あな
夏が終わるとともに終わったものがあった。
お望み通りというべきか、突然に、日々は壊れた。がらがらがっしゃん、なあんて音は聞こえないけれど。むしろ鳴らす。私が鳴らす。叩き鳴らす。
死体かな? と思ったら、やっぱりそれは死体だった。
私かな? と思うけれど、それは到底、私ではなかった。
胸の真ん中に小さな孔が、とん、と開いていた。虫に食われたような孔だけど、人間が死ぬにはそれで十分なのは常識だった。
「『はらぺこあおむし』って知ってる?」彼女が言う。
「うん」
「あれってさ、子供が指を入れても大丈夫なようにしっかり作られてるんだよね」
「うん」
「指、入れてみたい?」彼女はくすす、と私を誘うかのように、笑った。
砂浜に開いたどんな生き物が作ったのか分からない巣穴になんだかよく似ていたので、私は無性にそこに指を突っ込んでみたくなった。どんな感触がするのだろう。どんな温度がするのだろう。どんなにおいがするのだろう。興味津々。意気揚々。なあんて。
ずるいな。私は思った。
ずるいよ。私は言った。
「わたしはね、『生温かく生き続ける』の」柑橘系のオーデコロン。白い部屋に漂う。「ナポレオンの使っていた香水よ。この香りが死のにおいを隠すの」
死のにおい。その何にも代えがたい至高の香りを、このオーデコロンは必死になって塗りつぶそうとしている。
けど、隠せてないよ。私は言わない。
隠し切れないよ、そんなの。私は思う。
私はベッドの上に寝る友人の胸にそっと手を置いた。確かに、心臓は動いていない。私の手のひらに伝わるのは死の温度。冷たい、のとは少し違う。うん、生温かい。私はもぞもぞと手を動かしていた。
「くすぐったいよ、ナッちゃん」
そう言ったのは死の中にいるはずの杏奈だった。杏奈はその『正解を見る』瞳で私のことを死の世界の向こう側から、ひょい、と覗いていた。
「ねえ、真面目に死んでるの?」
「うん、正解。わたしはちゃーんと死んでるよ。そして半分不正解。わたしは今日も生きちゃっているのです」
えへへ、と杏奈は笑った。私はたまらずその小さな身体をぎゅっと抱きしめていた。私は今死を抱いている。胸の中に死がある。それが私をたまらなく興奮させた。はあ、と私は息を吐いた。胸の中の彼女は一つの息も吐かないけれど。
ちゃんと死んでる。ちゃーんと。
発見。『死んでる』に『ちゃんと』をつけるだけでそれは、とん、と素敵な響きになるから不思議。
私もこれを見習ってちゃんと死のう。決定。
「ねえ、あなたは今何なの?」
「うーん、ゾンビ?」
ゾンビ、これまた心地いい響き。
私の胸から離れた友人の白い唇を私は眺めて、この心に信仰心的な憧れがむくむくと首をもたげた。
「どうして?」
「ん?」
「どうして死んでも生きてるの?」
「なあに? ゾンビに哲学語らせるの?」
「ゾンビは哲学語らないの?」
「さあ、ゾンビに知り合いはいないから」
「私にもさっきまではそんなのいなかったよ」
「ホレーショの哲学」
「またハムレット」
「亡霊、ゾンビ、ドラキュラ。あなたにピッタリでしょ」
「かもかも」
怪物の知り合いはドラキュラだけ。なあんて。ゾンビと冗談語ってみちゃったりなんかして。
私は、ぎしし、と痛がって見せる古ぼけたパイプ椅子に腰を下ろす。偽善ぶって、寝ころぶゾンビの手を握っちゃった。
「ねえ、自分が死ぬことは『見え』なかったの?」
私は彼女の目を覗いた。
「ふふ、わたしは別に予言者じゃないよ」杏奈は悲しげに笑った。「わたしは明日死にますか、っていう『問題』を見忘れちゃった、そんな女子高生、それだけ」
それもそうだな、と私は納得した。
私は明日死にますか、なあんて問題、軽々しすぎて到底思いつかない。そっか、そっか。
「私は今何をするのが『正解』?」
「世界征服」
杏奈はからりと言った。
つまらない冗談。
私は不器用ながらにリンゴを切って、うさぎさん。はい、あーん、とゾンビに餌を。私も、あーん、と自分に餌を。
ゾンビなのに病室。霊安室じゃないなんて、面白いね。みたいなことを言うべきかどうか悩んでみて、結局言わない。
「泣いて見せようか」こっちのほうが言うべきことのような気がした。「友人の死には涙の滴二つばかり流さなきゃいけないかな」
「別にいいよ、そんなの」杏奈はそっと目を閉じた。「だって死は救いだもの」皮肉めいて言った。「そうなんでしょ、ナッちゃん」
「そうだよ」私も皮肉めかした。「責任は持てないけどさ」
無責任時代。責任なんか誰もとらないよ。とる必要もないし、とり方だって分からない。
だから、私は誰にも責任なんか求めない。
私は私で私の思うままに、うん。死のう。
永遠分の一。
なあんて。
※※※
荒川中川に架かる橋を私は超える。眩しいほどの黒。私は夜を歩く。
「おこんばんはぁ」
いつもは人通りのないこの橋の上に今日は人影があった。私と同じくらいの身長にフードで顔を隠している。その奥から届くのは少女の声。
手には長いナイフ。
「おこんばんは」
私は挨拶をしっかりと返す主義。
「あら、怖がらないのね」女はナイフをちらつかせた。「それともこっちの方がお好み?」懐から飛び出たのは鉄砲。私のと同じ型。
ああ、こいつか、と私は気付いた。私の心からぐちょぐちょにペーストされたトマトのような色味を帯びた感情が、ぽこぽこ、と音をたてて湧き始めた。
「あなたが近頃巷を騒がせてる連続殺人の犯人?」
「うん、そう」
「私、もっと変態オヤジみたいなのが犯人なのかと思ってた」
「偏見。ま、変態ってとこは否定しないけどぉ」
女は汚く笑った。
私たちの股の下には川が流れる。汚い水は海へと向かってその流れを止めようとはしない。風が水面を撫で、私の体温をすこしばっかし冷ます。
「知ってる? あなたが殺した女の子、ゾンビになっちゃたってこと」
「ゾンビぃ?」女はナイフの先でポリポリと頭を掻いた。「なにそれぇ? それあなた流の悔い改めろ勧告?」不味いガムを噛んだように口元を歪める。「私、低予算ゾンビ映画みたいな三流スプラット、大嫌いなんだけどなぁ」
「まあ、そうとってもらっても構わないけど」
私は鞄から拳銃を取り出す。初めてそれを自分以外の人間に向けた。かちん、と撃鉄を起こす。この、感触。
「何のつもりぃ?」
「こうするつもり」
バン! と私の鼓膜が大きく震えた。最初の一発は音ほどにはその衝撃も無くて、握っているものが人の命を奪うものだとは思えなかった。だから私はしばらくの間、自分が目をつぶっていることにも気が付かなかった。
そっと、目を開けた瞬間、女の顔が目の前にあった。
「アハッ」
ドスッ、と鈍い音。
脇腹に衝撃が走った。私はいつの間にか道端に倒れていた。蹴り飛ばされたという事実は理解できるところには転がっておらず、後から追ってきた痛みと言う証拠が、こそっとそれを教えてくれた。
「どう、どんな気分ん?」
汚い口から、汚い息。私はオオカミに襲われたはぐれヒツジの体。
「……最悪」
私の上に馬乗りになる女。唾を吐けば届く距離でも、女の顔は何故だか見えない。歪んだ口元だけが不思議にも浮いて見える。私が握っていたはずのピストルは手を伸ばしても届きそうもないところに転がっていた。
キラン、と女の握ったナイフが月光を反射する。鈍い光。
「こうやって何人も殺してきたの、私。ある意味、一種の、生理現象。だから、ごめんね。食物連鎖みたいなものよ。私は、自分の、都合で、殺す。すべてを、ね」
女が滔々と何かを述べる。私はそんなものに興味なんてなかった。
けど、
ああ、なんか興奮してきた。私は自分の身体が熱くなるのを感じた。脇腹の痛みもむしろ心地いい。仰向けに見上げる女の顔のその向こうの星々も、いまならはっきり目に映る。
女が私の瞳を覗く。あ、もしかして、目ヤニついてます?
「やーめたぁ」女がつまらなそうに言った。「あなたを殺すのやっぱやめたぁ」
女が私の上から、よっこいしょ、と退く。私は大の字になったまま、しばらく動くことが出来ない。
「あなたみたいな死にたがり、殺してあげないわよーだぁ」
アハハハハハ。
世闇に女の声が響いた。
しばらく夜の風に吹かれてから、私はぴんと指に弾かれたように立ち上がっていた。
けれど、その時にはもう、どこにも、女の姿はなかった。
※※※
あるとき、ねこは小さな女の子のねこでした。
ねこは女の子なんかだいきらいでした。ねこは、子どもなんかだいきらいでした。
女の子は、ねこをおんぶしたり、しっかり抱いて寝たりしました。泣いた時は、ねこの背中で涙を拭きました。
「あたしがおとなになってもずっとずっと一緒にいようね」
女の子はねこによくそう言いました。
ねこはそんなものには興味がありませんでした。
例え女の子がおとなになったところでねこには到底関係ありそうもありませんでしたから。
ある日、ねこは女の子の背中で、おぶいひもが首にまきついて死んでしまいました。
ぐらぐらの頭になってしまったねこを抱いて女の子は泣きました。
その泣き声は三日三晩、女の子のおうちに響き続けました。
そして三日目、女の子はねこを庭の木の下に埋めました。
短い言葉を添えて。
そして、ねこは、もう一度、生きるのです。