未完成の城(1)
星稜大学付属・中等部は明日から冬休みを向かえ、生徒たちは心が浮き浮きして、じっと腰を落ち着けていることができなっていた。
二年二組の教室ではホームルームが行われていて、生徒たちが席に座って教師の話を聞いている中、涼宮撫子だけが椅子から腰を浮かせていつでも駆け出せる準備をしていた。
中野洋介先生は生徒たちが自分の話を上の空で聞いていることに苦笑した。
「みんなさぁ、明日から冬休みで浮かれているのはわかるけどさ、私の話聞いてくれないかな?」
中野先生は若い先生で生徒には好かれている方だが、それとともに少々なめられてもいた。
「いや、だからさ――」
「さっさと終わらせろよー」
中野先生は何か言おうとしていたが、男子生徒のバッシングにより口を止めて、言いたかった内容を言えずに他のことを言った。
「じゃあ、みんな、また来年。はい、終わりにします」
「起立、気をつけ、礼」
事務的な挨拶が終わり、生徒たちが帰りはじめた。
瀬名翔子が秋葉愁斗にかけようとした瞬間、二人の間を遮るように素早い身のこなしで何者かが現れた。
「翔子、愁斗クンビミョーに借りま〜す!」
二人の間に割って入って来たのは撫子だった。
撫子は愁斗の腕を掴むと強引にどこかに連れ去ってしまい、それを見て翔子は口をポカンと空けてしまった。
強引に腕を引っ張られる愁斗は嫌がるでもなく、無表情な顔をして撫子に合わせて走っている。自分がどこに連れて行かれようと愁斗にはどうでもいいことだった。
二人は廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、屋上に通じるドアの前まで来た。
撫子はドアノブに手をかけて、はっとした顔をして叫んだ。
「うっそ〜、爆マジ!? 何で開いてなかったりしちゃってるわけぇ〜?」
どうやら撫子は屋上に行こうとしていたらしいのだが、屋上に通じるドアの鍵が開いていなかったらしい。
うんざりした表情をわざと撫子に見せ付けた愁斗は、掴まれていた腕を丁重に外して、撫子をドアの前から退かした。
愁斗の手から妖糸が伸び、鍵口の中に潜り込んで行った。そして、ガチャという音が聞こえた。鍵は愁斗の放った妖糸によって開けられたのだ。
ドアを開けた愁斗はさっさと屋上に出て行ってしまい、撫子が慌てて追いかけた。
屋上は少し肌寒かった。
撫子はぶるぶるっと身体を振るわせた。
「烈寒いよぉ」
「寒いんだったら僕のことを何で屋上に連れて来た?」
「だってさぁ〜、雰囲気ってあるじゃん?」
「何の雰囲気?」
撫子は急に腕組みをして考え込んでしまった。適当な発言が仇となった。つまり撫子は答えを用意してなかった。
「とにかく、大事にゃ話と言ったら屋上。愛の告白と言ったら校舎裏って、決まっているようにゃ決まっていにゃいようにゃ」
「なるほど、それで僕の大事な話って?」
「マジカル!? どうしてアタシが愁斗に大事にゃ話があるってわかったねぇ〜。もしかしてエスパー愁斗?」
「……答えは自分で考えろ」
「てゆーか最近、愁斗クンアタシに対してドライだよね。口調が冷たいし、口調が冷たいし、口調が冷たいし、みたいな」
確かに撫子の言うとおり、愁斗の撫子に対する態度は前に比べて冷たくなった。冷たくなったというよりは、素を見せるようになったと言った方が正しいかもしれない。
「撫子の口調は最近拍車をかけて変になってる」
「うっそ〜、爆マジ? ナイナイだよ、前と少しも変わらにゃいよぉ」
撫子は撫子語という特殊言語を操り、その言語は常に進化している。そして、実は普通の言語でしゃべることもできる。
ため息をついた愁斗は屋上を出て行こうと歩き出した。
「もう行く、きっと瀬名さんが待ってるから」
「待ってよ、大事にゃ話がるんだって!」
愁斗の足が止まった。だが、撫子に背を向けたままだ。
「できれば手短に」
「組織についての話があるの」
撫子の口調が急に大人びて、真剣ものへと変わった。そして、『組織』という単語を聞いた愁斗の顔つきは険しいものへと変化した。
急に振り向いた愁斗は撫子に詰め寄った。
「早く続きを言え」
その言葉は冷たく、撫子の背筋を凍らせた。
「組織にウソがバレた」
「なんだと!? それはどういうことだ!」
愁斗は今にも撫子に飛び掛かりそうな勢いだった。
「紫苑が死んでないことがバレた、というかバレてたみたいなの。組織は紫苑が生きているのを知っていてわざと見逃している。アタシはその監視役にまたなっちゃって……ごめん、ホントごめんね、だって組織を裏切ったらアタシが殺されるから」
「私がおまえを殺すというのは考慮に入れてなかったのか?」
撫子は愁斗の声を聞いて震え上がってしまった。
「だ、だから、話をとりあえず最後まで聞いてよ。組織は紫苑に替わるものを見つけたから、今のところは紫苑を必要としていないの。それで、今は紫苑を自由に泳がせてデータを取っているだけ。紫苑が組織に危害を加えない限り、組織も紫苑に危害を加えない」
「なるほど、保護観察というわけか」
「ホントにごめん。アタシ翔子や愁斗クンのこと裏切るつもりなんてないの。アタシの立場ってやつも理解してよ」
「立場など私は知らない。私がおまえを殺さないのは翔子が悲しむからだ、だがな――」
愁斗の手から放たれた煌きを撫子は辛うじて避けた。
シュッという音が撫子の耳元でした。
「爆殺されると思ったよぉ!?」
「殺すつもりだ」
「ちょっとタイム! アタシを殺すってことは組織に危害を加えるってことににゃるんだよ」
「そのつもりだ」
「最近愁斗クン、感情的ににゃったよね。冷静な判断ができてにゃいよ。愁斗クンだけだったらいいけど、翔子も他のみんにゃにも、愁斗クンの周りにいるみんにゃに危害が及ぶかもしれにゃいんだよ。だから、組織に危害を加えないで!」
撫子の首元に迫っていた妖糸が愁斗の手に引き戻された。
「仕方あるまい――約束しよう。だが、組織の糸が掴めない……なぜ?」
二人が先ほどから言っている組織とは、古の魔導士の知識を受け継ぐ者たちが組織したグループで、今は主に魔導と科学の融合を試みている。その素性はなぞに包まれており、愁斗その組織から逃げ出した経緯を持っている。
「なぜ組織は僕を泳がせているのか……不自然な行動だ。それに僕に替わるものというのは……。撫子、知っていることがあるのなら教えてくれないか?」
「はぶっ! 知ってても言えるわけにゃいじゃん。それにアタシは下っ端だから本当に何も聞かされてにゃいんだよねぇ〜」
「……そうか」
愁斗は屋上を出ようとしたが、何かに気づき足を止めた。そして、撫子は何かを見て後ろに大きく後退りをした。
後ろを振り返った愁斗の視線に入って来たものは、黒いコート来た長い黒髪を持った男で、赤く丸いサングラスをしている。そして、その男の肩には鴉が止まっていた。異様な雰囲気を醸し出している男だ。
「はじめまして愁斗くん、わたくしは影山彪彦――現代の魔導士です」
「組織の人間だな」
「ええ、そうです」
彪彦の口元がつり上がった。相手の言葉を受けて、愁斗の手から妖糸が放たれそうになったが、先ほどの約束があるので手はゆっくりと下ろされた。
「僕に何か用?」
「いいえ、近くに用事がありましたので、あなたがどんな人物かこの目で確かめたかっただけです」
この影山彪彦はこの辺りで最近起きている怪事件の調査のために組織から派遣されて来たのだった。だが、愁斗にしてみれば自分を始末しに来た刺客と思えた。
「僕に直接用があるわけじゃないんだな、ならいい」
愁斗は彪彦に背を向けて屋上を出ようとした。聞きたいことは山ほどあるが、今の愁斗には守りたいひとがいる。そのひとに危害が及ぶのはどうしても避けたい。
「お待ちなさい、愁斗くん」
彪彦は愁斗を呼び止めた。
「わたくしに聞きたいことはないのですか? 失礼ながら、そこにいる子との会話を最初から聞いていたものでして、なぜ組織があなたを泳がしているのかでしたよね?」
会話を最初から聞かれていた。そのことに愁斗は衝撃を受けた。相手の気配を全く感知できなかったのだ。
何も言わずに屋上を出て行こうともしない愁斗を見て、彪彦は話を続けた。
「組織は麗慈くんのことを必死になって探していましたり、組織のトップが代わったりといろいろとありましてね。愁斗くんを泳がせるように命じたのは新しくトップに成られた方の命令でしてね、最近の組織は丸くなったものですよ」
愁斗はこの話を背中で聞き、何も言わないまま屋上を出て行った。
残された彪彦はずれたサングラスを直して、後ろにいた撫子の方を振り向いて口元をつい上げた。
身体全体がゾワゾワとした撫子は大きく後退りをして身構えた。
「用が済んだんにゃら早く帰ってよぉ〜!」
「あなたは今までどおり愁斗くんと仲良くしていなさい、というのが組織の命令です。では、またいつかお会いいたしましょう」
「会いたくにゃいよ〜ん」
撫子があっかんべーをしたのを見た彪彦は風のように走り、屋上を囲んでいる高いフェンスをひと飛びに越えて下に落ちて行った。
今日は終業式がメインだったので学校は午前中に終わった。太陽はまだ一番上まで昇りきっていない。
撫子は軽やかにフェンスに登り腰を掛けると、遠くの町並みを眺めた。ここからでは活気に溢れているのかいないのかわからない。絵に描いた町を観ているようだ。
撫子は目をつぶり、息をゆっくりと吐いた。
二年次の二学期に撫子はこの学校に転校して来た。転校の理由は、組織を逃げ出した紫苑が学校に潜伏しているかどうかを調査するため。正確には愁斗が紫苑であることを確認するために組織から派遣されて来た。
撫子はその後、愁斗と同じ部活に入部して翔子と友達になった。それは撫子にとってはじめての友達であった。組織の実験生物として育てられた撫子には、それまで友達と呼べる存在がいなかったのだ。
そして、撫子はその友達を裏切った。だが、撫子は裏切り切れなかった。
「もうすぐクリスマスかぁ〜、翔子と愁斗クンの仲は進展してるのかにゃ〜?」
想いに耽る撫子の眼前に黒い影が現れた。その影は影山彪彦であった。
「わっ!? にゃ、にゃに?」
撫子は身体を滑らせて地面に落下しそうになってしまった。
右手を高く掲げて舞い上がって来た彪彦の右手首には黒い翼が生えていた。この翼は彪彦の肩に止まっていた鴉が変化したものだ。
「申し訳ありません、驚かせてしまって。言い忘れていたことがありました。わたくしが調査している事件の調査をあなたにも手伝ってもらわねばならなかったのです」
そう言えば、彪彦は先ほどの話で怪事件の調査に来たと言っていた。
撫子はあからさまに嫌な顔をして相手の態度を伺うが、サングラスの奥の瞳は何を思っているのかわからない。
「調査ってにゃにすればいいの?」
「そんな嫌な顔をしても駄目ですよ。あなたには拒否権はありませんからね」
もっと嫌な顔をする撫子だが、これが彼女にとって最大の抵抗だ。彼女は組織に直接牙を向けて逆らうことはできなかった。
「それでアタシはにゃにすればいいんですかぁ〜?」
「ネバーランドとその世界を創り出す能力を持った子供たちの調査をしていただきたい」
「ネバーランドって?」
撫子はその名をはじめて耳にした。
「有名な架空の国の名前ですよ。いくら組織に飼われていたからとはいえ、このくらいの一般知識ぐらいは覚えておいてください」
「はぁ〜い」
彪彦は話を続けた。
「この世界で最も有名なネバーランドは童話ピーターパンに出て来るもので、簡単に説明するといつまでも子供の姿でいられる国のことですね」
「そのネバーランドがどうしたの?」
「我々の組織が大規模な実験によってしか創れない異世界を創れる子供がいるそうなのです。その子供が創った世界のことを誰が呼びはじめたのかネバーランドと呼びます。あなたにはその調査をしてもらいます」
過去に一度だけ撫子は異世界を訪れたことがあった。その異世界はこの世界と何も変わらず、そこが異世界だと言われても信じられないくらいだった。
彪彦の腕に付いた黒い翼が大きく羽ばたいた。
「では、失礼します」
「あ、ちょっと待って、情報は!?」
「あとは、ご自分で調査なさい」
ずれたサングラスを直した彪彦は地面にゆっくりと降下して行き、姿を暗ませてしまった。
「爆裂めんどくさいにゃ〜」
フェンスから降りた撫子は頭の後ろに腕を回しながら屋上を出て行った。