夢見る都(15)
静寂がホールを包み込んだ。――拍手が全くないのだ。
しばらくして誰かが拍手をはじめると、それに合わせて他の者も拍手をはじめ、ホールは拍手喝采となった。
舞台の幕が開かれ、舞台に並ぶ役者たちが頭を下げて、再び幕が下ろされる。余計な挨拶はしなかった。演技を見てもらえればそれが全てなのだ。
ホールの電気が点けられ、席を立った客たちが帰って行く。その音を聞きながら舞台裏では部員たちが歓喜の声をあげていた。
「爆裂サイコー! 最後の最後で最高の舞台ににゃったねぇ」
撫子は翔子の両手を取りながらぴゅんぴょん飛び跳ねている。
隼人が音響室から急いで舞台裏に走って来た。
「みなさんお疲れさまでした。本当にすばらしい演技だったと思います。特に愁斗くんと麗慈くんのアドリブには驚かせられましたね」
アドリブとはラストでフロドとメサイが対決シーンのことだ。あそこはほとんど二人のアドリブだった。
二人がアドリブをはじめて一番驚いて焦ったのは翔子だった。
「本当にあのシーンはよかったよ。でも、麗慈くんが剣を投げ捨てた時はどうしようと思っちゃった。どこで私が飛び出したらいいのか冷や冷やしちゃったよ」
麗慈は笑いながら手を頭の後ろにやった。
「ごめんごめん、気づいたら俺、いつの間に剣を捨てててさ。愁斗が俺に合わせてくれてなきゃ舞台が滅茶苦茶になるとこだったよな」
あのシーンは二人の息がぴったりで演技とは思えないほどのできだった。
ぴょんぴょん跳ねながら撫子は麗慈の前まで行った。
「あのシーンってさぁ、二人で打ち合わせとかしてたのぉ?」
「いや、全部本当にアドリブだよ」
全部本当にアドリブだった? その言葉に突っかかる麻那。
「あの光る筋は何なの? 二人の間で飛び交ってた光る筋のことよ、あれもアドリブだったって言うの?」
麗慈は人差し指を唇に当てて言った。
「あれは俺と愁斗との間の企業秘密です」
完全にはぐらかされてしまった。あのシーンを見ていた全ての人が思っていた。その光の筋は何なのだろうかと?
辺りを見回す翔子。彼女はある人を探していた。
「あの、愁斗くんが見当たらないんですけど?」
一同ははっとした顔をした。舞台が終わったばかりで興奮していて、愁斗がいないことに気づいていなかったのだ。そんな中でひとりだけは愁斗がいないことに最初から気がついていた。
「愁斗なら怪我が悪化したからって言って、さっさと楽屋に行ったわよ」
愁斗は舞台の幕が下りてすぐに楽屋に向かおうとした。その途中で麻那に会って、そのことを告げて楽屋に向かって行ったのだった。
そして、いつものように隼人が手を叩いた。
「はい、ではみなさんお疲れ様でした。後の時間は星稜祭を楽しんで来てください。それから、星稜祭が終わった後に楽屋で打ち上げをしますから、他に用がない人は楽屋に集合してくださいね」
女子三人組が舞台裏を出て行き、麗慈もすぐに出て行ってしまった。
翔子は急に撫子に腕を引っ張られて無理やり走らされた。
「な、何するのいきなり!?」
「早く衣装着替えて楽しい星稜祭を満喫しよー、お〜!」
拳を上げて自分の意気込みを現す撫子を見て、翔子はため息をつく。
「もう、そんなに急がなくても時間は十分あるから」
「今日は最終日にゃんだから、ばば〜んとエンジョイしにゃきゃ」
「昨日も私を連れまわしたのに、今日も連れまわす気?」
撫子は女子の更衣室に割り当てられ楽屋のドアを開けながら答えた。
「アタシと一緒じゃイヤイヤにゃのぉ?」
「そうじゃないけど」
楽屋では麻衣子と沙織が着替えをしており、役を演じてない久美がその二人の着替えに付き合っていた。
翔子は畳んであった自分の服を取り、着替えをはじめた。横では撫子も着替えをはじめている。
「翔子さあ、さっきの『そうじゃないけど』ってどういう意味? もしかして!?」
撫子が声をあげるので、翔子はブラウスのボタンに手を掛けながら、動きを止めて相手の顔を見てしまった。
「もしかして何よ」
「愁斗クンと星稜祭ツアー御一行様ラブラブデートするつもり?」
「別にそんなこと考えてない!」
頬を膨らませて顔を赤くした翔子は中断していた着替えを再びはじめた。
二人の会話を聞いていた沙織が大きな声を出した。
「わぁ、撫子センパイ言いこといいますねぇ〜。沙織、愁斗センパイのことデートに誘ってみようかなぁ」
この発言をわざと聞き流しているフリをして、着替えをしている翔子のわき腹に、撫子が肘を押し付けてグリグリする。
「いいにょかにゃ〜ん、沙織ちゃんあんにゃこと言ってますぜ親分」
「何のこと? 誰が愁斗くんをデートに誘おうと個人の自由でしょ」
翔子の発言を聞いて、撫子のひとり芝居がはじまった。
「じゃあ、アタシも愁斗クンのことデートに誘っちゃお。そんで、公演の後はテンション上がっちゃってるから、デートの最後にはあ〜んなことやこ〜んな展開が待ってて、きゃあ愁斗クン何するの!? がはは、いいじゃねえか、きゃあ止めて愁斗クぅん、ああ〜んってなことがあるかもよ」
少し調子に乗り過ぎた撫子を翔子が睨んだ。
「ダメ、愁斗くんで変な想像しないで!」
「じゃあ、デートの申し込みしたらぁ?」
意地悪く言う撫子に対して、翔子は下を向いた。
「したくないもん」
着替えの終わった沙織が翔子の覗き込むように立った。
「翔子センパイがしないなら、沙織が先に愁斗センパイに申し込みして来ま〜す」
走ろうとした沙織の背中の服を久美が引っ張った。
「あんたは今から私たちと高等部吹奏楽部の演奏聴きに行くんでしょうが。まさか、私と麻衣子との約束破って私利私欲に走る気じゃないでしょうね?」
据わった目をしている久美に見られた沙織は、身体を縮めて泣きそうな顔をした。
「ごめんなさ〜い、沙織が悪かったですぅ〜」
「わかればよろしい。じゃあ、麻衣子も行きましょう。先輩お疲れ様」
沙織の服を引っ張ったまま久美は楽屋を出て行き、麻衣子もその後を急いで追おうとする。
「先輩お疲れ様でした。後ほど打ち上げで――」
麻衣子も頭を下げて出て行った。
翔子と撫子の着替えも終わった。
「うんじゃ、アタシらも星稜祭の屋台めぐりで食い倒れしに行こう!」
「……あのさ、やっぱり、あの、その」
「ふふ〜ん、翔子ちゃんの言いたいことは、この美少女名探偵撫子ちゃんにはお見通しだよ。アタシは勝手に食い倒れて来るから、うんじゃ、さらばにゃ〜ん!」
全てお見通しの撫子は笑顔で走りながら楽屋を出て行った。
残された翔子は小さく呟く。
「そんなに見通されやすいのかな、私?」
これから翔子は愁斗のところに行こうとしているのだ。だが、デートの申し込みに行くのではなく、愁斗の怪我の具合が心配で見に行くのだ。
楽屋を出た翔子は少し考える。愁斗はどこにいるのか?
楽屋に戻ったと麻那は言っていたが、男子更衣室に割り当てられた楽屋か、みんなが待機に使っていた大部屋の楽屋なのかわからない。
翔子は男子更衣室に割り当てられた楽屋には入れないので、とりあえず大部屋の楽屋に向かうことにした。
大部屋に愁斗はいた。その他にも隼人と麻那もいる。
隼人は部屋の隅に座って読書中で、麻那は昼寝中、愁斗は拳に巻いた包帯を取り替えていた。
翔子は包帯を替えている愁斗の横に座った。
「愁斗くん、手大丈夫だった?」
愁斗の右の拳には出血の痕があった。
公演中に床を殴りつけるシーンで、少し本気になって殴ってしまい本当に血が出てしまったのだ。舞台裏に引っ込んだ時にすぐに包帯を巻いて応急処置をして、アリアとメサイの婚姻式に乗り込むシーンでは包帯を巻いて舞台に上がっていた。
「大したことはないから平気だよ。あんなことで怪我するんてバカみたいだよね」
「そんなことないよ、それだけ演技に入り込んでたってことだよ」
心から翔子は愁斗を尊敬していた。
この学校に来て初めて演劇をやったと言う愁斗であったが、その才能は素晴らしく、今では演劇部の誇る優秀な部員のひとりだ。
「役を演じてる時は本当にその役になっちゃうんだよね」
「それからさ、あの愁斗くんのアドリブもよかったよ。本当に血が出ちゃった時にアドリブやったでしょ?」
目を輝かせながら自分を見る翔子の顔を見て愁斗は微笑んだ。
「この右手が真っ赤な血で穢れようと、私はアリアを奪い返してみせるぞ! ってセリフのことだよね。自然と出て来ちゃったんだ」
「本当は『この手で必ずやアリアを奪い返してみせるぞ!』だよね。あ、ごめん包帯巻いてる最中だったね。止めちゃってごめん」
「いいよ別に」
再び包帯を巻き始めようとする愁斗の手を翔子は掴んで言った。
「私が巻いてあげる」
包帯を巻こうとしている愁斗の手を自分の手で止める行為、それは翔子にとって少し冒険的な行為でもあった。何気なく愁斗手を触れる――そんなことでも翔子にはすごくドキドキした。
一生懸命愁斗の拳に包帯を巻いていく翔子。ふと顔を上げると愁斗と目が合った。だが、すぐに目線を外してしまった。
「これでよし……かな?」
疑問系の声を発した。翔子の巻いた包帯は少し不恰好で肉団子みたいになってしまっている。
「ごめん、失敗しちゃった」
「いいよ、ありがと瀬名さん」
この演劇部内で唯一翔子のことを苗字で呼ぶ愁斗。翔子は本当は下の名前で呼んでもらいたかった。
「あ、あの愁斗くん?」
「何?」
「やっぱりいいや……」
『翔子』って呼んで、と本当は言いたかった。でも、言えなかった。
「言ってみてよ」
「あのね、し、『翔子』って呼んで欲しい……かも」
愁斗は微笑んだ。
「呼び捨てがいい? それとも『さん』とか『ちゃん』とか?」
「……呼びやすいようでいいよ」
「じゃあ、翔子ね。でも、僕からも条件」
「何?」
「僕のことも呼び捨てで呼んでくれたら、これからも下の名前で呼んであげるよ」
「……意地悪ぅ」
寝ていたはずの麻那がむくっと起き上がった。
「あんたらウザイ。あなたたちさ、それでも付き合ってないの?」
翔子と愁斗の動きが同時に止まった。
「あたしが許すから、二人ともお付き合いなさい。これは命令よ」
「あああ、あの、麻那先輩が許すとか命令とか、そういう問題じゃなくって、愁斗くんだって私となんか付き合いたくないと思うし、その、迷惑っていうか……」
大層な慌てぶりの翔子を見て麻那は笑った。
「ホントわかりやす過ぎね翔子は。今の発言って愁斗クン好きですって言ってるようなもんじゃない。しかも、当の本人は今のあたしの発言でようやく気づいた感じだし」
本を読んでいた隼人が、本を下にさげて顔を出し、麻那に忠告した。
「また口が滑ってるよ麻那」
「だって、この二人見てるとムズムズして来るのよ。いつまで経っても進展しないで平行線。せっかくキスシーンまでやった仲なんだから、このまま付き合いなさい」
「麻那先輩! 本当にキスしたわけじゃないですよ。頬が少し触れただけです!」
頬が少し触れただけでも翔子にしてみれば心臓が飛び出しそうな体験だった。
麻那の攻撃はまだまだ続いた。
「最後のシーンで本当にキスしちゃえばよかったのに、聞いてるの愁斗?」
「あ、はい……」
苦笑いを浮かべている愁斗。だいぶ困っているのが表情から窺える。
「あんたも翔子こと好きなんでしょ?」
「麻那また僕に叩かれたいのか?」
隼人の鋼の声が楽屋内に響いた。
翔子は唖然とした。いつあの部長が麻那のことを叩いたのだろうか?
やや間があった。そして、最初に愁斗が口を開いた。
「僕も瀬名さんのことが好きだよ」
翔子の身体の中で銅鑼が鳴った。全身が痺れて動けない。
「え、あ、え、そそ、えぇっ!?」
動揺する翔子を見る麻那と隼人も動揺している。
麻那はガッツポーズを決めた。
「よっし! あたしがバシンと言ったから愁斗は翔子に告白したのよ」
たぶんそうだったのだろう。麻那がこの場であれだけ言ったから愁斗はここで告白したに違いない。
動きがロボットのようになってしまっている翔子は精一杯こう言った。
「あ、あの、愁斗くん腕大丈夫?」
どうしてこんなことを聞いてしまったのか翔子にもわからない。
翔子の的外れなことに愁斗は笑って答えくれた。
「だいぶ赤く腫れ上がってたよ」
「あ、そう……なんだ」
二人の展開を間じかで見守る麻那はイライラしていた。
「翔子、そんなこと聞いてないで、あんたも自分の気持ちを伝えなさいよ。あんたの場合はバレバレだけど、はっきりとはまだ伝え――」
麻那の口は隼人の手によって塞がれた。
「麻那の出番はここまで。僕らは別の場所に移動するね。それと、これはここの鍵」
隼人はポケットから代々演劇部に受け継がれているという鍵を出して、翔子手のひらの上に置いた。
隼人に続いて麻那も楽屋の鍵を出して、こちらは愁斗の手のひらの上に置いた。
「あんたら戸締まりよろしくねそれから、翔子が今日から部長で愁斗が副部長ね」
それだけ言って、麻那は微笑みながら隼人と楽屋を後にした。
愁斗と二人っきりにされてしまった翔子は困ってしまった。
「あの愁斗くん?」
「何?」
「あのさ、折れた腕固定しなくいいの?」
どうしても翔子には言えない。また別の話をしてしまった。
「あ、そうだね」
「私が手伝ってあげる」
翔子は布を取って愁斗の首の後ろで結んであげた。
「ありがと」
微笑みかけられる翔子。余計に言えなくなった。
沈黙が流れ、翔子は気まずい気持ちになる。
翔子は大きく息を吐いて、大きく息を吸って、ついに言った。
「愁斗くんのことが好きです」
「僕も瀬名さんのことが好きだよ」
「うん」
顔を真っ赤にして翔子はうつむいた。そんな翔子を見て、愁斗は翔子の手を取って立ち上がった。
「僕らも星稜祭を楽しみに行こう」
「うん!」
二人は楽屋を駆け出して行った。