第四章 3
第四章 3です
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「ねぇ?」
学校前の坂道まで来て、初めて蛍原は口を開いた。
「なんだ?」
目線は前を見たまま変えず、歩いたまま返事した。
「あんた、なんで、高校に入ったの?」
なんだ、その変な質問は、と内心で思ったが声には出さなかった。
「なんでって、高校には行かないとって思ったんだよ」
「有り得ないでしょ」
後ろから、小声で侮辱の言葉が聞こえた。
俺は足を止め、振り向いた。
「お前も失礼な奴だな。成績は優秀な方なんだよ、俺は」
「あんたが?なんの冗談よ?」
俺は話を変えようとして、ずっと気になっていたことを言った。
「なぁ、その『あんた』っての止めてくれないか?」
「え?あ、そうね、失礼よね……」
なんだ、こいつにも礼儀感覚はあるのか。
蛍原は一瞬俺と目を合わせてから、また逸らしてモジモジとし始めた。
「じゃ、じゃー……、せ、せい…や……」
小声で蛍原は俺の名前を小さな声で呼び捨てにした。
「いきなり名前呼びの、しかも呼び捨てかよ」
「な、何よ!嫌なの!」
急に怒り出して俺との距離を詰めてくる蛍原から少し引いてから応えた。
「そんなことないけど、せめて『先輩』くらいは付けて欲しかっただけだよ」
「はぁ??」
腹立つ顔で俺を見てきて、若干の殺意が湧いたことは内緒だ。
「そ、その代わりに……私のことも、ゆ、結衣って呼んで、いいから……」
また照れながら蛍原は指を重ね合わせてクネクネしていた。
「いや、いいよ。蛍原で」
俺は冷たいモノを見る目をしていた。もちろん、蛍原も分かっただろう。
「いいから、呼びなさいよ!こんなことを私が認めるなんて珍しいのよ!」
「自分で言うのかよ」
俺は溜め息混じりにそうツッコんだ。
「さ、呼びなさい!」
今更だが、こいつ見た目からは後輩感がすごいのに話してみると全然そんなことないな。
「はぁ、分かったよ」
観念した俺は一つ息を吐いてから蛍原の方を見た。
「結衣」
「……」
黙って俺を見たまま蛍原は動かなかった。心なしか目に生力を感じない。
「おい、大丈夫か?」
「……」
俺の呼びかけにも応えず、蛍原はじっとこちらを見たまま動かなかった。
「おい、起きろ」
蛍原の頭を軽くチョップした。
「ふっぎゃ!」
ふっぎゃ、って何だよ。初めて聞いたわ。
「な、何すんのよ!」
叩かれた患部を抑えながら叫んできた。
「いや、返事しなかったからさ」
「は?何に?」
本気の疑問顔を向けてきた蛍原に少し驚いた。
まさか、マジでこいつ記憶が飛んでんのか?
「結衣」
「きゅ、急にな、な、な、な、な、何よ!」
「焦りすぎだ。お前が呼べって言ったから呼んだんだ」
「は!?私、そんなこと言ってな……」
言い切ろうと言うところで蛍原は言葉を飲み込んだ。
一方の俺はホンモノのバカを俺は初めて見て、感心していた。
「ごほん、そ、そうね……そうだったわね」
下手くそな咳払いを一つしてから蛍原は思い出したからのような口調でそう言った。
「やっと思い出したか。たっく、お前はホンモノのバカだよ」
俺は呆れたようにそう零した。
「ね、ねぇ、も、もう一回言ってよ……」
先に坂を上がろうとした俺の袖をギュッと摘んできた。
「あ?何を?」
「名前よ……」
蛍原はしおらしくそう言った。
「なんでだよ?」
「いいから……」
急に大人しくなりやがって、調子狂うな。
それに、いざやれって言われると変に緊張しちまうんだよな。
まだ俺の袖を掴みっぱなしの蛍原の頭を見下ろした。近くに来て、よく分かる。
女の子独特のいい匂いが俺の鼻孔に直撃した。
俺はすぐに顔ごと逸らして、また深い溜め息をついた。
「分かったよ、呼ぶよ」
「うん……」
「ゆ、結衣……」
少しの間が俺たちを包み込んだ後、蛍原はゆっくりと袖を離した。
下を向いたまま俺から素早く離れていった蛍原の口元は、少し微笑んでいた。
俺がそれを見つめていると、顔を上げた蛍原と目が合ってしまった。
たかが、女子の目を合わせただけでは動揺なんてしないのだが、蛍原の顔を見て俺は顔をそむけてしまった。
直視できなかったからだ。
蛍原は世の男を全員落とせるのではないかと思う程の笑みを浮かべていたからだ。
もちろん俺もその例外じゃないから、目を逸らしたんだ。
目を逸らしてから、蛍原はいつの間にか俺の耳元の近くでこう言った。
「ありがとね、青空」
俺は動揺が要因で声を出せずにいた。
一、二歩、蛍原は引いてから、先程とは違うはにかんだ笑みを面に出していた。
「いいから、早く行こうぜ……」
「待ってよ!」
俺は足早に坂道を上って行った。
その後ろからアスファルトをリズミカルに打ちつけるローファーの音がついてきた。
隣に並んできた蛍原に顔を見られまいとそっぽを俺は向いた。
「何よ?照れてるの?」
「照れてねーよ……」
自分でも分かるレベルで顔が赤くなってる。熱かった。蛍原、恐ろしい娘!
「変ね。あ、それからモノローグでも私のことは結衣って言ってね」
「は?モノローグ?え?聞こえてんの?」
「当たり前でしょ、聞こえてるどころか文字列で見えるわよ」
な、な、な、な、な、何!?
蛍原は笑っていた。
「だから、蛍原って言わないでよ、いや、書かないのでよ」
「あ、マジだ……」
俺は驚きで続きの言葉を思いつけなかった。
「なんてこった……」
立ち尽くした俺の絶望の独り言は昔のように空に虚しく舞っていた。ただ、少し昔とは違う。何が違うのかと考えた時、そうだ、明らかに違うところがあるじゃないかと思った。
今の俺は楽しいんだ、と理解した。
たっく、こんなじゃじゃ馬女に俺は楽しいと思っちまったよ。人生は変だよな。
ゴツン!
「膝!?」
俺は患部を叫んでから、公園と同じようにしゃがみ込んだ。
原因は全くもってその時と同じだ。
「誰がじゃじゃ馬よ!」
目を上げると、鬼のように……いや、怒っても美人さんがいたのだ。
危ない危ない、そう言えば、聞こえてるんだったな。
「いや、すまん。いい感じで締めようと思ったんだよ」
「やり直して」
冷たく言い放つほ……結衣に俺は何も言えず従った。
俺はそんな蛍……痛い痛い痛い!
頬を思いっきりつねられた。
「何度言わせるの?蛍原じゃなくて結衣!さっきできてたでしょ?」
「そうだった、今度はちゃんと締めるよ」
俺はそんな結衣といるのが不思議と楽しく思えたんだって、そうおもふぇた……
「噛んじゃったテヘペロ」
可愛く舌を出した俺。
ゴツン!
「両膝!」
両膝を蹴り上げられた俺は痛みで喋られなかった。これは蹴られて当然だと自分で思う。
「もう、いいわよ。私が綺麗に締めて且つ次回を楽しみにできるようにしてあげるわよ」
「お、おぉぉ、膝……」
俺は返答もできずに、患部を呻くことしかできなかった。
私はこんな青空といるのが楽しく思えた。なんでだろ?不思議だった。
でも、今、やっとその原因が分かった。
「青空。私、あなたのこと、好き」
彼女の独り言は昔のように孤高に舞うことはなく、一人の男性にちゃんと伝わった。
この後が気になるように書きました!




