夢見る都(2)
教室のドアが開かれ、いつもと同じように教師が入って来る。どこの中学でもあるような光景。ただ、今朝はひとつだけいつもと違うことがあった。
教室がざわめき立つ。今朝からこの教室には机がひとつ増えていた。皆の予感が的中したのだ。
「みなさんこんにちは、雪村麗慈と言います」
担任の後に入って来た青年は、溌剌とした笑顔で挨拶をした。この挨拶に女子生徒の多くがうっとりとした表情を浮かべた。なぜなら、この青年が類稀なる美青年だったからだ。
このクラスにはこれで二人の美青年が存在することになった。今日転向して来た雪村麗慈と、二年のはじめに転向して来た秋葉愁斗。だが、二人のタイプは違った。麗慈が精悍な顔つきをしているのに対して、愁斗は中性的な美を兼ね備えた顔つきをしていた。
静まりのない教室で、担任の男子教師はわざとらしく咳をひとつして、出席簿の角で後ろの席を指し示した。
「あそこが今日から雪村の席になるから、着席しなさい」
教師に言われるままに、麗慈は物音も立てない華麗な足取りで着席した。横の席に座っていた瀬名翔子はその一部始終を瞬きもせずに見つめてしまった。翔子は自分の横に設けられた席にどんな人が座るのか、このクラスで一番楽しみにしていたのだ。
翔子の目が麗慈の目と合った。
「あっ、はじめまして、私、瀬名翔子っていいます」
「やあ、翔子ちゃんこんにちは。俺の名前はさっき言ったから知ってるよね?」
爽やかな笑顔を向けられた翔子は、目の前にいる麗慈とは別の顔を頭に思い浮かべていた。
――似ている。
顔のタイプも、しゃべり方も、全くの別の人間なのに、翔子は麗慈とある人物に共通のなにかを感じたのだった。しかし、それがなんであるのかは、はっきりとわからない。漠然となにかが似ていると感じた程度だ。
「麗慈って呼び捨てでいいから、よろしく」
相手の声でふと我に返った翔子に、明るい顔をした麗慈の雪のように白い手が握手を求めてきた。翔子はその手を握って微笑み、ある話を切り出した。
「この学校って部活動に絶対入らないといけないんだけど、麗慈くんはどの部活に入るかもう決めた?」
「いや、まだ転校して来たばっかだから、何も決めてないけど」
あたりまえの答えだった。麗慈はこの学校の部活や風習などについて、まだ何も知らないのだから、当然の答えと言えた。翔子の狙いはそこだった。
「だったら、うちの部活に入ってくれないかな?」
「何部?」
「演劇部なんだけど、入ってくれるだけでいいの。大丈夫、大丈夫、この学校の生徒って部活に入っても帰宅部な生徒たくさんいるから、演劇部も麗慈くんの名前だけ貸してくれればいいから、ね?」
この学校の演劇部は弱小部の部類に入り、演劇部の副部長である翔子は、日夜部員の勧誘に励んでいたのだった。
「いいよ、入っても」
すんなりと二つ返事で麗慈は演劇部に入ることを承諾した。これに対して翔子は少し驚いてしまった。自分から勧誘したものの、まさか、演劇部なんかに入ってくれるなんて思ってもみなかったのだ。
「本当に本当? ありがとう」
演劇部はこの学校ではあまりイメージがよくないらしく、勧誘してもほとんど断られるのだが、今年に入ってからは勧誘の成功率が上がっていた。それも今年は二年生の転校生三人に勧誘したところ、麗慈を含めて一〇〇%の成功率だったのだ。
翔子が今年勧誘した転校生の一人目は秋葉愁斗。二年次のはじめに転校して来て、すぐに演劇部に入ることを承諾してくれた。
二人に勧誘したのが二学期のはじめに転校して来た涼宮撫子。翔子とは違うクラスなのだが、すぐに打ち解けて部活に入ってくれた。
そして、三人目が季節外れの夏の暑さが残るこの時期に転校して来た雪村麗慈であった。
演劇部の二年は最初、翔子ひとりだったのだが、これで四人となり、ついに演劇部の部員の人数が二桁に到達することができた。
だが、相手が本当に演劇部の活動をしてくれるとは限らない。翔子もそれを条件に部員の勧誘をしている。存続のためには、それも仕方ないことだった。
「文化祭が近いから放課後毎日練習してるけど、嫌だったら来なくていいから」
「俺、実は演劇経験者なんだよ」
思わぬラッキーだった。演劇部には演劇のできる者がほとんどいなかったのだ。
「本当に? だったら、帰宅部にならないでちゃんと活動してくれるってこと?」
「もちろん」
にこやかな笑顔だった。その笑顔を見た翔子も微笑んだが、あることに気が付いて、少し慌ててしまった。
「あっ、でも、今度の公演の役割はもう決まってるから、麗慈君が来てもすることないかも、どうしよう……」
「いいよ、別に、雑用でもするからさ」
「ごめんね、つまらないよね」
「いいって、いいって。次の公演からは俺が主役やるからさ、なんてね」
笑顔を絶やさない麗慈を見て、いいひとが演劇部に入ってもらえたと翔子は心から喜んだ。
「本当にありがとう。演劇部には放課後私が案内するけど、いいよねそれで?」
「ああ、いいよ。今のところいつでも暇だからね」
朝のHRが終わり、いつもどおりの授業が展開していく。この点に関しては転校生が来ても、いつもと変わらなかった。
やがて学校は終わり放課後が来た。
家に帰る者も入れば、部活に向かう者もいる。そんな中、授業道具をバッグに放り込んでいた麗慈の前に、約束どおり翔子が現れた。
「準備がよかったら案内するけど?」
「ああ、今終わったとこだから、案内してよ」
「じゃあ、私について来て」
廊下には下校する生徒たちなどがまだ多く残っている。
窓のある壁を右手にして、そのまま廊下の端まで行き、そこから階段を一階下りて二階に行く。そして、すぐ近くの渡り廊下を進んだ先に、別館として建てられたホールが存在する。
このホールは音響設備や舞台から観客席などが行き届いて整っており、学校内の敷地に建っているが、市民ホールといった感じの施設なのだ。
このホールは日曜日などになると、劇団やミュージシャンが公演をしに来るが、ここ一週間はほとんど演劇部の貸し切りだった。
ホール内の廊下を歩きながら、翔子は間じかに迫った公演の話をした。
「いつもは教室で練習してるんだけど、うちの学校の文化祭まで一週間切ってるから、本番と同じ場所で練習してるの。でもうちって弱小部なのによくホールを使わせてもらえたなぁ。あっ、そう、このホール内にはいくつかホールがあってね、私たちとは別の場所では吹奏楽部が練習してたりするんだよ」
「そう言えば、学校の見学してた時、そんなこと聞いたような気がするな。そんな季節なんだな……」
「あ、あの、ひとつ聞いてもいいかな?」
麗慈ははっとして顔を上げ、すぐに笑顔を作った。
「何でも質問しちゃっていいよ」
「どうしてこんな時期に転校して来たの? あ、別に言わなくてもいいんだけど」
こんな時期転校してくるなんて、よほどの事情があるのかもしれない。両親の仕事や家庭の複雑な事情など、想像すればいくらでも出てくる。翔子は質問をした後で、聞かなければよかったと、少し後悔をした。
「両親がいきなり離婚しちゃってさ、突然引っ越すことになっちゃって、俺も驚いてんだよねまさか両親が離婚するなんて思ってなかったし、母親に連れられていきなり引越しだもんな」
麗慈は明るい顔をして言ってはいるが、翔子は聞かない方がよかったと思った。
「ごめん、聞かない方がよかったかな……」
「別にいいって、そんなに深刻でも暗い話でもないし」
十分深刻な話のような気がするが、本人の感じ方はいろいろあるのだと思う。
このままこの話をするのも気まずいので、翔子は話題を変えることにした。
「うちの学校の文化祭って、星稜祭って名前でね、結構壮大にやるから外部からも人がいっぱい来るんだよ。でね、今の時期になると文化部はみんな張り切っててどたばたしてるんだよね」
「星稜祭か、全くひねってないな、その名前」
「たしかに中学校の名前そのまんまだもんね」
「で、意味は?」
「意味? そんなの知らないよ。でも、カッコイイ感じはするけど?」
「カッコイイか。『稜』っていうのは、多面体における平面と平面との交わりの線分のこと言うから、簡単に言っちゃうと、星と星が交わるところってことか」
「うちの学校って、そんな意味があったんだ。麗慈くんって物知りなんだね」
「こんなことで物知りだなんて言われるなんてね」
雑談をしているうちにホールの座席を抜けて、舞台の上まで来た。そこには眼鏡をかけた背の高い男子生徒が立っていた。
この男子生徒は翔子の先輩である三年の中山隼人。演劇部の部長でもある。
「やあ、こんにちは翔子さん。そちらはどなたですか?」
「こんにちは部長。この人はうちの新入部員の雪村麗慈くんです」
「また、勧誘成功したんですね。すごいね翔子さん」
隼人は微笑みながら麗慈に握手を求めた。
「よろしくね雪村くん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
相手の手を取った麗慈は軽く微笑んだ。
演劇部は麗慈を含めると全員で一〇名となる。だが、ここに集まっているのはまだ三人だけだ。
翔子は少し不満そうな顔をして辺りを見回した。
「部長、まだ、みんな来てないんですか?」
「さっき――」
「あたしはとっくに来てるわよ」
突然翔子の背後から女性の声がして、彼女は驚きながら振り返った。
「あたしが一番早く来たの」
翔子の前に立っているのは三年の鳥海麻耶。彼女は一年生の頃から隼人ともに演劇部を続けているが、舞台に立って役を演じたことは少なく、いつも裏方の仕事をしている。
「麻那先輩来てたんですね」
「そんなことよりも、他の子たちは来てないの?」
麻那は釣りあがったキツイ目をして辺りを見回した。インテリな感じのする眼鏡のデザインのせいか、顔全体に少しキツイ印象を受ける。
しばらくして、残りの部員たちがぞろぞろとやって来た。
一年の女子三人組である早見麻衣子・野々宮沙織・宮下久美。そして、少し遅れて翔子とは違うクラスの二年生――涼宮撫子。
だが、残り二人が来ない。
演劇部は人数が少ないため、ギリギリの配役で公演の演習をしているため、ひとりでも抜けたらろくな練習ができない。もし、本番の日に休まれたりしたら、もっと最悪な事態になってしまう。
隼人は腕組みをして、少し困った顔をしている。
「おかしいなあ、須藤くんはいつも早く来るんだけど、もしかして休みとか?」
隼人に顔を向けられて質問された一年生の女子三人組は首を横に振り、麻衣子が代表をして答える。
「私たち、須藤くんと違うクラスなので知りません」
この三人組は同じクラスで、須藤も一年生なのだが、別のクラスなので全く交流がないのだ。
二人の部員が来ないことに麻那は少しカリカリして、腕組みをしていた。
「はぁ、まったく、主演の二人がいないでどうするのよ。翔子、愁斗はどうしたの? あなた同じクラスでしょ?」
「愁斗くんなら学校来てませんでしたけど……」
「休みなの? じゃあ、まあしかたないわね」
しぶしぶ麻那は納得した。
愁斗は今までの練習を一度もさぼることなく一生懸命やっていた。学校を来ていないのなら、それなりの事情があるのだと納得するしかない。
だが、主演の二人がいなくては、練習がほとんどできない。
その時だった。この場にひとりの男子学生が現れたのは!?
「遅れてすいませんでした」
この場に飛び込んで来たのは、学校を休んだはずの秋葉愁斗だった。
クラスにも顔を出さなかった愁斗の顔を見て、翔子はびっくりしてしまった。
「愁斗くん、学校休んだのに……部活は来たの?」
「うん、僕が休むとみんなに迷惑かかるでしょ?」
「でも、病気とかじゃないの?」
「大丈夫だよ。少し大事な用があって学校を休んだだけだからね」
柔らかな表情をしていた愁斗の顔が、麗慈と目が合った瞬間に、少し凍りついたのを翔子は見逃さなかった。だが、そのことには触れずに、翔子は改めて部員たちに麗慈の紹介をはじめた。
「あ、こっちにいるのは雪村麗慈くん。今日からうちの部員になってくれたの」
「雪村麗慈です。よろしくお願いします」
カッコイイ新入部員を見た三人組のひとりである、沙織がはしゃぎはじめた。
「きゃ〜、麗慈センパイってカッコイイですね。愁斗さんに負けず劣らずって感じですぅ。沙織、この部活入ってよかったなぁ」
少々はしゃぎすぎの沙織の横に立っていた久美が、ため息混じりに言った。
「あんた、はしゃぎすぎ。愁斗先輩目当てで部活に入って、雪村先輩まで入って来てくれてラッキーって顔いっぱいに書いてあるわよ」
「そんなことないよぉ。沙織は演劇がやりたくて、この部活に入ったんだよぉ」
「どうだかねえ」
沙織を見る久美の眼差しは冷たい。
「何その目は、久美ちゃん沙織のこと疑ってるの? ひっど〜い。そういう久美ちゃんは何で演劇部なんて入ったの?」
「私はどの部活でもよかったんだけど、あんたが演劇部に入るっていうから」
二人の会話を遮るように隼人が手を叩いた。
「はいはい、おしゃべりはそこまでにして、みんな練習はじめるよ」
翔子が質問をするために手を上げた。
「あの、部長、メサイ役は誰がやるんですか?」
メサイとは今日休んでいる須藤がやるはずの役名だ。
隼人はすでに答えを考えていたらしく、手に持っていた台本を麗慈に手渡した。
「はい、これが台本。セリフを読むだけでいいから」
「俺がですか?」
思わぬことに麗慈は驚いた顔をした。だが、隼人は麗慈に代役をやらせる気が満々だった。
「棒読みでもいいから、協力してよ、ね?」
「はい、わかりました」
台本の表紙に印刷された演目の名は『夢見る都』。
――こうして演劇部の今日の練習がはじまった。