草稿
「それが君のお母さんのシオンだよ」
病室でシグレは愁斗にそう伝えた。
「母さんは何者なんだ? それからどうなった?」
「彼らは天使だとか堕天使だとか、妖魔だとか鬼だとか、神話や伝承によって呼ばれ方や姿はさまざまだけど、人間より高次元の存在だよ。ナメクジと人間、人間と彼らって感じで」
「僕には人間の血と、そうじゃない者が血が流れているってことか……実感はないけど、妙に納得はできる」
流れる血は赤い。姿形も人間と寸分も変わらない。蘭魔から受け継いだ傀儡師の力だけではなかった。
シグレが話を続ける。
「ボクはしばらくの間、シオンと融合していたんだ。そのときに彼らの知られざる知識を得たんだけど、分離したときに多くを忘れちゃったんだよね。ボクには荷が重いから、そのほうがいいんだけど。ただ、この力だけは残ってる」
病室の気温が一気に氷点下まで下がり、吐く息が白くなった。
「シオンが長い間、魂をも凍てつかせる場所に幽閉されていたんだ。〈闇の子〉と呼ばれる存在を封じ込める楔としてね」
「〈闇の子〉? もしかして、それは魔導の根源……」
「エネルギーソースだね。意思をもった高次元の存在、キミが行使する〈闇〉は彼女から力を借りている。彼女たちのことは知識から消えてしまって、よく覚えていないんだけどね」
悠香が話に割って入る。
「私は〈闇の子〉を種族として捉えてるわ。ヒトが生まれる前から、この世界のピラミッド構造の頂点に立つ種族。高次元の存在だけれど、全知全能ではない。それでも彼らは太古から神として語られてきた。伝承や伝説には元となったエピソードが存在するものもあるわ。〈闇の子〉が元となったエピソードは天界での叛乱ね」
なぜ、その天使は神である父に叛いたのか?
「神話は真実ではないわ。似たような出来事をモチーフとした話もあるというだけ。〈闇の子〉が地上に堕とされたときには、まだ人間は存在してなかったもの。彼らはもっと原初の時代から、地球およびその周辺宇宙に干渉してきた。地球だけの出来事で代表的なものは、ムーだとかアトランティスだとか、そうね、身近なところだと近代の都市インフラとか大統領選挙かしら。人間が知能をつけてからは、あまり表舞台には立たなくなってきたみたいね。歴史のフィクサーってところかしら」
「ボクの話に戻していいかな?」
「あら、ごめんなさい。どうぞ話を続けて」
悠香は口を閉じ、再びシオンが話を続ける。
「詳しい長話はまた今度にして、蘭魔のせいで〈闇の子〉の思念体が世界に漏れたんだけど、どうにか封じることに成功してシオンは自由の身になって、しばらくはD∴C∴も弱体化して平和だった。そのときにシオンと蘭魔の間にキミが生まれたわけなんだけど、弱体化したとしても残党は狂信者ばっかりで、蘭魔やシオンに怨みを持つ者も多かった。どうなったかは、キミが知ってるからボクは語らないよ」
幼いころの記憶。
D∴C∴の襲撃事件。
目の前で母が殺された。
眼を開いたまま愁斗は口を強く結んだ。閉じればあのときの光景が蘇ってしまう。
なにも言わない愁斗を目にして、シグレは話を続けることにした。
「ただボクが聞いた話と、事実は違うってところが1つだけあるんだ。これは確証を持っていえることなんだけど……」
間を置いてから、ゆっくりと口が開かれる。
「シオンは生きてるよ」
「…………っ!?」
驚きを隠せなかった愁斗。
「バカな、母さんは僕の目の前で刺されて死んだんだ」
心配しないで――と言わんばかりの微笑みを浮かべた母の胸は刃によって貫かれていた。
「人間のように死ぬことはないよ。肉体が滅びるだけ、彼女たちにとって肉体は乗り物のようなものだからね。でも、D∴C∴だってそんなことはわかってるから、本気でやる気なら魂を消滅させるだろうね。でも、そうはならなかった」
病室の気温がさらに下がった気がした。
「あるときを境に、凍てつく感覚が戻ってきたんだ」
シグレの周りの大気が凍りつき、キラキラと輝き宙を漂っている。
「分離したあともボクはシオンの影響下にあるらしくてね。わかるんだ、シオンは再びあの場所に幽閉されてる。このごろひどく胸がざわめくんだけど、きっとそれもシオンの魂がなにかの前触れを感じてるせいだ」
今日1日の出来事で愁斗の頭は混乱させられていた。
翔子、蘭魔、紫苑。
なにひとつ解決しないままに、次々おこる出来事に頭を殴られるような感覚。
翔子のイジメからはじまり、D∴C∴の襲撃、巻き込まれる友人たち、父――蘭魔とおぼしき者が現れ、翔子がどこかに消え、この病室で母が生きていることを聞かされた。
「母さんはどこにいる?」
掴みかかりそうな勢いで愁斗はシグレに詰め寄った。その眼は相手に後退りをさせそうだったが、シグレは動じなかった。
「場所はたぶん〈聖柩〉がある場所だと思うけど、行き方がわからない。異世界の〈門〉を開ける必要があるのはたしかだけど」
シグレは愁斗の握った手を一瞥して言葉を続ける。
「今、妖糸で空間を斬ろうと考えたかもしれないけど、そこは〈聖柩〉がある場所じゃないからね、もっともっと深い場所にある世界だから。異世界は無数に存在しているし、キミが行き先を選んで空間を空けられるとも思えないし、入ってみて違った異世界に行っちゃった場合、こっちの世界に還ってくるだって、特定の〈門〉をちゃんと選んで開かなきゃいけないんだよ。砂漠の砂なの中から、特定の砂粒を見つける奇跡を2回も起こさなきゃいけないんだ」
「じゃあ、どうすればいい!」
「正規の〈門〉を通ればいいけど、1つ目の〈門〉の場所がわからない。ボクは昔、その〈門〉を通って〈タルタロス〉の手前まで行ったことがあるけど、その〈門〉は蘭魔が開けたものだったし、ほかに召喚式の〈裁きの門〉っていうのがあるんだけど、それは彼女たちしか召喚できないし、絶対に協力してくれないと思う。シオンが再び幽閉されているとしたら、それは彼女たちの仕業だからね」
「彼女たちとは?」
「〈闇の子〉に対を成す者と眷属たちだよ。〈光の子〉って呼ばれてるけど、正義の存在ってわけじゃないよ。そのあたりは知識を失ったボクより悠香のほうが詳しいけど」
シグレが目を向けると悠香が話を続ける。
「どちらも堕天使よ。神に叛逆して〈リンボウ〉に墜とされた。かつて〈光の子〉と〈闇の子〉は1つの存在だったらしいわ。そのときの名前は忘れ失われてしまったけれど、〈リンボウ〉――ああ、私たちの世界のことよ、ここに堕とされたあとはルシファーとサタンと呼ばれるようになったわ。かの神曲の中でサタンが氷の中に閉じ込められている話があるけれど、〈闇の子〉の実話が元になっているのかもしれないわね」
かの神曲とは、ダンテの神曲で神に叛逆して地獄の底で下半身を氷付けにされている魔王のことだ。
悠香は不愉快そうな表情で溜息を落とした。
「ルシファーとサタンは元は同じ存在だったくせに、仲が悪くてこの世界の覇権を争っているのよ。人間はその抗争に巻き込まれ、ときには代理戦争もやらされてきたわ。そう、キミもそれに巻き込まれたわけよ。蘭魔を父に持ち、紫苑を母に持つ、巻き込まれるために生まれてきたようなサラブレットね」
愁斗に睨まれた悠香はまったく動じていない。
「気を悪くした? でも運命からは決して逃れられないのよ。アタシだって蘭魔と出会ってしまったばかりに、運命に囚われてしまったのだから」
「父さんと会ったことが?」
「あら、知らなかった? アタシと〝乱麻〟君は中学からの知り合いよ」
父の中学時代。今の自分と同じ中学生だったころの父親の姿など、まったく想像もできなかった。人は誰しも子供を経て大人になる。どんなであれ、子供時代というものがあるはずなのだ。
「乱麻君は明るくてやんちゃな子だったわ。雰囲気でいうとキミにはぜんぜん似てないわね、面影はあるのに」
「彼は紫苑似だと思うよ。顔の話ね」
シグレや悠香は愁斗の知らない父や母の姿を知っている。父でも母でもない別の顔を知っているのだ。
聞きたいことが山ほどありすぎて、なにから聞いていいのか愁斗がわからないでいると、悠香が話を続ける。
「アタシたちもはじめはただの少年少女探偵団だったのよ。怪奇クラブからはじめたことが、今じゃこんなことになっちゃったのは、乱馬君が真物[ホンモノ]だったせいね。とある些細な事件からD∴C∴に行き着いた。それが地獄の入り口だったんだけど、彼もアタシも好奇心が強くて……後悔は何度もしたのよ、脚だってこんなになっちゃったし、大切な友達だって……でも、引き返さなかったのよね。引き返したところで戻れたとも思えないけれど」
――沈黙。
そして、切れ味の鋭い刃のような瞳で悠香はこう言った。
「アタシの目的は神殺しよ」
これにはシグレが眼を丸くした。
「本気で言ってる?」
「ええ、本気よ。〈光の子〉と〈闇の子〉から、この世界を解放すること。多くの人間たちは彼らの手のひらの上にいることを知らずに生きているわ。でも、アタシは知ってしまったから、戦わずにはいられなかった。人類のためじゃないわよ、他人に踊らされるのが気に食わないだけ」
神殺しのエピソードは世界中にある。神話からフィクションまで、神が殺された話から、神を殺す道具にまつわる話。神が死ぬと云うことは、神は絶対者ではないと云うことである。
「傀儡師蘭魔は神と渡り合えるヒトよ、息子であるアナタはその血を引いている。そして何より、アナタには神の眷属の血も流れているのよ」
「僕は……」
なぜ、戦うのか?
なにが目的なのか?
神を殺すなど一度も考えたこともない。
悠香は愁斗から眼を離さない。
「あなたが幼いころ襲撃してきたのはD∴C∴で間違いないわ」
目的はD∴C∴への復讐。
「ただ、紫苑を連れ去って幽閉したのは〈光の子〉たちでしょうね」
母が生きているとわかった以上は、母を救い出す。
「つまり両方があなたの敵ってことになるんじゃないかしら?」
D∴C∴の根源たる存在は〈闇の子〉である。
母を奪った者は〈光の子〉たちである。
悠香は車椅子に座りながら愁斗の顔を下から覗き込んだ。
「ねえ、利害が一致してると思わない?」
本当にそうなのか?
なにをするべきか、なにから手を付けるべきなのか?
マナーモードにしてあったスマホが振動した。愁斗のスマホだった。
「ちょっとすみません」
一言断ってから愁斗はポケットから出したスマホのディスプレイを見た。
メールの着信。撫子からだった。
しかし、文面は彼女のものとは思えなかった。
――瀨名翔子を預かっています。場所は××の××にあるテナント募集の建物。
怒りが噴き出すように込み上げてきた。
この部屋で聞いた話はすべて忘却された。
なにをするべきかは決まっていた。
今すぐに手を付けるべきは翔子の救出だ。
「ここから連れ去られた友達の居場所がわかりました。話はまた今度、失礼します」
足早に立ち去る愁斗の背に悠香が声を投げる。
「アタシに協力する必要はないのよ、アナタは自分の目的を果たせばいいわ、それがアタシのためにもなるのだから。でも必要ならアタシはアナタに協力するわ」
最後の言葉は愁斗の耳に届いただろうか。
病室に残された二人。
悠香はシグレを見上げた。
「アナタはアタシに協力する?」
「ボクはこの世界の秩序に不満はないよ」
「神殺しには協力できないってことね」
「でもね、シオンが悲しむとボクまで苦しくなるのは困る」
「シオンを〈聖柩〉から解放する?」
黙してシグレは天井を見上げた。
悠香は答えを待っている。
病室の外へ向かってシグレは歩き出した。
「彼女はそれを望んでない。彼女の望みは家族のことだよ」
凍えが病室から消えた。
雨はあがり窓の外は春を取り戻しつつある。
だが、これから夜が来る。
道路に面したガラス張り建物にテナント募集の文字が見て取れた。
ドアの取っ手をつかんで引くと、鍵はかかっておらず重たく開いた。
なにもない部屋は暗い。外からの町明りが少し入ってくるだけだ。
暗がりから声する。
「2階に来てもらえますか?」
男の声は近くでしたような気がするが、近くに人の気配はない。それと、聞き覚えのある声だった。
2階にあがって愁斗はすぐさま身構えた。
部屋の奥に人影があった。
明りは蝋燭の火だ。床に何本か立てられていた。
「電気が通ってなかったもので、コンビニでロウソクを買って来ました。いや、私に明りは必要ないんですがね」
この暗がりの中で男は丸いサングラスをかけていた。不自然なのは飾りでしかないからだ。本体は別にいる。
「翔子をさらったのはお前か?」
この場にあった人影は一つしかなかった。
「さらったのではなく、保護したのですよ。敵の手から」
D∴C∴の魔導士――影山彪彦。
休戦はしているが、D∴C∴である以上は敵である。
「敵はお前だろ」
「以前にもお話しましたが、組織内にも派閥がありましてね。組織全体の方針としては、貴方に危害を加えるつもりは今のところありません。もちろん、貴方のご友人たちもですよ」
「翔子をさらっておいて!」
「少し頭を冷やしてもらえませんかね、保護したといったのですよ」
「じゃあ早く翔子のもとへ連れて行け」
「まだ頭が冷えていないようので、お話でもして時間を潰しましょうかね」
あからさまに愁斗は不機嫌な表情をして苛立ちを隠せない。
サングラスの男は表情ひとつ変えない。気にもしてないのは、感情のない人形だからだ。それがさらに愁斗を苛立たせるのだ。本体ではなく、人形と問答やらさせる。
「D∴C∴には過激派がおりまして、貴方のご友人に危害を加えたのもその一派です。彼らはもともとD∴C∴の中核でしたからね、新参者の部外者に組織を乗っ取られたことに憤慨しているのですよ。彼らが貴方まで怨むのもわからなくもない」
「なぜだ?」
「組織を乗っ取った新参者のご子息だからですよ」
「ッ!?」
絶句。
そんな馬鹿なことがあるものか。
父と子はD∴C∴にさらわれた。母も襲われた。
幸せな生活が音を立てて崩れていった。
絶望の中に光など見えなかった。
ならば、どうしたか?
闇に堕ちた。
「D∴C∴の首領は蘭魔様なのですよ」
酷く裏切られた気がした。
「なぜ、なぜ……なぜ……敵の仲間になんか」
「それは違うと思いますよ。彼は組織を乗っ取ってトップになったわけですから、仲間になったわけではありませんよね。敵を内部から壊したといっていい」
それでも納得できなかった。
組織が自分たちになにをした?
怨むべき組織の首領になるなんて信じられない。
だから過激派を生むことにも繋がった。
「蘭魔様は貴方を逃がしたあと、組織によって徹底した教育をされましてね。忠実な猟犬になりました。今となればそれは演技だったわけですが」
演技とはいえ、父はなにをしたのか?
生半可なことでは組織の中でのし上がるのは不可能だろう。
何人殺した?
どんな非道なことをした?
小さな子供をさらうこともあったかもしれない。
小さな子供の前で母親を殺したこともあったかもしれない。
考えるだけで愁斗は絶望した。
俯く愁斗は彪彦は見てもいない。
「D∴C∴という組織は政治活動や資金集めテロなど、末端組織も含め多岐にわたって活動していますが、その理念は神の理想郷を創ることです。上層部以下にその理念が浸透しているかは別の話ですが。我らが神の教えは弱肉強食、力こそすべて、故に蘭魔様は組織をのし上がり手に入れました。ですが、人間は私利私欲や欲望をもった生き物ですから、教えをすべて受け入れることができない。神の教えでは欲望を美徳しているので、教えに逆らうことも教えに従っているという矛盾もあるのですがね」
ロウソクの火がひとつ消えた。
「蘭魔様と敵対する過激派は神の教えによって生まれました。その点は過激派こそが正統派とも言えなくもないのですが、力こそすべて故に蘭魔様が首領であるべきだというのも正論。混沌こそが真理」
「父さんの目的はなんだ?」
「存じ上げませんね」
蘭魔がなにを考えているのか?
あの場所での蘭魔は息子との再会を喜ぶ親の姿ではなかった。愁斗を助けたようにも思えてが、それは二の次で別の目的があったと思われる。
息子よりも優先する目的だ。
――タルタロスに続く〈門〉の〈鍵〉はどこだ?
混乱と驚き、そのせいで情報がうまく結びつかず処理できなかった。だが、ここで愁斗は思い出した。
タルタロス。そのキーワードをだれかの口から聞いた。そうだシグレからだ。
――正規の〈門〉を通ればいいけど、1つ目の〈門〉の場所がわからない。
――ボクは昔、その〈門〉を通って〈タルタロス〉の手前まで行ったことがある。
――その〈門〉は蘭魔が開けたものだった。
ここで疑問が浮かぶ。
過去に〈門〉を開けたことのあるはずの蘭魔が、〈鍵〉を探しているのだ。
シグレの話だと、〈門〉は複数あるらしく、おそらく開け方も異なるのだろう。つまり蘭魔は以前と同じ方法で〈門〉を開けることができないのだ。
そして、愁斗の母である紫苑が幽閉されている〈聖柩〉は〈タルタロス〉の先にあるという。
おそらく蘭魔の目的はこれしかないだろう。息子である愁斗を差し置いて、成すべき目的とは妻である紫苑を――。
「父さんは母さんは救う気だ」
彪彦も同意する。
「おそらくそうでしょう」
「なにが存じ上げませんだ。貴様、知ってたな!」
「いえいえ、推測していただけですよ。断定ではないことを存じ上げているとはいえませんからね」
「だから組織の人間は信用できない」
「ですが、今回の件は信用していていただかないと」
「……?」
「瀨名翔子さんの件ですよ」
そうだ、蘭魔の話は脇道に過ぎない。ここに来た理由は翔子に会うためだ。
「彼女はどこだ?」
「保護しています」
「だから場所をいえ!」
「そうそう、瀨名翔子さんの保護を命じたのは、貴方のお父様ですよ」
「どうして父さんが?」
「組織が貴方に手を出さずに監視のみになったのも、言わなくてもわかりますね?」
父が子を見守っている。
だた、それがどんな想いからなのか愁斗にはわからなかった。
目的のためとはいえ、父はD∴C∴の首領となった〝悪魔〟だ。
父やほかのことに振り回されるのは、今はいい。
「貴様との話はいい。翔子はどこだ?」
ロウソクの火がまたひとつ消えた。
「場所を教えることは簡単なのですよ。ただ、あなたひとりで大切なものを守りきれますか?」
即答できなかった。
大切なものを守るという決意はあって、愁斗は言葉を詰まらせた。
彪彦が畳み掛ける。
「貴方は周りを不幸にする」
耳が痛い。奥でキーンとする感覚。
「その結果がこれです」
すべてのロウソクの火が消えた。
急に彪彦が愁斗に飛びかかってきた。はじめは攻撃されるのかと思った。攻撃は別にあった。
愁斗を抱きかかえながら、彪彦がガラス窓を突き破って二階から飛び降りた。爆音と爆風を背中で感じた。
敵襲!
地面に下ろされた愁斗は燃える建物を見た。その中から炎に照らされた人影ならぬ、火蜥蜴が出てきた。
道路を封鎖するように停まっていた複数台のワンボックスからも蛇人間たちが湧いて出た。
彼らのリーダーは白蛇の魔導士。
「やあ、秋葉」
まるで友人に挨拶するように軽く片手を上げた。
声も顔も態度も隼人。ただ、その顔は白い鱗に覆われていた。
鴉が鳴いた。
仕方のは彪彦。
夜闇に溶け込む大鴉が飛来し、彪彦の手に装着されると、それは巨大なクチバシ型の鉤爪に変形した。
大きく口を開けた鉤爪が蛇人間の頭部を喰らい、彪彦は間髪を容れずに向かってくる敵に鉤爪を向けた。
闇色の口の中から放たれる砲弾。
砲弾はまるで髑髏のようで呪詛を吐きながら、蛇人間の腹に風通しの良い穴を開けた。
駆ける続ける彪彦。地面に倒れた屍体の頭部を鉤爪に喰らわせ、次に標的を照準を合わせる。白蛇の魔導士。
愁斗が叫ぶ。
「やめろ!」
静止の声は虚しく響いただけ。
白蛇の隼人はうすら笑みを浮かべている。
髑髏の砲弾が世に怨みを吐きながら白蛇の隼人に死を与えようとした。
だが、髑髏の砲弾は急に燃えあがり絶叫しながら灰と化した。
裸婦に炎を纏った火蜥蜴[サラマンダー]が立っていた。
「隼人を殺させはしない」
炎の髪が靡いていた。
彼女は怒っている。眼の奥も、炎の髪も、全身から噴き出す炎も、怒りに満ちている。
愁斗は自分の目を疑いたかったが、それは紛れもない残酷な現実。
サラマンダーは麻耶だったのだ。
「どうして麻耶先輩まで……」
苦しい顔で愁斗は声を絞り出した。
白蛇の隼人が邪悪な笑みを浮かべた。
「あいつが言っていただろう。分けた魂は相手の人格を狂わせると」
二つに分けた魂は常にリンクしている。強い感情を抱けば、それは相手にも影響を及ぼす。白蛇の精神が麻耶を怪物に変貌させたのだ。
すでに彪彦は次を仕掛けようとしていた。
愁斗は動けずにいる。
「元に戻す方法が……」
「あるかもしれませんが、殺すほうが楽でしょう」
彪彦は白蛇の隼人に飛びかかろうとしていたが、その前には麻耶が立ちはだかっている。
「隼人に危害を加えるやつは殺す!」
蛇の形をした炎を彪彦に襲い掛かる。
「くっ、私としては後ろの方と戦いたいのですが」
躰をひねりながら炎を躱しつつ、転がっていた屍体の残りを鉤爪に喰わせた。
闇色の砲弾が放たれた。
そして、刹那に燃やされた。
敵に躰を向けたまま彪彦は愁斗の元に来た。
「あのお嬢さんとは相性が悪いので、貴方が相手をしてくれませんかねえ?」
「僕は……」
どちらとも戦えない。
白蛇の隼人は乗用車の上に乗り、高台から部下たちに命じる。
「サングラスの男は鉤爪が本体だ、構わず殺せ。愁斗は生け捕りだ、手足がなくても生きていれば問題ない」
蛇人間たちが一斉に彪彦に襲い掛かる。
もう一人の獲物に蛇人間たちが手を出さなかったのは、獲物を自分のものとする殺気を放っていた者がいたためだ。
「ブッ殺す、あんただけは殺して殺して、何度でも殺してやる!」
魂がリンクしているからといって、強い想いを制御できるわけでなかった。
その想いことが邪悪な力の源。
怒りは炎と化す。
炎の大蛇が巨大な口を開けて愁斗を呑み込まんとする。
愁斗の妖糸では炎は斬れない。
紙一重で紫苑は炎の大蛇を躱す。
焦げた服の臭い。
背後に回った炎の大蛇。正面からは麻耶が飛びかかってきた。
愁斗の片手が強く握られる。
炎は斬れずとも、肉なら斬れる。
――斬るか?
斬らねば殺られる。
先に襲ってきたのは麻耶だ。サラマンダーに変貌した麻耶は、その爪を長く伸ばし凶器と化していた。鉤爪には炎が宿る。
「死ねえええええぇぇえっ!」
魂を侵す絶叫。
妖糸が放たれる。
振り上げられた麻耶の手に輝線が趨[ハシ]った。
「キェッ!」
人ならぬ奇声を発した麻耶の爪が切断され、勢いの止まらぬ妖糸は頬の一筋の傷をつけた。血は赤い。
麻耶が怯んだ隙に愁斗はその場を飛び退いたが、後ろからは炎の大蛇が迫っていた。
傷ついた頬を押え、恨めしい眼で自分を見つめる麻耶から、愁斗は目を離せなかった。
麻耶の舌が爬虫類のように長く伸び、頬から流れる血を舐め取ると、勝利を確信して狂気の形相で嗤った。
炎の大蛇が口を開けて愁斗を呑み込む。
眼を見開いた麻耶。
刹那、世界が凍りついた。
飛び散る水飛沫。
霧雨が辺りを包み、それは凍りつき、氷の結晶となり煌めく。
妖刀を握り佇む春風駘蕩の男。
「今夜は冷えるね」
炎の大蛇を一振りで消し去ったシグレ。
彪彦と交戦中だった白蛇の隼人が舌を打つ。
「新手か……結界にどうやって入った?」
この場はすでに結界によって封鎖されていた。血の臭いが微かにするのは、彪彦に殺された蛇人間のほかに、結界内にいた一般人たちはすでに殺されていたからだ。
「悪いと思ったんだけど、病院からずっと付けてたんだ」
結界内でずっと身を隠していたのだ。
彪彦はシグレを一瞥した。
「彼は貴方たちが来る前からこの場にいましたよ。イレギュラーでしたが、貴方たちと戦うのに役立つかと思いまして、そのままにしておきました」
「我らの襲撃を予測していたのか!」
憤怒の形相で白蛇の隼人は杖を彪彦に振り下ろす。
「ええ、愁斗さんが監視されているのはわかっていましたから。彼のケータイに送られたメールを傍受して、ここを襲撃の場所に選んだのでしょう?」
鉤爪で杖を受け止めた彪彦が相手を見下した顔で微笑んだ。
「愁斗さんを監視していた刺客はすでに死んでいます」
その言葉で白蛇の隼人は理解し、さらなる憤怒に身を任せて尖った杖の底を槍のように彪彦を突き刺した。
腹を貫かれた彪彦は嗤っている。
「クククククッ……踊るのはお嫌いですか?」
口を開けた鉤爪が白蛇の隼人の両腕を喰らい、杖を握っていた手は力なく地面に落ちた。
腹から引き抜かれ放り投げられた杖を見ながら白蛇の隼人は後退る。
「いくらでも生え替わる。わかるか、この意味が?」
じゅぼっ!
喰われた腕の傷口から、血と粘液が絡みついた新たな腕と手が生えた。
「メディッサ様の僕である我らは、命令とあらばいくらでも命を賭す。代わりなどいくらでも生まれてくるからだ」
憤怒していた白蛇の隼人は冷静さを取り戻していた。腕を喰われたことで冷めたのか、それとも……?
一方、愁斗たちは麻耶と交戦を続けていた。
戦況は二対一であるが、愁斗たちは防戦を強いられていた。
「彼女は友人で戻す方法が必ず!」
「あったとしても、今はそんな余裕ないよ」
シグレは刃の反対で麻耶の腹に峰打ちを喰らわし怯ませた。
すかさず愁斗が妖糸を放ち拘束する。
簀巻きにされた麻耶が足下のバランスを崩し地面に倒れた。
この隙に愁斗は早口で説明する。
「彼女とあそこにいる彼は僕の友人で、彼は敵の魔導士に肉体を乗っ取られています。そして、彼と彼女は魂とリンクさせているために、彼女まで敵に……」
「それって片方が死ぬともう片方が死ぬ的な?」
「…………」
無言で愁斗は深く頷いた。
こちらは防戦しているが、向こうの戦いは殺し合いだ。早く手を打たなくては隼人が殺される可能性がある。
「愁斗、コロス……ブッコロス……キャハハハハハハッ!」
もはや人格は崩壊してしまっている。
高笑いをする麻耶の躰が激しく燃え上がる。
躰を拘束していた妖糸を灰にして、立ち上がった麻耶から炎の大蛇が放たれる。
轟々と燃える邪炎はシグレを無視して愁斗を狙っている。
妖刀が水飛沫を散らす。
「相殺はできるけど切りがないよ」
またもシグレは一振りで炎を消し去り、さらに攻撃を仕掛けた。
激しく妖刀が地面に振り下ろされた。
這うようにして直線上に地面が凍結していく。その先には麻耶の姿が!
「ンッ!」
足に力を込める麻耶。だが、動かない。
シグレの一撃は地面を凍らせ、さらに麻耶の足を凍らせ動きを封じた。凍結はさらに麻耶を蝕み登っていく。
身を纏っていた炎が消える。
やがて麻耶は眼に怨みを込めながら全身を凍らされた。
それを見た愁斗は口から大きく息を漏らず。
「……やった?」
「いや、無理だと思う」
横に首を振ってシグレは否定した。
凍っているはずの麻耶が瞬きをした。
そして、妖艶に嗤った。
蒸気が辺りを包み、生温かい風が吹く。
「殺シテアゲル」
蛇のように舌舐りをした。
シグレは一寸も戦闘体勢を解いていない。
「炎人間は表面を凍らしただけじゃ一休みもさせてくれないよね」
それでも次の手を打つ時間はあった。
風が鳴き叫ぶ。
すでに愁斗は召喚[コール]していたのだ。
妖糸によって宙に描かれた幾何学模様の魔法陣。
雨上がりで濡れていた地面が震えた。
〈それ〉が呻き声をあげると、共鳴した水が地面から跳ね上がった。
シグレは妖刀が引っ張られるのを感じてすぐさま鞘に収めた。
辺りの水が意思を持って集合する。
それは水ぶくれした人型をしていた。
全長約三メートルの水の巨人。
愁斗は妖糸の手綱を握り締める。
「行け、水魔ッ!」
水対炎。
水魔が巨大な拳で麻耶に殴りかかる。
小さな少女の手が開かれ、握るようにそれを受け止めた。
水が煮える。
麻耶に握られた水魔の拳から気泡が沸く。蒸発させられるのは時間の問題だった。
愁斗は手綱をゆるめる。
巨大な水魔が躰ごと麻耶を覆い被さり呑み込んだ。
水没状態にさせられた麻耶の口から泡が漏れる。脱出できなければ息ができず窒息してしまう。
水魔が沸騰する。
このままでは麻耶は難なく脱出するだろう。
愁斗が叫ぶ。
「あのまま凍らせて!」
指示されたシグレは判断よりも先に躰を動かし、抜刀していた。
水魔が斬られた。
沸騰が治り、水が白くなっていく。
叫ぶ麻耶の口から泡が噴き出す。声はきこえない。眼は目の前のシグレではなく愁斗を睨んでいた。
凍る凍る、水魔が麻耶を呑み込みながら凍っていく。
そして、麻耶は愁斗を怨んだまま氷付けにされた。
憎しみや怨みは消えたわけではない。ただ、封じられたに過ぎない。愁斗は負わなくてならない。
凍らされたことで麻耶の意識が途絶え、それは一瞬だが白蛇の隼人を怯ませた。
「クッ……半身がやられたか」
その隙を突いて彪彦の鉤爪が口を開けて白蛇の隼人を喰らおうとする。
後ろに飛びながら白蛇の隼人は口から毒液を吐いた。
何でも喰らう鉤爪だが、毒性の影響がどの程度かわからぬうちは喰えない。
やむなく彪彦は飛び退いた。そのサングラスに写り込む白蛇の隼人は背を向けていた。
「逃げるつもりですか!」
「三対一では分が悪い」
耳がキーンとした。結界が解かれる合図。
隔離されていた世界が、元の世界に戻った。
サイレンの音がする。
やがて人が集まってくる。長居はできない。
すでに白蛇の隼人は忽然と姿を消していた。
決着したとは言いがたいが、戦いは終結した。
シグレは氷付けにされた麻耶を見下ろしている。
「そのうち溶けるよ」
「彼女を救う方法が見つかるまでこのままにしておかないと」
二人の元へ彪彦がやってきた。
「早くこの場を離れたほうがよいでしょう。今のうちに瀨名翔子さんの元へ案内しますよ」
言われて愁斗はハッとした。呼び出された場所に翔子はいなかった。そして、敵の襲撃を受けた。
「翔子はどこに!」
「敵の襲撃は織込み済みだったので、安全な別の場所にいます。ここでの目的は過激派の駆逐でしたので」
「僕を巻き込んだのか!」
「ずっと前から巻き込まれているので、それは今さらというものですよ。つまりですね、我々と貴方の敵は共通しているということです」
「断る。お前らと手は組まない」
「こちらには貴方のお父様がいるのですよ?」
それは愁斗を悩ます言葉だったが、悩んだとしても組織共闘という結論は出さないだろう。
「まずは麻耶先輩はどうにかして、それから翔子のもとへいく」
頼れる人間はだれか?
愁斗は協力者に連絡しようとしてスマホを出した。
着信があった。不在着信とメールだ。それは連絡しようとした相手からだった。
――蛇みたいなやつらに襲われてる。マジでヤバイ。
メールは亜季菜からだった。
すぐさま愁斗は通話をかけるが留守番電話に繋がってしまう。
「知り合いがやつらに襲われてる。助けに行かなきゃ」
だが、場所がわからない。
彪彦も自分のスマホを見ていた。
「こちらにも緊急の知らせがきていました。おそらく、その知り合いの件でしょう」
「なんだって?」
愁斗は聞き返した。
「貴方の周辺は監視させていただいておりますので、姫野亜季菜さんの元にも部下を派遣してあります」
翔子のことは後回しにせざるを得ない。
二人同様にスマホを出していたシグレは通話を切ってポケットにしまった。
「ボクの雇い主の部隊がここにくるってさ。収拾はボクらに任せて愁斗クンは早く行ったほうがいいよ」
「では私は先導しましょう」
不本意だが彪彦に手を貸してもらわなくてはならないようだ。
不満そうに愁斗は頷いた。
愁斗たちが過激派の襲撃を受けていた同時刻、敵の魔の手は亜季菜たちにも伸びていた。
港近くの巨大倉庫で取引が行なわれていた。
「お金はアメリカドルで用意したわ」
亜季菜がそういうと、横に立っていた伊瀬が前に出て持っていたアタッシェケースを地面に置いた。
中東系の顔をした男たち居並んでいる。その中でサブマシンガンを唯一持っていない男が前に出た。こいつがリーダーだ。
「開けろ」
と言ったのはリーダーではなく、その言葉を通訳したやつらの仲間だ。
伊瀬はアタッシェケースを開けると、中に詰まっていた札束の一つをつかんで、本物だと示すために捲って見せた。
リーダーは顎をしゃくってなにかを言うと、通訳に訳させた。
「そっちの札束も捲って見せろ」
言われたとおりほかの札束も捲って見せた。
亜季菜は不服そうだ。
「新聞紙なんか挟んじゃないわよ」
相手はまだ納得していないらしい。
通訳が前に出て札束を調べる。札は見た限りでは本物。札束の下にはなにもない。ケースに仕掛けもないことを確認した。
振り返った通訳はリーダーに向けて深く頷いて見せた。
取引はうまく進みそうだ。
フォークリフトがコンテナーを持ち上げて運んでくる。
満足そうな笑みを浮かべて亜季菜は腕組みをしながら商品の到着を待つ。
だが、フォークリフトが不意に停車した。
なにかが倒れた。
次に短い男の悲鳴。
銃声が響く。
リーダーが怒号してなにかを叫んでいる。仲間たちの銃口が亜季菜たちに向けられる。
亜季菜はなにが起きたかわからず眼をまくるした。
「えっ、ちょっと……ウソでしょう?」
撃たれると思った。だが、そうはならなかった。
蜂の巣ではなく串刺し。男たちが次々と殺されていく。魔術を施された短剣が血を吸う。
蛇人間たちの襲撃。
リーダーが眼を丸くして口から吐血した。胸に刺さるナイフ。さらに別のナイフが飛んできて片眼を刺した。
「一〇点」
声は合成音だった。
さらに投げナイフはリーダーの股間を突き刺した。
「ヨッシャー、一〇〇万点!」
ガッツポーズをするフルフェイスの小柄な人影があった。
「ナイトキラー様ガ、オ前ラヲ殺シニ来テヤッタゼ」
自分のことを様付けで呼ぶ傲慢な態度。三本の投げナイフを御手玉のようにジャグリングしていた。
眼鏡を直した伊瀬が二本のナイフを抜いて逆手に構える。殴るように斬る構えだ。
投げナイフが飛んでくる。
伊瀬は超合金グローブで投げナイフを殴り飛ばした。攻撃を防いだが、それは囮だった。別の投げナイフは亜季菜に向かっていた。
鋭い刃が亜季菜の頬を掠めた。朱い一筋の傷から血が垂れる。
息を呑んだ亜季菜をナイトキラーは小馬鹿にする。
「わざト外シテヤッタンダ。女子供ハ甚振ッテ殺スノガ楽シイジャン?」
それは伊瀬を静かに怒らせた。
「亜季菜様は私の背中に隠れていてください」
敵はナイトキラーだけではない。
蛇人間たちが一斉に飛びかかってきた。
伊瀬の動きに無駄はない。
対複数の場合は一撃で相手の動きを封じなくてはならない。多数を相手にするのではなく、一人ずつ確実に順番に対処する。
敵も仲間同士でぶつかってしまうため、同時に攻撃を仕掛けているようで、同時ではなく時差がある。それが順番になる。
一体目の蛇人間の腹にナイフを突き刺し、そのまま殴りながら押し飛ばす。
すぐさま次が来たが、眼球にナイフを突き立てて地面に殴り飛ばす。と同時に側面から来た蛇人間には、もう片手に握っていたナイフで胸を貫いた。
敵の肉に食い込んでいた二本のナイフを同時に抜き、そのまま前から来ていた蛇人間の首に二本を突き刺した。
次々と地面に倒れる蛇人間。まだ息はあるが重症だ。
「このナイフは特別な呪法を施し、呪文を刃に刻んでいます」
斬られた蛇人間たちはもう戦えない。
残った蛇人間は一人だったが、伊瀬に飛びかかろうとしたところを後ろから刺された。心臓を投げナイフでひと突き。
「ソノ話前ニモ聞イタ気ガスンナ」
ナイトキラーは地面で倒れまだ息のある蛇人間の頭を蹴っ飛ばした。
「役立タズハ入ラネェンダヨ!」
蛇人間は全滅。はじめから仲間を頼りにしてないナイトキラーには問題はないのだろう。
「前座ニモナンネーノナ。コッカラガ本物ノしょーたいむダゼ」
伊瀬は敵の気配を確認した。立っているのは三人だけ。
「亜季菜様、どこか安全な場所に隠れてください」
「オッケー、死んだら殺すからね」
「承知いたしました」
背を向けて走る亜季菜に投げナイフが襲い掛かる。それを伊瀬が許すはずがない。
「私が相手だ」
類い希なる動体視力と反射能力で伊瀬は投げナイフを掴んだ。そのままナイフを投げ返して、自らのナイフを抜く。
飛んできたナイフを避けて、ナイトキラーは矢継ぎ早にナイフを投げる。
「一本目ハ炎ノないふ」
投げられたナイフは燃えていた。
紙一重の小さな動作で伊瀬は投げナイフを躱す。
「次ハ氷ノないふニ雷ノないふ、毒ノないふモ投ヘテヤロウ」
伊瀬は無駄のない動きでナイフを躱しながら敵との距離を詰めていく。
「ヤッベエ、全部投ゲ終ッチマッタ」
伊瀬は拳を振り上げた。殴り飛ばされるまで一秒もない。
「カラノー、奥ノ手」
両手に握った何かが高速回転しながら飛び出してきた。
ナイフと同じ直線上の動き。二個同時でも躱すのは容易かった。それは伊瀬を通り越して後ろに飛んでいった。だが、それには糸がついていたのだ。
ヨーヨーだ!
気付いた伊瀬は背後から迫っていたヨーヨーを避けた。その先にもう一撃がきた。
鉄球を脇腹に喰らったような痛撃。
「ッ!」
歯を食いしばりながらナイフを地面に突き立てうずくまる。
ナイトキラーが無邪気に笑う。
「ヘヘヘ、バーカ」
余裕の態度でヨーヨーを引き戻す。この一瞬がヨーヨーの弱点だ。
伊瀬はうずくまっていたのではない。スタートを切ろうとしていたのだ。
地面を蹴り上げ伊瀬は渾身の力でフルフェイスを殴り飛ばした。
小柄な躰は吹っ飛ばされ、地面で何度も転がって倒れた。
うつ伏せになったナイトキラーが呻く。
「クソッタレ…・・ガガガガガ…・・ブッ……殺……ガガッ」
合成音にノイズが入る。
四つん這いから状態を起こし、膝を付きながらフルフェイスを両手で掴む。
「マジ……ジジジ……死ネヤアアアアア」
脱いだフルフェイスを地面に叩きつけた。
「殺す殺す殺す、ぜってーブッコロスぞ糞野郎!」
立ち上がったナイトキラーは、振り返ってその素顔を見せた。
伊瀬は静かに眼鏡を直す。
「やはり貴様か」
かつて戦ったことがある。決着はつかなかった。やむを得ず敵が引いたからだ。
そう、ナイトキラーの正体はヨーヨー使いのキラ。
少年といえどD∴C∴の戦闘員。人を嘲笑いながら殺すことのできる狂人。そんな相手に伊瀬が容赦するわけがない。
伊瀬の格闘センスは、彼の類い希なる記憶力によるところが大きい。
投げナイフ使いは一度目。
ヨーヨー使いは二度目。
キラがヨーヨーを繰り出す。変幻自在に動き回るヨーヨーだ。
軽やかなステップで伊瀬はヨーヨーを躱す。
変幻自在に動かせるというだけで、ヨーヨーそのものが自由に動いているわけではない。
二個同時にヨーヨーが襲ってきても、パターンが増えるだけで、そこには動かすという意思がある。
意思判断の時間が短くなればなるほど、クセは出やすくなる。
たとえば物を落としそうになったときに、とっさに出る手は右か左か。あるいは歩き出すとき先にでる足はどちらか?
一つ目のヨーヨーが躱されたら、もう一つのヨーヨーはどうやって攻撃を繰り出すか?
それを伊瀬は記憶を蓄積していくことで読むことができる。だからと言って、事前に起ることがわかっていても、短い時間で対処していくのは難しい。それを可能にするのが動体視力と反射能力だ。
戦闘が長引けば長引くほど伊瀬の精度は増す。
そして、彼の真の強さは経験から学び成長することだ。
伊瀬に躱されたヨーヨーの糸が張り詰めた。
緩んだものと、張り詰めたもの、どちらが衝撃に弱いか?
伊瀬の一撃がヨーヨーの糸を切り、制御を失ったヨーヨー本体があらぬ方向に飛んでいくのをキラは見た。
「おいおい、ウソだろマジかよ」
前は切ることができなかった。切ることができたのは、弱点を狙ったこともあるが、それ以外の理由もあった。
「以前、あなたと戦ったすぐあとに、ナイフを鍛え直してさらに新しい呪法を施しました」
灼熱色をしていた二本のナイフが、鋼色に戻っていく。
キラは残っているヨーヨーを強く握り締めていた。
二人は距離を保っている。
キラはこの位置から攻撃できるが、今のところ攻撃は防がれてしまっている。
伊瀬は近接に持ち込まなくては本体への攻撃ができないが、そのチャンスが常にあるわけではない。
キラだ、キラが先に仕掛けた。
握られていたヨーヨーが投げられ、高速回転をしながら伊瀬に殴りかかる。
顔面を狙ってきたヨーヨー。この位置で躱せば、少し軌道を変えるだけでヨーヨー本体か糸が追撃してくる。
目前まで迫るヨーヨーに伊瀬は拳を構えた。
殴り飛ばして撃墜させる気だ。
にやりとキラが口角を上げた。目と鼻の先のヨーヨーを注視していた伊瀬はそれに気付かない。
渾身の一撃でヨーヨーが殴られた!
激しい爆発音!
硝煙をまといながら伊瀬が後方にぶっ飛んだ。
殴られた衝撃でヨーヨーが爆発したのだ。
亜季菜が叫ぶ。
「伊瀬ーッ!」
とっさに亜季菜は物陰から伊瀬のもとに駆け寄ろうとした。
しかし、キラも同じく伊瀬に歩きながら近づいていた。中指を立てて舌を出し、亜季菜を威嚇しながら――。
それを見た亜季菜は近づけなかった。近づけば笑いながら亜季菜に危害を加えるだろう。
伊瀬を見下げるキラ。
「片腕がズタボロで血だらけ。おまけに眼鏡はどこに行ったんだ? あ、俺様が踏んでたわ」
笑いながらキラはメガネを足の裏でグリグリとこねるように潰している。
伊瀬の意識はあるのか?
片腕の袖が破れ、覗く肌は肉色をしている。
超合金グローブは無傷だった。
その手にはナイフが握られたままだった。
キラが足を後ろに振り上げ、伊瀬の頭部を蹴ろうとした瞬間だった。
「ギャアアアアアアッ!」
煌めく高速の刃。
絶叫と血飛沫が上がった。
足を切られたキラが悶絶しながら床で悶える。
「いてえええええええっ!」
その近くに中身の入ったクツが転がっている。
ゆっくりと立ち上がった伊瀬。
「眼鏡は伊達ですのでご心配なく」
ボロボロになったスーツの上着を投げ捨てる。
下に着ているのは見た目はただのシャツだが、爆発を間近で受けたわりには袖に穴が空いている程度だった。
「このシャツは特殊素材のアーマーです。薄手なので柔軟性はあるのですが、強度と衝撃吸収に難があります。それでもマグナム弾を至近距離で防ぐことができます。打撲はしますが」
伊瀬は微笑みながら振り返った。
「この少年をどうしますか?」
「見た目が少年なだけよ、煮るなり焼くなりしなさい」
亜季菜はにべもなく答えた。
握られていた伊瀬のナイフが灼熱色に輝く。焼くことにしたらしい。
「我々を襲った理由は?」
「いてえよおおおお!」
「今夜の取引に関係あることですか?」
「くそおおおおおお!」
「それとも別の目的ですか?」
「しぬうううううう!」
激痛に悶えるキラは会話ができる状態ではないらしい。
「答える気がないのなら、本当に死ぬことになりますよ?」
灼熱のナイフは振り上げられた。
その瞬間、キラが血だらけの足首を振り回す!
鮮血が伊瀬の顔面にかかり思わず眼をつぶってしまった。
すぐに眼をあけると視界が赤くぼやけていた。
少年の嗤い声。
「敵を殺すのに理由なんてねーんだよ!」
キラが隠し持っていた最後の投げナイフが飛ばされた。
伊瀬は避けられない!
「クッ!」
苦痛を漏らした伊瀬の腕に突き刺さった投げナイフ。とっさに腕を犠牲にしてガードしたのだ。
片脚で立ち上がってバランスを取っているキラは笑っていた。
「そいつがマジで最後のナイフだよ。石化のナイフだ」
ナイフが刺さった傷口から灰色に硬化していく。それは指先から肩まで広がり、重くなった腕が地面に力なく垂れる。石化はそこで止まった。
「本家と違って全身を石化できるほどじゃないけどな」
言いながらキラはヨーヨーを放った。
ガシャン!
石化した腕がヨーヨーによって無残に砕かれ粉々になった。
唖然とする伊瀬。痛みは感じられなかった。だが、腕はもうそこにない。
血の海に立ちながら重症のキラは嗤っていた。
「なあなあどうするよ。俺様まだ腕が二本あるぜ。攻撃の手数はこっちのが多いってことだよなあ?」
どちらが不利なのか?
キラは逃げることもできず、避けることもできず、出血多量で死が迫っている。
伊瀬は片腕を失い、攻撃力が半減したといえる。
この状況でキラは狂気を放ち、伊瀬を見下して嗤っているのだ。
「俺様は死んでもてめえを殺す覚悟だ。てめえはどうだ?」
「……命を賭けて亜季菜様をお守りするのが私の役目です」
「だよな、それなんだよ。命をかけるってのは本心だろうが、守るためにはここじゃ死ねないってジレンマがあるんだろ? おまえさ、戦いの最中によそ見ばっかりしてただろ」
一回一回は一秒にも満たない。伊瀬は亜季菜の安否を気にしながら戦っていた。それをキラは見逃さなかったのだ。
「そろそろ応援部隊が来ると思うんだよな。つまりさ、そこの女だけが生き残ってもゲームオーバーなわけ」
血の海は広がり続け、伊瀬の足下まで迫っていた。
ぐつ…・・ぐつ……ぐつ……ぐつぐつ。
血の海が粟立ち気泡が弾ける。
亜季菜が伊瀬に駆け寄った。
「逃げるわよ、ヤバイ気がするわ!」
煮える煮える煮え立つ血の海。
これまで亜季菜は幾度となく危険な目に遭ってきた。それでも今日まで生きているのは、勘のお陰だ。本能、経験則、観察力、あらゆる蓄積が答えを導き危険を感知する。
キラの躰がよろめく。
「嗚呼……さま」
そのまま血の海に顔面から昏倒した。
亜季菜と伊瀬は走って逃げた。腐臭が追いかけてくる。風が死をまとっている。
振り返ってはいけない。
女の絶叫が背後からした。
思わず亜季菜は振り返った。
血の海から無数の触手のようなものが這い出てきた。
そして、蠢く触手の下からは、血にまみれた女の顔が――。
息を呑んで亜季菜は走る速度をあげた。
来る、今見てしまったものが来る。
二人が走ったあとに残る血の靴跡から触手のようなものが突き出た。それは血の海から足跡を辿るように次々を生えてくる。
「きゃっ!」
短く悲鳴をあげた亜季菜が転倒した。
「亜季菜様!」
すぐに手を差し伸べた伊瀬は見てしまった。同じく亜季菜も自らの足首を見て背筋を凍らせた。血まみれの手が足首を掴んでいたのだ。
躊躇せず伊瀬は血まみれの腕をナイフで斬った。
「キエェェェェェーーーッ!」
怪鳥のような絶叫が遠くから聞こえた。
切断された腕は蛇の形に変わったあと灰になって滅びた。
その者は生け贄の血によって召喚された。
「死の輪舞曲[ロンド]を踊りましょう」
血の海から艶やかな裸体を晒し這い出てきた女――メディッサ。
倉庫から飛び出した二人を車のヘッドライトが照らす。
オープンカーがこちらに猛スピードで迫ってくる。
甲高いブレーキ音と焦げるタイヤの臭い。
激しく切られたハンドルは車を半回転させ、亜季菜の目の前でオープンカーは停車した。
「もしかしてグットタイミングだったかな?」
車でやって来たのはD∴C∴の構成員であるシュバイツだった。
亜季菜は不満そうな表情だ。
「バットタイミングよ、助けに来るならもっと早くしてちょうだい」
「デートなら遅れないんだけどなぁ」
「いいから早く出してヤバイのが来るわ!」
亜季菜は後部座席に飛び乗った。
続いて伊瀬が助手席に乗る。その姿を見てシュバイツは納得した。
「執事君の腕がやられちゃったわけね。怪我人は足手まといだから、ここに置いて二人でデー……ドッ!」
言おうとして座席が後ろから蹴られた。
「来たわよ!」
ぴちゃ……ぴちゃ…・・。
どす黒い血を肢体から滴らせながら、妖艶な怪物が緩やかな足取りで迫ってくる。
「ナイスバディ……ぐっ」
目を奪われたシュバイツの座席が後ろから蹴られた。
「あんたのこと降ろしてあたしが運転するわ!」
「いやいやいや、この子はじゃじゃ馬だから僕しか運転できないんだよ」
アクセルが踏まれ、タイヤが悲鳴を上げた。
夜の港に木霊する女の嗤い声。
駆け抜ける車の前方に集団が見えた。蛇人間だ、彼らが防壁となり立ち並んでいる。
シュバイツは底が抜けそうなほどアクセルを踏んだ。
「ボーリングってやったことないんだけど」
蛇人間たちはだれひとりも逃げない。
ボールとピンが激突した。
蛇人間たちは宙を飛び、地面に叩き落とされ、海に落ちたものもいる。中には執念深い蛇人間もいて、車内に乗り込んできた。
運転中のシュバイツが両手でハンドルを握りながら横目で見る。
「手を貸そうか?」
蛇人間が助手席の伊瀬に乗りかかり、二人がもみ合っている。片腕を失っている伊瀬の情勢は悪い。腕力では押し切れそうにない。
蛇の長い舌が伊瀬の眼前に伸び、大きな口が開き頭部を丸呑みにしうようとした。
「ギャァッ!」
長い舌が引っ込み、短い悲鳴があがった。
伊瀬の持つナイフが蛇人間の腹を突き刺していた。そのまま奥までナイフを肉に食い込ませ、伊瀬は腕に力を込めて持ち上げるようにした。
少し蛇人間の躰が浮いた。そのまま伊瀬は勢いよく殴るように蛇人間を押し飛ばした。
亜季菜が伏せる。その上を蛇人間が飛ぶ。
ガッ!
車外に墜ちる寸前、蛇人間は往生際悪く後部座席を掴んだ。
叫ぶ亜季菜。
「振り落として!」
バックミラーでシュバイツは確認した。腹から血を流しながら蛇人間が必死にしがみついている。
ハンドルが急に切られた。
車内が激しく揺れる。
さらに右へ左へ、蛇行運転しながら、蛇人間が左右に振られる。
「まっすぐ走れ、私が行く!」
伊瀬が助手席から立ち上がった。
ガクン!
急な揺れで伊瀬は座席の上にしゃがみ込んだ。
「私まで振り落とす気かっ!」
伊瀬がシュバイツに目を遣ると、彼はクラクションを鳴らしながら前方を指差していた。
「蜘蛛の巣だッ!」
道を塞ぐように張られた巨大な蜘蛛の巣。
若い女の顔を持った巨大蜘蛛が舌舐りをして待ち構えている。
後部座席にいた亜季菜が腰を据えて立ち上がった。その肩にはハンドバズーカが背負われている。
「足下に転がってたんだけど、撃っていいのよね?」
「撃ってもいいけど反動に気をつけて、ただの弾じゃ――」
シュバイツが言い終わる前に亜季菜は引き金を引いた。
爆音と同時に亜季菜の上半身が後ろに倒れる。
「きゃっ」
叫んだ亜季菜の服を伊瀬が掴んだ。
「亜季菜様!」
伊瀬に支えられ、亜季菜は膝に力を入れて踏ん張って留まった。
発射された弾は叫び声をあげながら、黒鳥が翼を広げるように蜘蛛女を呑み込もうとしていた。それはまさしく〈闇〉だ。
絶句する蜘蛛女の瞳に映る〈闇〉。深淵を覗き込んでしまった蜘蛛女は全身を総毛立たせ、瞬く間に老婆になってしまった。
「ギエエエエエエエエエッ」
〈闇〉はすべてを呑み込んだ。
後部座席でガタガタと何かが音を立てている。
気付いた亜季菜が目を向けると、アタッシェケースが激しく揺れていた。まるで中で生き物が暴れているようだ。いったい中に何が入っているのか?
「亜季菜様まだ敵が!」
伊瀬の視線は亜季菜の後ろ、蛇人間はまだ振り落とされず、トランクの上を這うように登ってきていた。
妖しく嗤った。
蛇人間がそれとは思えない笑みを浮かべたとき、頭部から皮膚が剥がれ落ち別の者が這い出してきた。
「それを渡しなさい」
血まみれの妖女メディッサ。
爪が長く伸びた指先でアタッシェケースを掴んだ。腕から滴る血がまるで蛇のように動き、ケースの鍵を開ける。
慌てて亜季菜はアタッシェケースを両手で掴んで引っ張った。
「商売品を勝手にもってこうとしないでよ!」
「これは私のモノよ」
ケースの蓋が開き、中身が宙に飛び出した。
凍れる心臓。
見た目は人間の心臓。それが氷付けにされていた。
二人の手が同時に伸びた。
助手席に飛び移った伊瀬がメディッサの顔面を殴る。
まるで水を殴ったような感触。
爆発するように血が飛び散ってメディッサの上半身が消失して、下半身は流れるように崩れ落ちた。
心臓を掴んだのは亜季菜。
「なんなのこれ、クソ熱いわよ……やだ、どんどん熱くなって」
あまりの冷たさに痛みを感じることで、熱いと錯覚しているのではない。この心臓は生きているから熱いのだ。激情している心臓は憤怒で熱くなっているのだ。
バックミラーでシュバイツはそれを確認した。
「それは〈凍れる時の心臓〉か!」
「なにそれ、これってなんなのよ? もう熱くて持ってらんない」
取引で手に入れた代物だが、亜季菜はこれがなんなのか知らなかったようだ。
伊瀬がグローブをはめた手で〈凍れる時の心臓〉を受け取った。
「私が預かります」
先ほどまで暴れていた〈凍れる時の心臓〉は、今は熱だけを発して黙している。なにかに共鳴していたのだろうか。
運転をしながらシュバイツは説明する。
「それを持ってる限り、さっきの蛇女は追い続けてくるよ。なぜってフィアンセの心臓だからね」
亜季菜は後部座席に深くもたれ掛かった。
「中東の古い地層から発見されたのよ。恐竜が暴れ回っていた時代のね」
「そんな馬鹿な」
シュバイツは目を丸くして驚いた。
氷付けになっている心臓はヒトの物に見える。中東の古い地層とは、石油採掘をする白亜紀やジュラ紀の地層のことだ。もちろんそんな太古の時代に人間はいない。
「そんな時代の地層から出てきて、化石でもなく氷付けになってて、しかもどうやっても溶かすことができない氷。魔導絡みっぽいから調べてみる価値があると思ったのよね」
と、亜季菜は溜息を漏らす。トラブルに巻き込まれた。呪われた心臓は地中深く埋めたままにするべきであった。藪をつついて蛇を出してしまったようだ。
シュバイツは不可思議な面持ちをしていた。
「そのフィアンセっていうのは、D∴C∴の首領……あ、元首領か……の物なんだけど、彼がやられたのって数年前のことなんだけどなぁ。時空を越えたってことなのか……どおりで見つからなかったわけだ」
急にブレーキが踏まれた。目の前の背もたれにぶつかった亜季菜が悪態を吐く。
「なんなのよクソ」
周りを見回すと、そこは広場だった。遠くに海を見渡せる海浜公園だ。
伊瀬は不審そうにシュバイツを睨んだ。
「なぜ止まった?」
こんな場所で――と言いたげだ。
「蛇は執念深いから逃げ切れない。実際もう囲まれてるし、どこかで迎え撃たなきゃ」
それまで感じなかった気配がした。本当に囲まれていたようだ。
月明かりに照らされてできた影から、蛇人間たちが這い出てくる。車の周りを取り囲みながら一人、二人、三人、四人と――。
無数に蠢く蛇の巣に落ちてしまったような光景。数え切れない蛇人間達の群れ。逃げ切れるとは到底思えない。
一体の蛇人間が脱皮して、中から血まみれのメディッサが微笑みながら現れた。
「毒と石化、どちらがお好み? 私は毒に冒され狂い踊る姿を見るのが好きよ」
絶体絶命の危機だった。
心臓を返せば助けてくれるという雰囲気でもない。そんな交渉などせず、奪ってしまえば済むだけの話。それも殺して奪うだけ。
今、〈凍れる時の心臓〉は伊瀬の手にある。
返すという交渉が成り立たないのであればこうだ。
「その場から一歩でも動いてみろ、破壊しますよ?」
魔術の紋様が描かれたナイフが灼熱色に輝き、切っ先が氷に突き付けられている。
魔導に対して魔導ならば、氷を破壊もしくは、溶かすことができるかもしれないが、その確証はない。やってみなければわからない。
しかし、伊瀬は出来るという自信を覗かせる態度を取っている。交渉は態度で示さなければならない。
メディッサは楽しそうに嗤った。
「その片腕はどうしたのかしら?」
「…………」
「私の魔力がこもった短剣で石化されたのでしょう。本物はとても凄いわよ、瞬き一つで石にしてあげる」
長いまつげを降ろしながら静かに目を閉じたメディッサ。
そして、蛇眼が開かれようとした一刹那。
世界が閃光した!
どこかからか投げ込まれた閃光弾によって、辺りは白く染まりここにいた者たちの視界を奪う。
白い世界に巨大な魔鳥の影が映る。
夜空に一羽の鴉が地上を見下ろすように羽ばたいていた。
鴉はげっぷを鳴らしながら大きく口を開けた。その中からケープをはためかせ、白い仮面の主が地上に舞い降りた。
傀儡紫苑。
輝線が迸る。まるで生き物のように舞い踊る妖糸。
悲鳴悲鳴絶叫。
切られた者たちの手や足や首が宙を飛ぶ。まるでマネキンのように、無機質なまでに切られていく。だが、それが肉を持ったものであることを噴き出す血が証明している。
瞬く間に凄惨な地獄絵図と化した。
ケープは鮮血でどす黒く染まったが、フルムーンに照らされて反射する仮面は無垢なる白。無慈悲に無機質に、美しく、紫苑はそこに佇んでいた。
「愁斗君、助けに来てくれたのね!」
倉庫で蛇人間が現れた直後、亜季菜は愁斗にメールを送信していた。
鴉が地上に舞い降り、長身の男の腕に装着された。
「生身のご本人は運べなかったもので、人形のほうにご足労願いました」
夜でもサングラスの妖しい男。ここにいる全員が知っている。影山彪彦だった。
血の海からメディッサが這い出てきた。
「裏切り者の鴉め」
「力こそ全て、正統な後継者に仕えているだけですよ。裏切り者……反逆者は貴女のほうでしょう」
形成は逆転した。
蠢くほどに群れを成していた蛇人間たちは死んだ。残るはメディッサのみとなっていた。
彪彦は口の端を上げて見下すように嗤った。
「私とそこのお人形には蛇眼も猛毒も効きませんよ。わざわざ教える必要もないと思いますが、念のため」
嫌みったらしい口調だった。
さも悔しそうに眉間にしわを寄せながらメディッサは彪彦を睨んでいる。それでも石化することはない。
「それで勝ったつもり? この大量の生け贄を見なさい。これだけあれば私はいくらでも生まれるわ。最後は私が勝つのよ、キャハハハハハ!」
高笑いするメディッサに彪彦は冷笑を向けた。
「で?」
その一言で片付けた。
鉤爪が大きく口を開け、血の一滴も残さずにすべて呑み込んだのだ。
恐怖の対象であったメディッサがぐうの音も出ない状況に追い込まれていく様を、亜季菜はおかしくて仕方がない様子だ。
「滑稽ね。よく見たら、ただのペンキかぶったババアじゃないの」
メディッサが瞳を閉じた。
ぐうの音を吐いた彪彦が動こうとした。
紫苑が妖糸を放とうとした。
シュバイツが亜季菜を見つめた。
伊瀬が地面を蹴り上げた。
一刹那。
「亜季菜様ッ!」
目を丸くする亜季菜の瞳に映った。
妖しく輝く金色の蛇眼。
伊瀬が亜季菜を抱きかかえながら押し倒した。
女の甲高い笑い声が夜に木霊する。
地面に仰向けになった亜季菜と、上に覆い被さった伊瀬が間近で目を合わせる。
「亜季菜……様?」
「……伊瀬、くん」
顔面蒼白で血の気が引いてしまっている亜季菜。
残っていた伊瀬の片腕が崩れ落ちた。
「伊瀬君……腕が……」
両腕を失った。亜季菜を救った代償だった。
しかし、その代償だけでは、すべては救えなかった。
「私のことよりも、亜季菜様が……くっ」
怒りと悲しみで伊瀬は歯を食いしばった。
「下半身の感覚がないのよね……怖すぎて自分じゃ見れないんだけど。あと、すごく寒い」
亜季菜の下半身は石化してしまっていた。
「動かさないほうがいい」
と、だれかが言った。
人影は亜季菜たちの横を通り過ぎ、地面に落ちていた〈凍れる時の心臓〉を拾い上げた。そのときに、一滴のなにかが地面に落ちた。
〈凍れる心臓〉を拾い上げたのはシュバイツだった。
彼はそのままゆっくりと亜季菜たちの横を目もくれずに通り過ぎると、彪彦の前に立った。
そして、そっと彪彦に耳打ちをする。
「扉は中からしか開かない」
次の瞬間、素早い動きでシュバイツは彪彦の腕を掴み、装着された鉤爪の中に自分の手をごと〈凍れる時の心臓〉を入れたのだ。
「なにを!?」
驚きを隠せない彪彦。
嗤うメディッサ。
「よくやったわシュバイツ!」
その言葉に耳を疑った。
シュバイツが鉤爪を腕を引き抜くと、彪彦は膝をついて崩れ落ちた。
「裏切ったのか……シュバイ……ッ」
地面に転がる鉤爪が嗚咽を漏らしながら血や肉を吐き出す。それは苦しんでいるように見えた。
うご……うぷぷ……ぐぶ……ぐぐぐげ……うえぇぇぇぇぇ……。
異様な奇声を発しながら、鉤爪はスライム状に溶けながら蠢いている。
なにが起っているのか?
シュバイツはいったいなにをしたのか?
妖女は愉しそうだった。
「私に踊らされる気分はどう? 下賤な者たちに私が追い詰められるだなんて、そんなの演技に決まっているでしょう。一流の女は一流の女優なのよ、キャハハハハハッ!」
紫苑はシュバイツに向けて構えている。
伊瀬はシュバイツを睨んでいる。
視線を向けられているシュバイツは、明後日の方向を眺め遠い目をしていた。
「あの御方を復活させるには、まず心臓が必要だった。その心臓を復活させるためには、強いエネルギーが必要だった。深い深い〈闇〉のエネルギーがね。愁斗君が喚ぶ〈闇〉か、彪彦さんの動力源か、どっちを使うかは状況次第だったんだけど」
地面に転がっていた彪彦が急に腐臭を放ちはじめた。
鉤爪はもうどこにもない。
残っているのはどす黒い心臓。
激しく強く逞しく心臓が脈打っている。
永い時を経て、心臓が息を吹き返したのだ。
甘美に悶えながら、メディッサは身をくねらせ、自らの胸をまさぐり、さらに股間に手をやった。
「嗚呼、我が主にして、最愛のヒト……あなたの鼓動が聞こえるわ。もうすぐよ、もうすぐあなたに逢えるのね」
〈蘇りし心臓〉を拾い上げ、血のついた顔で頬ずりした。
もはやほかのものは眼中になかった。
鉤爪が吐き出した血の海にメディッサが沈んでいく。
妖糸が放たれた。
メディッサの胴体がずり落ちた。
それでも頬ずりを続け、紫苑に目をやることもなかった。
血の海に下半身を失った胴が落ちて、血飛沫を噴き上げながらメディッサは深い底に消えた。
残されたシュバイツに敵意が向けられる。
両腕を失った伊瀬は亜季菜に寄り添っている。この場で戦えるのは紫苑のみ。
「おっと、てめえの相手は俺様だ」
鳴き声、悲鳴、嗤い声。
若い男の声がシュバイツの背後からした。
「選手交代だぜ」
シュバイツの胴になにかが巻き付き、そのまま後ろの空間の裂け目に引きずり込まれてしまった。
代わりにその裂け目から、異形の手が這い出てきた。
そして、紫苑を通じて対峙する二人。
傀儡士対傀儡士。
〈向う側〉から還りし者――麗慈。
「地獄の長旅から、大親友の俺様が帰ってきたんだぜ、笑えよ」
狂った笑みを浮かべる麗慈に白い仮面は無機質に答える。透き通った女の声で――。
「いつかは帰ると思っていた」
「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。嬉しすぎて嬉ションを仮面の下の顔にぶっかけてヤリてえくらいだぜ」
静かに輝線が趨った。
二本の妖糸が交差して、はらりと地に落ちる。
「早漏すぎんだろ」
麗慈は嫌らしく笑った。
「ヤリ合う前に久しぶりの再会なんだ、世間話でもしようぜ、なあ?」
その答えに紫苑は無言で答えた。
二重の輝線が趨った。
迎え撃つ三本の輝線。
交差した妖糸が、再びはらりと地面に落ちる。
だが、残った輝線が紫苑を襲う。
静かだった。地面が割れた音以外は、風すらも口を噤んでいた。
両者はまるでまだなにもしてないかのごとく、そこに立っていた。
敵に背を向けて切られてることなど考えてもないように、麗慈は意味もなく辺りをゆっくりと歩き回りはじめた。
「〈向う側〉がどんな場所が知ってるか?」
「…………」
「っても、無数に存在するらしいから、どんなかなんてひとくちじゃ説明できなんだけどよ。俺様がいた場所は、この世界と似た場所だったぜ。棲んでるやつらは異形だったけどな」
そう言いながら異形の手を見せた。赤黒く硬質な肌、鳥のような鉤爪の六本指、その一本には指輪がはめられていた。
「前のはだれかさんに斬られちまったからな。ああ、そういえば背が伸びたと思わないか?」
一見して人懐っこそうな笑みを浮かべているが、目が讃えているのは邪悪そのもの。
「〈向う側〉とこっちじゃ時間の流れが違うらしいぜ。お前が女とヤリ合ってるとき、俺様はブスどもとヤリ合ってたんだぜ、毎日毎日、毎日っ毎日っ、毎日毎日毎日毎日毎日クソ毎日ッ!」
激流と化した妖糸が〈闇〉を纏って紫苑に襲いかかる。
地面を翔る紫苑に合わせて〈闇〉の妖糸が方向転換する。
妖糸は初手による直線的な攻撃が強度と切れ味に優れ、方向を転換させることで勢いが落ち糸が緩む。が、〈闇〉を纏った妖糸は生き物のように動くためそれがない。それどころか、途中で勢いを増してきた。
紫苑は素早い手つきで宙に幾何学模様を描いた。このタイミングでの召喚は間に合わない。ならばこれは、防御陣だ。
迸る妖糸の激流を魔法陣が受け止めた。四散する闇の粒。
魔法陣が押されている。半球状に変形して妖糸を受け止めているが、このままでは破裂して破けてしまいそうだ。
「てめぇの力はその程度かよ!」
魔法陣を構成している糸が綻びはじめる。
白い仮面に表情はない。
傀儡師は傀儡をもって戦うことで本領を発揮できる。
紫苑は腰を落として拳を握った。
傀儡には肉体的な制限がない。
握った拳で魔法陣を内側から殴った!
張り詰めていた魔法陣が、一気に元の形に戻り妖糸を打ち返す。
打ち返された妖糸は加速により力を増している。
麗慈は目を丸くした。
自ら放った〈闇〉の妖糸が己を喰らおうとしているのだ。
鳴き声、叫び声、嘲笑。
妖糸は麗慈の腹を殴るように抉った。
「う……ぐっ」
口から闇色のなにかを吐瀉する麗慈。その腹には拳大の穴が空いていた。血は出ていない。
「驚いたか?」
と、麗慈はにやりと笑った。
腹に穴を開けられれば、常人ならばショック死か、出血多量ですぐに死ぬだろう。
開けられた腹の穴の中でヒルのようなものが蠢いている。
「俺様はもう人間じゃない。それどころか、麗慈はとっくに死んでるんだ」
腹の穴が修復していく。黒く蠢いていたものが硬質化して腹筋の形になると、少しずつ肌の色に変わって傷一つない元の姿に戻る。
「ゾンビってわけじゃないぜ。ここにいる俺様は死んでいく麗慈を再構築した麗慈だ。記憶はそっくりそのまま、見た目も同じ、肉体を構成するなんかが違うだけだ」
たとえば、幽霊が他人に憑依して完全に人格を乗っ取った場合、躰は違えど幽霊本人であるといえるのか?
たとえば、コンピューターに記憶をすべてアップロードして、それを自分のクローンにダウンロードした場合、それを本人と呼べるのか?
境界線はどこなのか?
少なくともここにいる麗慈は、過去の麗慈とは違う者であると自覚している。
「〈向う側〉で重症を負った俺様は、怪物どもに食われながら死んだ。頭蓋骨が割れる音を子守歌にしながらな。で、意識が戻るとグチャグチャの怪物の屍体の上にすっぽんぽんで立ってた。なにが起きたのかわからない」
麗慈は自らの異形の手を見た。
「この手は死ぬ前に手に入れたからか、人間の手には戻らなかった」
指輪に刻まれた六芒星が妖しく輝いていた。
「戻らなくてよかったと思ってるぜ。俺様は新たな力を得たんだからな」
麗慈が異形の手によって妖糸の魔法陣を描く。
傀儡師の真価。以前の麗慈は人間を操る程度で、妖糸そのものを武器にしていた。それが愁斗との圧倒的な差であった。
今は違う。
「俺様はてめえを越えた。それを今から証明してやる!」
傀儡召喚。
世界の裂け目から〈それ〉がなにを貪る音が聞こえ、吐き気がするほどの異臭が漂ってきた。
羽音が聞こえる。大きすぎてまるで耳元を飛んでいるようだ。
腐臭と糞尿の悪臭を連れ添い、王冠を頂く巨大な蝿のような異形が君臨した。
体長は三メートルほど、羽根を合わせればその倍の巨躯。胴は金色に輝き筋骨隆々としており、網の目のような巨大な複眼は赤く輝いている。六本の足のうち四本はまるで手のようであり、一本には髑髏の杖を構えていた。
「下等生物が我を召喚するとは、我を王の中の王ベルゼブブと知ってのことか?」
その異形からは想像もできない若く透き通った男の美声であった。
「てめえがだれかなんか興味ねーよ。俺様の思うがままに戦えばいいんだよ!」
麗慈は操り糸でベルゼブブ拘束して手綱を握った。
「下賤な者の分際で我を……ぐっ……なん……だと?」
巨躯を揺らし、さらに羽根を動かし、髑髏の杖を振り回して暴れ、ベルゼブブは地面に墜落した。
赤い複眼に嗤う麗慈の顔がいくつも映る。さらに複眼はその異形の手を映し出した。
「その手はまさか〈死〉のものであるか? ん、んん、なんたることだ、その指輪はまさか、永らく失われていた〈ソロモンの指輪〉かッ!」
「あ? この指輪がなんだって?」
「指輪のことも知らぬ愚か者の手に渡るとは、悲劇を通り越して喜劇であるな。不本意であるが、我の力を貸してやろう」
「上から目線で話してんじゃねーよ蝿野郎。てめえは俺様の操り人形なんだよ!」
麗慈に操られたベルゼブブが、髑髏の杖を大きく振りかぶりながら紫苑に襲い掛かる。
地面に縦横均等に何本もの輝線が趨り、紫苑は妖糸を力強く引っ張り上げた。切り出したブロックで防御壁を作ったのだ。
髑髏の杖がブロックを粉々に破壊した。その先に紫苑はすでにいない。あったのは魔法陣だ。
〈それ〉の呻き声で地震が起き、地面が激しく揺れ狂い、残っていたブロックが積み上がると、この世に石の巨人が創り出された。
巨大な石の手が振り上げられ、巨大な蝿を叩き落とした!
落下の衝撃で地面が割れる。だが、ベルゼブブは無傷である。頂く王冠も数ミリもずれていない。
「ゴーレムとは小賢しい。石をも溶かす地獄の業火で滅してくれるわ」
ベルゼブブが杖を振り回すと、紅蓮の炎が吹き出し石巨人を覆い尽くした。
高熱によって焼かれる石巨人の躰にヒビが走る。何本も何本も、それは交差して、躰のあちこちが砕けていく。膝が崩れ、巨体が傾いた。
〈それ〉の手拍子はまるで太鼓のように大きな音を鳴り響かせる。どこかともなく聞こえてくる出囃子。
月下で舞い踊る巫女装束の人影。顔には狐の面。尻からは三本の金色の尾が生えていた。
狐面の巫女が尻尾で石巨人を焼く炎を払った。
灰と化して崩れた石巨人。
業火を宿した狐面の巫女の三本の尾。
ベルゼブブが巨大な口を開き、大量のイナゴの群れを吐き出した。
ただのイナゴではない。赤子から老人まで、イナゴの顔は人間そのものであった。
扇を取り出した狐面の巫女が舞う。
払う祓う、扇でイナゴを払っていく。
地面に落ちた虫の死骸はヒトの声で絶叫しながら灰と化す。
狐面の巫女は踊り続ける。尾に宿した業火を撃ち放った。
渦巻く狐火が叫び声をあげている。よく見ると数珠繋ぎになった髑髏が燃えてながら呪詛を吐いていた。
ベルゼブブが髑髏の杖を大きく掲げる。
「我は王であるぞ、ひれ伏すがよい」
汚泥が空から降り注ぎ、狐火を呑みながら地面に落とす。
〈それ〉の唸り声に共鳴し、汚泥が集合して泥巨人が生み出された。
泥巨人は不安定に歩きながら、そのまま倒れるようにベルゼブブに覆い被さろうとした。
大きく息を吸いこむベルゼブブ。
巨人を形作っていた汚泥が吸いこまれていく。
げっぷ。
胃から込み上げてきた汚い音をベルゼブブは鳴らし、泥巨人をすべて呑み込んでしまった。
辺りを見渡すベルゼブブ。複眼に映ったのは四方を囲む赤い鳥居だった。
ベルゼブブは鳥居の向こうに背を向けた己を見た。振り返ると己と眼が合った。左右も同じだった。まるで鏡に映っているようだ。
目の前にある鳥居をくぐる。すると、くぐる前と同じ場所に戻ってきてしまった。空間がねじれている。
鳥居の先には己がいる。その先にも鳥居があり己がいた。その先も、その先も、遙か先も、永遠に続く先さえも、無限に鳥居と己が続いていた。
空はどうだろうか?
闇が広がっていた。星の輝きすらもない。そこは夜空ではなかった。なにも見えない、なにも無いかもしれない闇だった。
鳥居は外から見ると1つしか存在していなかった。その先にベルゼブブの姿が見える。けれど、後ろに回ってもそこにベルゼブブはいない。鳥居の中だけにベルゼブブは存在しているのだ。
ベルゼブブの足止めをした隙に、狐面の巫女は麗慈に攻撃を仕掛けていた。
狐火が呪詛を吐きながら麗慈を呑み込まんとする。
異形の手から妖糸が放たれた。
炎を斬り髑髏を斬る。
斬られて割れた炎の先から狐面の巫女が飛びかかってきた。
切れ味鋭い妖糸が飛ぶ。
狐面の巫女は難なくそれを扇で振り払った。
面はただの面にあらず。面であるはずのそれが口を開けて牙を剥いた。
素早く麗慈は状態を剃らした。が、避けきれなかった。
首を狙った牙は外れ、肩に噛み付き肉ごと噛みきろうとした。
狐面が大きく振りかぶられ、麗慈の肩が大きく消失した。血の代わりに噴きだしたのは黒いヒルのようなもの。
狐面の巫女は顔面にヒルのようなものを浴び、さらにのどの奥でなにかが蠢く違和感で一瞬だが怯んだ。
嗤う麗慈が狐面に手をかけた。
めりめりめり。皮を引き剥がすような音がした。
剥がし取られた狐面が遠くに逃げ飛ばされた。
露わにされた巫女の顔。
血の化粧をした切れ長の目をした少女であった。
麗慈は少女の胸を鷲掴みにして地面に押し倒した。
「処女なら相手してヤッてもいいぜ」
少女は麗慈の背中に手を回して抱きついた。
二人の躰が一気に燃え上がる。
少女の放った狐火が麗慈の躰を泥のように溶かしていく。
崩れた顔で麗慈は嗤っていた。
「アハハハハハハ、燃えるような恋ってやつか?」
炎が消えた。
白目を剥いて転がる生首。
「殺したいほど愛してるぜ……いや、愛してたか。処女かどうか確かめる前に殺しちまったが、過去の女には興味ないんだ、あばよ!」
生首が蹴っ飛ばされて闇に消えた。
同時に赤い鳥居も壊れ、ベルゼブブが再び現世に還ってきた。
複眼は燃えるような色をしていた。
「つまらぬ遊戯であった」
杖の髑髏の眼からいかずちが放たれた。
紫苑は防御陣を張ろうとするが、空気中の放電は瞬きすら許さない速さだった。
電撃を喰らった紫苑が後方に大きく吹っ飛ぶ。
背中から落ちた。
動かない。いや、微かに腕を持ち上げようとしたようだが、糸が切れたように落ちて地面を叩いた。
溶けた躰を少しずつ再生させながら、麗慈は地面に転がる傀儡に近づいていた。
「丈夫な人形だな、服が焦げただけかよ」
全裸で再生された麗慈は足の裏で紫苑の腹を押しつぶす。
「もしもーし、元気ですかー?」
反応はなかった。
「俺様はいつでも元気ビンビンだぜ!」
麗慈は足を振り上げて紫苑の頭を蹴り飛ばした。
反動で白い仮面が飛んだ。
陶器のような白い肌、閉じられた瞼から花咲くように伸びた睫毛、淡い色をした唇もまた花の蕾のようだった。健やかに眠っているようにしか見えない。口元に耳を近づければ、吐息が聞こえてきそうだ。
しかし、実際には息をしてない。生きてすらいないのだ。
「だれかさんにそっくりでムカツク顔だぜ」
麗慈が片脚をゆっくりと上げ、紫苑の顔の上で止めた。
寒気がした。
麗慈が鬼気を感じて辺りを見回した瞬間、上げていた足が切り飛ばされた。
思わずバランスを崩して倒れた麗慈。地面に頬を付けながら、だれかが歩いてくるのを見た。
「同じような真似をしてみろ。たとえお前の力を必要としているとしても、八つ裂きでは済ますさんぞ」
赤緋のインバネス、無機質な白い仮面、D∴C∴の首領にして、愁斗の父――傀儡師蘭魔。
足を再生させた麗慈が立ち上がった。
「噂のドンか。蛇ババアがあんたのこと呪い殺してやるって言ってたぜ」
「お前の力を借りたい」
「おい、こっちの話はムシかよ」
「その手によって〈扉〉を開けて欲しい」
「あンだと?」
以前、蘭魔は〈鍵〉を探していると言った。つまり〈鍵〉とは麗慈のことだったのだ。正確には麗慈ではなく――。
「〈死〉から奪ったその手がタルタロスに続く〈門〉を開く〈鍵〉となる」
異形の手が〈鍵〉だった。
同じような手を蘭魔も持っていた。鳥のような鉤爪を持つ六本指の異形の手だ。
「模造品をこしらえてみたが、偽物では〈向う側〉への〈扉〉を開くことはできても、その先に続く〈門〉を開くことはできなかったのだ」
「〈向う側〉のさらに先があるなんて考えてもみなかったぜ。あっちいるときはこっち側に還ってくることばっかり考えてたからな」
そして、麗慈の答えは?
「あんたあいつの父親なんだってな。頭に蛆でも湧いてんじゃねーか、クソ野郎!」
麗慈の手から闇色の妖糸が放たれた。
その瞬間には別の闇色の妖糸が麗慈の妖糸を呑み込んでいた。
相殺。
蘭魔は白い仮面の下で溜息を漏らした。
「やはり失敗作だな」
「……失敗作、だと? 俺様が失敗作だと? どの口が言ってんだ、クソ詰めてやんぞオラ!」
「私の血を分けたと言っても、雑種ではやはり傀儡師にはなれんのだな」
「ん?」
「お前は私の子だ。子と言っても、組織の旧体制が進めていたプロジェクトにより、試験官の中で作られた実験体に過ぎんが」
麗慈は驚きもせず、嗤いもせず、ただ眉をひそめて黙った。
さらに蘭魔は話を続ける。
「実験体で生き残っているのはお前だけだ。それは私にとって予想外だったが、今となっては〈鍵〉を手に入れられる運命に感謝しよう」
「予想外だと?」
「そうだ、実験体は生まれる前から失敗作になるように私が仕組んだからだ。ある者は生まれる前に死に、ある者は病弱により死に、ある者は狂いながら死んだ。私は組織に血を提供したのだが、あらかじめ毒のようなものを混ぜておいたのだ」
「どーでもいい話だ。本当にクソみてえにどーでもいい話だな!」
風が喚く。
コンクリートやアスファルトは老朽化してひび割れ砕け、草木が萎れ枯れて木に止まって寝ていた鳥が地面に落ちる。大地は腐っていた。息絶えた鳥は瞬く間に腐食していき、やがては干からびて消える。王冠を頂く者はその中心に鎮座していた。
ベルゼブブが口からイナゴを吐く。
迫り来る群れを前に蘭魔は妖糸の網を張った。編み目は羽虫が通れるほどであるが、その穴は魔力で塞がれており、電撃でも喰らったようにイナゴが丸焦げになりながら死ぬ。
蟲が死ぬたびに聞こえる人間のような阿鼻叫喚。
ベルザブブが髑髏の杖を振り回す。すると業火が噴き出し轟々と風を巻き込みながら蘭魔を呑み込もうとした。
軽くて手首を動かした蘭魔。妖糸が空間を切り裂き、巨大な口を開けた。ひゅうひゅうと音を立て空間の裂け目が風を呑む。
業火が蘭魔の目の前で呑まれて消えた。
蘭魔は一歩も動いていない。その回りの大地は腐食してしまっている。足場を失ったから動かないのか、それとも動く必要がないのか。
インバネスをはためかせ、白い無機質な仮面はベルゼブブと対峙している。
激しく羽を震動させるベルゼブブ。
髑髏の杖が発光した刹那、稲妻が宙を横に翔る。
神速。
闇色の妖糸が稲妻と激突する。
白と黒の火花が散った。勝ったの蘭魔の妖糸だった。
叫び声をあげながら〈闇〉がベルゼブブの手足に絡みつく。
「うぬぬ……我らに縄かけるという事の重大さを知ってのことか!」
ついに蘭魔が歩き出す。
「貴公ら大罪人と争う気は毛頭ない。敵の敵は味方という言葉もあるが、邪魔はしないでいただきたいな」
階段を上るように宙を歩く。妖糸の上を歩いているのだ。
やがて蘭魔はベルゼブブよりも高い位置に着いた。
「屈辱であるぞ!」
見下されたベルゼブブが叫んだ。
白い仮面には感情はない。
蘭魔の手によって巨大な魔法陣が天空に描かれる。
まるで硝子が割れたように魔法陣ごと空間が飛び散り、巨大な手が降ってきた。
複眼はあきらかに畏怖の色をしていた。
「ケーオスよ、我はまだこやつに……くっ、うぬぬぬぬ……」
〈それ〉は巨躯の蝿をいとも簡単に鷲掴みにした。もがくことすら許されず、空間の裂け目に連れ去られる。絶対的な力の前では抵抗など無意味である。
世界に静けさが戻る。
満月の夜である。
放たれた妖糸。殺気を感じた蘭魔は宙を回転してそれを躱し、大地に着地してさらなる攻撃に備えて腕を構えようとした。だが、その動きは一瞬だけ驚きで止まってしまった。
此の世の者とは思えぬ艶やかな女。
月明かりを浴びた顔は蒼白く、それとは対照的に唇は妖々と朱く色づいていた。
傀儡紫苑。
その手から放たれた妖糸が蘭魔の首を切ろうとする。
生死を分けた一瞬に蘭魔は我に返りかろうじて上体を反らせた。
妖糸は白い仮面の頬を掠めた。
仮面の下から流れた赤い血が首元を伝う。
蘭魔は鬼気を発した。怒りである。仮面の下で蘭魔は憤怒しているのだ。
愉しそうな笑い声がきこえた。
「アハハハハハ、親子そろってコレが弱点なんだな」
紫苑を操っていたのは麗慈だった。すでに愁斗と紫苑のリンクは切れていたのだ。
強い殺意が自分に向けられていることは麗慈もわかっている。
「このダッチワイフがそんなに大事か?」
言葉を発した瞬間に、鋭い妖糸が麗慈に向かって飛んできた。
妖糸と麗慈、その間に割って入る紫苑。急に進路を変えた妖糸は、遙か遠くの木をなぎ倒した。
余裕の笑みを浮かべる麗慈。
「状況を理解しろよ。俺様はこの人質を自由に動かせるし、いつもで壊すこともできるんだぜ」
操人形は自らの片胸をまさぐり、もう片方の腕は長く伸ばされ、繊手は股間へと――。
「やめろ!」
蘭魔の怒号。
紫苑の繊手は腹のあたりでぴたりと止まる。
「お楽しみはここまでだぜ。この先は有料コンテンツだ」
ゆっくりと麗慈は後退りをした。
「俺様の目的はあんたじゃない。この人質はあいつへのプレゼントにするぜ。あばよ!」
背後に空いた空間の裂け目に麗慈が飛び込む。それを追って紫苑も消えた。
蘭魔は強く拳を握った。その間から血が滲んで滴り落ちる。
敵は去った。
蘭魔はその場を動かず佇んでいる。
少し離れた場所では、亜季菜と伊瀬が気を失って倒れていた。どちらも重症である。
車のエンジン音が聞こえる。何台もの車がこちらに向かってきているようだ。
しばらくして黒塗りの普通乗用車やバンなどが、蘭魔たちを取り囲んで停車した。
車から降りてきたのはスーツ姿の屈強そうな男たち、宇宙服のような白い防護服を着た医療班らしき者たちだった。
そして、車椅子に乗った女が蘭魔に近づいてきた。
「久しぶりね」
「…………」
白い仮面は無言だったが、少し間を置いてから、顔を亜季菜たちに向けた。
驚いた顔をしてすぐに顔色を曇らせた悠香は亜季菜たちの元へ移動した。
医療班たちが意識を失った二人を搬送しようとしている。
亜季菜と伊瀬、固く握られていた二人の手が医療班によって離された。
「あなたは強い子よ、回りには守ってくれる人たちもいる」
搬送される二人に目を向けていると、目の端でインバネスが風に揺れたのを見た。
「待ちなさい乱麻君!」
背を向けたまま蘭魔は立ち止まった。
無言のまま時が過ぎる。
蘭魔と悠香の間には隔たりが感じられた。
静かに深呼吸した悠香が背中に投げかける。
「過去が消えてなくならないわ。でも今は未来のことを話しましょう」
「話すことはない」
「そうやってなんでも自分一人で抱え込むのはやめて、アタシの気持ちも考えなさいよ!」
「話すことはないと言っているんだ」
「回りはあなたに巻き込まれて振り回されてるのよ。自分勝手も大概にしなさい」
車椅子は猛スピードで蘭魔の前に回り込み、勢いよく立ち上がった悠香はそのまま白い仮面にビンタを食らわせた。
自力では立てない悠香が地面に崩れそうになる。
蘭魔は手を貸さなかった。支えることもできたはずだ。
地面に尻と手をついた悠香は涙目で顔を上げて蘭魔を睨んだ。
「マジでクソ野郎ね、あなたって人は。昔からゲスでクソでろくでもなかったけど、優しいところもあったわ。今のあなたはなんなの?」
「不変なものなど此の世にはない」
「そーゆーこと言ってんじゃないのよ、バカなのアホなの?」
助けを借りずに悠香は車椅子に這い上がる。
少年の影がこちらに駆けてくる。
「父さん話がある!」
一足遅れてこの場にやってきた愁斗だった。
インバネスをはためかせ蘭魔が振り返る。と同時に拳が飛んできた。
思わぬことに愁斗は眼を丸くしながら頬を抉られ地面に激しく転倒した。
度を超した驚きで愁斗は声も出ない。
見ていた悠香も唖然と眼を丸くしてしまっている。
白い仮面の底から聞こえてくる声は静かに怒っていた。
「傀儡を奪われたな?」
「許容を越えた攻撃のせいで僕まで衝撃を受けて、一瞬気を失ってしまったときにリンクが切れてしまったんだ」
「お前に傀儡を託したのは失敗だった。紫苑を救うために、あの傀儡は絶対に必要なのだ」
その言葉を聞いて愁斗は辺りを見渡した。
「傀儡は?」
「あの小僧に奪われたままだ。奪還せねば」
蘭魔は異形の手によって妖糸を放ち空間に穴を開けた。
「待ちなさいよ、話はなにも終わってない!」
「父さんに聞きたいことが!」
二人の声を無視して蘭魔は裂け目に消えていった。
イライラしている様子の悠香を愁斗は見つめる。声をかけづらい。
「あの……」
「なに?」
いきなり睨まれた。
「亜季菜さんと伊瀬さんは?」
「アタシの病院に搬送中よ、命は助かると思うわ。それ以上のことは今はわからない」
「父さんの目的はなんでしょうか?」
「あなたのお母さんを救うことでしょうね。息子をいきなりぶん殴るマジキチ具合から考えて、紫苑を救うためならなんでもしそうだわ」
問題は山積だ。増えるばかりで一つも解決していない。
今度は紫苑を奪われてしまった。
蘭魔はどこへ?
紫苑を奪った麗慈はどこに?
そして、未だに翔子がどこに行ったのかわからない。
保護していると伝えた彪彦は、先の戦いで消失してしまった。
愁斗はスマホを出して通話をかける。相手は撫子だ。
――ピーという発信音のあとに。
留守番電話に繋がってしまった。続けてメールも送信した。
愁斗とD∴C∴の橋渡しは撫子しかいない。翔子の居場所は撫子が頼りだ。けれど、返事はすぐになかった。
「ここにいても仕方がないわ。いっしょに来るでしょう?」
「……はい」
二人はこの場をあとにした。
今宵は満月、夜はまだまだはじまったばかりだった。
病院というのは表向きで、実体は魔導の研究施設である。
最初に運ばれたのは、氷付けにされた麻耶である。白蛇の魔導士に肉体を乗っ取られた隼人と魂を共有させたことにより、麻耶も邪悪面に落ちてしまった。その結果、彼女は炎を操るサラマンダーと変貌して愁斗に牙を剥いた。現在、治療法を探すために、氷付けにされたまま経過観察されている。
下半身を石化された亜季菜は、ここに運ばれる前から意識不明の重体だった。そのままでは命が危険なため、仮死状態することで肉体の活動や血流の流れを止め、生命の維持を図っている。
石化により両腕を失った伊瀬はすでに意識を取り戻していた。強靱な精神と肉体が彼を支えている。それ以上に彼を奮い立たせているのは、亜季菜のことだ。
生命維持カプセルは謎の液体で満たされ、その中を浮いている亜季菜の口にはマスク、躰のいたるところはプラグで繋がれていた。下半身は石化したままだが一切の傷がない。
「治療法は私が探します」
伊瀬は研究病棟をあとにして、別の部屋に向かった。
扉を開けて入ると、中にいたのは愁斗と悠香。テーブルとパイプ椅子、テレビにホワイトボード、ほかにはとくになにもない部屋だった。
椅子に座っていた愁斗は少し驚いた顔で伊瀬を見ている。
「腕は大丈夫ですか?」
「ええ、前の腕よりも調子がいいくらいです」
手にはグローブ、腕は服で隠れていたが、伊瀬は袖をまくってそれを見せた。石化して砕かれた両腕の代わりに、鋼色に輝く金属の腕が取り付けられていた。
「世間には公表してないうちの最新型よ。骨組みはほぼ人間と同じ、動力源と脳からの信号を送る仕組みは魔導によるもの、繊細な動きにも対応できるわ。問題点は魔導式バッテリーが自動充電できないってことかしら。将来的には使用者の生体エネルギーから充電できるようにしたいわね。コスト面に関しては、商品ではないから多少高く付いても目をつぶりましょう」
これだけの技術がありながら、悠香はなぜ車椅子なのか?
愁斗は悠香の車椅子を少しだけ見たが、なにも言わずに目を逸らした。
近くにあった席に伊瀬もついた。
「状況の進展は?」
愁斗はスマホをテーブルに滑らせ、メールの画面を伊瀬に見せる。
「撫子から連絡がありました。いつでも出かけられるように準備しておくようにと。ただ、どこにどうやって、どこで待機してればいいのか、なにも書いてありません」
敵に必要以上の情報を漏らさないための処置だろう。
スマホをしまおうと手を伸ばしたとき、ちょうど通話の着信があり取ろうとしたのだが、あきらかに様子がおかしかった。通常でありえないほどスマホが激しく震えているのだ。それどころではない。震えるどころか飛び跳ねている。
愁斗と伊瀬は身構えた。
爆発でもしそうな勢いでスマホが跳ねる。
――それがぴたりと止まったかと思うと、思わぬことが起きたのだ。
一瞬だけ、あたりが閃光に包まれ、人影がスマホから飛び出してきたのだ。
「お迎えにあがりました」
耳の奥で妖しく響くような女の声がした。
躰のラインを惜しげもなく披露するラテックス製の黒いボディスーツに身を包み、ゴーグルと一体になったキャップには獣耳のような三角の突起があった。
「D∴C∴のライジュウと申します」
スマホを通して自らを転送させてきたのだ。
悠香は愉しそうに微笑んでいた。
「その技術一般化できたら便利ね」
「通信網を使った転送で、ほかの転送魔導に比べれば複雑さもありませんし、リスクもあまりありませんが、扱えるのは私だけです」
ライジュウは部屋を見渡して人数確認をした。
「今から本部に向かいます。転送できるのは私を含めて三人ですが、あと一人はどうなさいますか?」
ライジュウ、愁斗、あと一人ということだ。
「アタシは残るわ、現場主義じゃないの。伊瀬君が行きたいなら、行ってくれば?」
「私は……」
亜季菜のことが心配であるが、ここにいてもできることはない。じっとして待っているのも耐えれれなくなるだろう。
「ご同行します」
と、伊瀬は答えた。
ライジュウは愁斗のケータイを取って、どこかに通話をかけた。
「私の手をつかんで目を強くつぶってください」
両手を左右に軽く広げた。二人はその手をつかむ。
「3、2、1――」
カウントダウンをして、ライジュウは聞き慣れる言語で呪文を発した。
閃光!
三人は跡形も無くその場から消えた。
激しい警報が基地内に鳴り響いた。
「にゃ!?」
突然のことに撫子は驚き耳を塞いだ。聴覚の鋭い彼女にとって、突然の音は殴られたのと同じくらいの衝撃を受ける。
心配そうな表情をしながらドアに近づこうとしている翔子。
「どうしたんだろう?」
「待って翔子ちゃん、絶対これヤバイやつ」
引き止めて撫子は自分がドアの前に立った。
外から気配や音はしない。問題が起きているとして、とりあえず近くではないらしい。
「翔子ちゃんのことは絶対守るから。あのさ……アタシたち今でも友達だよね?」
「うん、ずっと友達だよ」
それを聞いて撫子は照れくさそうに笑った。
急に撫子が真顔になってドアから少し離れた。
「だれかくる」
二人はドアを注視しながら身構える。
撫子は無言でドアを指差して、何者かがドアの前にいるとジェスチャーした。
カードキーのロック解除音がした。
ドアが開いて長身の優男が入ってきた。
「お姫さま方、お迎えにあがりました」
姿を見せたのはシュバイツだった。
「にゃ、姫野亜季菜の護衛に行ってたはずじゃ?」
シュバイツの一件をまだ撫子は知らないようだ。
「その件なら……彼女は無事さ。今はそれよりもここから早く逃げたほうがいい。過激派が襲撃してきた」
「まただれか来る!」
撫子が鋭い聴覚で何者かの接近を捉えた。
蛇人間だ!
舌打ちをしたシュバイツは、迅速に蛇人間にアッパーを喰らわせて沈めた。
「二人は早く逃げて、俺はまだやることがある!」
自分ひとりで翔子を守りきれるのか?
撫子は一瞬考えたが、やるしかないと心に決めて、深く頷いた。
「行こう!」
撫子は翔子の手をつかんだ。
「うん」
不安は拭えないが翔子もじっとしていられないのを理解している。
二人が部屋を出て行ったのを見送り、残されたシュバイツは部屋を見渡す。スマホが置きっぱなしになっていたが、とくに気にも留めなかった。
「きゃーっ!」
遠くから少女の悲鳴が聞こえた。
すぐさまシュバイツは廊下に飛び出した。
人影を探した。いた、すぐに見つけることができた。
現場に到着すると、そこにはさっき別れたばかりの二人と、それと対峙している少年の姿があった。
翔子は撫子を抱きかかえながら、泣きそうな顔でシュバイツを見つめた。
「いきなりあいつが……」
撫子の腕についた鋭い刃物で切られたような傷。鮮血が流れ落ちている。
「ケガは問題ないっす。ちょっぴり油断しただけ。出会い頭にナイフ投げてくるとかマジ頭おかしい」
顔を上げて撫子が睨んだ先には薄ら笑いを浮かべるキラが立っていた。
「よお兄貴、手伝いならいらないぜ」
と、言ったキラの顔が少し曇る。シュバイツは翔子と撫子を守るように立ちはだかったからだ。
「おいおい、また裏切ったのかよ。こっちについたり、あっちについたり」
「その言葉をそっくりそのまま返すよ。それに僕は君と違って寝返ったことは一度もないよ」
「それってつまり、どっちの味方ってことだよ?」
「いつでも女性の味方さ」
先に仕掛けたのはシュバイツだった。
地面を蹴り上げ速攻で間合いを詰める。
キラはファイタータイプを相手にしたばかりだった。相手の間合いに入れば不利になる。飛び退きながらキラは煙玉を投げた。
辺りに広がった煙は敵味方関係なく姿を包み隠す。
速攻を妨げられたシュバイツは足を止め、気配に耳を澄ませた。
「僕の本職を忘れたんじゃないだろうね? 耳の良さには自信があるんだ」
ピアニストにしてファイター。不条理な戦闘スタイルである。
「そこだ!」
右ストレートを華麗に放つ!
が、シュバイツは目を丸くして口を半開きにした。
掠りもしなかったのだ。
背後に殺気を感じた。
違うっ!
腹にシュバイツは鈍痛を受け、軽くよろめいた。
「ヨーヨーが進路を変えたのか……いや、攻撃はたしかに背後から来たはずだ。そっちか!」
シュバイツの拳が空振りした――逆の方向からふくらはぎにヨーヨーの一撃を受け、思わず片膝を着いてしまった。
どこかから笑い声がきこえる。
「あはははっ、ばーか! こっちだよー」
声がした方向にシュバイツが顔を向けた瞬間、後頭部を痛撃が走った。
視界が白くなり、よろめいたシュバイツは床に両手をついた。
煙幕が晴れてくると、フルフェイス姿のキラが姿を見せた。
「ただの煙幕だと思ったら間違えでしたばーか!」
シュバイツの眼に映るキラは二重三重の残像で、声もあらぬ方向から聞こえてくる。感覚が狂わされているのだ。
煙の影響は撫子の超感覚も狂わせていた。
「ヤバイ……吐きそう」
腕の傷は問題にならないが、この状態では護衛は務まらない。過激派の襲撃を掻い潜り逃げることは難しいだろう。
シュバイツはキラと少女たちを交互に見た。
この場でキラを巻いて三人で逃げるのは難しいだろう。
少女二人だけを逃がしても、そのあとが問題になる。
答えはキラを倒して三人で逃げる。
凜と立ったシュバイツの瞳が金色に輝いた。
「ゲオルグ・シュバイツによる第一楽章」
咆哮!
耳を疑う野獣の雄叫びがシュバイツから発せられると、顔の筋肉が膨れ上がり毛で覆われ、裂けた口から獰猛な牙が生え、金色に輝きながら長く伸びた髪の毛は逆立ち鬣と化した。獣人化したその姿は獅子であった。
シュバイツの咆哮は幻覚を打ち消す効果もあった。
調子を取り戻した撫子は翔子に耳打ちをする。
「逃げたほうがいいよ」
「え、でも……」
言葉を詰まらせる翔子。自分たちを守るために戦っている人を置いて逃げるなんて――という考えも吹き飛ぶ惨劇が起きる。
魔獣が牙を剥いてキラに襲い掛かった。
投げられたナイフが強靱な筋肉に弾かれ、ヨーヨーも同じく無効化された。
まるで金縛りにあったように動けなくなって眼を剥いたキラ。
獰猛な牙が腕を噛み千切り、よろめいたキラのフルフェイスが岩のような拳で横殴りにされた。
消失した腕から鮮血を噴き出しながらキラが吹っ飛ぶ。
地面に力なく転がったキラに巨体が飛びかかる。
魔獣が鬣を乱しながら頭を大きく振る。
血が飛ぶ、肉が飛ぶ、臓物が飛んだ。
嬲られ、声すら出せず、生きながらにして喰われる。
顔を手で覆い隠す翔子の腕を撫子が無言で引っ張った。この場にはいられない。血の臭いが充満している。
我を忘れた魔獣は翔子たちが逃げたことに気付かない。少年を腹を喰らい続けている。おそらくとっくに絶命しているだろう。それでも喰らい続けていた。
しかし、思わぬことが起きたのだ。
血に彩られた繊手が少年の腹の中から突き出て、魔獣の頭部を抱きかかえた。
眼が合った。
野獣の鼻先に迫る妖女の微笑み。
「この子の眼を通してすべて視ていたぞ」
魔獣など畏れもしないメディッサの瞳。
野生の勘で魔獣はとっさに飛び退いた。そして、凶悪な存在を前にして理性を取り戻したのだ。
「視ていたからなんだというんだい?」
「裏切りは許さぬぞ」
血の海から這い出した裸婦の足下から無数の蛇が産まれ蠢いている。
「俺の任務は本部の制圧。少女たちを捕らえろだとか、殺せだとか、そんな命令は受けた覚えがないよ」
「ならば命じる。あの少女たちを殺せ」
「断る」
言葉を発した瞬間、蛇どもがシュバイツに飛びかかった。
獅子の爪が蛇を引き裂きながら振り払う。
妖女が高らかに嗤う。
「生きながらにして石になるがよい!」
妖しく輝く蛇眼。
靡いていた金色の鬣が色を失い石化して、呪いは顔を蝕もうとしている。
気高き咆哮!
大きく口を開けた魔獣の石化した頬にひびが趨った。鬣の一部と頬が少し砕けて落ちたが、そこで石化は止まったのだ。
「俺の肉体に宿りし悪魔の咆哮は魔導を無効化できる。さらに――」
再び吠えた。
すると、石化した部分が剥がれ落ち、下から新たな肉が盛り上がり皮膚で覆われ再生したのだ。
「今のは肉体を活性化させる咆哮だ」
長く伸びた金色の鬣が魔力を帯びて靡く。
さらに筋肉が隆々と盛り上がり、躰が一回り大きくなった。
スピードも増していた。
瞬く間にメディッサの顔面を殴り飛ばす。
強烈な一撃を喰らった頭部は、水風船が弾け飛ぶように爆発して、胴体が力なく倒れた。
蛇たちがメディッサの首元に群がり、妖女の嗤い声がした。
失われた頭部が生え替わり、ゆっくりと立ち上がったメディッサは血塗られた顔で微笑んだ。
「不死身なの」
「でも君はまだ人間の枠さ」
「お前はなんだというの?」
メディッサは侮蔑を孕んだ眼をしていた。
「半神半獣さ」
鋭い牙、強烈な拳、魔獣の咆哮が世界を震撼させる。
魔獣の猛攻で妖女の躰が次々と飛び散っていく。
蛇の群れが魔獣の全身に噛み付く。
獅子は高らかに笑う。
「毒蛇の脆弱な牙では俺の肉体に傷一つ付けられない」
魔獣は毒蛇を掴むと丸ごと喰らった。
「毒は甘美なワイン」
激しい咆哮がメディッサの躰を振るわせ、血が飛び、肉が削ぎ落とした。
「俺は七二柱プルソンの子。隠されたモノの在り処を知ることができる」
剥落して崩壊したメディッサの躰の中に何かがいる。蛇だ、一匹の小さき蛇がいた。
魔獣の手が伸びる。
メディッサが叫ぶ。
「触れるな!」
「見つけたぞ、お前を!」
魔獣の手の中で逃げようと踊り狂う蛇。
辺りを這っていた蛇たちが溶けて血になり、妖女もまた血だまりになった。
残ったのはメディッサの本体である。
「人間の枠と言ったのは訂正するよ。ただの爬虫類だ」
魔獣の握る手に力が入る。
木霊する女の絶叫。
小さき蛇は藻掻き苦しみながら力を振り絞った。
輝く蛇眼。
魔獣の手が這うように石化していく。
「無駄なあがきを!」
石化した手が握っていた蛇ごと床に落ちた。
潰されもげた半身を引きずりながら、小さき蛇が這って逃げる。
血だまりに消える小さき蛇を魔獣は見送った。
「やっと逃げてくれたか。君にはまだ死なれては困るんだ……ん?」
魔獣の聴覚が気配を感じ取った。近くの部屋からだ。三つの気配が突然現れた。
スマホの回線を使った転送魔導で、愁斗、伊瀬、ライジュウがD∴C∴本部にやってきたのだ。
部屋についたライジュウは辺りを見渡す。撫子と翔子の姿がない。そして、鳴り響くサイレンの音。
「詳細はわかりませんが、緊急事態のようです。この部屋で待機しているはずの撫子と瀨名さんの姿がありません」
やっと翔子に会えると思ったのに、危険に晒されているに違いない。険しい顔で愁斗は口を開く。
「早く探しましょう」
三人は部屋を出る。入り口には蛇人間が倒れていた。過激派の襲撃だとすぐにわかった。
廊下は血なまぐさかった。
血の海の中に内臓を喰われ、腹に穴を開けられた小柄な人の姿があった。
ライジュウがフルフェイスを外して顔を確認する。
伊瀬が眉を寄せた。
「誰にやられた?」
自分の腕を奪った敵が殺されていた。怒りが込み上げてくるが、その怒りを向ける相手は無残な姿で死んでいる。サイボーク化された拳を強く握った。
この場にシュバイツの姿はすでにない。なにがあったのか、知る者はひとりもいないかと思われた。
三人は先を急ぐ。
残された屍体の指先が微かに動いた。
腹を喰われ、自らが流した大量の血の海に浮かびながら、キラは眼をカッと開いた。
「……やっとクソババアのテンプテーションが切れたぜ」
蒼白い顔で少年は嗤った。
「あの糞野郎が生きてるのもわかったしな、次のゲームが楽しみだぜ」
廊下を駆ける二人の少女。
「大食堂を抜けて、キッチンから外に通じる隠し通路があるの」
前を走る撫子が言った。
ここまでの間、過激派には出くわしていない。撫子の超感覚で気配を避けているからだ。
大食堂の入り口で撫子が急に足を止めた。そして、無言のまま口元で人差し指を立てる。
蛇人間たちが食堂内に三人。
引き返すべきか?
敵がどこまで組織内に蔓延っているのかわからない。隠し通路はすぐそこなのだ。
俊足を生かして撫子は速攻を開始した。
鋭い爪が蛇人間の首を掻く。
蛇人間が床に倒れ、残る二人が撫子を見た。
短剣を構えると同時に蛇人間が突進してきた。
軽やかに宙を舞う撫子。蛇人間の頭を踏み台にして蹴飛ばす。二人目を沈めて、床に着地すると同時に裏拳を放った。
鋭い爪と短剣が交差する。
撫子の一撃は蛇人間の頬に三本の爪痕を残した。
だが、撫子も腕を斬られ、よろめき床を踏みしめ留まった。
不意を突いた奇襲はここまでだ。
蛇人間と撫子が対峙する。
斬られた腕を押える指の間から血が滲む。だいぶ深傷を負ったらしい。この腕は先の戦いでもキラにも斬られた利き腕だ。もう使い物にならない。
撫子は翔子に顔を向け、無傷の腕を上げて部屋の奥を指差した。
「キッチンに使われてないオーブンがあって、そこが隠し通路になってるから先に逃げて!」
翔子はすぐに動けなかった。傷ついた友達を置いていくことはできない。だが、その友達が必死な顔で逃げろと言っている。
友達の言葉を無駄にはできない。
意を決して翔子は部屋の奥に駆け出した。
蛇人間がそれに目をやった瞬間、撫子は床を力強く蹴り上げた。
敵が作った一瞬の隙、このチャンスは逃せない。
ほんの一瞬、遅れて動き出した蛇人間が短剣を突き刺そうとしてきた。躊躇いなく撫子はその刃を使えない腕の手を握り締めた。
残された片手に渾身を込める。
鋭い爪が蛇人間の顔を抉り殴り飛ばした。
床に倒れた蛇人間の息はまだある。
撫子は攻撃の手を止めることなく止めを刺そうと飛びかかろうとした。
その時だった!
部屋の奥に走ったはずの翔子は後退りをしながら戻ってきたのだ。その顔を恐怖で蒼白になっている。
翔子に気を取られた撫子の腹が急に熱くなった。
蛇人間が舌舐りをする。
「愚かな猫よ」
短剣が撫子の腹を貫いていた。
口から零れた血を撫子は舐め取った。
「猫には九つの命があるの、知らなかった?」
鋭い爪が蛇人間の首を掻っ捌いた。
最後の蛇人間を倒し撫子は翔子の元へ駆け寄ろうとした。
怯えた翔子が見ているものは?
「隼人先輩……なんですか?」
白い蛇の鱗で覆われた肌を除けばその姿はよく知る隼人であった。
今や邪悪な魔導士と化した白蛇の隼人。
「翔子ちゃん、こんなところでなにをしているんだい?」
邪悪な笑み。優しかった先輩の笑顔はもうなくなってしまっていた。
撫子が二人の間に割って入り、翔子を庇うように立ちはだかる。
「翔子ちゃん……ここにいる隼人先輩は、敵の手に落ちちゃったの。麻耶先輩といっしょに」
驚きで翔子は言葉も出せず目を丸くした。
眼に映るものが現実ならば、隼人が敵になったと信じるほかない。
でも、麻耶までもがなぜ?
混乱する翔子は悲しい顔をしながら、一筋の涙を流した。
どうして?
隼人と麻耶が巻き込まれなければならなかったのか?
どうして?
自分はこんなところにいるのだろうか?
どうして、どうして、どうして?
――だれのせい?
「うあぁぁぁぁっ」
叫びながら翔子はうずくまった。
もう翔子は逃げる気力すら喪失させてしまっている。
撫子は唇を噛みしめた。
こんな状態の翔子を無理矢理に引っ張って逃げても、足手まといになるだけで、白蛇の隼人の追撃は躱せないだろう。
血が滴り落ちる。
腹からの出血が酷い。片腕は完全に使い物にならない。武器は片手の爪と自慢の脚力。
先に仕掛けたのは撫子だった。それは焦りからだ。手負いの猫は焦っていた。
蛇が牙を剥く。
白蛇の隼人は杖を振り回し、小さな竜巻を起こした。
伸ばされた撫子の爪は敵まで届かない。狂風に巻き込まれ、躰を浮かせた撫子は回転しながら吹っ飛ばされた。
背中を激しく床に打ちつけ落ちた撫子。天井から白蛇の隼人が降ってくる。
「死ねぃ!」
杖の尖った先端が撫子の胴を突き刺ささんと迫ってくる。
床を転がった撫子の真横に杖が突き刺さった。
かろうじて串刺しは回避したが、重い蹴りが撫子の腹を抉った。
「くっ……ぅ」
短剣で突かれた傷口を蹴り上げられ、激しい痛みを覚えながらも撫子は瞬時に立ち上がった。
脚に力が入らない。自慢の脚力も役に立ちそうもない。視界も霞んできた。
「……翔子ちゃんは絶対に……守る!」
「大切なものを守りたい気持ちはよくわかる。そして、守れなかったときの絶望もな」
白蛇の隼人は撫子に背を向けて走り出した。
狙いは翔子だ!
あとを追おうとした撫子に、蛇の杖が毒液を吐き飛ばす。飛び退いた撫子。一瞬の足止めであったが、それで充分だった。
白蛇の隼人は両手で杖を握り大きく振り上げる。
うずくまっている翔子の背中に鋭い杖の先端が迫る。
悲痛な叫び。
「やめて!」
撫子は涙を流した。
無慈悲な一撃が心の臓を貫く――かに思われた。
表情を曇らせる白蛇の隼人。
杖の先から伝わる肉を突いた感触。だが、その杖は心臓を貫くことなく途中で止まっていた。
硬い何かがそこにあると感じた瞬間、白蛇の隼人は大きく後方に吹き飛ばされていた。
風が鳴いている。
黒い渦が翔子を取り巻き荒ぶっている。
いったいなにが起きたのか?
静かに鎮まる黒い渦は翔子の躰に巻き付き、それは漆黒のドレスになった。
玲瓏な声。
「爬虫類の分際で妾に牙を剥くか?」
翔子の声でありながら、翔子ではない者の声だった。
なにが起きたのか理解できた者はいないが、明らかに違う。その表情さえも。中身が違うということだけは場にいた者たちは直感できた。
撫子は驚きながら声をかける。
「翔子ちゃんなの?」
返されたのは月のような静かな微笑み。魔性である。
次の瞬間、翔子が消失した。美しい声だけを残して――。
「シャドービハインド」
慌てて辺りを見回す白蛇の隼人の影から、何者かが這い出て背後を取った。
白い繊手が白蛇の隼人の首を撫でる。
「どうしたいかえ?」
翔子は問うた。
耳元で囁かれた白蛇の隼人は腰が砕けそうになったが、かろうじて持ちこたえて翔子を振り払って間合いを取った。
つもりだったが、視界に翔子の姿がない。
「後ろじゃ」
振り返った白蛇の隼人は驚き眼を剥いた。
濃厚な口づけ。
翔子の顔を持ちながら妖艶な表情をする者は、白蛇の隼人の口にしゃぶりつき、舌を絡めながら押し倒した。
眼を剥いたままの白蛇の隼人の肌から鱗が剥がれて落ちる。下から現れたのは人間の皮膚。蛇の呪いが解かれようしている。
そのまま隼人は気絶した。
幽鬼のようにゆらりと立ち上がった翔子。
「無駄な抵抗をするでない」
その腹の内で何かが暴れ蠢いている。ゴブゴブと腹を突き上げ、ついにそれは肉を食い破って這い出てきた。
動じることのない翔子は素手で腹から生まれた白蛇を鷲掴みにした。
「妾の肉体を奪えぬと知って腹を食い破り出てきたが最期」
白蛇が嗚咽を漏らすと、その口から黒い液体が零れた。
掴んでいた手から力が抜かれると、白蛇は力なく床に落ちた。
そして、黒い液体を撒き散らしながら爆発したのだ。
叫び声、鳴き声、嗤い声。
飛び散った黒い液体は食い破られた翔子の腹に、吸い込まれるように呑まれていった。
穴の空いた腹は傷一つなく修復され、漆黒のドレスで覆われた。
首だけになった白蛇の眼を通して視ていた者がいた。
急に力を失って翔子が気絶した。慌てて撫子が駆け寄り抱きしめる。躰を包んでいた漆黒のドレスも消えてしまった。静かに瞳を閉じる翔子の表情は苦しそうだったが、別の者の存在は感じられなかった。
手負いの撫子と気を失っている翔子。
敵がまたいつ現れるかわからない。
撫子は翔子を担いで逃げることにしたのだが、二人しかいなかった部屋に気配が急に現れたのだ。
思わず躰を強ばらせて撫子は辺りを見渡した。
蛇人間の屍体の腹が動いている。
寒気がした。
屍体の腹から手が突き出た。妖しく微笑む顔がこちらを向いた。血みどろの妖女が這い出てきたのだ。
再び姿を現わしたメディッサ。
「その場にいなくとも、この身を震わすほどの魔力を感じたわ。その子が欲しい、愛する貴方のために、その命を捧げなさい」
ゆっくりと歩こうとしたメディッサだったが、その片脚が急に崩れて血肉と化し、バランスを崩して床に倒れてしまった。残る脚も崩れてしまい、下半身は原型を留めることができず、血の海に還ってしまった。本体が深傷を負わされたせいで、肉体が形をつくれないのだ。
それでもメディッサは妄執に燃える瞳で地を這い翔子たちに手を伸ばす。
「欲しい、嗚呼、欲しい……その満ちる魔力を……」
蛇のように這い寄るメディッサの手が翔子の足首を掴んだ。
「翔子ちゃんに触んないで!」
妖女の血だらけの腕を撫子は掴んで、翔子の足首から引き剥がそうとした。だが、足首に爪が食い込んでおり、無理に剥がそうとしようものなら、肉ごと抉られてしまいそうだった。
撫子は口を開けて妖女の腕に噛み付こうとした。
その時だった、鼻先を輝線が趨った。
「キエェェェェッ!」
絶叫をあげたメディッサの手が翔子の足首を掴んだまま切り落とされた。
鬼気が世界を震撼させる。
血塗られたインバネスを纏う白い仮面の主。
禍々しい瞳でメディッサは叫ぶ。
「この疫病神め!」
放たれた輝線が大きく開けられていた口を斬り、鼻から上がずり落ちて床に転がった。
メディッサの肉体が血に還る。強敵を前にして逃亡したのだ。
畏怖により撫子は動けなかった。
蘭魔は膝をついて翔子の様態を診た。
「やはり……不完全ながら、たしかな傀儡師の業だ。これを愁斗が成したというのか……しかし、この〈ジュエル〉から発せられる魔力は……」
白い仮面から発せられる言葉を撫子は脳内で咀嚼しながら、発するべき言葉を探して絞り出す。
「翔子ちゃんは無事なんだよね?」
「…………」
白い仮面は無言のまま答えなかった。撫子には目もくれず、食堂の入り口に目を向けていた。
三人の人影が駆け込んだ来た。
「父さん!」
まず声をかけたのは愁斗だった。
その言葉を聞いて撫子は驚いたようだった。
「え……首領がお父さん?」
その事実を撫子は知らなかったらしい。
ライジュウが辺りを確認しながら撫子に声をかける。
「なにがあったの?」
「なにってお姉ちゃんがいない間に、過激派が襲ってきて、翔子ちゃんが……翔子ちゃんが……ぐす」
顔をぐちゃぐちゃにして泣き出した撫子。
その腕に抱かれていた翔子を愁斗が抱きかかえる。
「翔子になにが?」
答える者は?
撫子はライジュウに胸に顔を埋めて泣いている。
「ううぅ……」
「泣いてもなにも解決しないわ。まずは自分の手当をしなさい、出血が酷いわ」
「でも……」
なにがあったのか?
隼人の様態を伊瀬が診ていた。
「気を失っていますが、命に別状はないでしょう」
白蛇の呪いが消えていることに愁斗も気がついた。元の姿に隼人が戻って安堵もあるが、罪悪感は消えることなく愁斗を苛む。隼人と麻耶とどう向き合っていいのか、答えを探すには時間がかかりそうだ。
「父さんが白蛇の呪いを?」
「駆けつけたときには、すでに解かれあとで、この場にいたメディッサには逃げられた」
泣いていた撫子がライジュウの胸から顔を上げた。
「急に翔子ちゃんが別の者に変わったの。見た目は翔子ちゃんのままなんだけど、心臓を突き刺されそうになって、急に黒い渦に包まれた翔子ちゃんが、まるで別人になっちゃって、漆黒のドレスを着て、それで……隼人先輩を……あの……ええっと、治したかと思ったら、急に気絶しちゃって」
混乱して状況をうまく説明できないようだった。
白い仮面の奥でつぶやく。
「漆黒のドレスか……」
蘭魔になにか心当たりがあるのだろうか?
再び蘭魔は翔子の様態を診た。
脈拍は正常。
息もある。
見た目は人間と変わらない。
心臓の鼓動も聞こえる。
だが、そこにあるのは心臓ではない。
蘭魔はメスのように輝線を趨らせ翔子の胸を開いた。
血は出なかった。繊細で完璧な手さばきで斬られた傷は、本人も肉体も、斬られたことに気付かない神業であった。
かつて愁斗が翔子の胸に埋め込んだ〈ジュエル〉。これによって翔子は生かされている。
命の輝きを放つそれに、蘭魔は微かだが何かを視て取った。
「〈ジュエル法〉は蘇生術ではない。生きた傀儡をつくる業だ。〈ジュエル〉は肉体に影響を及ぼすが、場合によっては精神にも……意図的な……」
蘭魔が〈ジュエル〉に触れようとした瞬間、〈闇〉が牙を剥いて手に絡みついてきた。
慌てず蘭魔は手を引く。
「異形の手でなければ喰われていたな」
〈ジュエル〉は輝いていた。微かに〈闇〉を孕みながら。
瞬く間に蘭魔は開いた胸を縫合した。傷痕一つない。
立ち上がった蘭魔は異形の手で妖糸を放ち、空間に裂け目をつくった。
「愁斗よ、傀儡館に行くのだ。〈ジュエル法〉はそこで生み出された」
「父さん、また僕を置いて!」
父が振り返ることはなかった。赤緋のインバネスが闇に呑まれて消える。
「……っ、父さんはなにがしたいんだ」
サイレンの音は消えていた。
過激派の襲撃は失敗に終わったのだ。
やっと翔子との再会を果たした愁斗だったが、当の翔子は気を失ってしまっている。
時間が経てば目覚めるのだろうか?
もし目覚めなかったら?
最後に翔子と言葉を交わしたのはいつだったか?
遠い遠い昔のことのようだ。
また彼女の笑顔を見ることができるのだろうか?
愁斗は回りを巻き込み、世界は悪いほうに変わってしまった。
もう元には戻らないかもしれない。
やり直すことはできない。
過去を変えることができないのなら、未来を築くしかないのだ。
愁斗は唇を噛みしめながら拳を握った。
深夜に輝く満月。
傀儡館は郊外の山奥にあった。
周辺の山ごと私有地であり、今はD∴C∴が裏で管理していた。
崖にほど近い場所に不自然に開けた土地ある。
「ここだな」
愁斗はつぶやくと妖糸を放った。
不可視の結界が張られていた。
その結界は傀儡師の糸により解くことができる。
一筋の輝線により亀裂が生じた結界は、硝子が砕けるような音を立てながら、その役目を終えたのだった。
姿を現わした洋館を見て撫子がつぶやく。
「幽霊とか出そうなんですけど」
構わず愁斗は先に進んだ。あとを翔子を背負った伊瀬が追い、慌てて撫子も駆け足で追った。
ドアには鍵がかかっているようだったが、鍵穴がない。
頭の中で誰かが語りかけてきた。
《お帰りなさいませ愁斗様》
扉が自動的に開いた。
「今の声、聞こえましたか?」
愁斗は伊瀬に尋ねた。
「声……いや、聞こえなかったが?」
「にゃににゃに、あたしも聞こえてないよ?」
聞こえたのは愁斗だけらしい。
暗かった玄関ホールに明りが点く。
正面には二階に続く大階段。踊り場には絵が飾られている。巨大な門に悪魔と天使が群がっている絵画だ。
さきほどの声の主はだれだったのか?
自分の名前を知っていた。だが、愁斗はここに来た記憶がなかった。
気配がした。
廊下の先に人影が見えた。赤黒いローブを羽織った小柄な影。
愁斗はすぐにあとを追ったが見失ってしまった。
腹を押えながら撫子が駆け寄ってきた。
「いきなり走らないでよ」
「だれかいたような気がした」
封印され外界から遮断された屋敷に誰かが住んでいるのか?
その考えを愁斗は思い直した。
「ひどい埃だ、足跡が残るくらい」
自分の足跡しかなかった。
「幽霊でも見たんじゃないの?」
撫子の言うとおり、先ほどの人影は幽霊だったとでもいうのか?
古い洋館には幽霊は付きものだが、あの赤黒いローブはまるで……。
玲瓏な少女の声がする。
《あの女の車を調べましたところ、トランクに男の屍体がございました》
振り返った愁斗の瞳に映ったのは、翔子を抱えた伊瀬の姿。
今の声は入り口で出迎えた声と同じだ。
今度は別の声だ。
《腐ったシーチキンも食い飽きたな》
少年らしき声だった。やはり姿はない。
愁斗は廊下を歩く。妖糸はいつでも放てるように構えていた。
この屋敷には自分たち以外誰もいない。それは確かである。だが、気配と声がするのだ。
少しだけドアが開いたままになった部屋があった。
ドアの前に立つと、中から声が聞こえてきた。
《〈ジュエル法〉は本当にあんたの妹を蘇らせるためだけのものなのか?》
若い男の声。聞き覚えがある。現在の声とは違うが、おそらく若かったころの声に違いない。
扉を開けたが、そこにその者はいなかった。
ここは書庫だった。部屋を埋め尽くす本棚があり、蔵書を数えるだけ骨が折れそうだ。
「くしゅん!」
撫子が埃を吸ってくしゃみをした。
ここにある本はどれも埃を被っている。
歴史、生物学、科学、魔術、宗教、エトセトラ――。
《何語だよ、読めねーよ》
少年らしき声がした。
書物は数多の言語で書かれていた。読めなくて当然である。
とくに魔術関連の書物はラテン語や古代ヘブライ語で書かれているものが大半だ。
愁斗は赤黒いローブを幻視した。
陽炎のような小柄な人影が本棚の前に立っている。そして、すぐに消えた。
その人影が立っていた本棚をすぐに調べた。
床に本棚を引きずったような傷痕が残っていた。
導きがなければそれを見つけるのは困難だっただろう。本の一冊がスイッチになっており、引き出そうとすると本棚が動きだし、隠し階段が現れたのだ。
地下へと続く螺旋階段。
「地獄に続く階段だったりして」
「静かに」
茶化す撫子を愁斗は軽く睨んだ。
薄暗い階段の先に明りが見える。その先から声がする。
《この研究が完成したら、本当の目的を聞かせてくれてもいいんじゃないか?》
若い男の声だった。
地下で愁斗が見つけたのは研究室だった。
化学めいた実験器具のフラスコやビーカーをはじめ、棚には薬品に漬けてある植物や生物が見つかった。
机の上に本が置きっぱなしになっていた。埃を被っているが、書庫にあった本よりは新しそうだ。それは日本語で書かれた日記帳だった。
その文字を見て愁斗は不信感を抱いた。
「この筆跡は……僕のものだ」
ありえない。
書いた記憶がないどころか、知り得ぬ知識が書かれている。自分には書けない内容だ。
傀儡師について、召喚について、魔術と魔法陣について、傀儡の作り方について。
日記帳には同じ筆跡の資料がいくつも挟まれていた。
〈ジュエル法〉についての記述。蘭魔が考案した〈闇〉を原材料とする傀儡製造法を基礎として、当時の共同研究者が考案した〈ジュエル〉により、死者の黄泉がえりを実現する。
魂=アニマを結晶化したものを〈ジュエル〉に加工して、それを傀儡に取り付ける。という文章には何本も線が引かれ読みづらくなっていた。
そして、近くに殴り書きがあった。
――失敗だった。
「僕はなぜ〈ジュエル法〉を知っていたんだ?」
この場所に来た記憶はない。
父から〈ジュエル法〉を学んだ記憶もない。
しかし、愛する者が死に直面したとき、愁斗は〈ジュエル法〉を翔子に施した。
「記憶にないだけで僕はここで研究していたのか……だとしても『失敗だった』とは、なんのことなんだろう」
この屋敷に来て三人の声を聞いた。
一人目は少女の声。
二人目は少年らしき声。
三人目は若い男――そう、若かりしころの蘭魔の声だ。
つまり、三つ目の声は過去の声ということになる。
ならば残る声も過去の声、幻視した赤黒いローブの人影も過去の残留思念だろうか。
赤黒いローブの人影はだれか?
もしも記憶を失っているだけで、過去にここに来たことがあるならば、あのローブの人影は――と考えたが、愁斗はその考えをすぐに改めた。
「僕はあの子を知ってる気がする……少なくとも僕じゃない」
日記帳を再び読もうとしたのだが、そこにあったはずの日記帳は資料ごと消えていた。本の形を残していた埃の跡すらもなく、机には埃が積もったままだった。
《あなたこんなところにいたのね》
今まで聞いたことのない女性の声だった。ずっと昔から知っているような、聞くだけで心が安らぐ不思議な声だ。
《なんだエリスか、また悪戯な双子かと思ったよ》
《あの子たちなら遊び疲れて寝ているわ》
《本当に手の焼ける子供たちだよ》
《誰に似たのかしらね?》
《お兄ちゃんは君に似てると思うよ》
《ならお姉ちゃんはあなたに似たのね》
男女の微笑ましい笑い声が消えていく。
愁斗は眩暈を覚えて床に膝を付いた。
「なんなんだこの屋敷は……」
「大丈夫ですか愁斗君、顔色が悪いようですが?」
伊瀬の声が遠くから聞こえる。近くにいるのに感覚がおかしい。
屋敷の影響を受けているのは愁斗だけだ。超感覚を持つ撫子も、感覚は常人である伊瀬も影響を受けていない。
《愁斗様、こちらです》
少女に呼ばれた。
《こちらです、こちらです愁斗様》
どこなのか?
なぜ呼ばれているのか?
《過去未来現在、いくつも存在する世界の中で、わたくしは愁斗様のお帰りをお待ちしておりました》
「いったいなにを言ってるんだ?」
《わたくしはここにおります》
撫子が部屋の隅に置かれた木箱を指差した。
「宝箱はっけーん!」
その箱には名が刻まれていた。
Alice
伊瀬の背中で気を失っていた翔子が動いた。
「目を覚ましたか翔子さん?」
返事はなかった。
瞳を閉じたまま夢遊病のように翔子は伊瀬の背中を降り、一人で木箱に向かって歩き出した。
木箱がひとりでに開く。
翔子の胸がまばゆく輝いた。
世界が視界から消える。
暗転した。
愁斗は自分の手足の感覚が失われたことに気付いた。躰がそこにある感じがしない。視界のみがそこにあった。
過去、未来、現在。
数多の世界を幻視する。
東京上空に聳える巨大な門。
白い翼を持つ〈光〉の軍勢と黒い翼を持つ〈闇〉の軍勢が、〈門〉に向かって進撃する。
〈光〉の軍勢を率いるは燦然と輝く六枚の翼を持つ少女。
〈闇〉の軍勢を率いるは漆黒に輝く六枚の翼を持つ少女。
かつて双子は一つの存在であり、一二の翼を持つ存在であった。
〈光〉の軍勢の中に〈闇〉を纏いながらも、月にように輝く妖女がいた。
ベールで顔を隠し口元だけを覗かせていた妖女は、両軍が激突する瞬間、こちらを見て微笑んだのだ。
世界は破滅した。
閃光と暗転。
芸者か花魁か、桜模様の華やかな着物姿の女が輝線を放った。
宙に描かれた魔法陣。
「魅せやしょう、傀儡士の奥義召喚術。篤とご覧あれ!」
〈それ〉の咆哮にも負けぬ雄叫び。
空間の裂け目から見えた一角。その者は自ら裂け目をこじ開けこちら側にやってくる。
鬼気を孕む狂風。
荒々しく恐ろしい力を持った鬼神が来る。
褐色の上半身を露わにした半裸は骨太で筋肉質で逞しく、燃え上がり逆立つ髪から極太の角が長く伸びていた。
その肉体に反して、尊顔は眉目秀麗な若者であった。
鬼神はひょうたんに入れていた酒をグイッと飲み、棍棒を振り回して肩慣らしをした。
「狐狩りか」
対峙するは妖艶な美女。だが人間ではない。金色に輝く三尾の尾を持つ妖狐である。
「可愛い顔した鬼ぃさんだこと」
三尾が地面を鳴らし摩擦で生まれた業火が鬼神を呑み込まんとする。
妖魔たちが戦いを繰り広げようとしている中、お蝶の背後にいた葛籠を背負った黒子がこちらを見ているようだった。
激しい雄叫び。
業火が世界を呑み込んだ。
洋館の一室で若い女が嗤っていた。
「きゃははっ……きゃははは……屍体は……あんたたち屍体をどこに隠したのよ!」
目を赤く腫らしながら、醜悪に歪んだ口で吠えた。
薄闇で顔を隠す少年が女の後ろを指差した。
「……屍体ならあなたのすぐ後ろに」
女の絶叫。
眼を見開いた女の頸動脈から血が噴き出し、痙攣しながら床に倒れた。
悲鳴が聴こえる。鳴き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。
耳を塞がずにはいられない苦痛に満ちた声。
「〈闇〉よ、喰らえ!」
裂けた空間から〈闇〉が叫びながら飛び出した。
〈闇〉は屍体の腕を掴み、足を掴み、胴を掴み、躰に絡み付き、呑み込んだ。
床に血を一滴も残さず、〈闇〉は泣き叫びながら裂け目に還っていく。
「これで終わりだ」
少年が呟くと、〈闇〉の還った裂け目は完全に閉じられた。
その傍らで金髪碧眼の少女が尋ねる。
「屍体が蘇って復讐をしたのか、それとも××様が操ったのでございますか?」
「さあ?」
惚ける少年の口元が暗がりの中で嗤っていた。
少年がこの場を立ち去る。
あとを追おうとした少女がふと振り返った。目が合った気がした。
やがて少女も消え、灯りも消えた。
雷が落ちた。
豪雨が街を濡らす。
雨は汚れを洗い流してはくれない。この街は腐っている。蛆のように湧いてくる異常犯罪者。
粘液のついた赤黒い触手が、学生服姿のボーイッシュな少女に絡みつく。
太腿を這い、首筋を這い、スカートの中に侵入していく。
「グエヘヘヘヘヘッ!」
下卑た笑いをあげた犯罪者。その姿は異常であった。
頭部には顔はなく、そこにあるのは縦に避け牙を剥き涎れを垂らす巨大な口のみ。躰は男と思われるが、一〇本の手の指は赤く黒い触手になっていた。
怪物に甚振られるボーイッシュな少女の口に触手が潜り込む。
その光景を目の当たりした制服姿の長い黒髪の少女は泣き叫んだ。
「つかさ!」
その名を呼ばれた少女は怪物に拘束されたまま身動き一つしない。目からは色が消えていた。
雷鳴が轟いた。
稲光りに照らされた般若面。
鬼気を放ちながら凜と立っていたのは、長い黒髪の少女。
だが、顔を隠す〈般若面〉、手には裁ち鋏という異様な出で立ちであった。
「殺す殺す殺す、妹を泣かす糞野郎は××を切り刻んで殺してやるッ!」
まるで人格が変わったように、狂乱する少女は両刃が研がれた裁ち鋏で怪物に立ち向かった。
槍のような触手が少女に襲い掛かる。
「キャハハハハハハ!」
少女は嗤っていた。
斬り飛ばされた触手がうねりながら血の混ざった白濁液を吐く。
踊る踊る斬られた触手たちが宙で踊り狂う。
絶叫した怪物の口から汚物が吐かれた。
触手の支えを失ったつかさが地面に向かって落ちる。
茶色いローブの影が地を駆けた。
つかさを受け止め抱きかかえた美影身。
茶色いフードを濡らす雨。滴り落ちる粒が白い仮面の頬を伝った。
「助けは不要だったか?」
口調は男だが、声は玲瓏な女。
〈般若面〉の耳にその言葉は届かなかった。
「キャハハ、キャハハハハハッ!」
裁ち鋏の切っ先を何度も何度も横たわる怪物の股間に突き刺している。
狂っている。
この街は狂っていた。
水溜まりに流れ出す朱色。
黒猫がいた。
〈般若面〉の少女の傍らにある水溜まりの中から、不気味に嗤う黒猫がこちらを見ている。
血の雨が降る。
視界は朱に染まった。
〝向こう側〟から、歌うような清らかな〈それ〉の声が心を震わせた。
「光の遊戯に魅せられといい!」
少年の高らかな宣言に合わせて、〈それ〉の息吹は世界に花の香を運び、翅の生えた乙女が顔を魅せた。
七色に輝く蝶の翅を持つ乙女は愛くるしい笑顔を浮かべた。
乙女は死の黒土を自由気ままに飛び交い、通った大地に色取り取りの花を咲かせていった。
瞬く間に辺り一面は芳しい花畑となり、夜だった世界に光が差しはじめた。
絶景ともいうべき世界に生まれ変わったのだ。
しかし、それは偽りだった。
花々が次々と枯れて逝く。
差しはじめていた光もどこかに消えうせ、夜の世界を紅い月華が照らした。
そして、乙女にも異変が起きはじめていた。
愛くるしい顔の下でなにが蠢いている。皮膚を喰い破って湧き出てくる蛆。乙女の顔は髑髏と化してしまった。
それを見て少年は艶笑していた。
「ボクは光属性に躰をつくり変えられた。けどね、心は深い闇のまま。光が正義だと誰が決めた? ボクが司っているのは偽善さ!」
少年は薔薇色の背徳を背負っていたのだ。
乙女の手は蟷螂のような大鎌に変貌し、髑髏の形相は死神を思わせた。
耳を塞ぎたくなるような絶叫をあげて、乙女が少女に襲い来る。
「死神が俺の命を狩りに来たか……」
邪悪な笑みを少女は浮かべた。
刹那、少女の手から放たれる妖糸の戦慄。
大鎌と妖糸が一戦交える。
勝ったのは大鎌だった。
けれど、少女は動じていない。むしろ嗤っていた。
少女の少し前方の地面が妖しく輝いた。
魔法陣だ!
少女は少年に気付かれぬように、地面に魔法陣を描いていたのだ。
おぞましい〈それ〉の呻き声が世界に木霊し、怯えあがった乙女の動きが凍りついてしまった。
〈それ〉の呻き声は大気を振動させ、花枯れた死の荒野を震えさせ、おぞましい〈死〉をこの世に解き放った。
巨大な黒馬に似た怪物に跨る異形。黒く逞しい筋骨隆々の巨躯から伸びる太い腕の先には、投げ槍と蠍の尾でできた鞭を持っている。そして、皮膚の全くない頭蓋骨には王冠が戴いていた。
――この〈死〉には片腕がなかった。
黒馬が嘶き前脚を高く上げ、〈死〉が槍を乙女に向けて投げつけた。
乙女の背を抜けて貫通する槍。
〈死〉の雄叫びと乙女の絶叫がシンクロした。
蠍の鞭が乙女の首を刎ねた。
地に転がった髑髏の頭部に湧いていた蛆が干からびて逝く。乙女が〈死〉に殺された。
少年は実に楽しそうだった。
「ボクもそんな子を召喚したいケド、ボクはこんなのしか召喚できないよ」
少年はすでに新たな魔法陣を宙に描いていたのだ。
魔法陣の〝向こう側〟で〈それ〉は〈死〉を慈しんでいた。
黄金の風が世界に吹き込み、魔法陣から巨大な純白の翼が飛び出した。その巨大さは他を圧倒しており、〈死〉の巨躯を遥かに凌ぐ大きさだった。
翼が大きくはためき、両方の翼が〈死〉を優しく包み込んだ。翼が〈死〉を呑み込んでしまったという方が正しいかもしれない。
〈死〉を呑み込んだ翼は魔法陣に〝向こう側〟へと還っていく。
少女よりも少年が召喚においては優れていたようだ。
両腕を広げて少年は歓喜に打ち震えた。
「どうだい、カッコイイだろ?」
艶やかに嗤う少年は魔の手が迫っていることに気付いていなかった。
〝純白の翼〟が還った魔法陣はまだ消滅していなかった。まだ〝向こう側〟と〝こちら側〟が繋がっている。
赤く燃える〈死〉の瞳がこちらを見ている。
魔法陣の〝向こう側〟から蠍の鞭が放たれ、広げていた少年の左手首を切り飛ばしたのだ。
真っ赤な血か視界を奪い隠した。
古い古い洋館。
ドレスを着た少女が鏡の前に座っていた。
瞳は虚ろ。躰には力が入っていない。まるで人形のように、そこに座っているだけだった。
鏡に映っている少女はもうひとりいた。
「ねえ××ちゃん、きょうはなにしてあそぼぉか?」
舌っ足らずの幼い少女は虚ろな少女の髪を櫛で梳かしながら尋ねた。
虚ろな少女が答えることはなかった。
「ねえ××ちゃん、おとぎばなしをしてあげるね。むかしむかしあるところに、かみさまの寵愛
をうけていた天界でもっとも美しく偉大な……」
虚ろだった少女がくつくつと嗤い出した。
輝線が趨り花瓶を割った。
物音を聞いて何者かが部屋の前までやってきた足音がした。
鏡越しに虚ろな少女はこちらを見た。
扉が開かれる。
扉を開けて誰かが入って来た。
「しばし休憩をとってはどうじゃ?」
玲瓏な妖女の声。
緋色のインバネス姿の男が答える。
「今完成した。俺の最高傑作だ」
台に寝かされた裸の少女。
陶器のような白い肌。
艶やかで長い金色の髪。
花の蕾のような薄桃色の唇。
閉じられた瞳から長くカールした睫毛が伸びている。
少女は眠っているのではない。
息もしてない。
死んでいるのではない。
傀儡だからだ。
緋い男は尋ねる。
「なあ、この子はいったいだれなんだ? そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
「妾の妹じゃよ」
「ハァ? ウソだろ、ぜんぜん似てねーよ。髪だってあんたは闇のように真っ黒だ」
「この子もそのことを気にしておった。両親は黒髪の黒瞳であったからな」
「両親ってことはあれか、シオンのじーさんとばーさんってことだよな?」
「そうではない。妾が人間であったときの両親じゃ」
「……ん……んんん、ハァ?」
さっぱりわからないという表情で緋い男は口をあんぐり開けた。
漆黒のドレスが揺れ動き、台座の横に立ち少女の頬に繊手を伸ばした。
「この子は妾が人間であったときの妹じゃ。かつて妾が奴等に叛逆したとき、肉体を失い魂すらも粉々にされたことがあった。しかし妾は生き延びた。魂の破片をかき集め、妊婦の腹に潜り込み転生したのじゃ」
「生まれてくるはずの子供の躰を乗っ取ったってことだよな?」
「生まれてくるはずの子などはじめからおらぬ。魂がいつ肉体に宿るか答えられるかえ?」
「……はいはい、俺が悪かったよ」
妖女は緋い男の言葉など聞いていないようだった。
「転生は成功したのじゃが、記憶を取り戻すまでには時間がかかった。シオンを取り戻すまで長き道のりじゃったな。そう、あのときの経験が〈ジュエル〉を創る着想にも繋がっておる」
白い繊手は金髪の髪を優しく撫でた。
「妾にとって偽りの家族じゃったとしても、血を分けた姉妹じゃったことには変わりない。娘たち同様に愛しておるのじゃ。シオンを救うたあとは、アリスを救うと決めておうた」
Alice――それは研究室の木箱に刻まれていた名前と同じだった。
少女の傀儡の胸には不自然なくぼみがあった。
「なあ〈ジュエル〉は完成しそうなのか?」
尋ねる緋い男に妖女が答える。
「あと一歩というところじゃな。再構築の弊害で妾のように記憶を失しのうてしまうのじゃ。妾のように記憶を取り戻せれば良いが、その可能性は万が一じゃろう」
「記憶の糸を紡ぐのは俺の妖糸でも不可能だな」
「アリスの肉体を創うてくれたことに礼をいうぞ。妾は〈ジュエル〉を一刻も早く完成させよう」
冷たい風を纏いながら漆黒のドレスが部屋を出て行こうしている。
緋い男が声をかける。
「セーフィエル?」
名を呼ばれて漆黒のドレスが振り返った。
月のように微笑んでいる妖女の瞳には、しっかりと愁斗の姿が映り込んでいた。