第二章 5
第三章 5です
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「結衣ちゃん、私の昔の話をしてあげる。と言ってもホントにちょっと前の話だけどね」
私達の沈黙を破ったのは、吉沢さんの軽いトーンの声音だった。
「なんで、そんな急に……」
「ただの暇つぶしだよ。今から家に帰ってもどうせ寝られないでしょ?」
それもそうだ。あんなことがあってすぐに眠れるほど私のメンタルと体は強くない。
「そうですね、それでどんな話なんですか?」
私はさっきまで開けるのに手こずっていたビンに一つ口を付けた。
「私は今の仕事に就く前に看護師をしてたの」
「看護師、ですか?」
「ええ、私はこう見えても優秀なのよ。大学ではガリガリに勉強しかしてなかったんだから。恋愛、はぁ?って感覚だったわけ」
「全然イメージが湧かないです」
今の吉沢さんは、イケイケの女の人って雰囲気だ。ガリ勉だったなんて、容易に想像できない。
「はは、よく言われる」
吉沢さんは軽く笑ってから、話の続きを聞かせてくれた。
「大学を卒業してから、私はここの病院に就職した。最初は看護師のアシストだけで全然イメージしてたのと違ったけど、人のためって思うと私は頑張れた」
「人のため、ですか……」
私は小さく呟いた。私は自分のことで精一杯な気がする。人のために頑張る私を私は思い描けなかった。
「そして、数ヵ月後にはやっと手術のアシスタントにも入ることができるようになった」
「凄いですね」
私は相槌のように言葉を入れた。
「その頃に一人の先生に出会ったの。その人は天才だった」
「天才、ですか?」
「そう、天才よ。医者になってすぐにいろんな手術をこなして、全て成功させた。私はその人のアシスタントになって近くでその人のオペを見た。ホントにただ凄かったとしか言えなかった」
吉沢さんが話す時の顔は昔を思い出し、感激するかの如く顔を綻ばせていた。だけど、その顔は瞬く間に消え去って、残ったのは真顔で前を向く吉沢さんだった。
「でも、その人はとある手術を失敗した。もちろん分かってた。どんな人でも必ず失敗するってことなんて。それでも、その人はあの時に失敗するべきではなかったの」
「……どういうことですか?」
吉沢さんは下を向いて、声を少しだけ、ほんの少しだけ荒らげた。私は吉沢さんの方を見て、多少なりとも躊躇ったが後の話を訊いた。続きはなかなか語られなかった。私は目を下にやって、ビンに残っていたオレンジジュースを飲み干した。
「ねぇ、結衣ちゃん」
「は、はい」
急に名前を呼ばれて、私はつい反射的に吉沢さんの方を向いて返事をしてしまう。
「もしも、自分の手で人を殺しちゃったらどうする?」
人を殺したら、か。私はどうするんだろう。逃げるんだろうか?素直に自首するんだろうか?考えても今の私には答えは出なかった。だから、私は素直に答えた。
「分からないです」
「そう、それが正解」
「え?」
何が正解なのか、一瞬分からずに私は疑問の声をあげる。
「分かるわけないのよ。実際に人を殺さない限りは絶対に分からないのよ。その答えが分かる人は、人を殺したことのある人か、医者、だけよ」
「医者ですか?医者って別に人を殺してなんかいないじゃないですか。むしろ助けてるのに、どうして?」
「もし失敗してその人を死なせてしまったら、それは殺したことと同等の意味を持つのよ」
「そんなこと────」
「あるのよ」
私の声を上から叩き潰すかのように吉沢さんは私の否定を否定した。
「人間は必ず死ぬわ。でも、寿命で死ぬなんてのは一番幸せな死に方よ。一番不幸な死に方は殺されること」
そうなのかな。私は心の中で呟いた。
「話を戻すとね、その人は失敗して人の命を、未来を壊した。それでも、私はその人を凄いと思う心は変わらなかった。誰も挑もうともしないオペに真っ向から挑んで勝つあの人に……」
「……その人はどうなったんですか?」
私は沈黙を嫌った。ここまで嫌な空気を人生で味わうのは、初めてだったかもしれない。逃げたいとすら思った。だから、私は静まりかえった空間を破った。
「その人は、今も医者をしてる」
「そう、ですか。よかったです」
私はホッと自分のことのように胸を撫で下ろした。
「そうね。表向きはよかったって思うわよね。何も外面は変わらなかった。でも、その人は一切家族の話はしなくなったわ」
「それって、どういうことですか?」
「人が運命の人と出会う確率は三十億分の一、ってのは知ってる?」
「は、はあ、まぁ、当たり前ですしそれくらいなら」
吉沢さんの急な話題転換に的確に返答できなかった。
「じゃー、人が事故に遭う確率はいくつだと思う?」
「事故に遭う確率ですか?」
「ええ」
吉沢さんに再度尋ねてから、うなずいた吉沢さんを見届けてから私は考えた。
「一万分の一くらいじゃないですか?」
「ま、みんなそれくらいだと思うよね。実は全然違うの。答えは二分の一よ」
「二分の一ですか!?」
私はつい前のめりになって驚いた。想像よりも事故は身近にあるんだって、少し鳥肌がたってくる。
「遠回しだけど、この二つの確率と私の話を繋ぎ合わせた時、初めて私が言いたいことは分かるわ」
そう告げて吉沢さんはベンチから立ち上がって、自販機の隣のゴミ箱にコーヒーの缶を捨てた。
「どういうことなんですか?」
「後は自分で考えること。これ以上は子供のあなたには話せないわ。分かったら、教えてね。答え合わせしましょ」
「なんですか、それ」
「さ、日も明けたし帰りましょうか」
私の詰問を無視して、吉沢さんは窓から指してくる光を浴びながら背伸びをした。
「は、はぁ……」
私はこれ以上、訊いても答えてくれなさそうなのでそこでそれは止めた。
「私が看護師を辞めた理由なんだけど、それだけは教えてあげる」
私が立ち上がって、同じくビンを捨てようとした時に吉沢さんは私に背中を向けて話した。
「私が辞めた理由はこれ以上、その変わってしまった先生の姿を見たくなかったから。それだけよ」
「そ、そうですか……」
私は戸惑いながら、ビンを手から離してゴミ箱に目線を移した。
「もう体は大丈夫?」
「は、はい。おかげさまで」
最後に吉沢さんは私を心配してくれた。
外に出ると、朝の太陽の光がサンサンと照りつけるのだが、冬だから寒さの方が勝っていた。早足に車に戻って、吉沢さんは車をとばして自宅まで送ってくれた。
家に帰ってから、私は上着だけを脱いでベッドに寝転んだ。
目を閉じて、吉沢さんが話してくれたことを整理していると、いつの間にか意識はもうこの世にはなかった。
結衣の思いが表れ出てくるようになりました。




