第三章 4
第三章 4です
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兄貴の病室のスライド式のドアをゆっくりと開けた。手すりの冷たさがそのまま直に自分の心臓を冷やすような感覚に私は陥っていた。ネームプレートには兄貴の名前しかなかった。おそらく、一人用の病室なんだろう。
「兄貴……」
私は小さな声で兄貴の所在を確認しようとした。病室内は暗くて静かだった。
短い通路を一歩一歩踏みしめて歩く。空間が広がって、左側にベッドが一個。奥には大きな窓があった。ベッドには誰も寝ていなかった。乱雑にめくられた毛布は、何か恐怖を感じさせた。
「兄貴……どこ?」
私は再度呼びかけた。しかし、返事はなかった。と、その時だった。
「何してんだよ、お前」
「きゃ!」
後ろから突然声をかけられた私は驚いて、バランスを崩してその場にへたりこんだ。
首だけを振り向かせると、そこには下からのアングルに加えて暗かったこともあり顔までははっきり見えなかったが、間違いなくそこにいたのは兄貴だった。でも、前に見た兄貴の外見が違って見える。それもそのはずだった。兄貴は左腕をギプスで巻かれ、顔にはガーゼが無数に貼られていた。
喧嘩をしたのが一目瞭然だった。
「あ、兄貴……」
私はもう一度勇気を振り絞って兄貴の目をちゃんと見た。時折、病室を照らす月明かり
は私たちのところにも例外なく届く。ほんの一瞬見えた兄貴の目は、眼光はもう昔の兄貴なんかではなかった。兄貴の重い口がまた動く。
「何しんてんだって訊いてるんだ」
「……あ、えっと、お母さんからのお願いで兄貴の保険証持ってきたんだよ……」
私は一度息を呑んでから、ここに来た理由を述べた。
「じゃ、この病室に来なくてもいいだろ。なんで来た」
兄貴の口調はゆっくりだったけど、それに優しさは一切含まれていなかった。家を出る前に潤した喉がまた乾き始める。床の冷たさがじんわりと手を冷やす。体を兄貴の方に向けて私は話した。
「えっと……少しくらいは、兄貴の様子を、知ろうとして……」
私は途切れ途切れに言葉を紡いでいった。
「もういいだろ、お前は役目を果たした。とっとと帰れ」
「でも……」
「でも……なんだ?」
私の言葉を反復する兄貴の声に私の続きを発することを体が拒否していた。別に兄貴をからかってなんてことではない。ただ、恐怖、それのみが原因の拒絶反応。
「……私、えっと……」
それでも、その拒絶反応に私は勝とうとしていた。私は兄貴から一度目を逸らして、続ける言葉を精一杯脳を動かして考えた。
「兄貴に、伝えたくて……」
「何を?」
間髪入れずに、兄貴は問うてくる。今度は私も間髪入れずに応える。
「もう、夜遊びなんて、やめて欲しいの……そしたら、こんなことにならなかったし……前みたいに、ね?あの頃の兄貴の方が、かっこいいよ……だから、っ!」
私の視界が急に白くなった。次に見たものは白色の床だった。左腕に痛みを感じて、私は右手を左腕に添えた。痛い、今までに感じたどんな痛みよりも痛かった。
私はここでやっと何があったのかを理解した。目線を上げると、兄貴はさっきまでいた所から前に来ていた。右脚が前にきていることから、私は兄貴に蹴られたんだと分かった。
「な、俺、お前に言ったよな。つきまとうなってさ、ウザいって言ったよな?」
声のボリュームが僅かに上がった兄貴はやおらと私との距離を詰めていく。
「……っ、う、うん……」
私は上体だけを起こして、返事をした。兄貴はそれでも距離を詰めるのをやめようとしなかった。私は怖さのあまり後ずさった。けど、体はすぐに壁にぶつかった。兄貴から目を離すことはできずにいた。
怖かった。もう嫌だ。ごめんなさい。頭の中ではそれらがエンドレスに流れ復唱し続けた。
「……ごめん、なさい……」
「ウゼーんだよ!」
私の謝罪の言葉に兄貴は耳も貸さず、もう一発私の左肩に蹴りを入れた。勢い余って私はベッドの縁に激突した。
「いっ……」
私は痛さを言葉にできずにじわじわきている疼痛を我慢した。だが、それは兄貴の次の行動と言動で全て忘れさせられた。
「もう、死ねよ」
兄貴は痛がる私の首に右手を伸ばして、首を締めてきた。
いくら、片手とはいえ男の力だ。私の首を締めるなど容易いことだった。
「あに、き……」
「死ね!死ね!死ねぇ!」
兄貴の顔には、私を殺すことしか考えていない表情だった。薄れ始める意識の中で兄貴と目を合わすと、光が感じられなかった。
「……ごめん、な、さい……」
私は体に残る酸素を全部使って言葉を振り縛った。意識が消えそうになったその瞬間だった。
「わっ!」
兄貴の手は私の首から引き剥がされて、兄貴は体ごと後ろに飛ばされた。
「大丈夫?」
「ゲホッゲホッ!」
私は体の全細胞で呼吸するように咳払いのような息をした。ぼやけた視界と聴覚で見聞きしたのは、ついさっきまで一緒に行動を共にしていた吉沢さんだった。私は声を何とか出した。
「……なんで、ここに……」
「あー、もしものために最初から見てたんだよ。蹴られるのを見て、止めようと思ったんだけどね。あなたがまだ、何か言いたそうだったから、我慢してたんだけど、さすがにもう、ね?」
「てめぇ!何しやがる!」
壁に身を預けていた兄貴が立ち上がって、私たちの方に詰め寄る。
「あなたが今しようとしたのは、殺人よ。別に通報する気はないから、反省しな」
「ふざけんじゃねーぞ!人の邪魔してんじゃねぇよ!」
「人が人を殺すのを見過ごすわけにはいかないでしょ?」
先程まで膝立ちだった吉沢さんは立ち上がって、兄貴と面を向かい合わせた。空気は極寒だった。
「まずはてめぇから殺してやる!」
兄貴は吉沢さんに殴りかかろうとした、が、吉沢さんは寸前で体を反り避けて、兄貴のみぞおちにピンポイントで拳を埋め込んだ。
「うはっ!」
兄貴はそう零して、苦しそうに床で腹を抱えて悶えた。
「ま、怪我人だから手加減したけど、次、あんなことしたら、許さないわよ」
前の明るい感じの吉沢さんから、急に畏れを感じた。
「さ、結衣ちゃん。行きましょ。立てる?」
「……は、はい」
私は呆然としつつも、何とか立ち上がろうとしたが、肉体が言うことを聞いてくれなかった。
「ま、無理もないわね」
吉沢さんは私を抱え上げて、そのまま病室を出た。
薄暗い廊下に出て、私たちは一階の自販機の隣のベンチに座った。
吉沢さんが買ってくれたオレンジジュースのビンの蓋が開けられずに、ただ手に持っているだけの状態でいた。吉沢さんはブラックコーヒーを飲んでいて、非常に絵になっていた。
「落ち着いた?」
コーヒーを飲み終えたのか、きりの良いタイミングで吉沢さんが声をかけてきた。
「は、はい」
もちろん、嘘だ。手は今も震えている。あの時のことを思い出すと、変な汗をかいて、喉が乾く。しかしながら、ビンの蓋は今も開けられずにいる。
少し間が空きましたが、どうぞ!




