先生の家へ
「これから行くの? その先生のお家に?」万梨阿がスルメを噛みながら言った。「気を付けて。男はオオカミだよ、ね?」
ぎゃおーん、とオオカミの鳴きまねをする万梨阿。
ピンクレディを信じるのならまあそうなのだろうけど、まあ食べられるなら食べられたっていいし、と私もオオカミのように唸ってみた。
その後ろで杏奈がくすすと笑った。
「心配しなくても大丈夫だよ。わたしたちが考えるよりずっとずっと大人だもん、ナッちゃんは」
「大人? ぬふふ、イヤラシイ、ね。オトナナイロケで先生をオトスの?」万梨阿が口元に手を当てて笑う。
私は万梨阿から貰ったイカそうめんを舌先で弄ぶ。市民プールの帰り道、濡れた髪の毛をふりふり揺らして私たちは夏の陰日向を歩く。ぺったんぺったん、サンダルの音。ぴったんぴったん、水の音。濡れた水着の入ったバッグをぶんぶんぶんぶん振り回し、私たちの夏の午後。
セミの鳴き声が色めいて、私の鼓膜に騒がしく響く。前を行く万梨阿のシャツにはうっすらと下着の線が浮いていた。私はそれを心の中でなぞり、とんてんたん、と音を立てて歩く。イヤラシイ、ね。なあんて。
「暑い、ね?」
「うん、暑い。死にたくなるくらい」
私は道端に転がるセミの抜け殻をくしゃりと踏み潰す。軽やかにステップ。私もこの身体から脱皮できるのなら、皮を脱いだ後に、その上でステップを踏んでみたい。蝉さんみたく軽やかな音は出ないだろうけどもさ。
「死んだら涼しくなるのかな」
杏奈が、明日のは天気はなんだろう、みたいな感じで言った。
「死んでも尚暑いのなら、死に価値なんてないじゃないさ」
私は転がった暑さを、えいや、と蹴っ飛ばした。
「そもそも死に価値なんてあるの?」
「死は救いだよ」
常識でしょ? みたいな感じで。
「死は救いだって、偉い人はそう言っていたけど。それを信じる勇気と、信じない勇気、両方を持っているのが正常な人間だよ、ね?」
「じゃあ私は異常な人間なんだよ」
汗ばむ。汗のにおい。私の服もじわりと湿って身体の線を浮き出してしまう。ぺろりとスルメを舐めて、夏の陽射し。
焼いて、焼いて、焼けた、焼けた。私の肌を、万梨阿の肌を、杏奈の肌を。
じゅわり、と音がした。
「夏は嫌いだ」とにもかくにも。
私の心。焼けた焼けたじゅっと焼けた。溶けた溶けたどろりと溶けた。
「ナツは夏が嫌いなのか。変なの」
「変なの」
二人が声を揃えてくすすと笑った。
くすす、くすす、の夏日向。
名前通りの人生ならば、じゃあ、あんたたちは聖母チックな母娘のそれじゃねえか、と私は思ってみたりなんかして。
打ち水をするおばさんに、自転車を必死に漕ぐ大学生。どこの馬の骨ともわからぬにゃんころに、どこの馬の骨とも知れぬ私たち。太陽の作る焼印ですべてがすべて同じく染まる。
死んじゃえ。呟く。
馬鹿野郎。苛立つ。
駄目だな。ああ、駄目だ。
「かき氷食べたい。キンって冷たいやつ。甘いシロップでひたひたなやつ。頭を冷やしたいよ、カンって」
「食べたい、ね?」
「冷やそうよ、身体中を」
ついでに、心も。なあんて。
夏の作る私たちの影法師は何だか妙に長細かった。
※※※
「いらっしゃい。待っていましたよ」
先生は私を快く迎え入れてくれた。ぼさぼさの髪の毛と無精ひげ、指紋のついた眼鏡に着古したお着物。その草臥れさとは不釣り合いに大きく立派な和風の一軒家が私を出迎えた。まるでここだけ時代から取り残されたような雰囲気の家に、私は無遠慮に上がり込む。
放っておいても西瓜のにおいがしてきそうなお家。外が夏ぶって明るい分、家の中には影が、とん、と落ちていた。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
私が慇懃に挨拶をすると先生は朗らかに笑って手を横に振った。
「まあまあ、私のことは歳の離れた友達だとでも思って、そう固くならずお寛ぎなさい」
先生は優しく私に言う。私は少し困ったけれど先生の温かな眼差しを知った私は先生の言うままにすることにした。
「はい、では遠慮なく」
私は先生と向かい合って座る。奥まった和室に、ふかふかの座布団。冷たい麦茶が置かれて、からん、とグラスの中の氷が音を立てる。庭からはセミの鳴き声。古めかしい畳のにおい。太陽の光が部屋に飛び込む。涼しげな風鈴の音が耳に心地いい。
「どうですか、今年の暑さは一段と厳しいですがあれからお変わりありませんか」
「はい、おかげさまで至極健康です」
「それはいいことです。何せ今年は三十年に一度の猛暑らしいですから身体には気をつけねばなりませんよ」
先生が扇風機のスイッチを入れた。今にもぽろりと首が落ちてしまいそうな、年季の入ったやつ。
「おかげで今日もカルキ臭い水に浸かりに行く羽目になってしまいました」私はプールバッグを示した。
「海へも行き、プールへも行き、大変充実した夏休みのようで」
「そうでしょうか? あまり実感できてはいませんが」
「いやいや、本当に羨ましい限りですよ」
先生が微笑んだ。
あ、八重歯だ、と私は先生のそれに気が付いた。
「世間は、でも、そんなことは関係なく大変なようですよ」
「この暑さは、そりゃあ応えますでしょう」先生がくたびれたタオルで汗を拭った。
「それだけでなく連続女子殺人事件が話題になったり、所在不明の高齢者があっちこっちで死体になって見つかったりと暗いニュースばっかりですよ」
「白よりも黒の方が目立つものですからね」
そこで先生は「ああ、そうだ菓子があったのです。持ってきましょう」と言って立ち上がった。にゅるり、とその大きな背丈とは違って先生の纏う空気は柔かった。ゆらゆらと頼りなさげなその背中を私はじっと見つめた。押したら倒れてバラバラになってしまいそうなほどに先生の線はか細かった。
先生がいない間、私は畳の縁を指でなぞる。日に焼けた畳の色。時間を感じさせる香り。その感触を指先に感じながらすっと線を引く。
んみゃあ、とどこかで猫が鳴いた。
辺りを見回すと縁側のところに猫が一匹、ぴん、と尻尾を立てていた。立派なお髭。私を見つめる真黒な瞳。
私が猫のほうに腕を伸ばすと、猫はぴゃっと音を立てて逃げて行った。その逃げ去るお尻が、少しばかりの淋しさを私に感じさせた。
猫可愛がりさせろぉ。なあんて。
「君は不思議な人ですね」
部屋に菓子盆を持ってきた先生がそう言った。
私は見栄を張ってした正座を、先生にばれないように、そっとばかし崩した。崩しながら先生の目元にホクロを見つける。
「そんなに私は不思議でしょうか?」
「ええ、とっても」先生が真顔で言った。「とっても不思議な子だ」
「どこがでしょう。これほどリアリズムな女子高生はいないと自負しているのですが」
私は麦茶の冷たさを少しばかし口に含んだ。
先生もグラスを傾ける。私はそんな先生の咽喉仏を知らずに見つめている。こくこくと音を立てて、麦茶は先生の身体を落ちていく。私は自分のスカートの裾をそっと整えて、とん、と済ましてみる。
私は、ぽん、とちんまり丸まった饅頭を口に投げた。うん、甘い。
「最初、私は貴女がその若さと愛嬌を使ってこの中年男をどうにかしようとしているのかと思ったのです」先生はぱりん、と小気味よい音を立てて煎餅を二つに割った。「でもどうやらそれは違うようだ。貴女はこんなつまらない私のような人間から本気で何か身になることを引き出せると信じているようだ。それが私にはとても不思議なのです」
先生がその時見せた困ったような顔を、私はこの先何度も見ることになる。そして私はそれを見るたびに胸の奥にぶらさがった何かがゆらゆらと揺れ始めるのを感じるのだった。
「私は先生を尊敬しているのです。心から」
私は先生の目を見る。綺麗な瞳だと思える瞳に出会ったのはこの時が初めてだった。
「君は面白いことを言いますね」先生はいろんな感情を混ぜ込んだような表情で言った。「私は君のような若い女の子に尊敬されるようなことを何一つ為していませんよ。言ったでしょう。私は何もしていない人間なのです。社会から一人離れて、おおよそ世間に褒められるようなことの何一つもせず、私はふわふわとただ生き続けているのです」
「それが私の先生を尊敬する理由ですと、鎌倉の海でもお話ししたはずです」私は真面目になった。「師を求める心はつまり師のようになりたいという憧憬の念ですよ。私は先生のようになりたいのです」私の口から私の心が飛び出そうになるから必死に抑える。漏れるのは抑えきれないこの気持ち。「私はつまり何も為さずに生きていきたいのですよ」
蚊の羽音。ぷんとうるさい。叩く。落ちる。私はぎゅっと拳を握る。
「貴女は大胆だ」先生が言った。
「私はただ真面目なのです。真面目に先生から教訓を受けたいのです」
先生が庭の木を見た。大きな木だ。大きな木の大きな枝からは一本のロープが垂れている。そのロープのその先はくるりと丸まって一つの円をつくっていた。ぶらぶらと揺れるロープが私の瞳を誘う。私はその動きをゆっくりと追う。
「私はただの死にたがりですよ」先生が、とん、と言った。
死にたがり。その言葉が私の首を絞めた。
ロープを見つめていた目で私はそっと空を見る。狂ったほどの青さ。物悲しい。暑い夏空。叩いたら割れそうなほどに青。
にゃあご。
見えないところで猫が鳴いた。
「奇遇ですね。私もですよ、先生。私も死にたがりなのです」
私の着ているシャツに染みたはずの汗はもうすっかり乾いていた。
「先生」
「なんでしょう」
「この家の猫には名前はないのですか?」
「ええ、ありませんよ」
私の心はその言葉を聞いた瞬間に嬉しさがこみ上げた。
「それは実にいいことですね」
私はそう言ってから、にゃあご、と鳴いてみた。
※※※
あるとき、ねこはサーカスの手品つかいのねこでした。
ねこはサーカスなんてきらいでした。
手品つかいは、毎日ねこを箱の中に入れて、のこぎりでまっぷたつにしました。それから丸のままねこを箱から取りだし、拍手喝さいを受けました。
「お前と一緒に世界でいちばん拍手を貰えるサーカス団をつくりたい」
手品つかいはねこによくそう言いました。
ねこはそんなものには興味がありませんでした。
例えどれだけの人間に拍手をされたところでねこには到底関係ありそうもありませんでしたから。
ある日、手品つかいはまちがえて、本当にねこをまっぷたつにしてしまいました。
手品つかいはまっぷたつになってしまったねこを両手にぶらさげて、大きな声で泣きました。
その泣き声は三日三晩サーカス小屋の中でひびきつづけました。
だれも拍手喝さいしませんでした。
そして、手品つかいは、サーカス小屋の裏にねこを埋めました。
短い言葉を添えて。
そして、ねこは、もう一度、生きるのです。