草稿
血の流れた現場から、愁斗は逃げ去り向かっていた――翔子がいる病院へ。
白蛇の魔導士やその仲間が襲ってくるかもしれない。どんな場所でもお構いなく、周りの無関係な人々を巻き込んで。
病院に着くと、パトカーが何台も止まっていた。外部からの侵入を拒み、閉鎖されているようだが、警官が閉鎖をしているわけではなかった。彼らも中に入れず立ち往生しているようだった。
「事件だと通報があった、中に入れなさい!」
病院の入り口で警官が怒鳴っていた。おそらく何度もやり取りがされ、それでも中に入れず苛立っているのだろう。横にいる警官たちも不機嫌そうな表情をしていた。
警官の数は入り口にいるだけで6人。入り口で仁王立ちをする番人ひとりを6人が取り込んでいるのだ。
番人の男は春麗らかな表情をしていた。が、その格好はこの時期にはそぐわない冬物のロングコートだった。
「依頼人にだれか通したらバイト代はなしって脅されてるんだ」
年の頃は二〇代後半くらいに見えるが、声はもっと若く聞こえる。柔らかで少し高めの声だろうか。澄んだ瞳は周りの警官たちではなく、遠くの愁斗を見つめていた。
愁斗は自分が見られていることに気付き立ち去ろうとしたが、相手はこっちにおいで眼で合図をする。妖しい輝きをする眼だ。
敵は感じないが、あの眼は魔導などを帯びた人成らざる力をもっている者特有の眼だ。罠の可能性もあったが、愁斗は病院の入り口に近づいた。
警官の間を擦り抜け、男の前に立つ。
「僕になにか用ですか?」
「友達によく似てるなぁって思ったんだけど、ボクの勘違いだった。あいつは俺様オーラ全開でいけすかない感じだったし」
「僕には無関係な話ですね。それよりも、病院に同級生が入院してるんですが、中に入れてもらえませんか?」
「通れるならどうぞ」
「?」
愁斗は訝しげな表情をした。
警官たちにはそんなことは言わなかった。
なにかある。
激しい寒気を覚えたが愁斗は構わず自動ドアの前に立った。開かなかった。開くのならば、番人が立っている時点で開きっぱなしになっているはずだった。電源が切られているのだろうか?
違った。
肌を刺す痛烈な寒さ。
異様な光景を愁斗は目の当たりにした。
先ほどまで番人と押し問答をしていた警官たちがぴくりとも動かないのだ。息もしていなかった。
自動ドアも同じだった。
凍りついた世界。番人は春麗らかに微笑んでいた。
「今日も寒いね」
「D∴C∴か!」
とっさに愁斗は飛び退いた。いつでも妖糸を放てるように構える。
鋭い眼をした番人。春は消えた。
「その名前を知ってるなんて、ただの子供じゃないとは思ったけど」
相手も知っていた。その名を知る者たちの世界はせまい世界だ。ただの人間が踏み入ることのできぬ裏の世界。
世界を凍らす何らかの力をつかった者が常人であるはずがなかった。
「やはりD∴C∴かっ!」
手にスナップを利かせて妖糸を放とうとした。
――重い。
愁斗が片手に目を向けると、意に反して腕ごと垂れ下がり、拳が地面に落ちそうだった。肩のあたりから指先まで凍らされたのだ。
「あー、ムリして動かさないでね。綺麗に凍らせたから、ちゃんと解凍すれば一つも組織を壊さず元通りだから」
腕を人質に取られたようなものだ。
傀儡師として武器である手を失うわけにはいかない。だが、手ならもう片方ある。
「――っ!?」
眼を丸くした愁斗。痛みすらも感じない。感覚がなく気付かなかったのだ。もう片手もすでに凍らされていた。それだけではない。脚もだった。
手も足も出ない愁斗に番人が微笑みかける。
「中途半端に凍らせると死んじゃう場合もあるんだけど、まあここ病院だしいいよね」
この男、春風駘蕩な顔をして恐ろしいこという。
だが、敵意は本当になかったようだ。
愁斗は躰が自由に動くことに気付いた。
「なぜ解放した?」
「君の正体がわかったし、ボクは君の敵じゃないし」
「正体?」
愁斗はまだ妖糸を放っていない。それは寸前で阻止された。
「傀儡師かな?」
妖糸を放たずとも愁斗の正体を見抜いた。傀儡師か、もしくは愁斗自身を知っていたということだ。
病院を襲撃した者の仲間か、それとも病院関係者の仲間か、D∴C∴なのか、この者は愁斗の敵ではないと言った。
「なぜ僕が傀儡師だと? それにD∴C∴をなぜ知ってる?」
「D∴C∴でちょっとだけバイトしてたことがあってね」
「そこで僕のことを?」
「うーん、遠からず近からず。バイト中に君のお父さんと出会ったからね」
父を何年も探してきたが、情報はほとんど皆無だった。それが今日になって、立て続けに事が起る。何かが動き出し、糸が紡がれていくようだった。
「父さんを知っているのか?」
「小さかったころの君と会ってるんだけど、物心つく前だったし覚えてないかぁ」
組織に連れ去られる前だ。そのころのことを知っている人物なのだ。
急に番人は片耳を押えて耳を澄ませた。
《シグレ君、その子は通していいわ》
通信機からの声だった。相手は姫野悠香。番人――シグレは病院側の関係者ということだ。
「この子、蘭魔の子供だったんだけど、姫野さんも知ってたの?」
《ええ、でも実際に会ったのは今日がはじめて。すれ違っただけで言葉も交わしていないけれど》
病院内で二人はすれ違ったが、愁斗の眼中にはなく覚えてもいないだろう。
シグレの背後で自動ドアが開いた。
「通していいってさ」
「あなたには聞きたいことが山ほどありますが、今はさきを急ぎます」
「ボクもキミのことが気になるし付いていくよ」
足早に翔子の病室に向かう。その途中で見た襲撃の痕。まだ清掃されていない血痕や壁の煤汚れ、地面が穿たれている箇所もあった。
愁斗は走った。
病院でいったいなにがあったのか?
立ち止まらず勢いのまま病室のドアを開けた。
――いた。
予想とは違う人物に愁斗は立ち尽くした。
「翔子は?」
そこにいたのは車椅子の女。会ったことはなかったが、亜季菜の姉なので顔は知っていた。
「亜季菜さんのお姉さんですか?」
「ええ、姫野悠香よ」
「なぜここに?」
「アタシの病院だから」
「この病室に入院しているはずの僕の同級生は?」
「行方不明よ」
寒気がする。悲鳴が聞こえた、泣き声が聞こえた、胸を鷲掴みにされたような息苦しさ。鬼気を放つ愁斗。
この病室で動じる者はいない。
シグレはそっと愁斗の肩に手を乗せた。
「落ち着いたほうがいい」
その手の温もりは、なぜか愁斗を落ち着かせた。
「ボクを雇ったのは、この子に会わせるためだったんだね」
悠香は頷いた。
「ええ、あなたとシオンの関係を聞かせてあげたくて」
「母さん!」
声を荒げた愁斗。
紫苑は傀儡の名前であり、その元となった人物こそが愁斗の母――紫苑。組織の襲撃により、母は目の前で殺され、愁斗と蘭魔は連れ去られた。死に際の母の顔を愁斗は覚えている。
幼いころの愁斗と会ったことがあると言ったシグレだが、そうなると紫苑とも面識があったに違いない。ただの知り合いであれば、わざわざ関係という言葉は使わないだろう。愁斗が知らない秘密めいたものをシグレは握っている。
「そう、キミのお母さん。蘭魔と出会った日、ボクはシオンと融合した」
と言って、ベッドに腰掛けてから続ける。
「少し長い話になるよ」
それは愁斗が産まれる以前の話。
20年近く前の話だった。
「D∴C∴でバイトしてた時期あったんだけど、もともとボクはD∴C∴の思想に共感していたわけでもないし、彼らの〈神〉を崇めていたわけじゃない。ただ〈神〉って存在には興味あってね。小さいころから世界の神秘や秘境が好きで、トレジャーハンターになるのが夢だったんだけど、たまたまD∴C∴にリクルートさせて、おもしろそうだなって。そのときの任務で蘭魔と出会ったんだ」