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海で

 私が先生と知り合ったのは鎌倉だ。「ねえナツ、一緒に逆ナンしに行こうよ」という、景子のおおよそ自身の顔面度合いを把握していないと思われる誘いに乗って、夏休みを利用した海水浴に行った、その時の話だ。

 夏の初め。可哀想ぶった真っ赤な太陽。

 夏は嫌いだ。と言ってみても夏は来る。

 じゃあ冬よ来い。と言ってみたら冬が来るという訳でもどうやらない。

 だから私は嫌いなこの暑さにどこかでムキになっていたらしい。

 さあ、焼いてくれ。いっそ焼き切れ。みたいな感じで、私たちは似合わないビキニ的な水着を着ちゃったりなんかしてさ。

 うわあ、えっちいねえ。なんて言葉に。エヘヘ、ソンナコトナイヨ。なんて応えたりしてみたり。

 私たちは安い宿を取り、毎日海水浴場に出かけた。景子はナンパに、私は砂浜に開いた何の生物が作ったのか分からない小さな穴に指を突っ込むことに、精を出していた。元来身体を動かすことなど私の嫌いとすることなので、私は足だけを海水でぴちゃぴちゃ冷やしたりすることだけでなんだかんだ言っても満足だったのだ。海には茶やら黄やらの外人かぶれの頭がたくさんぷっかぷっかと浮かんでおり、私は「ああ、この中には一人も私のことを知っているものはいないのであろうなぁ」と息を吐き吐き、海辺の生物の巣に指を入れて遊んでいたのである。ちくりと指を噛んでほしい、そんなご気分を胸に抱えて。マゾヒスティック? 自慰行為じみた自傷行為? みたいな。

 流石夏の鎌倉というべきであろうか。私のほうが例外的らしく、大勢の若い男女たちが半裸の状態でくんずほぐれつ合法的に自身の若さを誰にもなく見せつけていた。眩しいなあ、みたいなことを呟いてみて私はそれを超越者みたいな体で観察してみたりなんかして。

 そんな中で私は、先生をその雑踏から見つけ出したのである。

 先生はその時西洋人を連れていた。それも大勢。おまけにそれは全員ナイスバディなお姉さま方であった。海の家にてぺろぺろとアイスキャンディを舐めていた私にとっては、その西洋人のお姉さま方のすぐれて白い皮膚の色と豊満なバストは女の私でさえ視線を奪われるのには十分なものであった。

「愉快だねえ、君たち。いやいや、実に愉快だ」

 先生はそう言い、お姉さま方のお尻を頻りに撫で回していたのを覚えている。その日本語がお姉さま方に通じていたのかいないのかったのかは終ぞ私の知るところでなかったが、出会ってから今に至るまで私には投げてくれなかったその時の先生の甘い声が、今でも私の耳の奥に残っている。

 先生とその西洋人のお姉さま方がどこかに消え去った後も、私はぽかんとしながら先生のことを考えていた。どうもどこかで見た顔の様に思ったからだ。しかし、どうしてもどこであった人か思い出せずに日が暮れた。

 次の日も先生は海にいた。私はそれを目ざとく見つけた。先生は一人で波に足を浸しながら水平線を眺めていた。私は砂浜に開いた小さな穴に指を突っ込みつつ、しばらくその後姿を見つめていた。すると先生は数刻のうちに波に攫われるかのようにして海に入り、ばしゃばしゃと太平洋の水を掻き雑ぜた後、海坊主の様に身体を揺らしつつのっそりのっそり陸へ上がってくる。同じようなことが二、三日繰り返された。その間私と先生の間には物を言いかける機会も、挨拶のする場合も、起こりえなかった。最初一緒にいた西洋人のお姉さま方はその後一切姿を見せず、私も先生もいつも一人だった。

 私は、鎌倉の砂場にぽつねんと浮かぶ、まるで陸に打ち上げられたはぐれクラゲの体だった。


 ※※※


 逆ナンの成功しないことを最初「こんなこともあるわよね」とカンラカンラ笑ってはいた景子も、次第次第に「いい、ナツ。連れのアンタが女子高生のくせにナンパのひとつもされないことからして、アタシの逆ナンが成功しない理由は明白よ。アタシのナンパが成功しない原因はアンタよ、アンタ。一体何なの? 海に来て男漁りの一つもせずに、日がな一日お砂遊びとはいいご身分ですこと。連れがそんな態度だとアタシも干物みたいに見られちゃうでしょ? だからアンタのやるべきことは一つよ。イイ? 明日はアンタが男に声をかけてきなさい。海に来たらナンパ、それが恋に生きる乙女の義務よ。分かった?」なる理不尽なことを言い始めた。

 そんな景子に言ってやりたいことは星の数ほどあったけれど、私は元来人との間には余計な波風を立てない主義である。ただ「分かったよう」と景子のお饅頭のような鼻を見ながら返すだけしか私には出来なかった。

 太平洋の波は寄せては返し、海辺に集まる人々の心を海底に引き摺りこむ。海の中には私たちの想いの残骸がガンガラゴンガラ、きっと、散らばっている。

 私には別段恋に生きる乙女の義務なるものを果たす必要などなかったのだけれど、結局は景子の約束にかこつける形となった。つまり私は景子の要望通りに男に声をかけた。その相手が先生だったのだ。

 その時、先生はイチゴ味のかき氷を愉しんでいた。唇も舌も背中も真っ赤っか。私はそんな先生の隣にブルーでハワイアンな色の氷の削り粒を持って並んだ。

「今日はいい天気ですね」

 私がそう声をかけると先生は眼鏡の奥の目を細め私の顔を不思議そうに見た後、私の胸を覗き、足を舐めるように眺め、それからもう一度胸に目を戻してから、空を見上げた。

「うん、そうだね」

 それが私と先生の交わした初めての会話だった。

「イチゴ派ですか」私は自分の持つかき氷を掲げながら言った。

「ええ、イチゴは良い。乙女な感じがする。うん、実に素晴らしい」

「ブルーハワイはどうです?」

「ハワイもいい。フラの腰つきが私を誘う」

 先生はそう言ってから急に真剣な瞳で私の目を覗いた。「ところで君は高校生ですか?」

 私は青色の氷に頭を攻められながら「ええ」と頷いた。すると先生は「そうか」と呟き、海の方に向き直った。

 そんな先生に私は一方的に私のことを話した。東京から夏休みを利用して友人と鎌倉に来ていること。ドブスの景子が分不相応な望みを抱いていること。景子が私にナンパのほどを強要したこと。滔々と話す。波間に放つ。言葉を泳がす。

 喧騒の向こうに波の音。潮のにおい。かき氷。きん、と冷える。かんかんと太陽。肌を焦がす。先生の横顔。私はじっとそれを見つめる。

 太陽が眩しい。熟しきったトマトのような色だった。夏野菜、お野菜。カロチン、ビタミン、ご健康。

「夏野菜カレーはお好きです?」健康志向のご質問。

「ああいう野菜はあまり好きじゃあないなぁ」

「肉食系なのですか?」

「恥ずかしながら、どっちの意味でも、そうですねぇ」

「それはそれは。ではバターチキンのカレーとかはどうでしょう」

「どうでしょうとはどういう意味です?」

「今度私に作らせてください。こう見えても私、料理は得意なのです。味噌汁からトマトソースのバッパルデッレまでお任せください」

 私がそういうと先生は少し困ったような顔をした。

「それは君、私のことを誘惑しているのですか?」

 誘惑。その時、私はこの現実世界にその言葉を聞いて、ああそうか、私のしようとしていることは誘惑というのか、と自覚した。

 私は改めて先生の顔をじっと覗いた。私は私の心の揺れをそっと感じていた。

「ええ、そうです。私は先生のことを誘惑しているのです」それが私の口から先生という言葉がでた始まりであった。「どうか先生のお宅に今度お邪魔させてください」

 私の言葉に先生は一瞬何か悲しいことを思ったような顔をした。それから空を見て太陽の眩しさに目を細め、私の胸に目をやり、それから、とん、と息を吐いた。

「私が『先生』?」

「駄目ですか?」

「私は何もしていない人間だ。君に先生と呼ばれる理由は何もないよ」

「私は先生のように何もしたくはないのです。それだけで私が先生を尊敬してもいい理由には十分です」

「君は変わっている」

「そうです、私は変わっているのです。先生にはまだまだ到底及びませんが」

 そう私が言うと先生は少し笑ったような風を見せてから観念したように「じゃあ、いらっしゃい」とだけ言った。

 私のナンパが成功した瞬間であった。

 遠くの鴎がきゃんと鳴いた。私と先生の持つかき氷はもうすっかり溶けて水になっていた。

 水っぽい夏に、こんにちは。


 ※※※


 あるとき、ねこは船のりのねこでした。

 ねこは海なんかきらいでした。

 船のりは世界中の海と、世界中の港にねこを連れていきました。


「お前に誰も見せたことのない世界をみせてあげよう」

 船のりはねこによくそう言いました。

 ねこはそんなものには興味がありませんでした。

 海の向こうになにがあろうともねこには到底関係ありそうもありませんでしたから。


 ある日、ねこは船から落ちてしまいました。ねこは泳げなかったのです。

 船のりが急いであみですくいあげるとねこはびしょぬれになって、死んでしまいました。

 船のりは濡れたぞうきんのようになったねこを抱いて、大きな声で泣きました。

 その泣き声は三日三晩大海原にひびきつづけました。

 そして、遠い港町の木の下に、ねこを埋めました。

 短い言葉を添えて。


 そして、ねこは、もう一度、生きるのです。

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