別章 家族の物語
別章 1
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これは愛維を知る数日前の物語。
時刻は昼食時を一時間ほど過ぎたあたり。
昼とは言えども一月の半ば。外はめちゃくちゃに寒い。太陽が出てかければ家でヒッキーやってたレベルだ。
そんな俺は結衣と愛衣を連れて散歩に出かけていた。久しぶりの休みだったので家族サービスと思ったが、そう遠出できる体力的余裕と精神的余裕はなく近場を散歩という結論に至った。
俺は今、愛衣の小さな手を握っていた。そしてもう片方の愛衣の手を結衣が握っている。
「うーちゃん、どこ行こっか?」
結衣は視線を下にして愛衣に問いかけていた。
「うーん、あそこ!」
愛衣は俺の手を一度離して指さした。
そこは俺が結衣が印象に残る場所だった。例の展望台。いろんなことが起こった場所でもあった。
「懐かしいな」
俺は自然と零していた。それを傍で聞いていた結衣が反応を返す。
「そうね、何年ぶりだろうね」
「まったくだな。ここ数年行ってなかったからな。愛衣ができてからだったか?」
「うん。あの時はお互いキツい時期だったからね」
あの時期は結衣も俺も肉体的にも精神的にも厳しい時期だった。
結衣はつわりが酷くて、俺は結衣の看病と仕事を両立させていた。社会人一年目だったから、相当なプレッシャーもあった。バイトとは大きく違うのだと理解した時期でもあったな。
「ってうーちゃん!」
気付くと愛衣は結衣の手も離して展望台の階段へと走り出していた。
「愛衣!危ないぞ!」
愛衣は本当に活発な女の子だった。保育園の先生からは活発過ぎるから何をするか分からないとまで言わせるほどだ。
流石は俺の子だな。
でもここは車通りはほとんどないから、そこまで心配はしなくても大丈夫だろう。愛衣が上っている階段も芝生が生い茂っていて多少転んでも怪我はしないように設計されている。
だけど、一人にするのは心配だ。俺達は少し早足で階段を上り始めた。
愛衣は既に階段を上り終えたらしく、見る先にその姿はなかった。
なるほどな、活発だからこその体力ってやつか。末恐ろしい。
結衣は久しぶりに上る階段に少しばかり息を切らしながらもなんとかあと数段というところまできた。
「結衣、大丈夫か?」
俺は疲れている結衣に軽く声を掛けた。
「うん、久しぶりだからね」
「年を取るってこわいな……っ!」
結衣の拳が見えぬスピードで俺の前を通過した。
「久しぶりだから、だよ?」
今までになく冷徹な、恐怖を体現するような声だった。
「は、はい……」
気付いたら俺は肯定していた。仕方ない。肯定以外の言葉を発しようものなら階段から突き落としてやる、と言わんばかりの勢いだったからな。
俺はまだ夫婦円満でいたいです。
疲れ気味ではあるもののなんとか階段を上りきった結衣は大きく伸びをした。
「んー、気持ちいいー」
「だな。で、愛衣はどこいったっと」
俺が周りを見渡していると愛衣の後ろ姿を見つけた。
愛衣は展望台に設置されている長椅子に腰掛けていた。そしてその隣にはパーカーをした子がいた。体格からしてかなり小柄だった、おそらく女の子だろう。彼女は冬なのにパーカーのみを羽織っていた。
彼女達は丘の向こう側を見ていた。
俺は彼女達の方に歩みを進めた。
「愛衣ちゃんって言うんだね」
「うん!愛してるに衣って字を書くんだよ」
「凄いね!五歳で自分の名前漢字で書けるなんて愛衣ちゃんは頭いいんだね!」
会話からして、愛衣とその娘は知り合いというよりはさっき会ったみたいな感じだった。
「愛衣、勝手に先に行ったら危ないぞ」
俺はなるべく脅かさないように穏やかな声で話しかけた。
だが、急に話したからだろう。二人してビクンと体を一瞬だけ張らせた。
「すいません、なんか遊んでてくれてたみたいで」
俺は仕事柄、頭を下げて接客のような話し方をしてしまった。
「いえいえ、こちらこそです」
そんな彼女はわざわざ立ち上がってそう言った。礼儀正しい娘だなと俺は印象に残る。
身長は俺の胸元より少し低いくらいか。今の結衣よりも十センチ程小さいくらいか。
フードに収められていた彼女の顔は中性的な顔立ちをしていた。綺麗系の男の子とも見えなくはない。
「パパ!その人は友ちゃん!さっき友達になったの!」
愛衣は立ち上がって彼女の自己紹介をしていた。どこか誇らしげに見える。
「あっ、すいません。紹介が遅れました。僕は松岡友です。友達の友でゆうって言います」
「ああ、俺も名乗ってなかった。俺はこの愛衣の父親で高坂青空だ。青い空でせいやだ」
「青空さんですか。よろしくお願いします」
彼女はそう言い終わるとほぼ同時にまた深く頭を下げた。
「よろしくな。友さんは中学生?」
「はい、今年で中三になります」
「へー、それにしては随分と小さいな?」
「へへ、それが僕の欠点みたいなところがあります」
話してみて分かったのは、なかなかにボーイッシュなところがあるところくらいか。
すると、すぐ隣から声が聞こえた。
「ねぇー、青空。この娘は?」
さっきまでへばっていた結衣が俺の隣まで来て尋ねてきた。
「ん?ああ、この娘は愛衣が友達になった松岡友さんだ」
「へー」
結衣は真っ直ぐに彼女の顔を見つめていた。
「あのこの方って愛衣ちゃんのお姉さんですか?」
友は俺の方に視線を向けて尋ねてきた。
「え?いや、違うよ。愛衣の母親だよ」
「ええっ!お母さん!?若過ぎませんか?」
「それもそうだな。高二の時に産んだからな」
「そ、それは凄いですね……」
友は驚きを隠せずにいた。だがそれにも反応せず結衣はただ友を直視していた。それはもうガン見。
するといきなりだ。
「ねぇ、ちょっとフード外してみて?」
「そ、それはちょっと……」
友は少しばかり躊躇していた。それも無理はなかろう。見ず知らずの人にいきなりフード外せとか言われたらそりゃ焦っても仕方ない。
だが、この娘がどれだけ拒んでもこの結衣はなかなかにしぶとい。
「いいからいいから、ねっ?ちょっとだけ」
「それはホントにちょっと……」
友が目を逸らした刹那、結衣は彼女のフードをパサッと払い除けた。
するとフードから現れたのはボサボサなショートカットの髪の毛。切りそろえられていないらしく枝毛が多く見られた。
それよりも、だ。
それ以上に残酷な光景が俺の、いや俺達の視界に映り込んでいた。
「その首の傷、どうしたの?」
結衣は単刀直入に訊いた。
彼女の首には左奥から喉仏の方向に五センチほどの傷跡があった。
「いや、これはその、昔にちょっと……」
彼女は目を逸らして、首にある傷を手で隠した。
その時に、俺はまたあることに気付く。
「結衣、ちょっといいか」
結衣はこちらを振り向いた。その間に友はパーカーを付け直して下を向きっぱなしだった。
「何?」
結衣は真面目な顔で問い返す。
「ここは俺に任せてくれないか?愛衣に聞かれてもあれだし、結衣には愛衣を連れて適当に遊んでてほしいんだ」
「でも……」
「頼むよ。結衣の気持ちも分かるけど、ここは俺がなんとかするから」
俺は感情的になる結衣をやり込めて頼み込む。
「分かった……」
結衣はまだ納得いかない表情だったが、それも仕方ないといえば仕方ない。
「悪いな」
「うーちゃん、ちょっとパパ友ちゃんとお話するからママと遊ぼっか?」
結衣はそう言いながら左手を差し出していた。
「うん!」
さっきまでぼっーと話を聞いてたり聞いてなかったりの愛衣は大きく返事をして、結衣の手を握った。
「それじゃ、青空お願いね」
「ああ」
結衣はそう残して、愛衣を連れて階段を下りていく。おそらくは階段下の近くの公園にでも行くつもりなのだろう。
ただ、今はそんなことはどうでもよかった。
「ちょっと座るか」
俺は彼女を誘って長椅子に座らせた。木造の椅子は非常に冷たかった。
気が付くと出ていたはずの太陽が薄い雲に隠れている。
「なんか飲むか?」
俺は友に訊くが彼女は首を横に振る。
俺は浅く息を吐いて、近くの自販機でホットコーヒーとホットココアを買った。
俺はそれらを持って友の隣に座る。
「ほら」
俺はホットココアの方を友に渡す。だが彼女は受け取ろうとしなかったため、友の隣に置くことにした。
「なんで……」
「いや、こんな寒い日にそんな寒い格好してる奴にアイスもん買うのもおかしいだろ?」
そう笑うと俺はコーヒーのプルトップをカシャッと開けた。
「そうじゃなくて!なんで僕を気味悪がらないんですか?」
未だに下を向きっぱなしの友の声は段々と弱々しくなっていった。
「別に気味悪がることでもないだろ。小学生ならともかく社会人がそんなんで差別意識なんてのは持たねーよ。それに……」
友はチラリとこちらを見る。
「俺はそんな奴らが心の底から気持ち悪いと思ってる」
自分では慣れてしまったが、冷たく容赦ない声音になっていた。
「っ……」
この感じにほとんどの人は同じ反応を見せる。友も例外ではなかった。
「それでなんでそんな傷を負ったんだ?話したくないならいいんだけどさ」
「それは……その……」
友はまた目を下に逸らして、話すか話すまいの葛藤を自分の中でしているのだろう。
「別に無理しなくていいからな」
「いえ……話したいんですけどどこから話せばいいのか分かりなくて」
「そうか、俺はいくらでも待つから自分のペースで話してくれ」
「はい、すいません」
しばらくの間があった後、友はおもむろに口を開いた。
「実はこの傷お父さんにやられたんです」
「親父にか?」
「はい。幼稚園の時に酒瓶で殴られてその割れた瓶の欠片で」
「酷い話だな。それでどうなったんだ?」
「その時に失血死しかけたんですけど、なんとか命だけは助かりました」
「その後、罪に問われてお母さんとは離婚して僕はお母さんの方に引き取られました」
過酷な人生だなと俺は思った。
しんどいよな。そんな辛いことばっかりは、さ。
「それからの僕らの生活は平和でした。何も起こらなかった。本当に何も」
「そうか」
「これがこの傷のことです。本当に今は毎日楽しいですよ」
友は顔を上げ、フードの中で笑顔を浮かべた。
「そうか。それは本当に良かったよ」
「はい。だからそんな心配することなんてないんですよ」
少し冗談混じりの声音でそう言う友。彼女はさらに続けた。
「ココア頂きます!」
彼女は隣に置いたココアを開けて、ごくごくと飲み干した。
飲み終えると同時に白い息が吐き出された。
「おいしいです!ありがとうございます!青空さん」
「いいよ、別に。それよりももう一つ訊いていいか?」
「はい、なんですか?」
友は立ち上がってゴミ箱に向かってか、缶を投げ入れるフォームをしていた。
俺は視界にそれを捉えつつも続ける。
「本当に今幸せか?」
「な、なんですか?急に。もちろん、幸せに決まってるじゃないですか」
友は明らかに少し慌てていたが、すぐに平常に戻る。
友が缶を投げようとした瞬間に俺も言う。
「じゃー、そのリストカットの跡はなんなんだ?」
「え……」
友が投げ入れた缶はゴミ箱から大幅に手前でバウンドして転がった。
「い、いつ……」
友は焦っていた。もう誰にでも分かるレベルで。
「さっき首の傷を隠した時にチラッとな。見るつもりはなかったんだ」
「そ、そうなんですね……えっとでふね、これも幼少期の時にですね、ストレスで自分でやってて……その……」
嘘、だった。下手な芝居だ。
「嘘は止めろ。ここ最近のものなのは見たら分かる」
「そんなこと……」
俺は立ち上がり少し伸びをする。
「でもあえてこれ以上は聞かないよ。ただこれだけは守ってくれ。命を粗末にするな」
俺はそう言い残して階段を歩いていく。
そしてふと思い出す。
「あとな、たまにここに愛衣来るかもだからそん時は快く相手してやってくれや」
「え……」
友の戸惑う声だけが俺の耳に残り、あとは風が拭く音しか聞こえなかった。
「一応、調べとくか」
俺はそう独りごちてあるところに電話をした。
「あ、俺だ。少し頼みたいことがあるんだ。ああ、松岡友って奴の家庭状況を少し調べてほしいんだ。お前らならここら辺のことは詳しいと思ってな。任せてもいいか?サンキュー、助かるよ。それじゃ、何か分かったら教えてくれ。ああ、ありがとな」
そうして、俺は電話を切る。念の為だ。
階段を下りきった俺は結衣達のいるであろう公園へと向かった。
これは少し先の物語




