第三章 7
第三章 7です
7
私はしばらく放心状態だった。
その場にしゃがみこむこともできず、じっと立ち尽くしていた。我に戻ると、通りすがる人たちは留まることなく歩き続けていた。
彼は私を守ってくれた。もう来るなって忠告してくれたのに私はそれを破った。
私は怖くなった。その場から私はまた逃げ出した。
走って走って、冬なのに汗を大量にかいて膝に手を当てた。無我夢中で走って着いたのは、小学生の時によく遊んだ公園だった。
お母さんと兄貴と暮らすようになってからは、遊ばなくなった公園でもあった。
「なんで、こんなとこに……」
私の声は空虚に消えていった。私は公園の中のベンチに座って指を絡ませた。
自分の情けなさを呪った。何もできないのに、やろうとする。無謀だと分かっていてやる。これほど人に迷惑がかかることはないだろう。
分かってる。そんなことはずっと前から。お母さんがあの男から逃げだ時からずっと分かってたんだ。それでも私はやろうとした。お母さんのやり方が正しかったんだって証明したかったから。何度も何度も試しては失敗した。時には自分の命をも秤にかけて。それでも失敗した。組まれた指に雫がぽとりと落ちた。それは指に沿って流れていく。
諦めること。そんな簡単なことを私はしたくなかった。最後までやり切りたかった。でも、心は、体は拒み始めていた。
意識が我に返った時、空は茜色に染まっていた。寒くなってきて、体がぶるりと震える。
これが最後と、自分に言い聞かせて私は立ち上がった。
私は走ってあの裏路地に向かった。もう遅いかもしれない、手遅れかもしれない。それでも倒れているであろう彼を私は自分にできる最高の謝罪で謝りたかった。
息を荒くして、私は再び裏路地に着いた。鼓動が速いのは走ったからだけではなくて、緊張も少なからず入っているだろう。
空は茜色を黒色に移し替えて、月明かりと街灯と店から漏れる光だけで明るく街は施されていた。だけど、裏路地の奥は暗く先が見えなかった。
私はゆっくりと足を前に運んでは止めた。
昼間に行った時よりも足が重くて、頭がくらくらした。理由はただ一つ。恐怖がそうさせていた。
無理しながらもながらも、足を進め続ければあの広場に着いた。
そこには私は想像していた光景とは全く違う光景が広がっていた。
「なんで……こんなことに……」
私は驚きのあまり独りごちてしまった。
目の前には、あの不良グループ五、六人が一人違わず倒れていた。生きてはいるけど、体はボロボロになっていた。
その中には彼の姿はなかった。
「一人で……この人数を……」
まさかと思い私は顔を左右に振り、一旦この場をダッシュで離れた。救急車を携帯で呼ぼうとしたが、話を訊かれるのはまずいと思い、裏路地を出てすぐの公衆電話で110番通報した。公衆電話を出てから私は家に帰ろうとした。
夜も遅くなって、公衆電話で表示された時刻は七時過ぎを表示していた。
その帰り道のことだった。
もうあの人には会えないのかな、と思っていた十分前の私が変におかしく思えた。
コンビニに寄った私は本を読もうと書籍コーナーに向かうと、見覚えのある茶髪と顎マスクをした青年がいた。どうやらフードは外しているようだ。
「なんで、ここに……」
「ん、あー、あんたか」
「なんで、無事、なんですか……?」
「無事って、えっとな、逃げたんだよ」
嘘なのは分かった。もう現場を見ているから。
「嘘、ですよね……?」
「あ、もしかして見たのか?」
それが見られていたの進行形の意味なのか、見たの過去形なのかのどちらかは彼しか知らなかった。どちらにしろ、後者の方の見たは事実だった。
「は、はい……」
嘘をついて逆に怒らせたくはなかった。ましてやあの場を見た後では嘘をつく気にもなれない。
「そっか、ま、見られたんなら仕方ないか」
彼はそう言うと本を置いて、私の方に歩いてきた。私は足を一、二歩後ろに下げた。
「あの……」
彼はそっと手を伸ばしてくる。それに反射的に目を瞑ってしまった。殺される、と思った。だがその後、頭に何かを被せられた。
左目だけを開けると、彼の手は私の頭に添えられていた。いや、正しく言うなら私が落とした帽子のつばを持っていた。
「これ、私の……」
「ああ、やっぱりあんたのか。絡まれた現場に落ちてたからいつか渡そうと思ってたけど、すぐに会えてよかったよ」
言い終えた彼はスッと帽子のつばから手を離した。微かに見えた彼の右手は赤く腫れ上がっていた。
「あ、あの、ありがとうございました!」
私は場に合わない音量と声、そして頭を大きく下げた。
「お、おう……気にすんなよ。それじゃ、俺はここで」
そのまま彼は困惑しつつコンビニの出口に向かっていく。私は彼の手をとって、言葉を投げかけた。
「何か、お礼を!」
「いや、いいよ。それにもう日も暮れて寒くなってきてるだろ?早く帰った方がいい」
「でも……」
「んー、じゃー、ここでなんか奢ってくれ、それでチャラでいいよ」
彼は少々考えてから、提案した。私に断る権限なんてない。
「は、はい!」
すると彼はドリンクコーナーに足を運んで、コーヒーを一缶手に取って戻ってきた。
「これでいいよ」
「分かりました!」
私はコーヒーを受け取り、ついでにレジの隣にあるミネラルウォーターも一緒に出した。
しかし、事件はここで起きた。彼も隣に来て、私の様子を確認している。
「財布が……ない」
私は自分の衣服を入念に探すがどこにもない。そして思い出す。財布を持ってきてないことに。
十分後。
「あの、大変申し訳ありませんでした!」
彼はコンビニ近くのベンチに座って、先ほど買ったコーヒーを飲んでいた。外に出たと同時にまた彼はフードを被った。一方の私は右手にミネラルウォーターを持って、またまた頭を下げていた。もちろん、ミネラルウォーターは……彼の代金です。
「まー、いいよ。また会った時にでも返してくれればいいよ」
「私、ホントに迷惑したかけてないし、なんかもう……」
「いや、そんなことないって」
「本当に……」
また枯れたと思っていた涙が零れ落ちてくる。
「どうした?」
私は袖で涙を拭ってへっちゃらな顔を作った。彼はそれを見て、何も言わずにまた缶に口をつけた。
「ま、座れよ」
「え、えっと、はい……」
彼はベンチから少し動いて私の座れる範囲を広くしてくれた。それに私は甘えた。腰を下ろすと、ベンチは想像以上に冷たかったが、彼が座っていた半分の範囲は温かかった。
「なんか、あったのか?」
間を開けて、彼が私に問いかけてきた。
「え……、いえ、大したことは」
私はそれを誤魔化すようにして、目を下に逸らし意味もなく笑った。
「そうか」
それ以降、彼が私に何かを訊いてくることはなかった。
落ち着いた時間が数分流れた後、彼は不意に立ち上がった。
「それじゃ、今度こそ俺は行くわ。じゃーな」
「あの!じゃあ、お願いですからお名前だけでも教えてくれませんか?」
私は顔を上げて、絶対聞き取れるボリュームで彼に訊いた。
「ん、名前?だから名乗るほどの者でもないよ」
またかっこいい風なセリフだったけど、今の彼が言うとどことなく違う意味に聞こえた。
まるで”こんなヤツの名前なんて知ってても、損だ”という感じに。
「でも!」
私はそれでも食らいついて訊いた。今、聞かないと、何かを失いそうだったから。更に私は続ける。
「お願い、します……」
「んー、って、雪、か?」
彼の困ったうねり声の後、私の視界にも白いモノが通った。彼は空を見上げて、白い息を吐いた。
「久しぶりに見たな」
「はい……」
「────────だ」
「え?」
静かな声が鼓膜を震わせた。ただ、何を言ったかは分からない。私は聞き返したが、もう彼は私を払って立ち去っていた。無意識に手を離してしまったようだった。
「どこに……」
私の疑問は白い息と共に空に舞っていった。
耳には、ちゃんと彼の名前が残っていた。
そう、それが二年前の冬。
彼と再開したのが、その二年後、いや詳しくは三年後の春だった。
そして、私は口にした。
「待って!」
ずっと知りたかった、会いたかった彼の名前を心の中で呼んだ。
高坂青空、と。
雪は桜に変わった。私の二年前の感謝と真実を知った時の恨みはこの日、謎の化学反応で”.それは恋”に変わった。
結衣編も遂に終了!
また、物語は結衣編の三年後の春に戻ってきます!
ぜひ、読んでください!!




