永遠分の一
先生の背中が、この日に限ってやけに小さく見えた。背景の中にぼんやりと溶けてしまいそうな色が、私の瞳にはきらきらと映った。目に染みる。
空気が冷え切っていた。街の冷たさ。都会の冷淡さ。ジンメルチックな自由の源泉。私は冷たく静かなこの世界に眼を凝らす。
「先生」私はその背中に声をかけた。淹れたばかりのコーヒーだけはこの世界で温かさを保っていた。「愛してるって言葉は、ねえ先生、まるでこのジャワコーヒーのようではありませんか? 苦くて、酸っぱくって、そして夜眠れなくなるようなそんな言葉。先生。私はその言葉に一匙のミルクとお砂糖を加えたいのです。子供ですから、私。ね、先生。子供なのです」私は先生にカップを差し出す。「どうぞ、先生、一杯だけこの苦みを」
ええ、と短く先生は頷いた。先生の目は庭の木から外れない。大きい木。天へ延びる。百万年後もそこにありそうな立派な木。枝の先からは縄がぶらり。
「今日は鳥がよく鳴く」
「犬も鳴きます」
「うちの猫はいつでも鳴く」
「今日はやけに静かですが」
「きっと哲学的なことでも考えているのでしょう」
「猫の哲学。にゃんにゃか哲学」
「動物的プシュケですね」
「猫も人もきっと考えることは同じでしょう」
「ええ、哲学の永遠命題なんかそう多くはないのですから」
先生は私の手からコーヒーカップを受け取る。私の指と先生の指が触れた。
最初、鞄の中のピストルが破裂したのかと思った。
違った。
弾けたような大きな音は私の心臓が跳ねる、その音。苦しめる。苦しめる。ぎりぎりと締め付けられるような痛みと、激しく叩きつぶされるような痛みと。
目の前がちかちかと眩しく光った。
「とても綺麗な指だ」
先生が、冷たい空気に息を吐いた。
私はそっと先生の手からカップを奪い取り。机の上に放った。それは私のすべてを捨て去る行為によく似ていた。
「先生、私も今先生にそう言おうと思っていたところなのですよ。先生の細い指を私はたまらなく愛おしく思っているのですよ」
私の指と先生の指とが絡まった。私はそれが離れてしまわないようにぎゅっと力と、そっと想いを、指に込めた。先生の手のひらは思っていたよりもずっと大きくって、ちっぽけな私をその中に納めてしまえそうに見えた。
私は一つばかしの咳をついた、こん、と鳴ったつまらない咳は、冬の乾いた空気の中に混ざって消えた。
私は、先生の首筋に鋭い牙で噛みつかれたかのような傷を見つける。
すると、途端に私の胸の中にむくむくと悪戯心が湧いた。愛おしさが零れた。
その傷口に、無性に口をつけたくなった。呪いのようだった。私は激しいめまいに襲われた。
私は、自分がこの場にいないような、変な感覚に襲われていた。何かに操られているような感じ。問題は、その何かが、一体何なのか分からないことだけだった。
「先生は愛していた人のことを今でも思い出しますか」
私の口の、私の言葉。
「いいえ、思い出したりなんかしません」先生は私の瞳をしっかりと覗いていた。「ここにあるのです、ずっと」
先生は自分の胸に手を置いた。おかげで私と先生の指が離れてしまう。物悲しさが私の心を支配する。私は乱れてしまったスカートの裾をそっと、そっとだけ直す。口から無意識に息が漏れる。はあ、と一つ。とん、と二つ目。
先生。
「時間が経って、例えば私が彼女の髪の色や、笑い方を思い出せなくなってしまったとしても、でも、私はきっと、彼女のことを好きだったと、そのことだけは、絶対に忘れないでしょう。……忘れられないでしょう。例えこの先何百年生きても、それだけは」
先生、恋は罪悪ですよ。
なんて、言い返したくなるけど、私は言わない。
だって、それを私は事実と知らないから。
だから。
「永遠分の一」
また、私は自分の気付かないうちに、まるで誰かに操られるかのように、声を出している。イケナイ、イケナイ、と思っていながらも私の口は止まってくれない。
「先生、」
「はい」
「先生、私に一時だけその唇を貸してください」
言った。いや、言ってしまった。
私の心はとっくの昔に恋で動いていた。分かっていた。
空虚だった心はいつのまにか先生で埋まっていた。
見ないふり。知らんぷり。
そんなのはもう通用しなかった。
先生は、窓の外を見た。私も一緒にその視界を共有したいと思った。
空は晴れていた。青かった。ちぎれた雲は疎らで、間には鳥が飛んでいた。寒空に震えないように群れで飛ぶ。寄り添って飛んでいた。
庭の木に結ばれたロープがふらふらと風に揺れている。猫がその根元をこしょこしょいじる。
先生が、私の名前を、とん、と呼んだ。
私は初めて先生の口から私の名前を聞いた。私の心の弦が先生に思いっきり弾かれてしまった。ぶるぶる、と震えた。
「……はい」
先ほどまでは勝手に動いていた口が、今は、頑張らないと動いてくれなかった。
「私は死にたがりなのですよ」
「存じております」
「君はまだ知らないのです。私がどういう人間か。いや、違う。これからも貴女は私を真に理解することは出来ないのです。何故なら私にすら私を理解することが出来ていないのだから。いいですか、いまに後悔するから、私のことをそんな風に信用してはいけない。私は決して、貴女の考えているほど真面目な人間では、少なくとも、ないのですから」
私は悲しくなった。先生の言葉に、へんに、悲しくなった。
「貴女は本当に真面目なのですか」先生が言った。「私は過去の因果で、人を疑い続けている。私は私以外の人間に私を裏切らせてしまうのです。だから実は貴女のことも疑っている。疑わないといけないと思っているのです。しかし貴女のことだけはどうも疑いたくない。私は、死にたがりの私は、死ぬ前に一度でいい、たったの一人だけでいいから、人を信用してから死にたいのです。貴女はそのたった一人になれますか。なってくれますか。貴女は心の底から真面目ですか」
先生の言葉が震えた。
「私は私に関わるすべての人間を私によって裏切らせてしまうのです。それが、心から、悲しい」
私はその震えに共振した。
私は、だから、黙って頷いた。私の心をすべて晒していいと思った。
先生は優しく私の頭に手を置いた。私はそれを望んでいた。永遠にこうしていて欲しい。なあんて。私の願い。お願い。
「先生、私に、世界の色を教えてください」私はぎゅっと唇を噛んだ。「本当の色を見せてください」
目の前の景色がぼんやりと揺れた。
先生が世界の中にぼんやりと滲んだ。
「随分長い間生きてきました。死にたい、死にたい、と思いながらも同じような日々を私はぐるぐると繰り返してきました」この時の先生はまるで寒さに縮こまった猫のように見えた。「貴女と出会うまでは」
とん、と私の胸が鳴った。
冬の日差しは弱々しくて、家の中までは遠慮してなかなか入っては来ない。薄暗い昼下がり、秒針の進む音と私の鼓動。
足りない。音が足りない。私は叫びたくなった。
だから、
先生の鼓動を確かめるために私は先生の胸の内に潜り込んだ。足りない音はここにあるから。
指先で真実に触れる。存在を確かめる。
とくとく、とこの世界に先生は確かに生きていた。私の嫌いなこの世界に先生は立っていてくれた。私はそれを自分の指で知る。先生が褒めてくれたこの指で。
「先生、春が近いですよ」
「ええ、そうですね。まだしばらく冷えるでしょうが」
「先生の鼓動が聞こえます」
「そうですか」
「ねえ、先生」
「なんでしょう」
「少し唇を貸してはくださいませんか」
「…………」
「先生、少しでいいのです。唇を私にお貸し願えませんか」
「……真面目におっしゃっているのですか」
「ええ、先生、私は真面目です」
「…………」
「先生、今なら私はどんな毒でも飲めましょう。どんな罪でも被りましょう。先生、私はご存知の通り、今も、立派な死にたがりなのですよ」
先生はもう何も言わなかった。
「私……、恋がしてみたいです。罪でもいい、毒でもいい。私は……、先生……、恋の味を、その先生を苦しめている私の未だ味合ったことのない恋の味をこの口いっぱいに、啜ってみたいのです。たった永遠分の一回です。先生、それだけでいいのです。永遠に繰り返される生の中でこの一回だけ、どうか、どうか……、先生に恋をしてはいけないですか……」
永遠分の一。
「そうしたら私は」
百万回生きる内のほんの一回だけで良かった。
「今一度の人生を真面目に生きられるのです……」
私は、自分の『生』に『死』以外の方法で輝きを与えたかった。
死は生よりも尊いから。
だから、今だけ、私の淋しさは、未来の私に我慢してもらおう。
今だけは卑怯に。
明日からは真面目に。
私は罪悪の味を、とん、と噛んだ。
その時、
かこん、と何故だか音が鳴った。
にゃおーん、と一際大きな声で猫が鳴いた。
先生の頼りない背中が静かに震えた。
その震えを私は全身に受け止める。
私の目からは涙が落ちた。
その時だけは、私はいつもの死にたがりではなかった。
永遠にこの一回が続けばいいと思っていた。
時計が二時四十六分を指していた。
この日、この時、この瞬間。
二〇一一年三月十一日金曜日。
地球が震えた。淋しさに。
この汚れきった世界は一度、死んだ。
聞いたことのないような音を立てて。
ホントの私は、死にたがり。
先生と一緒。
永遠分の一だけの心。
※※※
この日世界は死んでしまいました。
何万人ものひとが声をあげて泣きました。
けど、そのなかに私はいませんでした。
だから、
私はかわりに死んだ世界をちゃんと埋めてあげました。
短い言葉を添えて。
そして、世界は、もう一度、生きるのです。
なあんて。
※※※




