第三章 3
第三章 3です
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それから、数日後の真夜中のことだった。
蛍原家に一本の電話が掛かってきた。静かな空間に響き渡るけたたましい着信音に私は浅い睡眠から目が覚めた。時刻を部屋の掛け時計で確認すると、三時ぴったりを指していた。
部屋から出てまだ鳴っている電話の元まで行って、受話器を手に取り耳につける。
「……もしもし」
寝起きともあって、すぐには声が出せずにワンテンポ遅れて声を出した。想像よりも枯れていて、この時、やっと喉の乾きを覚えていたことに気付いた。
『もしもし、そちら蛍原様のお宅でよろしかったでしょうか?』
落ち着いた女の人の声が受話器から聞こえてきた。私は咳払いを一つして、返答した。
「はい、そうですけど」
『私、平沢病院の田中と申します。失礼ですが、お声からして、蛍原悠羽輝さんの妹さんでしょうか?』
病院?なんで、こんな時間に病院から?少し考えてから、急に嫌な予感が背筋をゾッと撫でた。そんな中で、私は声を振り絞った。
「……はい、そうですけど。病院から家になんの用ですか?」
私は声を震わせながら訊いた。もう、目は冴えてしまっていた。
『本日の零時頃にお兄様の悠羽輝さんが商店街の路地裏で倒れてるのが発見させました』
「え……」
言葉を失った。兄貴が倒れてた?そんな、なんで……心音が速くなっていった。恐い、今この場で一番私の気持ちを表せる言葉だった。
「あ、兄貴は大丈夫なんですか!?」
私は無我夢中で声を荒げて兄貴について問い詰めた。
『はい、大丈夫ですよ。命に別状はありませんでした。見廻りの警察官が偶然見つけまして』
「そう、ですか……よかった……」
『それでなんですけど、お母様の方にもお電話させてもらったんですが、仕事中のようでして、失礼ながらこんな夜更けにご自宅にお電話させて頂いた次第でございます』
「は、はい」
『それでなんですけど、お兄様の保険証を持って頂いてもよろしいでしょうか?明日でいいのですが?』
「分かりました。じゃ、明日持って行きます。失礼します」
『はい、よろしくお願い致します。夜更けに申し訳ありませんでした。失礼します』
そうして、受話器を置いた。だけど、置いてから間も空かずして、また着信が鳴り響いた。私は受話器を再度手に取る。
「もしもし」
今度はちゃんと声が出た。電話の向こうからは、若くはつらつした女声が聞き取れた。
『もしもし、吉沢です。結衣ちゃんですか?』
この声に私は聞き覚えがあった。前にお母さんが家に連れてきた同業者の声音と同じ。
「そうです、吉沢さん、ですか。どうしたんですか?」
『さっき、結衣ちゃんのお母さんに頼まれたんだ。結衣と一緒に病院に行ってくれってね』
「……そうですか」
私が置いたこの間にはお母さんへの呆れが入っていた。もうそれ以外には何も思考しなかったし、意味もなかった。
『オッケー、じゃー、お兄さんの保険証を用意しててね。住所なんだけど、志染町のとこでよかったよね?』
「はい、それで合ってます。あの一つ訊きたいんですけど……」
『ん、何?』
私は一つの疑問が湧き上がってきた。なんで、兄貴が倒れていたのか、と。
でも、今は早く兄貴の元に行きたかった。何度拒絶されても。あの夢以降、なぜか私は強くなった気がする。それはただの思い込みだけど、病は気から、その言葉の通り、強くなったと思えばきっと強くなるんだって思う。でも強くなっても、あの質問の答えは分からないままだけど。
「いえ、やっぱりいいです」
『そう?それじゃ、今から行くね。十分くらいで着くから』
「はい」
『じゃーね』
「はい、失礼します」
電話を切って私は足早に部屋に戻って着替えを済ませて、兄貴の保険証のあるリビングに行ったついでに台所で乾いた喉を水で潤した。あとは吉沢さんが来るのを待つのみだった。
その間に私は考えていた。どうして兄貴がボコボコにされたのかを。別に兄貴は喧嘩が弱いわけではない。なのに、なんで。私の心の中にそれは残り続けた。
吉沢さんからの迎えはその五分後にやってきた。
私は玄関を開けてから、ドアの前にいた若い女の人に挨拶をした。
「こんばんは」
「こんばんは、吉沢です。結衣ちゃん?」
声は電話で聞くよりも、若干高かった。別に不快には感じはしない、丁度いい声音。それは私よりも上のほうから聞える。多分、兄貴よりも少し高い。
「はい、そうです」
「お兄さんの保険証持った?」
「はい、ここにあります」
私は肩に掛けてあったカバンを軽く一回叩いた。
「了解。それじゃ、行こっか」
「はい」
吉沢さんは踵を返して、歩き始めた。私はドアの鍵をしめてから吉沢さんについていった。私は吉沢さんの隣に並んでから、駐車場を横断しながらさりげなく問いかけた。
「あの、兄はどんな様子ですか?」
「様子?そうね、病院からは外傷が凄かったらしいってさ。腕の骨にひびが入ってたようよ」
「そんなに酷いんですか?」
「そうね。見つかった時も意識がなかったらしいから」
「なんで、そんなことに……」
私は独りごちたつもりだったのだが、どうやら聞かれていたらしい。
「多分、喧嘩でしょ」
「喧嘩ですか?」
そこまでは私の予想通りだった。ただ、ここからは予想外だった。
「うん。どうやらここ最近、急にあなたのお兄さんのような怪我をして運ばれる人が増えてるらしいの。噂では、中学生男子一人がこの事件を起こしてるらしくて。今回もあなたのお兄さんの他にも三人が倒れてたって」
「中学生男子一人って、そんなことできるんですか?」
いくら何でも中学生一人が高校生をボコボコにするなんてできるわけがない。増してや、四人相手に全員を病院送りにする。絶対無理だって思ってた。噂に変な尾ひれが付いただけだって、思っていた。そう、あの時がくるまでは。
私がその噂を信じたのはそれから数年後の話だ。
「どうぞ、助手席に」
吉沢さんはそう言って、車の運転席の方に回り込んだ。私はドアを引いて開けた。中は他人の独特の匂いがした。甘い優しい香り。心が不思議と落ち着いた。
車を走らせること十分、病院に着いた。車体の低い車を駐車場に停めて、私たちは病院に入った。それから、ナースステーションで私は保険証と兄貴の病室を聞いた。病室は302号室。
吉沢さんは書類を書いてから行くと言った。一緒に行くか、と訊かれたが私は首を横に振って歩みを進めた。
エレベーターで三階まで上がって、廊下を歩く。その時間がたまらなく長く、薄暗さも相まって恐怖で満ち始めていた。もし、私が病室に入って兄貴に拒絶されたら、私は、どうなるのか。それを考えるだけで、私は生きている気になれない。
『死ねよ』
あの時に発した兄貴の言葉がまたフラッシュバックする。落ち着いた鼓動がまた速くなる。心の中で、感情の渦はごちゃごちゃと混ぜ合わさっている。恐怖、心配、期待、たくさんの感情がせめぎ合う。そして、病室に着いた時、この感情の勝者は────
勇気、だった。
一番弱くて今にも消えてしまいそうな感情、でも、一番強くて独特の何かを持つ感情。
まだ、私は強くあろうとした。兄貴を心配して、ないがしろにされ、お母さんに期待して、失望してもなお、私はまだ、強くあろうとした。
後悔の言葉の意味も知らずに、私は本当に馬鹿だった。
結衣編も書き慣れ始めました。感情や心の移り変わりを描くのは、難しくてでも、楽しいです!
皆さんにもこの感情を共感して欲しいです!




