未完成の城(13)
愁斗は自分の部屋のクローゼットを開けた。
クローゼットの中で永遠の眠りにいている傀儡。人間とは思えないほど妖艶で美しい女性を模った愁斗の大切な存在。ここで眠る銀髪の美女は人間を模った傀儡ではなかった。
ここで眠る女性のもととなった人間は魔女や悪魔と呼ばれることもあった。ある意味それは真実であったかもしれない。その女性はこの世界の住人ではなかった。
秋葉蘭魔――すなわち愁斗の父に召喚された者。それがここで眠る傀儡のもとになった女性だった。
座るように置かれている傀儡の衣服が乱れていて胸が露になっていた。
「誰の仕業だ……?」
呟く愁斗の脳裏に翔子の顔が浮かんだ。
昨日、翔子は愁斗の部屋に忍び込んで傀儡を発見した時、胸の印を確かめてそのまま服をもとに戻さずにクローゼットを閉めてしまったのだ。
「翔子が紫苑を見たのか……?」
紫苑という名の傀儡の乱れた服を綺麗に整えて、愁斗は氷のように冷たい紫苑の頬に優しく触れた。
愛しい者を見る瞳で愁斗は紫苑を見つめた。だが、その想いは翔子に抱く想いとは別のものだった。
愁斗は紫苑を見つめ何を想う?
この傀儡は愁斗にとってどのような存在なのだろうか?
愁斗は冷たい唇に自分の唇を重ね合わせた。そっと離れた愁斗の哀しみの表情を浮かべ、瞳から流れた涙は頬を伝って地面に零れた。
「いつか……必ず……」
傀儡でなければならない理由。愁斗が傀儡師であり続ける理由、それは――。
突然、玄関が開かれた音が愁斗の耳に届いた。
翔子が出かけた時に愁斗が自分で玄関の鍵を閉めたはずだ。それに亜季菜はまだ眠っている。
クローゼットをゆっくりと閉めた愁斗は廊下に飛び出した。
廊下で奴が待っていた。そこには麗慈が立っていた。
「久しぶりだな紫苑」
「再び私の前に現れるとはどのような用件だ?」
冷たく響く愁斗の声。これが彼の内に秘められた彼だ。
「決着をつけようと思ってな……ククク」
「決着ならすでについている。私に手首を切り落とされたこと、忘れたとは言わせない」
以前の二人が直接決戦をした時、勝利を収めたのは愁斗であった。麗慈は妖糸を放つことのできる右手を手首から切断されて戦闘不能になった。今、麗慈の右手がもとに戻っているのは愁斗が縫合したためだ。
「ククッ、あの時の俺と今の俺様を一緒にしてもらっちゃ困るおまえの見よう見まねで変なのを呼び出せるようになったぜ」
これは〈闇〉のことを言っている。愁斗は〈闇〉を呼び出すだけでなく、召喚も行えるが麗慈にはまだできない。だが、〈闇〉を呼べるだけでも脅威だ。
「何が呼べるというのだ? それは〈闇〉のことを言っているのか?」
「よくは知らねえが、闇色をしたやつだから、その〈闇〉ってやつなんだろうよ」
「貴様が〈闇〉をか……召喚は使えるのか?」
「いいや、でも今の俺ならおまえに勝てる」
「それだけでは私には勝てぬな。貴様は〈闇〉を知らずして使っている、いつか己が〈闇〉に喰われる……いや、貴様が喰われるだけならば何も言うまい。〈闇〉を使うのを止めろ」
「ククク……ヤダね。こんなおもしろい力、使わない手はない」
嗤う麗慈に対して愁斗は冷笑を浮かべた。
「先ほど『今の俺ならおまえに勝てる』と言っていたが、確かにあの時の私になら勝てていただろう。だが、あの時の私は重症を負いながらも貴様に勝った。つまり貴様は弱者でしかない。貴様がどのような力を手に入れようとも私は貴様に負けない」
玄関のドアが開けられ二人が麗慈を挟み撃ちにした。ひとりは愁斗、そして、もうひとりは紫苑だった。
麗慈は後ろを振り返って紫苑の顔を確認した。
「あの時の顔か!?」
麗慈が見た紫苑の顔。それはいつか紫苑の仮面を剥ぎ取った時に見た顔であった。
愁斗は高らかな声をあげた。
「私を含むもの、それが『紫苑』だ」
「ククク……二人掛かりとは卑怯だな」
「私は善良なる者ではないのでな、そうでなくては〈闇〉も使いこなせん」
麗慈の身体が揺らめいて霞んだ。逃げる気だ。
「逃がすか!」
愁斗と紫苑の手から同時に妖糸が放たれたが、それは麗慈が消えた後だった。
麗慈が消えた後、その声だけがこの場に残ってこう告げた。
「明日、ジゴローランドっていうテーマパークで待ってるぜ。時間はいつでもいい、必ず来い、おまえと俺のデートを楽しもうぜ! クククククククク……」
声が消えた後、愁斗は紫苑のもとへ行き、彼女を抱きかかえて自分の部屋に戻った。
愁斗の部屋の窓が開いていた。先ほどは閉まっていたはずだ。麗慈が愁斗の前に姿を現してすぐに、紫苑をこの窓から外に出して玄関に向かわせたのだ。
クローゼットの中に紫苑は再び入れられた。
「あんな奴に紫苑の素顔を見せてしまってごめんよ」
そう傀儡に語りかける愁斗。紫苑の素顔は愁斗だけのものであり、他の者に見せたくなかったのだ。
また、ドアの開かれる音がした。そういえば鍵をまだ掛けていなかった。
ゆっくりとクローゼットのドアが閉められるのと同時に愁斗の部屋に翔子が駆け込んで来た。
「ごめん、勝ってお邪魔します! いた、愁斗くん、ここにいたのね」
「どうしたのそんなに慌てて?」
先ほど麗慈と対峙していた愁斗はもういなかった。愁斗は笑顔で翔子を出迎えた。
落ち着き払っている愁斗だが、翔子はそれどころではなかった。
「大変なの、麗慈くんに会ったの!」
「そう、なんだ。大丈夫、何もされなかった?」
「ううん、ちょっと手を切られたけど平気。それよりも愁斗くん気をつけて、きっと愁斗くんのこと殺しに来るよ」
もう来た後だったが、愁斗そのことを翔子に黙っていることにした。
「大丈夫だよ、僕の心配はいいから」
「よくないよ、愁斗くんにもしものことがあったら……」
翔子は目に涙を溜めはじめた。そんな翔子の手を愁斗が取った。
「消毒とかしておこうか?」
「消毒なんて今はどうでもいいよ、それよりも私は愁斗くんのことが心配なの」
「でも、消毒はしなくてもおまじないはしておこう」
愁斗は翔子の手を持ち上げて、傷口に軽くキスをした。
「すぐに治るよ、きっと」
「ばかぁ」
涙を止めた翔子は顔を赤くした。こんなキザなことをしても愁斗の容姿を持ってすれば許されてしまう。
翔子は愁斗に微笑みかけられて、自分も微笑んでしまっていた。だが、愁斗の後ろにあったクローゼットに視線が行ってしまって少し表情を曇らせてしまった。彼女が表情を曇らせたのは本当に一瞬のことであったが、愁斗にそれを見られた。
「瀬名さん、クローゼットの中、見たよね?」
「ううん、見てないよ」
決して嘘をつこうとしたわけではなく、反射的に嘘をついてしまっていた。
「嘘をついてもわかるよ」
「あ、あの、だから……」
「服を脱がせたままだったよ、印を確認したんでしょ?」
翔子は小さくうなずいた。
「ごめん、見るつもりはなかったの……でもね、でも聞いて、私と同じ模様があるの、私もあれと同じなの?」
とても翔子は不安そうな顔をしていた。
真剣な顔をした愁斗が翔子の手を引いてクローゼットの前まで行った。
愁斗の手によってゆっくりと開けられるクローゼット。中にいた紫苑はまるで眠っているようだった。
「彼女の名前は紫苑――瀬名さんと同じ傀儡だ。でも、瀬名さんと紫苑は根本的に違うところがある」
愁斗は翔子の手を導いて紫苑の頬を触らせた。とても冷たい頬だ。翔子はそれを知っていたが、改めて声に出して呟いた。
「冷たい頬……感触はまるで人間のようだけど、この冷たさを感じると人間じゃないことがわかる」
「この紫苑には血も流れている。けれど、その血は氷のように冷たい。そして、何よりもこの身体は作り物に過ぎない、瀬名さんの身体は正真正銘、人間の身体だよ」
愁斗の言葉を聴いて翔子はそっと自分の胸に手を当てた。心臓の音とともに温かさが手を伝わって感じられた。
「私、実はこの人形を見た時、自分も人形の身体なんじゃないかって心配になったの」
「身体は瀬名さんのものだし、瀬名さんには紫苑の持っていない人間の『心』を持っている。だから……瀬名さんは……この紫苑とは違う」
愁斗は紫苑を見ながら涙を流した。これは誰に対して泣いているのだろうか? 翔子には紫苑に対して愁斗が泣いているように見えた。
「愁斗くん、この女の人、誰……なの?」
聞かない方がよかったかもしれない。でも、ここまで来たら聞かずにはいられなかった。
愁斗が答えるまでしばらく時間があった。その間、翔子は声を出さずに涙を流す愁斗の横顔を見つめていた。
「……今は言えない。でも、きっといつかは言うよ、全部」
全部という言葉にはこの紫苑以外のことも含まれていた。だが、愁斗が翔子に話さない全ての話は糸を手繰り寄せていくと、その糸は全てどこかで紫苑に繋がっている。
翔子は愁斗に何もかも話して欲しかった。愁斗のことを知りたかった。翔子は自分の見て来た愁斗しか知らない。
寂しい気持ちを感じながらも翔子はそれ以上聞かなかった。そして、彼女は泣き止まぬ愁斗の手に自分の手を重ねた。
「愁斗くんのこと好きだよ」
「ありがとう……だから、話したくないんだ。瀬名さんは今の僕を好きになってくれた……だから、瀬名さんの知らない僕を見せたくない」
「いいよ、今は見せてくれなくても。私だって例えば、家にいる時にだらしない格好してるの愁斗くんに見られたくないし……ごめん、あんまりおもしろくなかった?」
「ううん、瀬名さんのだらしない格好見てみたいな」
愁斗は微笑んだ。そして、翔子も微笑を返す。
「じゃあ、そのうち見せてあげるね」
『そのうち見せてあげる』だから愁斗にもそのうち見せて欲しかった。翔子は愁斗の全てを好きになりたかった。だから知るところからはじめたかった。
「瀬名さんのだらしない格好、楽しみにしてるね」
「楽しみにされても困るよぉ」
「でも、楽しみしてる」
「だから、そんなにいいものじゃないよ。髪の毛爆発してるし、たまになぜか起きたらパジャマ脱いでる時とかもあって、本当に恥ずかしいんだから」
二人がいい感じに話していると邪魔が入った。
「愁斗ク〜ン!」
ダイニングの方から亜季菜の声がした。
愁斗は軽いため息をついた。
「はぁ、起きちゃったのか」
「ほら、ため息なんかついてないで行こう」
翔子に背中を押せれて愁斗はダイニングに重い足取りで向かった。
「何ですか翔子さん?」
「飯!」
ソファーで寛ぐ亜季菜はすでにスーツに着替えて、超ミニスカから覗く長い足を見せ付けるように座っていた。
「僕に命令しないで出前取ればいいじゃないですか」
「だってぇ〜、愁斗クンお料理上手だしぃ〜、あたしって外食多いでしょ、だから家庭の味が恋しくなるのよねぇ〜」
「だったら、自分料理覚えたらどうですか?」
「そんな時間ないわよ」
翔子は二人の会話を聞いていて、ある物を撫子からもらったことを思い出した。そして、それを出す勢いに合わせて勢い任せで叫んだ。
「愁斗くんデート行こう」
愁斗の前に差し出されたチケット。それを見た愁斗はすぐに答えた。
「いいよ、それでいつ?」
「明日、明日テーマパークでデート。クリスマス・イヴだから、そのなんていうか、ロマンチックでしょ?」
「…………」
愁斗は黙り込んでしまった。明日と言えば、麗慈に決闘を申し込まれた日だ。そして、愁斗は『クリスマス』という単語を聞いて、あることを思い出してしまった。クリスマスは愁斗の母の命日でもあったのだ。
黙りこんだ愁斗の顔を翔子は不安そうに見つめていた。
「ダメかな……?」
「いや……」
翔子を危険な目に巻き込みたくない。だが、目の前にいる翔子を見ていると断りづらい。
あの場にちょうど居合わせた亜季菜は、この時ばかりは翔子の見方になってくれた。
「イヴにデートなんていいじゃない、行って来なさいよあたしが許可するわ」
「亜季菜さんが許可するとかしないとかの問題ではなくて――」
ふと愁斗が横を見ると翔子が泣きそうな顔をしていた。
「だって、だって、私たちデートって言えること一度もしたことないんだよ。それにこのチケット明日限り有効のディナー付き招待券なんだよ」
翔子はチケットがよく見えるように愁斗の眼前に突き付けた。だが、それで愁斗の表情が余計に曇ってしまった。
チケットにはジゴローランドと書かれている。偶然にも麗慈がして指定して来た場所と重なってしまった。
「駄目だよ、やっぱりごめん」
「どうしても?」
「ごめん」
「じゃあクリスマス前日は?」
「それも……」
口ごもった愁斗の代わりに亜季菜が言った。
「クリスマスは愁斗ひとりにさせてあげて、毎年クリスマスはそう決まってるから」
クリスマスは愁斗はひとりで――正確には紫苑とともに母の墓参りに行くと決めていた。その時間は誰にも邪魔されたくない時間だった。
昔の愁斗だったならば冷たい言葉で断れた。だが、今の愁斗はいろいろなものを恐れるようになっていた。
「明日デートに行こう」
――大丈夫、何があろうとも絶対に僕が守ってみせる。
そう愁斗は何でも自分に言い聴かせた。
「愁斗くん大好き」
嬉しさのあまり翔子は愁斗に抱きついた。
「若いっていいわね、羞恥心もどこ吹く風ね」
抱き合う若いカップルを見ながら亜季菜はビール飲んでいた。
「あーっ!」
翔子が突然叫んだ。
「私のスポーツバッグ玄関に置きっぱなしだった。あーっ! 家の鍵閉めて来るの忘れたし洗濯機に洗濯物いれっぱなしだ! ごめん、もう一回家に行って来る」
翔子は慌てた様子で走って行ってしまった。
「青春だわね」
微笑を浮かべながら亜季菜はビールを飲み干した。