が宙を舞っていた。

 なんということだろうか、麗慈の妖糸が愁斗の手を落としたのだ。

「ククククッ、信じるなよばーか」

 愁斗に対する麗慈の悪は時と場所を選ばない。

 どんな状況に置いても麗慈は愁斗をあざ笑うのだ。

 すぐさま愁斗は傷口を妖糸で硬く縛り上げ止血した。が、落ちた手首はどこにいったのかわからない。血の海に沈んでしまった。

 憎悪に満ちた眼で愁斗は麗慈を見ていたが、その眼が急に上に向けられた。

 触手が花弁のように口を開け麗慈の頭上に迫っている。

 ぶずゃり。

 世にも奇妙な音を立てながら麗慈の上半身が丸呑みにされた。

 下半身だけになった肉塊が血の海に倒れた。

 悲惨な表情をして叫び声も出せない翔子。

 逃げ場はない。

 疲労と苦痛に耐えながら愁斗は妖糸を繰り出す。だが繰り出せる妖糸は半分に低下してしまっている。押し寄せる触手がじりじりと距離を縮め、もう手を伸ばせば届くそうなくらいだ。

「なんで僕は!」

 心の底から叫ぶ愁斗。

 それに続く言葉は?

 女の絶叫で遮られた。

 そこら中からあがる妖女の悲鳴。

 次々とメディッサたちが四肢や首を飛ばされていく。

 そして、闇色の稲妻が一人のメディッサの胸を貫いた。

「キエェェェェッ!」

 胴を半分にされ下半身を落とされた小さき蛇が床でのたうち回った。

 メディッサたちが血になり溶けていく。

 突然の襲撃に触手は攻撃の手を休め、愁斗もまた動きを止めてその男を見た。

 血に染まるインバネス。

 白い仮面の主は紫苑を抱きかかえていた。

 蘭魔の登場に愁斗は息を呑んだ。

 首領の単眼も蘭魔を凝視している。

「久しぶりだなシュドラ。俺に畏れをなしてハザマに逃げ隠れていた貴様が、こちら側に還ってくるとは、どういう風の吹きまわしだ。俺に勝てる算段がついたか?」

 大地を振るわせる低くおどろおどろしい声が返ってくる。

「怨めしや蘭魔、我が肉体を滅ぼし、心臓を奪い、我が結社を堕落させた罪人」

「弱肉強食が〈闇の子〉の教えだろう」

「黙れ!」

 触手が束となり鞭打つように蘭魔の頭上に振り下ろされた。

 蘭魔は軽く手を振り払っただけだった。

 五本の闇の稲妻が触手を木端微塵に砕き、さらに傷口を腐食させていった。

 シュドラは慌てて傷ついた触手を切り離し、巨大な門に向かって蠢きだした。

「また逃げるつもりか?」

 そうだ、シュドラは圧倒的なまでに蘭魔を畏れている。

 心臓を奪われたが、それによって封印されていたわけではない。元首領は蘭魔を畏れるあまり自ら引き籠もっていたのだ。

 巨大な門の奥へと逃げ込むシュドラ。

 インバネスをはためかせながら蘭魔が飛翔する。

「扉を開けてくれて感謝するぞ」

 蘭魔も門の奥へと消えた。

 あたりはしんとした。

 血だまりに残された二人。

 すぐに愁斗は理解した。あの巨大な門の奥に父の目的がある。つまり母に関することだ。

 巨大な門の奥は闇に染まり覗くことはできなかった。

 あの先にいったいなにがあるのか?

 愁斗は遠い目で眺めている。

「……愁斗君」

 声をかけられ我に返った。

「……あ」

「あの先になにがあるの?」

「僕の母さんがいるのかもしれない。父さんは母さんを助けることだけが目的みたいだ」

「行かなくていいの?」

 その質問は酷であった。

「僕は……」

「わたしよりも大事なんでしょう?」

「それは……」

 言葉に詰まった。

「いいの、赤の他人よりお母さんのほうが大事に決まってるものね」

「そういうことじゃない!」

 なにがそういうことじゃないのか?

 愁斗は自らの言動も整理できないほど混乱して、思わず声を荒げてしまった。

 父を追わなくてならない。今を逃したら、この先どうなってしまうのかわからない。

 だが、ここで翔子を置いていくような真似をすれば、翔子を失うばかりか、自分のアイデンティティさえ失ってしまう。

 なにもかも壊れてしまう。

 急に翔子が愁斗の手を両手で握り締めた。

「わたしもいく」

「……なんだって?」

「愁斗くんはあの先に行きたいんでしょう? でもわたしを置いていけないから、ここで立ち止まってる」

「危険すぎる!」

「わたしね……愁斗くんのことが好きだった。でも、もういいの」

 握っていた手を放して翔子が巨大な門に向かって走り出す。

「待つんだ!」

 愁斗の制止も聞かず翔子は背を向けたまま門の奥へ飛び込む。

 妖糸を巻き付け強制的に止めることもできた。

 しかし、愁斗の心がそれを思いとどまらせてしまった。

 深い深い闇の奥。

 巨大な口を開ける扉に愁斗も飛び込んだ。


 〈光〉と〈闇〉の激突。

 瓦礫の山となった死都東京。

 生き延びた者は南へと下り、数年の内に新たな都市国家が生まれた。

 自衛隊と米軍双方からの圧力や攻撃にも虫のごとくあしらい、女帝ヌルと呼ばれる者が君臨する帝都エデン。

 アメリカや日本、近隣諸国が手を引いた理由は、その圧倒的な力である魔導によるところが表向きだが、この世界の裏では人類起源より遙かいにしえより、彼らが支配していた経由がある。

 東京上空にはしばらくの間、巨大な門が鎮座していた。

 〈裁きの門〉

 〈闇〉の軍勢の多くはその先にある牢獄に幽閉されることになった。

 そして、門の向う側、最果ての地である〈タルタロスの門〉から先の世界。そこに〈闇〉は封印されている。

 ときにその組織はD∴C∴と呼ばれた。彼らは〈闇の子〉の思想を反映し、封じられた〈闇の子〉を幾度も復活させんと試みた。

 〈光の子〉と〈闇の子〉の代理戦争は幾度もあった。

 必ず〈光〉が勝つと摂理で決まっている。

 それでも〈闇〉は決して滅びることはない。

 光あるところに闇も必ず存在する。

 光がその輝きを増すほどに闇もまた深さを増すのだ。

 かの者は〈闇〉の中に〈光〉を求めた。

 娘たちと共に〈光〉に加勢したのだが、見返りに娘の一人が久遠の牢獄の楔された。

 かの者は復讐を決意する。

 一度目の計画は失敗して、かの者は肉体と魂を切り離され記憶を失った。

 二度目の計画では娘を取り戻した。

 しかし、それも束の間であった。

 娘は再び楔とされたのだ。

 すべて無駄になることはない。

 世界は確実に歪む。

 かの者の計画は、少しずつ〈光〉と〈闇〉が支配する世界に歪みを生み出していたのだ。

 新たな世界への門は必ず開かれる。

 鍵は般若面の傀儡師。

 彼の両親も傀儡師であった。その祖先も傀儡師であった。その子供も傀儡師であった。

 すでに確定している未来と過去。

 しかし、それは一つの世界の出来事でしかない。


 妾は世界の枠から外れた者。


 巨大な門をくぐり愁斗は天も地もない世界に辿り着いた。

 翔子の姿は見当たらない。

 そこら中に散らばる肉塊や触手が宙に浮かんでいる。濁った眼球も漂っていた。

 元首領の死骸であった。

 愁斗は歩く。

 闇が深く、辺りが見渡せない。妖糸で回りを探ってみるが、なにも感触が伝わってこない。

 さらに奥へと進むにつれ闇が深さを増す。

 時計の針のような音が聞こえる。

 先に進むと音が大きくなり、薔薇の香りが漂ってきた。

 愁斗は急な眩暈に襲われ瞼を閉じて足に踏ん張りを利かせた。

 静かに目を開ける。

 闇に包まれていた世界にぼうっと薄明かりが灯っており、人影が佇んでいた。

 インバネスに白い仮面。蘭魔――ではなかった。

 漆黒の長く艶やかな髪、白い仮面と思われたものは実際には顔が無いだけであった。

「ここは時と空間の〈ハザマ〉の世界」

 男とも女ともつかない声。決して中性的というわけではない、聞いたそばから声がどんなだったか思い出せなくなるのだ。

「だれだ君は?」

 警戒しながら尋ねる愁斗はいつでも妖糸を繰り出せるように構えている。

「名前は存在しない。便宜上ファントム・ローズと名乗っている。迷いし子羊を群れへ帰す役割を担っているのだが、キミはどうやら違うらしい」

「僕は父と友人を追ってここに来た。出口を知っているなら教えて欲しい」

「出口は夢幻にある。この〈ハザマ〉の広さも夢幻だ。キミの父と友人と思われる人物は見てないと思う。どの出口を探しているんだい?」

「どの……?」

 愁斗は〈ハザマ〉に入った瞬間に幻視した世界を思い出す。

 瓦礫の山となった死都東京。

「〈光〉と〈闇〉が戦争をして東京が滅びた世界」

「正史の世界だね。でも、それだけでは情報が不足しているんだ。その世界には無数のバージョンがあるからね……ん?」

 ローズはなにかの気配を感じたようだった。愁斗には感知できないものだ。

「なにかあったのか?」

「私と同族の気配を感じた……ファントム・ルナ、彼女も世界から弾かれた存在だ。正史世界に無数のバージョンが存在するのは彼女のせいともいえる。ファントムとなる以前から、彼女は幾度も世界の改変を試みた。そのときの名はセーフィエル」

「それは僕の祖母だ」

「ならこのタイミングでキミがここに来たということは、ファントム・ルナの導きということだろう。行くべき世界はここだ」

 ローズは薔薇の鞭を振るい、辺りに花びらが散乱する。

 花吹雪の中から薔薇の蔓が覆い茂る門が召喚された。

 蕾だった薔薇が開花して、覆っていた蔓が引いていく。

「さあ、お行きなさい」

 門が開くと同時にまばゆい光で視界が白一色に染まった。


 倒壊したビル群。

 道はほとんど隆起あるいは陥没しており、ひっくり返った廃車があちこちに目立つ。

 人影は無い。

 しかし、異様な気配はそこら中からした。

 横転しているバスの側面に登り愁斗は辺りを見渡した。

 近代的なビルに囲まれた赤レンガ作りの洋式建築も、爆撃を受けたように半壊しており、豪壮華麗な姿を見ることはできない。

「東京駅周辺か」

 呟いた愁斗。

 自分のいた世界とは違う歴史を歩んでいる世界。これまでの幻視からすぐに察することができた。

 ここは死都東京。

 愁斗はシグレの話を思い出しながら先に進む。

 お堀に差し掛かったところで、腐臭と糞尿の悪臭が風に乗って漂ってきた。

 中世貴族のような出で立ちの男は、眉目秀麗な顔をしており、王冠を頂いていた。

 髑髏の杖を愁斗に向ける。

「何者ぞ?」

「秋葉愁斗、傀儡師だ」

 名乗った途端、男は瞳を赤く輝かせ、髑髏の杖から稲妻を発した。

 光速の攻撃を生身の愁斗はでは躱せない。

 漆黒のドレスを身に纏う妖女が愁斗に背を向けて立った。

 妖女が手を振り払う動作をすると、稲妻は急に向きを開けて天に昇っていった。

 男は顎を上げて不満そうな表情だった。

「久しぶりではないかリリス。なぜ我が輩の邪魔をする?」

「ふふふっ、その名で呼ばれるのは久しぶりじゃな」

 妖女は翔子の顔を持っていた。

「今はセーフィエルという名で呼ばれることが多い」

 愁斗を救ったのはセーフィエルであった。

「この子は妾の血縁じゃ、手出しはならぬ」

「此奴からは我が輩のプライドを傷つけた人の子と同じ臭いがする。其奴がこの辺りに現れたと聞いてな、わざわざ足を運んだのだが」

「蘭魔じゃな。我が娘の夫であるぞ」

「ほう、シオンか、それともエリスの夫か、どちらにせよただの人の子、夫といえど血縁でなければ殺してもよかろう?」

「魔人蘭魔は手強いぞベルゼブブ。七柱のヴァーツとも渡り合えるほどにな」

 セーフィエルは振り返って愁斗と視線を合わせてから歩き出す。あとを追って愁斗も歩き出した。

 風のようにベルゼブブの横を擦り抜ける。

「我が輩を無視するつもりか?」

 夜闇に浮かぶ月のようにセーフィエルは静かに微笑んだ。

「妾の目的はシオンを救うことじゃ。その過程で貴公らの王が解き放たれるかもしれぬ。物事の道理を悟ったならば、手出しをするでない」

「その話は真実か?」

「結果は運命のみぞ知る」

 その言葉を聞いてベルゼブブが追ってくることはなかった。

 滑るような足取りでセーフィエルは先へ進む。

 原生林と化したその場所は、シダや巨大な植物で覆わたジャングルだったが、虫や動物は一切いなかった。

 道なき道だったその場所には、すでに先人が通った道があった。

 伐採された木々の切り口は鋭く、一目で愁斗は蘭魔の仕業だとわかった。

 邪魔なのものは排除する。一切の迷いも無く、ただ一直線に目的地へと向かっているようだ。

「この先に母さんがいるのか?」

 漆黒のドレスの背に向かって声をかけた。

「ずっと先じゃ。この先にあるのは〈裁きの門〉、一足先に蘭魔が着いておると思うが、あの〈門〉を召喚できるのは今やワルキューレのみ。シオンもワルキューレの一人じゃ」

「ワルキューレ?」

「〈光の子〉直属の精鋭部隊じゃな。先ほど会ったベルゼブブは〈闇の子〉の配下であるヴァーツの一柱じゃ。ヴァーツは一筋縄ではいかぬ者たちの寄せ集めに過ぎぬのでな、組織というよりは〈闇〉に属する者の中で、力ある七柱をそう呼んでいるに過ぎぬ」

「リリスと呼ばれていたな?」

「ヴァーツにおいては、そう呼ばれておる。リンボウに堕とされる前の名じゃ」

 気配がした。

 まだ目で確認できぬほど遠いが、鬼気が迫っている。

 何者かが激しい戦闘をしているのだ。

 セーフィエルの移動速度が上がり、愁斗は全速力で駆けた。

 原生林のほぼ中心に位置するその場所は、人工的に手が加えられたように土地が開け、大地には巨大な魔法陣が描かれていた。

 宙を舞う赤黒い魔鳥のような影。

 それに対峙する黒馬に跨り赤黒い筋骨隆々な肉体を持つ髑髏の王。

 蘭魔と〈死〉が激闘していた。

 牙を剥く闇色の妖糸を軽くあしらう蠍の鞭。

 踏み込もうした蘭魔が慌てて飛び退く。

 白い仮面が割れた。鞭を完全に躱し切れなかったのだ。見たところ蘭魔が押されているようだった。

 蘭魔が愁斗たちを一瞥する。

 息子の面影を持つ顔立ちだが、母に似た中性的な愁斗に比べ、逞しく精悍な顔つきをしている。歳を取っていないのか、見た目は二〇代前半で時を止めている。

 すぐにでも愁斗は飛び出したかったが、気持ちはあるものの何をするべきか迷い足が前へ出ない。

 打って変わってセーフィエルは傍観の様相だ。

「蘭魔は手強い。じゃが、この世界において〈死〉は本来の力を発揮しおる。傀儡師の召喚は、術者の技量によって何倍もの力を発揮するが、あちらの世界に召喚された時点で本来の力は発揮できておらぬ。こちらの世界で一〇とするなら、あちらの世界では一。一を二倍、三倍としたところで、微々たるものじゃ」

「それに父はこの世界では召喚を使えないのでは?」

 セーフィエルは微笑んだ。

「ほう、傀儡師が召喚で呼んでいるモノの正体に気付いたか。使えぬということはないが、多くはこの世界の住人じゃな」

 蘭魔は妖糸を足場にして飛翔するように戦い、妖糸の連撃を〈死〉に浴びせている。その攻撃の多くが一箇所に集中していることに愁斗は気付いた。

 愁斗の視線を見てセーフィエルは察した。

「蘭魔が押されている要因は単純な力の差だけ出ない。滅びていない〈死〉の手が欲しいのじゃ」

 いつだったか蘭魔が語っていた。

 ――〈死〉から奪ったその手がタルタロスに続く〈門〉を開く〈鍵〉となる。

 愁斗は驚いて声も出せず目を丸くした。背後に気配がする。一瞬にしてセーフィエルが背に立っていたのだ。

 耳元でセーフィエルが囁く。

「〈裁きの門〉を召喚できるのはワルキューレのみ。と、妾以外は思っておる。〈裁きの門〉を創ったのは妾じゃ、聖戦のあとに〈裁きの門〉を召喚できるのはワルキューレのみとしたが、実際にはその血を引く者でも召喚することができる――つまり、お主じゃ」

 セーフィエルは愁斗の腕を掴んだ。

「魔法陣は妾が描く、お主は妖糸を出すがよい」

 導かれるままに巨大な魔法陣が描かれ、異様な魔気が充満していく。

 その気配に気付いた蘭魔と〈死〉は動きを止めた。

 先に動いたのは〈死〉だ。愁斗に向かって槍を投げる。

 神速で放たれた蘭魔の妖糸が槍を弾いた。

 魔法陣が淡い光を放つ。

 大空が灰色に染まり、轟々と雲海を翔る稲妻。

 空を見上げ息を呑む愁斗。

 蘭魔とセーフィエルは微笑んでいた。

 巨大な門が曇の中から降りてくる。

 強烈な威圧感。

 その姿は傀儡館に飾られていた門と同じ。

 かの彫刻家オーギュスト・ロダンが、ダンテの神曲に触発されて創り出した地獄の門に似ているが、それよりも不気味で禍々しい。

 門に同化して取り込まれた異形たちが、今も生きてもがき苦しんでいる。

 絶叫がきこえる。号泣がきこえる。絶望的な呻き声がきこえる。

 怨念が躰を刺す冷たい風となって吹き荒れる。

 〈死〉は黒馬を嘶かせ天を駆け、〈裁きの門〉の前に鎮座した。

 静かな黒瞳でセーフィエルは天を見据えている。

「門番は絶対に〈鍵〉を渡さぬ。たとえ〈光の子〉の勅令があってもな。さて、如何様にして〈門〉を開くか?」

 難儀な顔は一切してない。妖女は微笑んでいる。

「俺様ならできるんだろう?」

 青年の声がした。

 歩いてくる人影に愁斗は怒りの目を向けた。

「生きていたのか」

「屍人に死はないぜ」

 小馬鹿にした笑みで麗慈は言った。

 威風堂々とした足取りで蘭魔が近づいてきた。

「やはりな。シュドラの内蔵をすべて掻っ捌いてやったが、手が見つからなかった。その手を使って〈門〉を開くのだ」

「ハァ? なんで俺様がそんなことしなきゃならないんだよ」

「それがお前の価値だからだ」

 蘭魔が妖糸を放つ。

 すぐさま麗慈は対抗しようとしたが、真っ先に腕が拘束されてしまった。

「クソッ……なにするつもりだよ!」

「役目を果たせ」

 操り糸によって麗慈の躰が天高く飛ばされた。妖糸が物理法則に従うなどというのは、魔人である蘭魔には無効であった。魔導を帯びた妖糸は思うがままに操ることができる。

 〈裁きの門〉に向かって飛翔する麗慈の前に〈死〉が立ち塞がる。蘭魔は麗慈を操り妖糸を放とうとしたのだが、急に顔が曇った。

「糸が切れた」

 操り糸が切れたのだ。いや、切られたのだろう。

 麗慈が自ら解放したのか?

 セーフィエルは傍観しており、愁斗とも空を見上げたまま動いていない。

 糸が切れたと気づいているのは、糸を握っていた蘭魔のみ。

 なにが起きた?

 紅い眼を燃やし〈死〉が蠍の鞭を振るおうと腕を振り上げた。

 誰ともわからぬ少年らしき声がする。

「もうちょっとなんだから邪魔するなよ」

 聞き取れた者は〈死〉とセーフィエルのみ。

 訝しげな表情でセーフィエルは麗慈を直視している。

「微かに彼奴の気配がした。彼奴も裏で動いておったか」

 〈死〉は動けなかった。

 畏怖である。

 何者かの気配を感じて畏怖したのだ。

 麗慈は〈死〉の横を掠め、巨大な〈裁きの門〉の扉に、異形の手で軽く触れた。

 重々しい扉が金切り声で叫びながら静かに開く。

 〈死〉の躰が硬化して色褪せていく。滅びが訪れようとしていた。

 筋骨隆々だった肉体は干からびて痩せ細り、骨と皮となり皹が全身に奔り砕けていく。

 天に突風が吹き荒れた。

 灰が塵と化し、黒馬だけがその場に残された。

 蘭魔が妖糸を足場にして天を翔る。その腕には傀儡紫苑が抱きかかえられていた。

 取り残された愁斗はセーフィエルを見つめた。

「お主は飛べぬのか? 〈門〉は召喚され、扉は開かれた。ここで待って居れ」

 宙にふわりと浮かんだセーフィエルは、愁斗と置いて加速して口を開いた〈門〉に向かって行った。

 ここまで来て引き返すわけにも、待っているわけにもいかない。

 まず辺りを見回した愁斗は、顔を上げてそれを見つけた。天翔る黒馬だ。

 操り糸を放ち黒馬を捕らえる。

 激く嘶き抵抗する暴れ馬に引きずられて、愁斗は躰を打ちつけられながら地面を右往左往する。

「言うことを聞け!」

 手綱を力強く引く。

 黒馬が天から落ち地面に叩きつけられた。

 さらに愁斗は妖糸を放って黒馬の四肢を拘束した。

「片手だけじゃ妖糸もろくに扱えない」

 強烈な痛みがする失われた手首を見つめる。

 それでも愁斗は妖糸によって黒馬を手中に治めた。

 動きは静かになったが鼻息の荒い黒馬に跨る。

「走れ」

 黒馬は前脚を高く上げて愁斗を振り落とそうとする。

「まだ抵抗するのか! 急いでるんだ、言うことを聞け!」

 無理矢理に操り糸を操り黒馬を走らせる。

 猛スピードで黒馬が天を翔る。

 だが、〈裁きの門〉が近づくにつれて黒馬の足が強ばり動きが鈍くなってきた。

「怖いのか?」

 強烈な威圧感。

 あの門の奥にどんな世界が広がっているのか?

 愁斗は手綱を強く握り締めた。


 天は赤く燃える曇に覆われ、赤い大地はどこまで荒れ果て、強酸と噴煙が地面から噴き出している。

 荒れ果てた死都の先にあった世界は地獄であった。

 大量の蟲たちが群れを成して空を飛び、底なしの裂け目から目玉のついた触手が伸びている。

 岩陰からは骨を砕き血を啜り肉を喰らう咀嚼音。

 遠くからきこえる咆哮は冷たい死の風を運んでくる。

 硫酸を河を越え、溶岩が噴き出す山々を越え、前が見えぬほどの猛吹雪を抜けると、氷河が広がっていた。

 最深部にセーフィエルが到着したときには、すでに人影が待っていた。

 麗慈の顔を持ちながら、無邪気で無垢な表情をする者。

「遅かったねセーフィエル」

 少年のような中性的な声だった。

「〈闇の子〉の偽物じゃな」

「ダーク・ファントムと呼ばれているね。名乗ったことはないけど。そっちも本物じゃないみたいだけど、どうしたのさ?」

「妾も今は偽物じゃ」

「なるほどね。さて、問題はこの〈タルタロスの門〉を開く方法だけど」

 二人の眼前には巨大な門が聳えていた。〈裁きの門〉と違って、質素な金属製の門である。

 ダーク・ファントムは門を軽く拳でノックする。

「ここまで辿り着くのは二回目だね。相変わらずあの子たちは守りが脆弱だよね」

「ふむ、この世界では二回目とな」

「この世界?」

「妾の本体は時間と場所を超越しておる。貴女の知る妾とは違う存在じゃ。〈光の子〉らに邪魔されずにここまで来られたのも、違う世界の介入だったからじゃ」

「これは決められた未来への予定調和といことかい?」

「否、新たな時間軸が生まれた故、まだ妾も知らぬ世界になる」

「それは愉しげだね」

 二人が会話をしていると、傷だらけになった蘭魔が足を引きずりながらやってきた。

「これが〈タルタロスの門〉か、この先に紫苑がいるのだな」

「まず一つの目の鍵だ」

 ダーク・ファントムが呟いた。

「鍵とは私のことか?」

 尋ねる蘭魔にセーフィエルが頷いた。

「そうじゃ、〈タルタロスの門〉を開くことができるのは人間のみ。リンボウで生まれた種族である人間だけじゃ。その人間が二人必要なのじゃが、妾のこの躰の持ち主はすでに人間ではない。そこにおる者も人間ではない」

「ウソをつくなよセーフィエル。人間は三人必要だ、そうやって前回はアタシをハメたんだ」

「ほう、妾は時間軸と空間が混雑しておるのでな、以前の出来事をよく覚えておらぬ」

「〈ヨムルンガルド結界〉の主である人間と結託してアタシを除け者にしたんだ。次に会ったときはお前に仕返しをしてやろうと思ってたんだけど、今は忘れてあげるから、変なマネはするな、我が娘よ」

「妾たちがやってきた世界は、帝都エデンも存在しない。故に〈ヨムルンガルド結界〉も存在しない、その主である雪兎は別の人生を送り〈聖柩〉の楔となってもいない。雪兎が楔となり、その楔が綻びたためにシオンは二度目の楔となった――筈なのじゃが、あちらの世界では雪兎が楔になってすらおらぬのに、シオンは二度目の楔となった。我が父よ、貴女はどの世界の存在なのじゃ?」

 質問をぶつけられたダーク・ファントムは唖然とした。

「なにを言ってるんだい?」

「正史から派生したいくつもの時間軸は、本来なら存在しない筈のものじゃ。派生を繰り返し広がる時間軸は、やがて運命という引力によって正史に戻ろうとする強引な力が働く。そこで世界に辻褄が合わなくなりはじめ、強引な史実が生まれることになる。全世界の改変じゃ」

「だからなにを言っているんだい?」

「今回の事変に関わる者は、時間軸の外に片脚を突っ込んで居るということじゃ。故に貴女の記憶と世界の記憶に相違が生まれた。この先にいる娘はその時間軸の娘なのかわからぬが、娘である以上は解放するのみ」

 蘭魔は深く頷いた。

「そうだ、妻を取り戻せればそれでいい」

 傍らに傀儡紫苑が佇んでいる。

 耳障りな羽音がきこえる。

 全長が人間の大人ほどある羽蟲の群れ追われながら、黒馬に乗った愁斗はやってきた。

 急に蟲たちが蜘蛛の子を散らしたように逃げ出す。黒馬も急に荒立って愁斗を振り落とした。

 愉しげに笑っているダーク・ファントム。

「二つ目の鍵だ」

 蘭魔が妖糸で網のクッションを作り、地面に激突しそうになった愁斗を受け止めた。

 〈タルタロスの門〉を開くためには人間が三人必要である。

 もう一人を今から連れてくるのは無理だろう。ダーク・ファントムは考えがありそうなセーフィエルに顔を向けた。

「当然あるんだよね、開ける方法?」

「妾を合わせて三人じゃ」

「ウソをついたのか?」

「そうじゃ、記憶が混在しておってな、一度目のような気がしておった。この躰の持ち主は心臓こそ仮初じゃが、未だ人間以外の者にはなっておらぬ」

「お前の叛逆は咎める気にもならない。アタシに似たのだと諦め赦すことにした。ちゃんと子供を赦すところが、傲慢で陰湿な××××とは違うだろう?」

 名前はうまく聞き取れなかった。

 セーフィエルは愁斗と蘭魔に顔を向けた。

「待てと言うても来るだろうと思うておった。〈扉〉を開く方法は簡単じゃ、開けと念じるだけでよい。三人が同時に承認するのじゃ」

 まずセーフィエルは扉と向かい合った。

 続いて蘭魔と愁斗。

 質素な門がぎしぎしと軋みながら開きはじめた。

 極寒の風が吹き込んでくる。

 空気が凍り結晶が煌めく。

 セーフィエルは魔導による防壁をつくり、皆の躰を凍結から防いだ。

 〈裁きの門〉とは違い呆気なく扉は開かれた。

 その先はほかの扉と同様に中を見通すことはできぬ闇。

 スキップをしながらダーク・ファントムが中に飛び込んだ。

 セーフィエルが両手を二人に差し出した。

「中は光すらも灯らぬ闇じゃ。妾の手を掴み放さぬことじゃ」

 三人も中に続いた。

 大地も空もない闇である。

 〈ハザマ〉に似ているが、そこよりも方向感覚が狂わされる。

 セーフィエルの手を握って歩いている愁斗は、前に進んでいたかと思ったら、そのまま来た道に踵を返すような感覚に陥った。

 闇の中でダーク・ファントムの声がした。

「ほら、すぐそこにアタシがいるよ」

 視覚では確認できない。

 淡い光が灯った。

 この世界で唯一の輝きだった。

 淡く輝き透き通ったホログラムのような人影が、柩の上に浮かんでいた。

 柔らかそうな羽根の生えた翼を持つ高潔そうな女。顔は愁斗によく似ていた。傀儡紫苑とは瓜二つである。

《いつかは誰かが来ると思っていましたが、まさかこのような形とは思いませんでした》

 脳に直接響く優しげだが芯の強い声音。

 悲しげな表情でシオンは三人を順番に見つめた。

「お母様はなぜ愚かなことをするのです? 蘭魔さん、私はあなたを今でも愛しています。あなたもそうなら、ここから立ち去っていただけませんか? 愁斗、一目であなたが愛しい子だとわかりました。しかし、ここはあなたの来るべき場所ではありません。私はあなたを抱きしめてあげることもできないのだから」

 蘭魔が紫苑を傍らに携えながら前へ一歩出た。

「紫苑の魂をこの傀儡に移す。それですべては元通りだ、平穏な世界が取り戻せる!」

《私が蘭魔さんの元を去ったあと、あなたになにがあったのか知りません。けれど、今のあなたは明らかに道を誤っています。母にそそのかされたのですか?》

「ふふふっ、妾はそそのかしてなどおらぬ。家族を救いたいという行動原理は当然じゃろう。着いてきた孫も同じじゃろうて」

 顔を向けられた愁斗は悲しげで苦しそうな顔をしていた。

「母さんが戻ってきてくれることは嬉しいことだと思ってた。けど、その母さんの表情を見ていたら……」

《私の気持ちを理解してくれるのは、我が子だけなのですね》

 沈痛な面持ちでシオンは俯いた。

 ダーク・ファントムがパンパンパンと手を叩いた。

「はいはいはい、キミたち家族水入らずのとこ悪いんだけどさぁ。アタシはアタシが復活できればいいわけ」

 柩に巻かれている鎖にダーク・ファントムは手を掛けた。

《やめなさい!》

 シオンの叫びと共にダーク・ファントムが後方に吹っ飛んだ。

「くっ……偽りの躰とはいえ、アタシじゃ触れられない。人の子よ、妻を取り戻したいのだろう!」

 言われるまでもない。蘭魔は妖糸で鎖を切り裂いた。

 幻影のシオンが消える。

 セーフィエルは傀儡紫苑を抱きかかえて、その中から無色の〈ジュエル〉を取り出した。

「魂[アニマ]は新たな器へ。輝ける〈ジュエル〉となりて黄泉還るのじゃ!」

 無色だった〈ジュエル〉に色が差しはじめる。

 優しく慈悲深い紅紫色に輝いた〈ジュエル〉が、セーフィエルの手によって傀儡の心の臓を収める場所へ。

 傀儡紫苑の頬が色づく。

 瞳に宿る光。

 傀儡は表情を得て、心を持つ者となった。

 彼女は哀しげだった。

「まだ遅くはありません。柩はまだ開いてはいないのです」

 蘭魔の目的はシオンの解放である。鎖を断ち切った時点でシオンは楔としての役目から解かれた。

「そこまでやっといて開けないつもりかい?」

 ダーク・ファントムは苛立つ口調でさらに続ける。

「シオンという枷がなくなった今、アタシの思念体はいくらでも外に出て暴れ回ることはできるよ。完全復活だってすぐさ。でもね、今目の前にチャンスがあるっていうのに、手をこまねいて見てるだけっていうのは腹が立つ。開けろよ、さっさと!」

 世界が急に灰色に染まった。

 天から舞い降りる九つの輝き。

 ダーク・ファントムが歯軋りをする。

「我が半身め、ワルキューレを引き連れてやってくるとは!」

 その場に抜け落ちた白い羽根を残し、白銀の甲冑を着た槍遣いの女は、刹那に移動してダーク・ファントムを串刺しにしていた。

 口から闇色の液体を吐きながらダーク・ファントムは嗤った。

「さすが特攻隊長のフィンフ。アタシですら初手は躱せなかった」

 魔弾の雨がダーク・ファントムの躰を穴だらけにした。ニ丁拳銃を構えている短髪で長身の女もまた翼を持つ。

 さらにダーク・ファントムは大剣によって真っ二つにされた。

 その柄を握っているのは軍人のようなベレー帽を被った女戦士だった。彼女の翼はほかのものよりも、美しく黄金に輝いている。

「ミカエルよ、アタシはお前のことが一番嫌いだ。熱血すぎるんだよ」

「その名で呼ぶな、私はアインだ」

 さらに大剣で薙がれ、ダーク・ファントムは十字に斬られ、泥のようになって落ちた。

 渾然と輝く六枚の翼を持つ少女は、あまりの輝きで顔を見ることができない。

「ヤツの思念体は消えた。さあ、再び〈聖柩〉を封印するよ」

 輝ける少女の言葉に応じてシオンが前へ出る。

 だが、蘭魔はそれを押し退けて前へ出た。

「断る」

 素早く動いた蘭魔は一気に柩の蓋を投げるように開けた。

「ぐあああああああっ!」

 柩の中から飛び出した〈闇の塊〉が蘭魔の体内を蝕む。

 漆黒に輝く六枚の翼。

 蘭魔の背から生えた翼が世界を覆うように広がり続ける。

 灰色だった世界が闇に染まっていく。

 フィンフが光速で攻撃を繰り出そうとした。

 が、蘭魔の長く伸びた髪が〈闇〉となりフィンフの腹を貫いていた。

 無邪気の少女の声で蘭魔が笑う。

「アハハ、光と影、どちらが早いか? 答え、影は光と共に移動する」

 もはや蘭魔にあらず、〈闇の子〉であった。

 雨のような魔弾をすべて指ではじき返す〈闇の子〉は、頭上から降り注ぐ大剣の強撃を残る片手で受け止め、さらに潰すように刃をへし折った。

 ダーク・ファントムの背後に忍び寄っていた人影が、両手に装着した鉤爪で裂くように漆黒の翼を切り刻んだ。つもりだった。

「アタシがそこにいるといつから錯覚してたのかな?」

 背中から血を噴き倒れたのはアインだった。

 巨大な機械のアームを両手に装着した白衣の小柄な少女がダーク・ファントムに殴りかかる。

「援護だアハト!」

「イエス、マスター」

 己の身長よりも遙かに長い銃身を持つ巨大な八八ミリ砲を肩に担ぐその者は、全身が機械で覆われているいるようだった。

 大きく振りかぶった機械のパンチはダーク・ファントムに躱されたが、八八ミリの魔導砲は直撃を喰らわせた。

 硝煙の中から声がする。

「痛いじゃないか」

 腹に穴を開けた〈闇の子〉だったが、すぐに修復してしまった。

 白銀の鎖が鞭のように放たれ〈闇の子〉の首に巻きついた。

 再び白衣の少女が殴りかかり、忍んでいた人影が鉤爪を振り下ろした。

 漆黒の翼が襲ってきた二人を薙ぎ払い、長く伸びた〈闇〉の髪が地面に倒れた二人を突き刺した。

 鎖を握っている女が声を荒げる。

「まだですか!」

 視線は上空。

 モノクルをかけた左右非対称の翼を持つ法衣姿の女。純白の白い翼と、漆黒の蝙蝠のような翼が大きく開かれた。

「極大魔法、ソフィアジャッジメント!」

 高く掲げられた杖が光を放ち、天から鐘の音ともに光の弾が雨のように降り注ぐ。

 光の弾は〈闇の子〉の躰を貫通しただけでなく、傷口から閃光を発しながら爆発した。さらに敵味方関係なく降り注ぐ光の弾は、地面で倒れていたワルキューレたちの傷をたちまちに治したのだ。

 躰中に穴を開けられ、蜂の巣にされた〈闇の子〉は思わず膝を付く。光の弾の傷は治りが遅かった。

 そこへフィンフが槍を投げた。

「グングニール!」

 誘導弾のように飛ぶ槍は〈闇の子〉の胸を背中から射貫いた。

 無邪気に笑う少女の声。

「きゃははは、キミたちと遊ぶのは本当に楽しいよ」

 槍を両手でしっかりと掴みながら〈闇の子〉は立ち上がった。

「グングニールは標的を絶対に外さない。そして、自動で投げた者の元に帰っていくんだよね。このまま引き寄せてみる?」

 槍は胸に刺さったまま握られている。

「それがお望みなら!」

 フィンフは槍を素早く引き寄せた。だが、槍が持ち主の元へ戻る間に立ちはだかる白衣の少女。

「喰らえミョルニル!」

 灼熱で赤くなった金属アームから繰り出される強烈な拳が〈闇の子〉を殴り飛ばした。

 さらに躰を半壊させながら後方に飛ばされた〈闇の子〉を大剣が一刀両断した。

 躰を半分にされながら、〈闇の子〉は愉快に笑っていた。

 笑顔の眉間や開かれた口に魔弾が乱射され、下半身は魔導砲によって吹き飛ばされた。

 吹き飛んでそこら中に散らばった四肢には人影が杭を打ち込み固定した。

 〈闇の子〉はすでに頭部を再生していた。

「あと何百時間くらい続ける?」

「もう終わりにします」

 シオンが手で〈闇の子〉の口を塞いだ。

 再生が止まった。

 それも束の間であった。

 〈闇の子〉がシオンの手を噛み千切ったのだ。

 仰け反りながらシオンが身を引き、〈闇の子〉は何事もなかったように立ち上がった。

「キミの能力が一番厄介だ。触れたものに死をもたらす。正確には急激に老化させる能力だよね。普通の生物なら刹那のうちに死ぬから、老化とか関係ないけど。アタシの場合は死と再生が拮抗して再生が止まったようになる」

 杭を打たれ散らばっている四肢を〈闇の子〉は見た。

「キミの細胞が練り込んである杭だね。ああやって少しずつアタシの躰を千切っていく気?」

 〈闇の子〉は髪の毛を鎌にしてシオンに振り下ろした。

 が、刃がシオンの首にかかる寸前、震えながら止まったのだ。

 わずかに〈闇の子〉の顔が強ばった。

「人間とは思えない精神力……抵抗しているのかな?」

 〈闇の子〉は躰を動かそうとするが、震えるだけで足を一歩前へ出すこともできない。

 冷や汗を流しながら愁斗がシオンに駆け寄って肩を抱いた。

「母さん、逃げよう」

「ごめんなさい」

 シオンは愁斗を優しく抱きしめ包み込んだ。

「母さん」

 息子の顔をまっすぐに見つめ、シオンは凜と立ち上がった。

「封印するまで終われない」

 〈闇の子〉は溜息を落とした。

「封印なんてものは意味がないんだよ。ちょっと一眠りするに過ぎないし。それに、この戦いだって永遠に決着がつかない。そもそもアタシが滅びれば半身だって滅びるだけだしさ」

 〈闇の子〉から出でし地を這う〈闇〉がワルキューレたちを捉え制圧した。

「本気を出せば瞬きしてる間に終わるんだ」

 四肢を拘束され、口を塞がれたワルキューレたちは、抵抗もできず地に磔にされてしまったのだ。

 しかし、その中で拘束できぬ者たちがいた。

 〈闇〉を切り裂く愁斗の妖糸。そして、愁斗に守られるシオンであった。

 〈闇の子〉の髪が槍となって愁斗を突き刺そうと迫ったが、妖糸と激突するや弾け飛んでしまた。

「なるほどね、厄介な武器だ。ワルキューレたちの〈光〉じゃアタシには勝てない。けど、〈闇〉同士なら相殺してしまう。水に水を混ぜても水だけど、水鉄砲と滝だったらどっちが勝つかな?」

 漆黒の翼が世界を覆う。

 辺りの全てを〈闇〉で呑み込むつもりだった。

 だが、空は燦然と輝いていた。

「ねえ我が半身よ、再び眠ってはくれない?」

 戦いを上空から見守っていた金色の少女が諭すように口を開けた。

 〈闇の子〉は顎をしゃくって不満そうな顔をした。

「イヤだ。そろそろそっちが封印されてくれないかなぁ?」

「世界は急激な変化を求めてない」

「はじめは急激な変化と思えるかもしれない。けどさ、〈光〉が世界を支配しても、〈闇〉が世界を支配しても、時間が経てば今と同じになるってことぐらい知ってるよね? 知っててアタシと交代しないのは、お前が傲慢なだけだ」

「それが悪い?」

 金色の少女が急降下しながら、一二の翼を模った中心で宝玉が輝くロッドから稲妻を落とした。

 〈闇の子〉は稲妻を軽く振り払って打ち返すと、落ちていた大剣を拾い上げてから、地を蹴り上げ飛翔した。

「義体じゃ相手にならない」

 ロッドを振り下ろそうとしていた金色の少女の胴体が真っ二つにされた。

 硬く重い音を立てながら金色の少女の残骸が地面に激突した。その切断面から内部が金属製の作り物だとわかった。

 転がる残骸の頭部を目掛けて〈闇の子〉は蹴りを放った。

 びくともしなかった。

「これだけ硬くて重い物体をよく斬ったよね。アインがスゴイんじゃくて剣がスゴイんだね」

 大剣を投げ捨てて〈闇の子〉は愁斗たちに近づいた。

「あのさ、アタシはしばらく身を隠そうと思うんだ。半身にちょっかい出されるのもめんどくさいし。あとね、将来的にめんどくさいことになりそうなキミたちも殺しておこうと思うわけ」

 にじり寄る〈闇の子〉はふと足を止めた。愁斗が天に向かって手を動かしていたからだ。

 宙に描かれた奇怪な魔法陣が輝き出す。

 〈それ〉は愁斗の合図を待たずして、魔法陣を突き破って巨大な手が伸び〈闇の子〉を鷲掴みにした。

「我が眷属じゃない……お前は!?」

 子供が癇癪を起こしたように、巨大な手は何度も〈闇の子〉を地面に叩きつける。

 〈闇の子〉から硝子片が飛び散るように〈闇〉が剥がれる。

「やめろ、放せ!」

 魔法陣から出てきた残りの手が〈闇の子〉の頭部を握りもぎ取った。

 ぐちゃり。

 不気味な音を立てて巨大な手の中で何かが潰された。

 放り投げられた残りは、足から地面に着地して、瞬時に頭部を生やした。

「痛みはあるんだよ?」

 〈闇の子〉は近くにあった槍を拾って投げた。

「行け、グングニール!」

 槍は巨大な手のひらを貫き、もう片方の手の小指を斬り飛ばした。

 傷口から〈灰〉を噴き出しながら両手が魔法陣へ還っていく。

 〈闇の子〉が無邪気に微笑む。

「もっと遊ぼうよ、〈混沌〉ちゃん。なんなら混沌王が相手でもいいよ。あー、還っちゃうわけ?」

 魔法陣が消えた。

 再び〈闇の子〉がにじり寄ってくる。

「次はなにして遊ぼうか?」

「……っ」

 愁斗は大量の汗を流した。

 勝てる気がしないのだ。

「逃げる方法は思いついた?」

 尋ねる〈闇の子〉は余裕だった。

 再び愁斗は魔法陣を描いた。

 その魔方陣はまるで巨大な網のようであった。いや、それは巣であった。

 〈それ〉は汚らしい嗚咽を漏らし、この世に巨大な蜘蛛の怪物を生み出した。

 愁斗が呟く。

「すまない」

 巨大な蜘蛛は糸を吐き出し〈闇の子〉を簀巻きにした。

 愁斗がシオンの手を取る。

「今は逃げよう!」

 だが、それを無理だった。躰を糸で巻かれた程度で〈闇の子〉の自由は奪えない。

 〈闇の子〉の長く伸びた髪が矢のように放たれ大蜘蛛は六つの眼を射貫かれ絶叫した。まるでそれは女の叫び声だった。

 蜘蛛の糸を引き千切って〈闇の子〉は脱出すると、大蜘蛛だった者の正体を見た。目から血を流しのたうち回っている和装の女。それはかつて愁斗と契約を交わしたお紗代という蜘蛛の化身であった。

「無駄な抵抗をするからイケナイんだよ?」

 するなと言っているのではない。逆に抵抗されることを楽しんでいるようだった。

 しかし、抵抗しようにも愁斗は手詰まりだった。

 シオンが愁斗を押し退けて前へ出た。

「愁斗は逃げなさい。私が時間を稼ぎます」

「時間を稼げると思ってるわけ?」

 挑発する〈闇の子〉の頭上で声がする。

「もう十二分に稼いだぞ」

 玲瓏たる声音。

 空に浮かぶ月のような微笑み。しばらく姿が見えなかったセーフィエルだった。

 そして、月には太陽が寄り添っていた。

 燦然と輝く六枚の翼からフレアを放出させる成熟した女。顔は輝きでよく見えない。

 〈闇の子〉はにっこりと笑った。

「寝坊かな?」

「目覚めてからここに来るまでに時間がかかった」

 凜と気高い声で女は答えた。

 天は輝き澄み渡り、地は暗く沈んだ。

 シオンは愁斗を抱きしめた。

「二つの存在がぶつかり合えば世界に大きな爪痕を残すことになります。私たちも衝撃の余波で消滅するかもしれません。だから、最期に……」

 涙を浮かべるシオンは愁斗の頬に手を当てて、優しく優しく声を出そうとした。

「あ…い……」

 〈光〉と〈闇〉が激突した。


 運命の糸が縺れ合う。

 夢幻の世界を漂っていた愁斗は糸を掴んだ。

 糸を手繰り寄せながら、運命を探す。

 〈光〉と〈闇〉の激突。

 灼熱のマグマに転落した撫子の映像がリフレインする。

 集中治療室で意識を失ったまま石化した亜季菜も視えた。

 白蛇の隼人と復讐の炎に身を包んだ麻耶。多くの傷痕を残した。二人の記憶を消してしまうことは容易いが、愁斗の罪悪感は消えることがない。

 いつもの日常。学園の教室で、××が笑いかけてきたが、顔はのっぺらぼうで、だれだかわからない。

 世界に変化が訪れた事件。多くに人々が龍神を目にした。首謀者の一人だった真珠姫は歪んだ表情で呪詛を吐き捨てながら〈向う側〉へ連れ去られた。

 紫苑に向けられたリボルバーの銃口。ヴァージニアが撃った怨霊呪弾が泣き叫ぶ。あの事件以降、彼女の噂を耳にしない。

 腕から流れる血を瀕死の海男に傷口に塗り込む瑠璃だったが、命を救うことはできなかった。残された伸彦に愁斗は嘘をついた。愁斗がついた初めての心ある嘘だった。

 蒼白い顔をしたお紗代の命は尽きようしていた。だが、彼女は愁斗と契約を交わすことで傀儡となる運命を選んだ。彼女の想いを愁斗は利用した。

 組織は自分よりも年下の少年を送り込んできたこともあった。あのころの愁斗は人の心がまだよくわからなかった。冷酷な傀儡師は、なんの罪もないいたいけな同級生をも殺した。

 人の心を知りたかった。そのためには人の生死など構わなかった。狂科学者の実験と同じだ。女子中学生たちを操り、愛、復讐、恐怖など様々な感情を観察した。〈ジュエル法〉の実験も重ねていった。

 母の墓前に××を連れて行った。唇に残る感触。顔がよく思い出せない。

 未完成の城は少年の象徴。彪彦によって沙織は雪夜に抱いた気持ちも消されてしまった。友人達である久美と麻衣子の記憶も消された。けれど起きたことは改変できない。故に歪みはひしひしと広がっていったのだ。

 麗慈とは何度も妖糸を交え、奴は何度も何度も蘇った。なぜそこまで自分に執着するのか、愁斗には理解できなかった。最後はダーク・ファントムに乗っ取られた。いや、麗慈はとっくにいなかったのかもしれない。彼の執念だけが世界に残っていた。

「……スゴク、寒いよ……死ぬのかな……私」

 声がきこえたが、その声の持ち主はわからない。

 ただ、禁じられた契約を交わしたことだけは覚えている。

 混濁する記憶。

 愁斗は過去の出来事を思い出しながら、大切なものを忘れていった。

 今視たばかりの過去もすべて忘れてしまった。

 自分が傀儡師だったことも忘れた。

 連れ去られ組織で過ごした過酷な日々も忘れた。

 思い出そうとも思わない。はじめから覚えていないのだから、なにを忘れたことすら忘れてしまった。

 記憶の断片。

 愁斗はほかの糸を掴んで手繰り寄せる。

 その先の記憶とは?


 見開かれた愁斗の瞳に映る光景。

 リビングのテレビに映っているバラエティ番組。ついさっきまで家族の笑い声が響いていた部屋。今は母の叫び声が響いていた。

「何者なのあなたたち!」

 サングラスの女が答える。

「D∴C∴ですよ。今宵は貴女ではなく蘭魔さんに用がありまして」

「俺に用があるなら妻と息子は関係ないはずだ」

 蘭魔は手足を石化されていた。

「キャハハハ、こんな男に手こずっていただなんて、わたしとお兄様の手にかかれば楽勝だったわ」

 見たことのある女だったが愁斗は思い出せなかった。

 マントのついた魔法衣を着た兄と呼ばれた男は、傲慢な表情で腕組みをしていた。

「当たり前だ。人形遣いなどただの子供だまし」

 この男も見覚えがあったが思い出せない。

 紫苑は身構えていた。母である前に彼女はワルキューレだった。隙さえあれば事を起こすつもりだ。

 サングラスの女は首を横に振った。

「お止めなさい。お子さんの回りをよく目を凝らして見てください」

 細い細い糸が張り巡らされていた。気付いた紫苑は振り向いて叫ぶ。

「愁斗、絶対にそこから動いては駄目よ。絶対よ!」

 傀儡師の妖糸だと愁斗にはすぐわかった。いや、当時にはわからなかった。今ならわかる。

 魔法衣の男は顎をしゃくった。

「そこにおる亡霊が張った罠だ」

 部屋の片隅にボロ布を羽織った人影が立っていた。

 蘭魔が声を荒げる。

「これは傀儡師の業だ。我が一族は俺と愁斗のみ、どんな手品を使いやがった!」

「手品とは失敬な。私の召喚術で傀儡師の霊を召喚したのだ。口は聞けぬようだし、どの時代の者かもわからぬが、余興として貴公と戦わせるために喚んだのだ。なのにあっさりと捕まりおってつまらぬわ」

「お兄様ったら、それはわたしたちが強すぎたせいよ」

 間髪入れずに蘭魔が反論する。

「おいおい、まだ戦ってもないだろう。奇襲で襲われて捕まっただけだ。もう一度はっきりと言ってやるが、戦ってはない」

「キャハハハ、負け犬の遠吠えね」

 高らかに女は嘲笑った。

 注目を引くようにサングラスの女は手を何度か叩いた。

「はいはい、まだ任務の途中ですよ。おしゃべりはあとにして蘭魔さんを組織に連れ帰りますよ」

「俺をどうするつもりだ?」

「貴方の〈闇〉を使役する力と召喚術が組織に必要なのですよ」

「敵対するのをやめて仲間になれと? 断る」

「でしょうね。メディッサさん全身を石化させてください」

「ええ、悦んで」

 メディッサ?

 そう、この女は若いころのメディッサ。傍らの魔法衣を着た男はゾーラ。

 サングラスの女も見たことがある気がするが、勘違いかもしれない。

 メディッサの眼が妖しく輝き蘭魔は口を開けたまま石化してしまった。

「蘭魔さん!」

 床を蹴って蘭魔の元へ駆け寄ろうとした紫苑の目の前に、サングラスの女が立ち塞がる。紫苑は手に魔力を込めてサングラスの女の頬に触れた。

 刹那に老化して死に至るはずであった。

 だが、サングラスの女は不気味に微笑んでいる。

「義体には効果がないようですね」

 サングラスの女は手に装着していたくちばしのような鉤爪で紫苑の腹を抉った。

 傷ついた腹を両手で押えながら、紫苑はよろめき後退る。

 愁斗は叫ぼうと思った。

「か……・」

 声が出せない。それどころか指一本動かせなかった。傍観することだけはできた。

 この世界には現実味がなかった。

 流れていくだけの映像。

「動いては駄目、なにがあっても絶対」

 けれど、母の痛みだけは伝わってきた。

 紫苑は愁斗を見つめている。

 サングラスの女は見た目に似合わぬ怪力で、いとも簡単に蘭魔を持ち上げ肩に担いだ。

「行きましょう」

「ノインと子供は始末せぬのか?」

 ゾーラが尋ねる。

「ノインさんを殺せば〈光の子〉たちが黙っていないでしょう。子供は組織に連れて帰って蘭魔さんにいうことを聞かせる人質にしましょう。そうそう、家には火を放っておいてください」

 ゾーラは顎をしゃくって傀儡師の亡霊に合図を送った。

 張り巡らせていた妖糸の罠が解かれ、傀儡師の亡霊は愁斗の腕を掴んだ。

「愁斗から手を放しなさい!」

 腹を押えながらうずくまる紫苑の必死な叫び。

 メディッサは高笑いをしながらカーテンを引き千切り、コンロの火にかけていた。

 舞い踊るメディッサは火種を手にして、部屋のあちこちに火を点けて廻る。

「キャハハハ、美しい情熱の色だわ」

 蘭魔を担いだサングラスの女が部屋を出て行こうとしている。その後ろ姿を紫苑は見ていることしかできなかった。もし蘭魔を助けようとして、石化している躰が破壊するようなことがあったらと考えると飛びかかることもできない。

 同じく愁斗も見ているだけだった。

 愁斗は自分の小さな片手を見つめた。まだ四歳になったばかりで、妖糸を出すことすらできない。無力な子供しかないのだ。

 火の手が早い。今から消化をするのは難しいだろう。早く家の外へ逃げなければ。

 部屋から玄関に向かいながらメディッサは火と点けていった。

 ゾーラが部屋の外へ出るのに合わせて、傀儡師の亡霊も愁斗を引きずり出て行こうとする。

 静かに紫苑は腹から手を放した。

 振り返った愁斗は涙を流しながら母を見つめた。

 紫苑は飛翔していた。傀儡師の亡霊に飛びかかる寸前、ゾーラの手から鎖が放たれた。

 鎖は紫苑の首を絞め上げ、そのまま床に叩きつけた。

 床にうつ伏せになった紫苑をゾーラが見下す。

「腹の傷が浅かったか。足の一本で切り落としておくか。やれ」

 と、ゾーラは顎をしゃくって命令した。

 傀儡師の亡霊が妖糸を放とうとしている。

 愁斗は声が出なかった。

 母の足が切り落とされようとしている。

 愁斗は躰が動かせなかった。

 傀儡師の亡霊が妖糸を放った。

「母さん!」

 叫んだ愁斗の手から一筋の輝線が趨った。

 幼子の業とは思えぬ一撃は、傀儡師の亡霊が放った妖糸を切り落とし、さらにその先にいたゾーラの手首を落としたのだ。

 鎖を握っていた手が床に転がり、激昂したゾーラは腰から短剣を抜いた。

「おのれ小僧!」

 短剣の切っ先が柔らかい愁斗の腹の肉を刺し、抉るようにして突き上げられた。

 愁斗の口から鮮血の泡が零れる。

 我が子の悲惨な姿を見て、逆上した紫苑はゾーラの口を鷲掴みにした。

 眼を見開くこともなく、声をあげることもなく、ゾーラは急激に老衰で死亡すると、瞬く間に塵と化した。

 紫苑は青ざめた愁斗を膝に乗せ、腹の短剣を抜き取ると血の噴き出す傷口を力強く押えた。

「死なないで愁斗、お願いだから……生きて……」

 温かい涙が降り注ぎ、愁斗の頬を濡らしていく。

「愁斗……しう……し……で……」

 母の声が遠く掠れていくのを愁斗は感じた。

 視界もぼやけて、世界が遠くに行ってしまいそうだった。

 母の温もりを感じる。

 とても温かい母の温もり。

 もうまぶたが重くて開けていられない。

 悲痛な母の顔。

 天井。

 そして、般若面の男がこちらを見ていた。

 ――愁斗は死んだ。


 愛する我が子を失った紫苑はワルキューレを脱退して姿を眩ませた。

 裏社会ではD∴C∴の構成員が謎の失踪を遂げるという事件が多発した。

 その中にはメディッサという幹部候補だった蛇眼使いも含まれており、それが引き金となったのか、次期首領と目されていたシュドラ派は失脚。その混乱に乗じて組織内でクーテターが起る。

 少数派閥だった影山派が新たな組織D∴O∴ダーク・オブ・タルタロスを結成。首領となったのはクーデターの際に、シュドラを殺害した深紅の悪魔と呼ばれる傀儡師だった。

 それから数年が経ったある日、東京が死んだ。

 生き残った人々は天使と悪魔の全面戦争を見たという。

 黙示録、アルマゲドン、ラグナロク。

 世界の終末だと無宗教の者たちまで神に祈りを捧げた。

 〈神〉は自衛隊を壊滅状態に追い込み、アメリカ軍にも多大な被害を与えた。

 アメリカは核弾頭を搭載したミサイルを異界と化した東京に向けて発射。

 ミサイルは東京上空で謎の〈闇〉に覆われ消失。レーダーからも完全に消えた。

 それから一時間もしないうちに、アメリカの首都ワシントンがホワイトハウスを中心に地図上から消失。死者は少なくとも六万人、一〇万人以上が犠牲になったと云われているが、アメリカの混乱により正確な数は把握できてない。

 〈神〉は中国、ロシア、EUに総攻撃を仕掛け、軍事機能を麻痺させた。

 経済、物流、人々の生活は困窮した。

 各地で強盗や殺人などの事件が多発。

 人と人が物資を奪い合い殺し合いをはじめた。

 世界は急速に混乱していく。

 〈神〉はアジアの東の果てに神の国を建国。人々からは千年王国と呼ばれることになる。

 千年王国の市民になれるのはごく一部の人間のみ。そこは悩みも苦しみもない至福の世界だと云われているが、鎖国状態にあるために実情は把握できない。

 〈神〉は建国以来、猛威をふるうことなく黙している。大戦は終結したが、世界は荒れ果てたままだ。人間同士の紛争や戦争は続いている。

 人間という存在は宇宙から見れば小さき存在である。

 四六億年もの地球の歴史を一年三六五日に換算してみると、人類の歴史など大晦日の出来事に過ぎない。宇宙から見れば刹那であろう。

 死ぬはずのなかった者がたった一人いなくなっただけのことだった。

 シオンは〈聖柩〉を封じる楔にならなかった。

 蘭魔は楔になったシオンを助けようとすることもなかった。

 息子が蘭魔と同じ道を歩むこともなかった。

 セーフィエルが叛逆するこもなく、アリスが死亡することもなく、〈ジュエル〉の研究も行なわれない。

 〈般若面〉の姉妹が復讐人になることもなく、叔母である炎術士が姉の敵討ちをすることもなかった。

 〈般若面〉がとある傀儡師の手に渡ることもなかった。

 とある傀儡師の子である双子も産まれなかった。

 そして、愁斗が××に出逢い愛することもなかった。


 縺れ合う運命の糸。

 愁斗の手には一本のか細い糸が握られていた。

 懸命に手繰り寄せる。


 火の手が廻り、煙が辺りに立ち籠める。

 ゾーラが部屋の外へ出るのに合わせて、般若面の傀儡師も愁斗を引きずり出て行こうとする。

 静かに紫苑は腹から手を放した。

 振り返った愁斗は涙を流しながら母を見つめた。

 紫苑は飛翔していた。般若面の傀儡師に飛びかかる寸前で躰が拘束され床に叩きつけられた。不可視の妖糸で拘束されてしまったのだ。

 ゾーラが踵を返して床にうつ伏せになった紫苑を見下す。

「腹の傷が浅かったか。もっと抉ってやろう」

 うつ伏せの紫苑を転がし、仰向けにさせると、腰から抜いた短剣を高く振り上げた。

 愁斗は声が出なかった。

 母の腹が抉られようとしている。

 愁斗は躰が動かせなかった。

「母さん!」

 やっと上げた叫び声。

 しかし躰はまったく動かなかった。そう、まるで糸で拘束されてしまっているように――。

 短剣が腹の肉に突き立てられた。

 紫苑の口から黒い鮮血が吐き出された。

 さらにゾーラは短剣を掻き回すように動かした。

「このくらいやっておかねば、貴様らはすぐに回復してしまうからな」

「アアアッ……ガ……あががっ」

 声にもならないくぐもった叫び。

 紫苑は眼を白黒させて躰を小刻みに痙攣させた。

 血に河が愁斗の足下まで流れてきた。

 幼子の心に大きな傷を残す出来事。

 冷淡な表情をするゾーラの顔。

 なぜ忘れてしまっていたのだろう?

 あまりの出来事に記憶から消されてしまっていたのだろうか?

 短剣を抜いて立ち上がったゾーラは、般若の傀儡師に向かって顎をしゃくった。

「連れて来い」

 風のように立ち去るゾーラ。

 愁斗は般若面の傀儡師の手を振り払い、血の海で横たわる母の傍に膝をついた。

 言葉はかけられなかった。

 ただ涙が止めどなく零れ落ちた。

 震える紅い繊手が愁斗の頬に優しく触れた。

「泣か……ないで……このくらい……死なないわ」

「お母さん……うっ、ううっ」

 母に寄り添う愁斗を般若面の傀儡師が押し退けた。

「死んでもらわねば困るのだ」

 般若面の傀儡師は片膝をついて、その面に手をかけた。

 背後から愁斗が襲ってくる。

「うあああああああっ!」

「大人しくしていろ」

 妖糸が愁斗の四肢に巻き付き、簀巻きにされて床に倒れた。

 面を外した傀儡師を紫苑が見つめ合う。

「あなたは……そんな……」

 驚きのあまり目を丸くして紫苑は言葉を詰まらせた。

 紫苑は般若面の傀儡師の素顔になにを見たのか?

 愁斗からは背中しか見えない。

 幼き息子にしたように、紫苑は男の頬に触れた。

「あなたは……違う道を歩むと思っていたのに……」

「子供もいます。男の子と女の子の双子です」

「しあわせなの?」

「いいえ、残念ながら。ですが、未来は明るいと信じています」

「そのために戦っているのですね」

「……はい」

 俯きながら男は小さく返事をした。

 しばらくの沈黙。

 重々しい空気が流れていた。

 部屋中で炎が揺らめいている。

 先に口を開いたのは紫苑だった。

「私は死ななくてはならないのですね?」

「…………」

「そうしなければならないのでしょう?」

「……はい。ですが、肉体的な死です。魂は〈聖柩〉を封じる楔となってもらいます」

「寂しくなりますね。幼いあの子は辛い思いをするでしょう」

「想像を絶するほどに過酷な運命を辿ります。ですが、あなたとは必ずまた逢えます」

「ほかの道はないの? いいえ、あなたが信じる道ならば、わたしも信じましょう」

 紫苑は静かに瞳を閉じ、男は般若面をかぶった。

「あなたにこんなことをさせてしまって、本当にごめんなさい」

「……僕こそ」

「いいのよ、ひと思いにやって」

「……はい」

 妖糸が紫苑の胸を開き、素早く般若面男は心臓を鷲掴みにした。

 死に至る激痛。

 紫苑は強く瞳を閉じて歯を食いしばる。決して目は開けない。今はなにも見てはいけない。

 般若面の隙間から一筋の雫がこぼれ落ちた。

 心臓が引き千切られ取り出された。

 強靱な心臓を躰から引き離されても脈打ち続けている。

「ごぼ……うっ……こんな姿だけれど、幼いあの子にお別れを……言わせて」

 血の塊を吐きながら紫苑は血の気を失っていく。

 般若面の男は愁斗を拘束していた妖糸を解いた。

 すぐさま愁斗は立ち上がり紫苑の元へ駆け寄る。

「ううっ、母さん……死なないで……なんで……」

 紫苑は両手を伸ばして愁斗を力強く抱きしめた。

「……ごめんなさい……愛してる」

 真っ赤な血に染まりながら、肌はとても白く美しく、笑顔は陽の光のように優しかった。

「うああああああぁぁっ!」

 母の死に慟哭した。


 そして、傀儡師紫苑は産まれた。

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