ドラキュラさん
「私は寂しい人間です」とある時先生が言った。「だから貴女の来てくださることを喜んでいます。だからこそ、私は貴女が私のようなものの家に何故そう度々やってくるのかを尋ねるのです」
私は先生の家に毎日のように通い出した。身体が自然とそちらに向いたのだった。
「何故といって、そんな特別な理由はありません」私は真面目になって言った。「お邪魔でしょうか」
「邪魔だなんて言いません」
確かに、迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。
だから私は三日とたたないうちにまた先生を訪問した。先生は座敷へ出るやいなや笑いだした。
「また来ましたね」
「ええ、来ちゃいました」私は言って自分も笑った。
「私は寂しい人間です」と先生はその晩また同じ言葉を繰り返した。「私は寂しい人間ですが、ことによると貴女も寂しい人間ではありませんか」
「私はちっとも寂しくなんてありません」
「若いうちほど寂しいものはありません。私は寂しくて年を取っているから動かずいられるけれども。貴女はそうはいかないのでしょう。だから貴女はこうやって私のような人間のところにそうやってたびたび来るのではないですか?」
「先生……」
「見ていなさい。私には貴女のその寂しさを引き抜いてあげられるほどの力はないのだから、いまに他の方を向いて手を広げなくてはいけなくなります。私の家になんて足が向かなくなるでしょう」
先生はそう言って寂しい笑い方をした。
※※※
先生の家に通うようになってから二週間が経っていた。
何をするでもない。何も為さずに、私はただ私のしたい、何にもならないようなことを、してみたいだけしてみる。
先生も何もしない。本を読むか、昼寝をするか、猫と遊ぶか、菓子を齧るか。私はその隣で先生の真似事を出来るだけしてみて、くすす、と笑う。
かこん、と音が鳴って夏が進む。暑さは深まる。私は先生の隣に大の字になって寝ころぶ。扇風機、風鈴、西瓜に麦茶。みんみん、蝉の声。そんな時間。
そんな中、私と先生しかいない空間に突然の来訪者があった。
私はえっちら起き上がり、玄関でその来訪者と向き合った。
「よう、」
なんて軽いノリでまさかこんな大物が現れるとは思っていなかった。もっと来るぞ、って感じを出してくれるとよかったんだけどなあ。なあんて。
元ワラキア公国領主。ドラキュラ伯爵閣下。吸血鬼。ヴァンパイア。
ドラキュラと名乗るその人は、確かに絵本で見るようなドラキュラの恰好をしていた。この暑空の下で黒服、黒マント。高い鷲鼻につやつやと怪しく輝く黒髪に立派な牙。ああ、ドラキュラだ、と私はすぐに納得した。
「そんなドラキュラさんがどうしてここに?」
私がそう言うとドラキュラさんは、クケケ、と楽しそうに笑った。
「おいおい、何を言うかと思えば笑わせるねえ嬢ちゃん。友人の家を訪ねるのに理由がいるのか?」
ドラキュラさんが先生の名前を大声で呼んだ。私はドラキュラさんを玄関に残し和室に戻る。私はドラキュラを目撃したことよりも、先生にいわゆる『友人』がいたという事実に失礼ながらも少しばかしの驚きを持っていた。
「先生、玄関に先生のお友達を名乗る怪しいガイジンさんがいらしてますが」
「センセイ?」いつの間にか私の背中にぴったりとくっつくようにしてドラキュラさんがそこにいた。「おいおい、お前が女好きの変態野郎だとは知っていたが、さすがに女子高生に『先生』と呼ばせるプレイはやり過ぎじゃないか?」
「ああ、ドラキュラさんか。とりあえず座ってください」
先生はドラキュラさんのイヤラシイ笑いを歯牙にもかけず、座布団を示した。言われずとも、というような具合でドラキュラさんはそこにどっかりと腰を据えた。そしてどこに隠していたのか、古そうなワインボトルを取り出し、これまた持参のグラスにとくとくとそれを注ぎ飲み始めた。
「ドラキュラさん、何も私が彼女に無理やり先生と私のことを呼ばせているわけでもないんだよ。この子はね、何というか、不思議な子でねえ」
先生は私には見せない顔で笑った。
「そりゃそうだろうな。お前みたいなやつのことを先生呼ばわりするようなやつがまともなわけねえだろうさ」
ドラキュラさんは先生にもグラスを渡して、チン、と打ち鳴らす。
「ずいぶん失礼な人ですね」
私はドラキュラさんと先生の間に割り込んで座る。
「まあまあ、ドラキュラさんは口ほど悪い人ではありませんよ」
「そうだぜ嬢ちゃん。なんせ俺は伯爵さまだからな」
「それは真面目に言っているのですか?」
「ああ、そうさ俺は真面目な伯爵さまだ」クケケ、と愉快にドラキュラさんは笑った。「嬢ちゃん俺と結婚するか玉の輿だぜぇ」
私は丁重にお断り申し上げる。
ドラキュラさんはこの暑さの中、真黒な衣装でいても、汗の一つもかいていなかった。マイナスにマイナスをかけるように、普段からこの家が纏っている世間から隔絶された空気とは、そのドラキュラさんの非現実性が妙に合っていた。
「嬢ちゃん、そうだ、カンバセーションをしようぜ。距離を縮めような。心の距離ってやつをよ」
ドラキュラさんが突然に言い出した。私は元来、先生を例外として、初対面の人とお話しするのはあまり得意ではない。
「生憎私には伯爵閣下を楽しませるだけの会話のレパートリーを持ち合わせておりませんが」
「おいおい、知らねえのか嬢ちゃん。俺たちぐらいの長生きになるとな、若い女の話っての殆ど異世界の話だからなあ。ただ嬢ちゃんが話聞かせてくれるだけで俺たちは楽しめるもんなんだぜ」
ドラキュラさんは数多の美女たちの血を吸ってきたであろう牙を私に見せつけながら言った。ああ、ドラキュラさんはドラキュラなだけあって女の人を魅了するだけの能力があるのだろうな、と思えるような笑顔だった。
「そういうものでしょうか」私はその笑顔から少しだけ目をそらして言った。
「そういうもんだぜ」ドラキュラさんが言う。
「そういうものなのですか?」私は先生に訊く。
「ええ、そういうものですよ」先生が頷いてくれた。
にゃんにゃかにゃん、と猫が庭で遊ぶ。尻尾も先がくるりと丸まっていた。
それを見て私は、ああ、そういうもんなんだな、と思った。
私は、だから、私の日常のつまらないものから選び抜いたその中でも比較的に面白味の欠片を混ぜたものを話した。
先生もドラキュラさんも私の話を興味深そうに聞いてくれた。ドラキュラさんは時々茶々を入れたりもした。
気付いたら、くすす、と私の口から笑い声が漏れていたことに気付いた。
私が私の話で笑ったのは、多分、生まれて初めてだ。
私の尻尾もくるりと丸まった。
一通り話し終えると、暑さもその勢いを少しだけ抑え始めた。猫の鳴き声と、風鈴の音とが響いた。
今度は私が先生たちに尋ねる番だ。
「先生とドラキュラさんはどういうお知り合いなのですか?」
あ、これは逆だったら答えるの嫌な質問だなあ、と思いながらも私はそれを尋ねた。
案の定先生は困ったような顔をして言った。
「ただの古い友人ですよ。それだけです」
「ああ、それだけだぜ。男の友情だ」
ケケラケラケラ、ドラキュラさんが先生の肩をがしりと抱いた。
私には『男の』も『友情』もよくはわからないので、あはは、と笑って見せてお菓子をぱくりと口にした。
なんだか、いいな、こういうの。
なあんて。
※※※
軒先で瓶コーラを頂く。冷えていてとても美味しい。しゅわしゅわが口でぱちりと弾ける。何だか青春って感じ。私には到底似合わない。とか言っちゃたりして。
「嬢ちゃん、永遠に生きたい、なんて思うか?」
「永遠?」私は、ぽん、と息を吐く。「思いませんよ、私は死にたがりですから」
「そうか、それは残念だぜ、至極。嬢ちゃんんの白い肌にがぶりとかぶりついてやりたかったんだけどなあ」
ドラキュラさんは血の色ワインを浴びるように飲む。この人は一日中酒を飲む。多分身体の半分がお酒で出来ているのだろう。あと半分は性欲だろうか。
何だか猫みたいな人だ。と私は思って。あ、だからこの人は先生とお友達になれたのか、と納得した。
「ドラキュラさんに噛まれれば不老不死になれるのですか」
「おお、よく知ってるな。その通りだぜ。吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になれるのさ。吸血は永遠に生きる。どうだ? 噛まれてみるか」
「ご遠慮いたします」
「クケケ、そうかいそうかい」
私の言葉。それを聞いたドラキュラさんは何故だか少し嬉しそうに見えた。
不老不死なんて死にたがりには勿体ない。どうせならこの家の猫にあげるくらいがちょうどいい。
にゃんにゃにゃん。猫が私たちの前を通り過ぎる。
「知ってるか? 百万回生きる猫がいるらしいぜ」
ドラキュラさんが猫の尻尾を見ながら言う。
「知ってます? 百万年生きるドラキュラもいるらしいですよ」
私もそのふりふりを目で追いながら言った。
百万回生きるのと、百万年生きる。
ようするにどっちも永遠に生きるってことだ。
「生きるのなんて永遠分の一度だけで十分なのに」
私はため息をついた。ため息をつけば何となしに知的に見えるもんだ。
「お、哲学か?」
だから、ほら、ドラキュラさんは騙される。私は哲学者ぶる、ただの女子高生なのにね。死にたがりの哲学者もどき、そんな人が日本史の中にもいたような気が。
「ドラキュラさんは死に価値があると思いますか」
「ああん? 何だそれ? 皮肉か?」
「私は死にたがりなのです。死の価値に憧れる夢見がちな乙女なのです」あん、恥ずかしいセリフ。「死を尊ぶ、そんな生き方。どう思います?」
「知るかよ。俺はそう簡単には死ねねえんだよ。死のうと思ったらころりと死ねるお前なんかと一緒にするんじゃねえぜ」
ククク、とドラキュラさんが低く笑った。
こういうときはご愁傷様、っていうのかな? とか思ってみたりして。
「永遠分の一ですよ」
にゃん、と私の声の後に猫が鳴いた。いつの間にか私の膝の上に名無しの猫が乗っていた。私はその猫ののど元をこしょこしょと弄ってみる。猫は嬉しそうに、ごろごろ、のどを鳴らした。
「私も、この猫も、永遠分の一を生きているに過ぎないのですよ。だからその永遠分の一回死んだってどうってことはないのです。死ぬのなんか平気なのですよ。そうは思いませんか。だって一回死んだって、後ろには永遠マイナス一の人生が残っているのですから」
「面白えことを言うなあ嬢ちゃん」ドラキュラさんが静かに酒を啜る。
「一年で死んでも百年で死んでも後ろには永遠マイナス一の人生が転がっているのですよ、それってとっても恐ろしくって、それでいてとっても素晴らしいことですよね。死は生を輝かせるのです。だから、だからなのですよ、ドラキュラさん。私はだから死にたがりなのです」
なあんて。
私は目の前の猫をそっと胸に抱いた。温かい。暑い夏の中でもこのぬくもりは、うん、悪くない。先生が大切にするこの猫はお日さまの匂いがする。私にはそれがよく効く。
おい、お前はしばらく死ぬんじゃないぞ。なんて身勝手。私は勝手に死ぬけどな。なんて利己主義。
私は猫を抱きかかえたまま立ちあがり、裸足で庭に飛び出した。そして叫んでみた。意味のない言葉。猫の鳴き声。
にゃんにゃかにゃん。
なあんて。
私の声に昼寝していた先生が、むにゃむにゃ、と目を覚ます。
ドラキュラさんが、ガハハ、と大口を開ける。
庭に立つ私と一本の木。ロープが揺れる。私の心は揺れない。
いずれにせよ、私は、今日も、生きていた。
※※※
あるとき、ねこは王さまのねこでした。
ねこは王さまなんかきらいでした。
王さまは戦争がじょうずで、いつも戦争をしていました。
そして、ねこをりっぱなかごにいれて戦争につれていきました。
「お前のためにこの国を守ろう」
王さまはねこによくそう言いました。
ねこはそんなものには興味がありませんでした。
この国はたとえどうなろうともねこには到底関係ありそうもありませんでしたから。
ある日、ねこは飛んできた矢にあたって死んでしまいました。
王さまは、戦いの真っ最中に。猫を抱いて泣きました。
王さまは戦争を放り投げてお城に帰ってきました。
お城の中に王さまは引きこもり、ずっとずっと泣き続けました。
その泣き声は三日三晩国中にひびきわたりました。
そして、王さまはお城の庭に、ねこを埋めました。
短い言葉を添えて。
そして、ねこは、もう一度、生きるのです。