未完成の城(5)
愁斗の自宅の前まで送ってもらった翔子は、未練を残しつつも愁斗の別れの挨拶をした。
「じゃあね、愁斗くん」
「あのさ、うち寄って行く? 両親いないんでしょ?」
思わぬ愁斗の申し出に翔子は喜びつつも、少し複雑な心境になった。本当は自分の家に愁斗を呼ぼうとして言い出せなかったのだ。それを逆に家に呼ばれてしまった。
「行く、行く行く!」
妙に張り切ってしまった。そんな自分に気づいた翔子はちょっと恥ずかしそうな顔をした。本当に嬉しくて、ついはしゃいでしまった。
翔子はこれまで一度も愁斗の家に行ったことがなく、どんなところなのかいろいろと想像していた。
愁斗は姉と二人暮しをしていると翔子は聞いていて、その姉に愁斗はあまり合わせたくないらしい。では、今日はなぜ呼んでくれたのか?
「今日は姉が家にいないからさ、今日だったら瀬名さんのこと家に呼べるから」
「そうなんだ……。あ、ちょっと待ってて」
顔がにやけてしまうのが抑えられない翔子は愁斗をその場に待たせて家の中に駆け込んで行ってしまった。
しばらくして戻って来た翔子は私服に着替え、手にはなぜか大きなスポーツバッグを持っていた。
「なにそれ?」
「えっ、いえ、その、何でもないって、愁斗くんたら」
明らかに動揺する翔子。バッグの中にはいったい何が入っているというのか?
実はバッグの中には着替え一式やハブラシやドライヤーなどなど、お泊りセットが入っていた。翔子はいざ(?)と言う時のためにお泊りする気満々なのだ。
翔子はスポーツバッグを背中に回して準備万端の格好をした。
「じゃあ行こう、愁斗くん」
「ああ、うん」
愁斗はバッグの中身が気になったが、そのことにはもう触れないことにした。
二人は愁斗の家に向かって歩き出した。
少し歩いたところで翔子はあることに気がついた。
「もしかして、愁斗くんっていつも私を家に送るために遠回りして家に帰ってたの?」
「うん、そうだけど」
愁斗は翔子と帰る時はいつも遠回りをして翔子を送ってから自分の家に帰っていた。
こういう小さい気遣いに翔子はちょっぴり感動した。自分のことを大切に想ってくれているんだなと嬉しくなる。
入り組んだ住宅街を抜けて、翔子も知っている場所に出た。
「この辺りなら知ってるよ、撫子が住んでるマンションがあるんだよ」
「ふ〜ん、そうなんだ」
「ほら、あそこ!」
翔子は撫子の住んでいるマンションを指差した。それを見た愁斗は少し驚いた表情になった。
「僕のうちもそこなんだけど」
「えっ!?」
「撫子と同じだったんだ」
それも当然である。撫子はもともと愁斗を監視するために組織から派遣されて来たのだから。
マンションの中に入った二人はエレベーターに乗り込んだ。
「撫子が住んでるのって五階なんだよ」
「うちも五階」
そう言いながら愁斗は五階のボタンを押した。
愁斗は嫌な予感がしていた。撫子が五階に住んでいると聞いて、もしやと思うことがあったのだ。
五階でエレベーターを降りた二人は愁斗の部屋に向かって歩き出した。
撫子の部屋の横を通った時、翔子がそれを指差して言った。
「ここが撫子の部屋だよ」
「ふ〜ん、うちはその隣」
「えっ!?」
愁斗が指差している表札には、504号と書かれ、その下に愁斗の苗字である『秋葉』と書かれていた。その隣の505号室には撫子の苗字である『涼宮』と書かれている。
思わず固まる翔子。
「あ、あのさ、気づかなかったの?」
「いや、僕さ、近所付き合いゼロだから」
撫子が隣の部屋に引っ越して来てから四ヵ月ほどになるが、愁斗は隣に撫子が住んでいることに全く気がついてなかったのだ。
ドアの鍵を開けた愁斗は翔子を部屋の中に招き入れた。
「どうぞ」
「お邪魔しま〜す」
部屋の造りは以前翔子が入ったことのある撫子の部屋と同じだった。結構大き目の部屋だ。
辺りを見回す翔子はダイニングに入ったところで誰かと目が合った。愁斗はその誰かに気がついて、焦って翔子を家の外に追い出そうとしたが、もう遅かった。
「愁斗クン帰りぃ〜。そっちの娘はカノジョ?」
ビール缶を片手に色っぽい女性がソファーでくつろぎながら話しかけて来た。ミニスカートから覗く足組みされた長く伸びたが脚線が色っぽさを引き立てている。
普段見せないほどの動揺を顔に浮かべる愁斗。目の前にいるのは、愁斗が姉と翔子に説明していた人物だ。
「どうして、亜季菜さんが……! ヨーロッパにいるはずじゃ!?」
「突然気が変わっちゃって、日本海上空くらいから引き返して来ちゃった」
日本海上空? 空の上から引き返すことが可能なのか?
翔子は今の言葉が気になって聞いてみた。
「あの、日本海上空で引き返すって、普通できませんよね?」
「ああ、自家用だから」
「はっ?」
思わず翔子は変な顔をしてしまった。
「一家に一台自家用ジェットよ」
「はっ!?」
納得はしたが、別の意味で納得できない。中流家庭の翔子の家には自家用ジェットなどない。
翔子は愁斗の服をくいくいと引っ張って、小さな声で耳打ちした。
「愁斗くんの家ってお金持ちだったの?」
「うちじゃなくて、亜希菜さんが金持ちなだけ」
「そう……」
翔子は愁斗の家の家庭事情がよくわからなくなった。愁斗に聞いた話によると、愁斗が小さい頃に母親が亡くなり、父親は行方不明、現在は姉と二人暮しと聞かされている。
亜季菜はビールを掲げて大きな声を出した。少しほろ酔いのようだ。
「ほら、あんたたちもこっち来て飲みなさいよ」
「僕たち未成年だから」
少しキツイ口調で愁斗は言ったが亜季菜は全く動じない。
「いいから、いいから、愁斗はいつも飲んでるんだから」
「飲んでないから」
愁斗がふと横を見ると翔子が不信の眼差しで愁斗を見ていた。
「愁斗くん、ワルなんだぁ〜」
「だから、飲んでないから、本当に。あんなどうしょうもない大人の言うこと真に受けたらダメだからね」
一生懸命弁解する愁斗を亜季菜がイジメる。
「カノジョの前だからっていい子ちゃんしちゃだめよぉ〜」
「……うるさいな! 亜季菜さんは勝手に酒飲んでてください」
「おーこわ、今日の愁斗クン恐〜い。ふふ、それに人間っぽい、あたしの前じゃあんまり見せてくれないわよね、人間っぽいところ」
亜季菜が言う『人間っぽい』とは、普段、亜季菜に対する愁斗の態度が人形のようだからだ。だが、最近は昔に比べて感情が豊かになって来ていると亜季菜は感じている。
怒った顔をしている愁斗がここにはいる。それも冷たい表情をしてキレる愁斗ではなく、じゃれ合うように怒る愁斗がここにはいる。
「亜季菜さん、いい加減にしないと……」
「いいわよ、『愁斗』が出て行っても。ここあたしのマンションだし」
愁斗ははっきり言って亜季菜には頭が上がらない。それは亜季菜が姉だからというわけではない。亜季菜は『姉』ではないのだから、それは関係ない。
何も言えなくなった愁斗を見て亜季菜な勝ち誇った顔になってビールを口に運んだ。
「ぷはぁ〜、勝利の美酒は美味しいわね。愁斗は家出するらしいから、あなた一緒に女だけのパーティーしましょうよ」
「私!?」
亜季菜は翔子に向かって話しかけていたし、女は翔子と亜季菜以外いない。だが、翔子は突然の指名に驚いてしまった。
「あ、あの、その……」
翔子はこの時、誰かの名前を思い出そうとしていた。目の前にいる女性が誰かに似ている。翔子の知り合いの誰かに亜季菜が似ているような気がしていた。
急に立ち上がった亜季菜は翔子の首に腕を回して、強引に自分と一緒にソファーに座らせた。
「今日は女同士で語らいましょう。あたしの名前は姫野亜季菜、で、あなたの名前は?」
「私の名前は瀬名翔子です……じゃなくって」
「いきなり嘘? 自己紹介でいきなり偽名を使うなんて、詐欺師の才能があるわね」
「そういうことじゃなくって、亜季菜さんって結婚なさってるんですね」
「生まれてこの方、結婚なんてしたことないわよ」
「でも、苗字が?」
愁斗の苗字は『秋葉』である。
「苗字? ああ、苗字ね、愁斗と違うって言いたいのね。ぶっちゃけね――」
「亜季菜さん!」
亜季菜の言葉を愁斗が遮った。
翔子が振り向いた先には着替えを済ませて来た愁斗が立っていた。
「亜季菜さん、余計なことは言わないでください」
「愁斗クンったら、秘密主義者。そうなんだ、この娘カノジョなのにぜんぜん話してないのね」
愁斗が翔子に話していないこと、それはいったいどんなことなのか?
翔子も亜季菜の意味深な言葉が気になってしまったが、愁斗がその件について触れられたくないようなので、話題を変えた。
「亜季菜さんって、何かお仕事とかなさってるんですか?」
「自営業……かなぁ、いちよう組織のボスで、例えば貿易とか?」
「女社長なんですか? カッコイイですねぇ」
「まあ、そんなところね」
ふと亜季菜が愁斗に視線を移すと、愁斗が鋭い目つきで亜季菜を見ていた。何か変なことを言わないか目を光らせているのだ。亜季菜は酒を飲むと饒舌になるので何を言うか冷や冷やしてしまう。
残っていたビールを全部喉に流し込んだ亜季菜は、テーブルに空き缶を置くのと同時に立ち上がった。
「さぁて、そろそろ仕事に行こうかしらね」
亜季菜は愁斗の顔を見て命令した。
「愁斗クン、途中まで送って行きなさい」
「何で?」
「いいから!」
亜季菜は愁斗の腕に自分の腕を絡めて強引に歩き出した。
「じゃあ翔子ちゃん、まったねぇ〜!」
玄関を出たところで亜季菜は愁斗の腕を開放した。
「ちょっと話があるからそこまで付き合いなさい」
もう亜季菜は酒に酔っている雰囲気はなかった。もしかしたら、最初から酔っていなかったのかもしれない。
前を歩き出した亜季菜に合わせて、愁斗は何も言わずに歩き出した。
エレベーターに乗ったところで亜季菜が口を開いた。
「この娘にどれくらい話しているの?」
「……あのひとは僕の傀儡になりました」
「あの娘が!?」
この言葉と同時にエレベーターのドアが開かれた。
エレベーターを降りた愁斗は静かに言った。
「でも、ほとんど何も知りません。組織の話は全くしませんから」
「大切な娘ならちゃんと全部話してあげなさいよ、せめてあたしが知っていることは全部よ。でも、お遊びの娘なら別にどうだってかわないけどね」
「遊びなんかじゃありません!」
「だったら話なさいよ、すぐとは言わないけど、あなたの気持ちの整理がついたらね」
「……はい」
道路ではリムジンと運転手が亜季菜を出迎えていた。
「じゃあ、行くわね」
「じゃ」
少し歩いたところで亜季菜が振り返った。
「じゃないわよ、これから愁斗クンにも仕事に来てもらうのよ」
「今日ですか?」
愁斗は残して来た翔子のことが心配だった。だが、行きたくないと言っても亜季菜は許してくれないだろう。それが条件なのだから。
「今からすぐよ、さっさとリムジン乗りなさい」
「でも、紫苑を部屋に置いたままです」
「愁斗クン自身でも大丈夫でしょ? さっさとカノジョのもとに帰りたいなら、さっさと仕事を済ませない」
「わかりました」
その口調は機械的な口調だった。この愁斗のことを亜季菜はまるで人形のようだと思っている。
二人がリムジンに乗るとすぐに走り出した。
リムジンの中で愁斗は翔子のケータイに電話をかけた。
「瀬名さん、ごめん――」