未完成の城(12)
結局、翔子は愁斗宅で一晩を過ごすこととなったのだが、寝る場所がないということで亜季菜と一つのベッドで寝ることになってしまった。
「く、苦しい……」
朝、翔子が目を覚ますと彼女の身体は亜季菜の腕や脚によって拘束されていた。
翔子は自分に絡みついた亜季菜の身体を丁重に外した。そして、相手を起こさないように慎重にベッドから起きた。
「逃げる気!」
翔子の身体がビクっと震えて、心臓がぎゅっと鷲掴みにされたような感覚を覚えた。
身体をカクカクさせながら翔子が振り返ると、亜季菜は寝返りを打ちながら安らかに眠っている。
「……寝言か」
安心した翔子は忍び足で移動してドアノブに手を掛けたその瞬間!
「逃がさないわよ!」
思わず翔子はドアノブから勢いよく手を離した。そして、再び後ろを振り向くと、やはり亜季菜は眠っていた。
「……また寝言か」
今度こそ部屋の外に出ようと翔子がした時、またも!
「翔子ちゃん!」
ビクッと震えながらも翔子が振り向くと、亜季菜が脚を組みながらベッドに座っていた。
「おはよう、翔子ちゃん」
「お、おはようございます」
「やっぱり翔子ちゃんはからかい甲斐があるわね」
「……寝言じゃなかったんですか?」
「そうよ」
亜季菜は翔子よりも先に起きていたのだ。これから先も翔子は亜季菜にからかわれ続けるに違いない。
これ以上からかわれないうちに翔子は部屋を出ようとしたのだが、亜季菜の攻撃は止まらなかった。
「そうだ、寝言を言うのは止めた方がいいわね」
「……私、寝言なんて言ってましたか?」
「愁斗クン愁斗クン愁斗クンって連発してたわよ」
「本当ですか?」
慌てはじめた翔子を見て不敵な笑みを浮かべる亜季菜はさらっと呟いた。
「嘘よ」
翔子は無言で部屋を足早に退室した。
ダイニングに翔子が入ると、ダイニングキッチンからいい匂いがして来た。そこでは愁斗が朝食の準備をしていた。
「おはよう瀬名さん」
「うん、おはよう」
「亜季菜さんと一緒でよく眠れた?」
愁斗の質問に翔子は首を横に振って答えた。あの亜季菜が簡単に寝かせてくれるはずがなかった。逃げようにも逃がしてくれなかったのだ。
翔子の表情を見て全てを見通した愁斗はうなずいた。
「ごめん、後で僕から亜季菜さんちゃんと言っておくから」
「ありがとう」
「もうすぐ朝食できるからそっちで座って待ってて」
「うん」
ぼーっとしながら翔子がくつろいでいるとテーブルの上に朝食が運ばれて来た。
「あ、私も何か手伝う」
「いや、もう全部運び終わっちゃったよ」
「あぁ……ごめん」
テーブルの上にはトーストやサラダが置かれていたが二人分しかないようだ。亜季菜の分がないのだろうか?
「愁斗くん、亜季菜さんは食べないの?」
「あのひと、朝食は食べないひとだから。それに生活が不規則だから、頼まれない限りはあのひとの分の食事は作らない」
「もしかして、毎日愁斗くん自分で食事作ってるの?」
「まあね、誰も作ってくれるひといないから、必然的にね」
作ってくれるひと、という言葉に翔子は反応して、自分が作ってあげたいと思ったが、翔子は料理ができなかった。
朝食をとり終えて翔子が皿などをキッチンに運ぼうとすると、愁斗が立ち上がって自分の皿と翔子の皿をまとめてトレイに乗せた。
「僕がまとめて運んでいくから」
「じゃあ、洗い物する」
「いいよ、僕がやっておくから」
「じゃあ……」
翔子は何か手伝いをしないと悪い気がしてしまっているのだが、何もすることが見つからなかった。
「私、一度家に帰って荷物持って来るね」
「気をつけてね」
愁斗の笑顔をもらった翔子はさっそく着替えを済ませて出かけた。
家に一度帰って着替えなどの荷物を持って来る。つまり、翔子は数日間、愁斗宅にお泊まりする気満々なのだ
翔子は持って来たスポーツバッグを抱えながら玄関を出たところで、ふらふらこちらへ歩いて来る撫子とばったり出会った。
「撫子、おはよう」
「今、何日何時何分何十秒?」
虚ろな目をした撫子は出会ってすぐにこんな質問をして来た。翔子は少し不思議な顔をした。
「二十三日八時半過ぎ……くらいだけど?」
「ふにゃ〜、うげ〜、うぴょ〜ん」
「……大丈夫?」
「ダメ」
今の撫子は心身ともに衰弱しきっていて、自分が何を言っているのかすらもわかっていない。
「撫子、ひとつだけ聞いていいかな?」
「おひとつどーぞー」
「何で昨日と同じ服装なの?」
昨日、翔子が撫子宅を訪ねた時と同じ格好を撫子はしていた。それにはちゃんとした理由があるのだが、撫子は翔子に教えなかった。
「そこら辺の件についてはノーコメントってことで」
組織の任務に関係する事柄だったので口外することができないのだ。そう、撫子は今日の朝まで雪夜の家で遭難していたのだ。
腕を地面に垂らしてぶらんぶらんしている撫子はそのまま自分の部屋に帰ろうとしたのだが、翔子は撫子の背中を引っ張って強引にそれ阻止した。
「ちょっと待って」
「にゃあに?」
「料理作ってるって言ってたよね?」
今の今まで元気のなかった撫子が突然、胸を張って大きな声を出した。
「おうよ、料理だったら人に教えられるくらいの腕前さ」
「じゃあさ、私に教えて!」
「食べるの専門って言ってにゃかったけ?」
昨日は撫子に料理作りを勧められた時、『私は食べる専門でいいや』と言っていた翔子であるが、好きな人に自分の料理を食べさせてあげたいという気持ちが芽生えて翔子は料理の勉強をすることを決意した。
「昨日は昨日、今日は今日。私は料理の上手な女の子に生まれ変わるの」
「ふ〜ん、愁斗クンが翔子料理食べたいにゃ〜って言ったとか?」
「ううん、違うの、そうじゃないんだけど、愁斗くんに食べてもらいたいっていうのは本当かな」
「爆裂花嫁街道まっしぐら修行中瀬名翔子中学二年生の乙女って感じだね。青春を桜花爛漫してるねぇ。そんな翔子にアタシからのビッグプレゼント!」
ある物を思い出した撫子はポケットからそれを出して翔子に手渡した。
「なにこれ?」
「新しくできたテーマパークペアチケット、クリスマス・イヴだけ有効だからね。愁斗クンとデートを満喫しておいで」
「ありがとう、本当にもらっちゃっていいの?」
「どーぞ、どーぞ、持ってけ泥棒」
大喜びをして翔子はチケットをポケットにしまった。その顔はにやにやしている。
「ありがとう、がんばるね!」
「おう、じゃ、アタシは寝るから」
再びだらんと腕を垂らした撫子は自分の部屋に帰って行った。
ぶらぶら翔子が歩いていると前方から二人組みの女の子歩いて来た。いつもは三人一緒にいることが多いのだが、今日は久美と麻衣子しかいない。
久美は無言で翔子に頭を下げて、麻衣子が挨拶をして来た。
「翔子先輩おはようございます」
聞くほどのことでもないのだが、いつも三人いるのになぜだろうと思い、翔子は聞いてしまった。
「沙織ちゃんはどうしたの?」
久美と麻衣子は顔を見合わせた。二人だけの時も当然あるだろうが、本当は『三人』でいるはずだったのだ。
麻衣子が少し不安そうな顔をして翔子に事情を話しはじめた。
「実は沙織さんと一緒に遊ぶ約束していたのですが、どこにいるかわからないんです」
「翔子先輩は沙織見かけませんでした? ケータイも出ないし、家にもいないみたいなのよね。沙織が約束破るなんてあんまりないから、少し心配で……」
沙織は人に嫌われたりすることを恐れていて、大事な約束を破るようなことはしたことがなかった。だが今、沙織は友達との約束を忘れてしまうような場所にいた。
翔子は時にはそんなこともあるだろうと軽く考えていた。
「何か急用ができたんだよ、きっと」
「でも、そうでしたら連絡をして来るはずです」
麻衣子は少し強い口調でそう言った。彼女は沙織に絶対の信頼をしていて、連絡がないということは事件や事故に沙織が遭ってしまったのではないかと考えていたのだ。
それは久美も同じだった。
「この子のことだから、変な人に行っちゃったとかありえるのよね」
本当に友人のことを心配する二人の表情を見て、翔子は先ほどの自分の考えを撤回した。
「私も沙織ちゃんのこと見つけたら二人に連絡するから、ね?」
「ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」
麻衣子は翔子に頭を下げて、久美もすぐにこう頼みながら少しだけ頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「うん、じゃあ、二人ともバイバイ!」
二人と別れて翔子は歩き出した。
しばらくして、後ろから人の驚くような声が聞こえたような気がして、翔子は急いで振り返ったが何もなかった。
「気のせいか、二人とも、もう行っちゃったのかぁ」
翔子は気がついていない様子だが、久美と麻衣子は翔子が見ていないうちに空間に溶けるようにして姿を消してしまっていたのだ。
何も知らないまま再び歩き出す翔子。
「早く荷物持って愁斗くんち行かなきゃ」
早くと言いながらものんびりと歩いてやっと翔子の家が見えて来た。
自宅に辿り着いた翔子はすぐに玄関を開けて家の中に入った。一日しか経っていないけれど、懐かしいというか、新鮮な感じがする。
翔子はまずスポーツバッグの中に入った洗濯物を洗濯機の中に放り込んで、洗濯機を回してから二階の自分の部屋に向かった。
静かな家の中に階段を上る音が響く。
自分の部屋に戻った翔子は服を適当にバッグの中に詰め込んでいって、最後にお気に入りの服をデート用に入れた。
バッグを抱えた翔子がふと窓の外を見ると雪村麗慈がいた。
翔子は慌てた。まさか、あの麗慈が現れるなんて!
道路を歩いている麗慈はどこに向かっているのか歩き去ってしまう。
急いで翔子は家を飛び出して麗慈を追った。
「麗慈くん待って!」
麗慈の背中に向かって大きな声を出した。
足が止まり微笑んだ麗慈の顔が振り向いた。
「やあ、翔子ちゃん久しぶり」
「あ、あの……」
追いかけて来たが、何をしゃべっていいのかわからなかった。
翔子は以前、麗慈の命令で撫子にさらわれたことがある。だが、翔子はさらわれた時、ほとんど気を失っていたので、後で愁斗からいろいろな話を聞いたが、麗慈が悪い人だったという実感があまりしなかった。翔子は学校や部活での麗慈の顔しか知らないのだ。
「何もないなら俺は行くよ」
「あ、麗慈くんって本当に愁斗くんのこと殺そうとしてたの?」
「ククッ、そうだよ」
嗤った麗慈の醜悪な顔。こんな麗慈の表情を見たのは翔子にとってはじめてであった。いや、翔子は朦朧とする意識の中でこの顔を見たことがあったことを思い出した。
翔子の背筋に冷たいものが走った。
「……どうしてこんなところにいるの?」
「リベンジだよ、俺は愁斗を殺り損ねたからな。次は絶対に仕留めてヤルよ」
「もしかして、今から愁斗くんに会いに行く気なの!?」
麗慈の歩いていた方向には愁斗のマンションがある。麗慈は愁斗に『挨拶』をしに行くつもりだったのだ。
「ククク……だったらどうする?」
嗤って聞いた。翔子には何もできないことを麗慈は知っている。
『止める』と翔子は言いたかった。だが、それを自分ができるのだろうか?
「愁斗くんのところには行かせない」
「強がりはよせよ、おまえじゃ無理」
「やってみないとわからないでしょ!」
やってみなくても答えは出ている。翔子は愁斗と麗慈が戦っているのを直接見ていたわけではないが、本気を出した麗慈が別の者と戦っているのは朦朧とした意識の中で見たことがあった。あれを見てしまっては普通の人間ならば麗慈に逆らったりはしない。
麗慈の手が煌きを放った次の瞬間、翔子の手に赤い線が走った。
「痛っ!」
「今は軽く切っただけだけどさ、首を跳ね飛ばすのだって簡単だし、そうだなぁ、服だけを切り裂いて裸にするって芸当もできるよ」
「…………」
翔子は何もできず、何も言えなかった。今、変なマネすれば絶対に殺される。
麗慈はわざと翔子に背を向けて言った。
「かかって来たいなら来なよ、いつでもヤッてやるよ。まあ、俺がどっか行くまで動かなければ手は出さない。最近は無駄に切り刻むのも飽きたからな、生かしてやるよ」
背中越しに手を振りながら麗慈は行ってしまった。
動かなければ殺されない。だが、翔子はそれ以前に足がすくんで動くことができなかった。
麗慈の姿が見えなくなってだいぶ経ってから翔子は地面にへたり込んだ。全身の力が抜けて今度は立ち上がることができない。
「ダメ……動けない。でも、早く愁斗くんのところ行かなくちゃ」
だが、やはり立ち上がることができなかった。