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心の居場所

 におい爆ぜた。溜息に淋しさを混ぜた。

「先生、秋ですよ」

「ええ、そうですね」

 秋風冽々。庭の木も秋色を装い始めた。私と先生は温かいお茶を飲みながら外を眺める。時間がやけに緩やかに流れる。ちくたく、時計の針。回る回るゆっくり回る。そんな午後。

「先生、」

「なんでしょう?」

「私の友人も死にました」

 言ってから半分は嘘だな、と思った。あ、でも半分も本当なんだからいいか、とも思った。

「先生、死は救いですよね」

 私は先生を何度も困らせる。私はこの顔を何度も繰り返し見るのだ。私たちはそういう関係なんだ。と、自己正当化?

「ええ、私もそう思いますよ」先生はしばらくの間考えてからそう言った。「死は生よりも尊いのです」遠くの池に言葉を飛ばすような風だった。「私はそれを知っています」その声色は私に罪悪感を呼び起こさせるには十分だった。

 庭に落ちる葉っぱを猫がぴょんぴょん飛び跳ねて掴もうとする。猫さん、それは死んだ葉だよ。追ってあげるな。みたいな。

「では逆に、私からも貴女に質問をしてもいいですか」先生が息を吐いた。「死ぬのは怖くありませんか?」

「はい」私は即答した。「死ぬのなんか本来、誰に取ったってへっちゃらなはずなのです。だって生まれたときからそこにあるものなんですから。それを恐れるのは空気を恐れるのと同じです。ずっと傍にあり続けるものをどうして怖がる必要があるのでしょう?」

 私の言葉に先生は、まるで宙に浮かぶ言葉を選ぶようにしてから、言った。

「確かにその通りです。死そのものは誰にとっても怖くないのでしょう」先生は、すん、と息を吸った。「ただ、その死について考えるそのことを人間は何よりも恐れるのですよ。だからみんな見ないふりをして前に進むのです。死のことを考えないようにするのです。進む道の終点に立ちはだかる死と言う壁を、貴女は見つめて尚平気だと言い張るのですか?」

 先生は力を込めて私に問う。

 私は、だから、先生の目を覗いて答える。

「私にとってはその壁よりも、歩いているこの道の方が恐ろしいのですよ。早く向こう側に見える触れたことのない壁にタッチしてみたい、なんて思うのは不思議なことでしょうか? 所詮この生は永遠分の一なのです」

「永遠分の一?」

「そう、永遠分の一です」

 私には先生が何を言おうとしているのか究極的には分からなかった。ただ先生が困ったような顔をするたびに私の心がぎゅっと締め付けられるような思いをした。

「楽しい時も苦しい時も、泣きたい時も笑いたい時も、生きたい時も死にたい時も、そんなもの全部全部永遠分の一に過ぎないのです。そしてこの人生だって永遠分の一。永遠に流れる時間の中のほんの一個の出来事に過ぎないことをどうして恐れる必要があるのでしょう。恋だって同じです。先生は罪悪だとおっしゃいますがそんな罪だって永遠分の一のその次の一にはもう関係のない話なはずです。私は今のこの永遠分のほんの一つの欠片の中に生きているにすぎないのですから」

「やはり、貴女は、不思議な子だ」

 先生はそれきり黙ってしまった。

 トンボが飛んでいた。葉っぱが落ちた。猫が跳んだ。

 何故だか心がきゅん、と縮んだ。淋しさが胸を鳴らした。からん、と随分乾いた音だった。

「ずっと気になっていたのですが、先生、あの縄は何のために?」

 庭の木の枝に縄は一本の縄がかかっている。首を吊るのにちょうどいいそんな高さにある首つり縄。ぶらぶらと縄が風に揺れる。かさかさと葉っぱも揺れる。淋しい音が、さわさわ、と響く。

「私は」先生が言う。「いえ、私も」先生が悲しそうに笑う。「死にたがりですから」

 先生が庭に下りる。私も先生の後を追って落ち葉を踏む。縄はしっかり木の枝に結ばれている。私の体重がかかったくらいでは容易には折れないであろう太い枝に。

「貴女には想像できますか? ある日、突然死の壁が取り払われた時のことを。取り払われた壁の先を」

 先生は木の幹にそっと触れた。ごつごつとして頼りがいがある大木。

「死の壁があるから人は前に進めるのですよ。死こそが道しるべなのです。ゴールなのです。それが無くなったとき人は進む方向を見失ってしまうのですよ。貴女にはそれが、心から、想像できるでしょうか」

 先生が木の根元に木箱を置いた。先生がその上に立った。そうして自らの首に縄をかけた。

 私はそれを黙って眺めた。

「心の居場所を知っていますか?」

 先生が、とん、と言った。

「胸の中です」私は答える。

「どうしてそう思うのです?」

「どうしてって……」

 私は自分の胸に手を当てた。とくとくと心臓の音。

「貴女はまだ、本当には、理解していないのです。知ったかぶっているだけです。真剣に自分の心と向き合ったことがないのです」

 先生は私に微笑みかけた。苦しさと淋しさの混ざった優しさだった。

「心の居場所を知る唯一の機会があるのです」先生は言った。「心が壊れた時ですよ。失くしたときにこそ気付くのです。それがここにあったのだ、ということに」悲しさが世界に音を立てて溢れた。「陳腐な言い方ですけどね」

 先生は泣いていた。そっと泣いていた。

 後にも先にも先生の涙を見たのはその時が唯一だった。

 私の『心』は酷く揺れていた。

「いいですか、死は生よりも尊い。死があるからこそ生が輝くのです。その意味では死は救いでしょう。私は死にたがりなのです。死にたい。死にたい。そう言い続けて生きてきました。心の居場所を理解して、世界と向き合わなくいけなくなって。死にたがりになって。それでも死ねなくて。そうして、きっと、これからも、そうやって生きていくのです。私は、そう、永遠に」

 ちかちか、と眩しく世界が輝きだした。死のにおいが溢れだした。とても素敵なにおい。何故だか私も泣いていた。

 風が髪を撫でる。葉を撫でる。世界を撫でる。

「記憶してください。私はそうやって生きてきたのです」におい爆ぜた。「そしてこれからも永遠に生きていく」

 かたん、と木箱が倒れた。

 ぎゅっ、と縄がしまった。

 ぎしし、と枝が軋んだ。

 ひゅう、と風が吹いた。

 にゃあ、と猫が鳴いた。

 ぼたぼた、と私の瞳から涙が溢れた。

 きん、と音がした。私は『心』の居場所を理解した。

 その瞬間、世界が、ぐるぐる、と音を立てて回り始めた。

 先生、と私は叫びたくなった。

『永遠分の一』が『一』になってしまう。

 私はただそれが悲しかった。


 ※※※


 あるとき、ねこは女給のねこでした。

 ねこは女給なんかだいきらいでした。

 女給はあまりもうかっていない喫茶店で朝から晩まで珈琲のにおいをばらまいていました。


「ねえ、恋ってなんなのかな?」

 女給はよくねこにそう言いました。

 ねこはそんなものには興味がありませんでした。

 恋なんてもの、ねこには到底関係ありそうもありませんでしたから。


 ある日、ねこがあくびをしていると常連客の書生がとつぜん立ち上がって女給になにかを差し出しました。

 女給はねこがいままで見たことのないような顔をしてから、それからぽろぽろと涙を流し始めました。

 黒いマントをきた客もなぜやら嬉しそうで書生の肩をばんばんとたたいてきました。

 ねこには何がおこったのかわかりませんでした。

 ねこには女給にわたされた小さい石が何なのかもわかりませんでした。

 ただいつもとは違う喫茶店のようすにねこはうるさいなと思ってもう一度あくびをするだけでした。


「私あの人のそばにいることにしたの」

 女給はねこにそう言いました。

 ねこはそんなものに興味はありませんでした。

 だれかのそばにいることなんて、ねこには到底関係ありそうもありませんでしたから。


 地面がゆれました。おおきくゆれました。

 ねこはびっくりしてとびおきました。

 なにがおきたのかすぐにはわかりませんでした。ただ女給の叫び声がうるさいなと思いました。書生がしっかりと女給を抱きしめていました。

 昼間なのに空が暗くなりました。

 きいたことのないような音がしました。

 世界が割れたようなそんな感じがしました。

 しばらくしてからねこは自分が屋根のしたじきになっていることに気が付きました。そしてねこは自分が死ぬということにも気が付きました。

 なにしろねこは百万回ももう死んでいるのですから。

 ねこは死ぬのなんか平気だったのです。


 暗闇の向こうで女給と書生が自分と同じような状態になっているのが見えました。

 けれど、ねこはそんなものに興味はありませんでした。


 明るくなりました。誰かが屋根を持ち上げたようです。

 それは黒マントをきた常連客でした。どうやら彼は押しつぶされなかったようです。

 黒マントをきた客は女給の首元に手を置き、それから首を横にふりました。

 黒マントをきた客は書生の首元に手を置き、それから少し考えたようすで、そっとそこに噛みつきました。

 ねこはそれをだまってみていました。


 泣き声が聞こえました。

 もうその時のねこには誰の泣き声だかははっきりとわかりませんでした。

 ねこを押しつぶしたがれきがねこの冷たくなった身体をそっとつつみ、ねこをしっかり地面に埋めました。


 そして、ねこは、もう一度、生きるのです。

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