未完成の城(11)
夜になってどうにかしてマンションに戻って来た愁斗を出迎えたのは、だいぶ前に帰って来た亜季菜と夕食をともにしている翔子だった。
「あら、遅かったわね愁斗クン。どこ行ってたの?」
わざとらしく聞いて来る亜季菜に対して、愁斗は適当に答えた。
「散歩です」
疲れた様子で愁斗はソファーに座った。その前のソファーテーブルには特上寿司が置いてあった。
「亜季菜さんどうしましょう、愁斗くんの分がないですよ?」
寿司は一つも残っておらず、残っているのはガリだけだった。
口をもぐもぐさせながら亜季菜はまたわざとらしく言った。
「可笑しいわね、三人前注文したはずだったのに……どこに消えたのかしら?」
それは亜季菜と翔子の腹の中に消えたのだろうが、愁斗は何も言わなかった。
亜季菜はケータイを取り出して愁斗に恩着せがましく言った。
「しょうがないから愁斗クンのために追加注文してあげましょうねぇ」
「いりません」
はっきりと断った愁斗に亜季菜は少しムカッと来た。
「その態度はなあに?」
「走って疲れているので食欲がないんです」
これは本当だった。愁斗は走って自宅まで帰って来たのだ。
亜季菜は少し驚いた顔をしていた。
「あそこから走って帰って来たの!?」
「そうですよ」
「バッカじゃないの、それってスッゴイことなのに全然スゴク聞こえないのは何でなのかしらね」
亜季菜は愁斗のことをチクチク苛めるのが好きらしい。
翔子は壁に掛けてある時計の針を見た。夜の八時を少し過ぎている。
「私もう帰りますね」
立ち上がった翔子の腕を亜季菜が引っ張って強引に座らせた。
「あら、今日は止まっていくんじゃないのかしら?」
「そんな、迷惑になりますから」
亜季菜の目が妖しく輝き部屋の隅に置いてあるスポーツバッグを見た。
「あのバッグは何が入っているのかしらねぇ〜、と言いつつ、さっき翔子ちゃんがトイレに入っている時に物色させてもらっていたりするのよねぇ」
亜季菜の物色したバッグは翔子が持って来たスポーツバッグだった。
バッグを物色されたことを知った翔子は顔を真っ赤にした。
「ひ、ひどいですよ、プライバシーの侵害です!」
「ええっと、着替えに、バスタオルにドライヤーと歯ブラシ、それからマンガもあったかしらね」
イマイチ状況が呑み込めない愁斗はこんなやぼな質問をした。
「何でそんな物を持って来たの?」
「……そ、それはつまり」
「お泊りするために決まってるじゃないの」
亜季菜に答えを言われてしまった。愁斗何の疑問も抱かずに亜季菜の言葉に納得した。
「そうなんだ、なら帰ることないね。今日はうちに泊まるといいよ、瀬名さんのご両親は旅行中なんだしさ」
旅行中という単語を聞いて亜季菜の目が光った。
「翔子ちゃんのご両親お出かけしてるのね。で、どのくらいの期間?」
この質問に何の疑問も抱かずに翔子は正直に答えてしまった。
「今日から一週間ですけど……?」
「あら、それは大変ね。そういうわけで一週間の間うちに泊まること決定ね」
翔子が声も出せずに驚き、愁斗もこれには驚いた。
「亜季菜さん、頭平気ですか?」
「自慢じゃないけど頭はいつもイッちゃってるわよ。というわけで、翔子ちゃんは明日家に帰って一週間分の着替えを用意してくるように。翔子ちゃんがいいなら、一年分の着替えでもいいのよ」
これは愁斗と翔子の仲を歓迎しているのか弄んでいるのか、どちらなのだろうか? 恐らく後者だろう。
冷めたばかりの顔を再び真っ赤にした翔子は立ち上がった。
「ちょっとトイレに行ってきます」
翔子は走って逃げた。
亜季菜は不敵な笑みを浮かべる。
「トイレに逃げ込むっていい手ね」
「亜季菜さん、僕たちのことからかって楽しいですか?」
「あたしの趣味に口出ししないでよ。でもね、あの娘のことあたし気に入っちゃった。だから、別れたらあたしが承知しないわよ」
これは亜季菜の心からの祝福の言葉であった。亜季菜は嬉しそうに微笑んでいる。
真剣な顔で愁斗はうなずいて見せた。
「僕は一度だけ彼女のことを守れませんでした。でも、次は絶対にありません。僕は彼女を守ってみせますから」
「……そういう歯の浮くセリフよく言えるわね、聞いてるこっちが恥ずかしくなるわよ」
「……そういう風に言われると僕も恥ずかしくなります」
はにかむ愁斗の瞳に翔子が戻って来るのが映った。まだ翔子の顔は赤い。
「この部屋暑くないですかぁ?」
顔をパタパタと仰ぐ翔子に対して亜季菜は言う必要もないのにわざわざ言う。
「エアコンの設定温度は適温になってるわよ」
「わかってますよそんなの、亜季菜さんに言われてエアコンつけたの私ですから」
翔子の心に火が点いた。この小姑のような亜季菜とうまくやっていかなくては愁斗との関係はうまくいかない。
呼吸を整えて再びソファーに座った翔子は何を言おうとしたのだが、亜季菜に先手を打たれてしまった。
「ところで二人はキスとかしたの?」
「してませんよ!」
翔子は激しく反論したが愁斗は無言だった。翔子はその時、意識がなくて知らないだろうが、翔子は愁斗とキスを交わしている。翔子を傀儡として蘇らせる時に愁斗は翔子にキスをして目覚めさせたのだ。
「してません、してません、してません! ねえ、愁斗くんも亜季菜さんに言ってやってよ!」
「……ごめん、した」
「えっ!?」
そんな記憶ないと翔子は思った。そんな大事なこと忘れるはずがない。ありえないことだ。
パニック状態になった翔子は愁斗に詰め寄った。
「したってどういうこと!? いつどこで誰が? ウソでしょ、ウソだよね?」
翔子に肩を揺さぶられながら愁斗は首を横に振った。
「瀬名さんの意識がない時にキスしたんだけど、それは――」
「いいよ、聞きたくない、そういうのズルイと思う。私が寝てる時とかにこっそりキスしたんでしょ、卑怯、スケベ、エッチ、まさか愁斗くんがそんな人だとは思わなかった、ばかぁ!」
「寝てる時……じゃなくって」
「言い訳なんか聞きたくないよ!」
翔子は愁斗が止める暇もなく家を飛び出して行った。
唖然とする愁斗に亜季菜は追い討ちを掛けた。
「あ〜あ、泣いて出てちゃった。二人の初キッスを相手が寝ている時に奪うなんてサイテーね」
「だから違いますって! 人の話をちゃんと最後まで聞いてくださいよ」
「はいはい、言い訳はいいから早く追いかけてあげなさいよ」
愁斗はそれ亜季菜に反論するのを止めて急いで翔子を追いかけた。
翔子には愁斗の妖糸がいつでも巻きつけてあった。それを使えば証拠の意思と関係なく、自分のところへ引き戻すことが可能なのだが、愁斗もそこまでやぼなことはしない。
翔子に絡み付いている妖糸はどんどん伸びて行く。愁斗が全色力で走ればすぐに翔子に追いつくことができたが、愁斗はそれをせずに翔子が走るのを止めてどこかに辿り着くのを待った。
妖糸が翔子が止まったことを愁斗の指先に伝えて来た。それを確認した愁斗は安心して走るのを止めて歩き出した。今すぐ翔子に会っても彼女の気がまだ静まっていないだろうと判断したからだ。翔子にもいろいろと考える時間が必要だろうと思い、それは自分にも必要だと愁斗は思った。
愁斗は夜空を見上げながらゆっくりと歩いた。彼の心にはもやもやしたものがあった。だが、それが何であるかわからなかった。
最近の自分は少し変だと愁斗は思う。それは星稜中学に転校して来てからだ。そう、具体的に言うと翔子と出逢った頃からだ。
愁斗は父――秋葉蘭魔とともに組織から逃げ出した後、いろいろな人々の心を観て来た。だが、観て来た感情の中でも人を想うという感情は翔子と出逢ってから愁斗の心に芽生えたものだった。
翔子は自宅の玄関でひざを抱えて座っていた。
愁斗は優しく声をかけた。
「瀬名さん」
ゆっくりと顔を上げた翔子はすでに泣き止んだ後のようだった。
「何で追いかけて来たの?」
追いかけて来ることをどこか期待していたのにも関わらず反発してしまった。
「どうしてって言われても、心配だったからとしか答えられないよ」
「わかってるよ、そんなの……」
愁斗は翔子の横にゆっくりと座った。
「こんなところにいると風邪引くよ」
「それもわかってる、だって家のカギ愁斗くんちに置いて来ちゃったんだもん」
「翔子ちゃんらしいね」
「それってばかにしてるの!?」
怒った翔子を見て愁斗は微笑んだ。
「少し元気になった?」
「ならない!」
翔子は顔を伏せてしまった。
星を眺めて愁斗が黙っていると、顔を伏せながら翔子は小さな声で話しはじめた。
「どうしてキスしたの?」
「だからね、寝ている時っていうのは誤解で……」
口ごもる愁斗を翔子はちらっと見た。
「どうしてそこで口ごもるの?」
翔子を傀儡として蘇らせたこと、それが正しい行いだったの愁斗にはまだ判断できていなかった。
他の傀儡と違って翔子は人間の感情がある。傀儡に感情を与えたのは初めてのことであり、唯一の成功例だった。もう一人の感情は未だ愁斗の力では戻すことができていなかった。
だが、一度死んだ人間をこの世に呼び戻すことは正しい行いだったのか?
同じ問いが愁斗の心を回り続ける。
あの時は感情に任せて翔子を躊躇うことなく蘇らせた。身体は翔子のものと使ったとはいえ傀儡であることには変わりない。
「僕は、瀬名さんを傀儡として蘇らせた……その時に僕の魔導力を分け与えるために口移しをしたんだ」
「……傀儡」
傀儡になる前と今の翔子は何も変わっていないのと同じように見える。だが、翔子の心臓には魔導の源が埋め込まれ、胸には契約を交わした印が刻まれている。
翔子は服を脱いだ時にいつも胸にある印が気になってしまうが、それ以外の時は自分が傀儡である実感はない。普通の人のように普通の生活を送っている。
「愁斗くん、傀儡って何なの? 私自分でもあまり実感が湧かないんだけど傀儡なんだよね?」
「ああ、瀬名さんは僕の傀儡だよ。傀儡は傀儡師の道具であり、武器だ。敵と戦い傀儡師の代わりに朽ち果てる運命なんだ……でも、瀬名さんは違う、瀬名さんには人間の感情がある、ただの道具なんかじゃない」
「私は人間だよ、瀬名翔子、十四歳のどこにでもいる中学生。自分でそう思ってるからそれでいいよ」
「瀬名さん……」
「キスのことは許してあげるね。でも、それはなかったことにして、これが……」
翔子の唇が愁斗の唇に軽く触れてすぐに離れた。
「こっちが二人の初キスってことにいようね」
「あ、うん」
「愁斗くんち帰ろう!」
翔子はドキドキした気持ちを抑えながら愁斗の手を掴んだ。
立ち上がった愁斗は彼にできる最高の微笑で翔子の顔を見つめた。