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今年も、そして来年も

「心臓は止まり、肺は萎み、網膜は腐り、血の流れが滞っても、わたしは『生温かく生きている』の」杏奈は天井を見つめていた。「ねえナッちゃん生きるって何か分かる?」

 彼女の瞳はもうすでに光を受け付けてはいなかった。私はこの部屋に漂うナポレオンのオーデコロンを吸って、吐き出す。

「時々切れた回路が突然つながるように、少しの間だけ見えるようになることもあるの。けどもうダメみたい。零れたミルクは二度と戻らないもんね」

 外では雪がしんしんと降っている。

 犬は喜び庭駆け回り、猫は死んでも生き返る。そんな冬。

 風が吹く。外の景色。寒さ。染み入る。

「ねえ、ナッちゃん」

「なあに?」

「冬、好き?」

 杏奈が見えない瞳を私に向けた。彼女は今日も生温かい。

「好きだよ」

「ナッちゃんはナツなのに冬が好きなのか。変なの」

「冬は死の季節だもん。素敵な響きだ」

「変なの」

 くすす、と笑った。

 彼女の腐敗は停滞の冬でも決して止まりはしなかった。胸の傷痕から腐敗は彼女の身体に際限なく広がり、皮膚は腐り落ち、血管や神経が剥き出しになっていた。ゾンビらしいゾンビ。なあんて。

「ナッちゃん、世界の色を教えて」

「世界の色?」

「うん、もう、わたしの目では見えないから」

 私は窓の外を見た。世界の色を眺めた。無色透明の世界。

 色なんかないよ。

 私は言った。とん、と言った。

「私も生きながらに死んでいるから」

「死にながらに生きているのとどっちがいい」

「目は見えてる、けど見えない。つまりはそういうこと」

「ホレーショの哲学?」

「ゾンビじゃないからね、まさに亡霊」

「また一緒にハムサンド食べたいね」

 きん、と寒さが響いた。淋しさの鐘。

 私はミカンの皮をむいて、はい、あーん。

 あ、これ噛まれたら発症するやつかな、バイオなハザードかな、とか思ってみたりなんかして。

「ねえ、私ね、決めたんだ」私はミカンを一房口に入れる。「そろそろ、ちゃんと、しよう、って」

「ちゃんと?」

「うん、ちゃーんと」

「どうしたの? ナッちゃん」

「永遠分の一にけりをつけたくなったのさ」なあんて。

 ナポレオンのオーデコロン。柑橘系の匂い。死の重さに耐えきれなくて、空気が沈む。私はそこでぴょんと一跳び。うさぎのように。雪うさぎ。

「人間はね有限性の器に無限を詰め込む生き物だからさ。私はそんな俗習をいよいよ卒業するのです。有限の世界は有限に、無限の世界は無限に返そう」

「哲学だねえ」

「哲学少女だよ。ミサオ・フジムラじみたね」

「ホレーショ、ホレーショ」

「オーソリチー」

 あはは、と私たちの声が重なって白い世界を飛び跳ねる。月に、雪に、私たちの声は飛んで行って、ぱん、と弾けて、それ、御仕舞。私の手はもうミカンで黄色く染まっている。

「世界征服」

 とん、と杏奈が言った。

「私の最後に見た『正解』は世界征服だったの」

「なにそれ?」私は、くすす、と笑って見せた。

「お姉ちゃんがね、わたしに言うの。こんな世界死んじゃえばいいのに、って。だからわたしは言うの、ならね、世界征服しようよ、って。それが『正解』だから、って」

「それが『正解』……」

「うん、そう、世界もね、冷たく静かに死にたがってる。死にたがり」

「死にたがり……」

 私の吐く息が震えた。私の心が震えた。オーデコロンのにおいが肺を満たして、私の頭をがんがん揺さぶる。

 生きるべきか死ぬべきか。

 そんな問いを、世界は答える。

 私は、そんな世界に流されないように、自分の身体を、生まれて初めて、ぎゅっと、抱きしめた。

「ナッちゃん、もうそろそろじゃないかな?」

 杏奈の声。私は部屋の壁に時計を探し、見つけられないまま、自分の手首を覗いた。

「えっとね、うん、もうそろそろ」

 私は誕生日にドラキュラさんから買ってもらった腕時計を見て、答える。ちくたくと時を刻む。この部屋にこの音は不釣り合いだった。

「ねえ、」私は彼女の手を取った。「死に心地はどう?」

「悪くはないよ」

「そっか……」私は自分の温度を彼女に伝える。「そっか……」

「試してみるの?」

 私は口を噤んだ。

 花をも枯らしそうな哀しさの香りをまき散らす。ゾンビと私と、死にたがり。胸の鼓動が部屋を支配する。私の鼓動一つ分。もう一つは決してもう鳴らない鐘だと知っている。

「ナッちゃん、愛は感情じゃないよ。覚悟だよ」

 とん、と言った彼女の瞳はその時だけ色を取り戻したかのように見えた。『正解』を覗かれたかのような気分に私の身体がこちんと固まった。「覚悟を決めたの?」

「覚悟を決めたその後に、あなたは私のホレーショになってくれる?」

「それは無理だよ。わたしはだって亡霊だもの」

「それはそうか……」私の心は定まったまま。

 ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチーに値するものぞ。

 なあんて、ミサオ・フジムラ流のスタンスで、私はそっと杏奈を抱きしめた。

 胸の中の彼女。死体よりは温かい。猫よりは冷たい。時計のない世界の眠り姫。

 私はそんな彼女に私なりの『正解』を語ってみたり、なあんかして。

「私ね、話してもいい? あのね、うん、そのね。気づいたんだ。私……。うん、私。死にたがりの私はようやく気付いたの、私ね」

 先生のことが……。

「うん、」

「でもね私は先生のことを、永遠、に理解できないんだってことも気付いたの。死んだつもりで生きている先生と死んだつもりになりたい私とは、全く、全く違うの、そう、そうなの」

 だから……。

「うん、」

「先生は命を引き摺って歩いてきたの。私はそんな先生に、たった一つ、短い言葉を添えて……」

 そして……。

 杏奈は私の言葉を目を閉じて聞いた。神様に叱られないように、カンニングしないように、ぎゅっと目を閉じて聞いてくれている。私はだから彼女に私の心を晒した。私の覚悟を確かなものに固めるために。

「ナッちゃん、」鈴を鳴らしたような声。りん、と響く。「わたしは思うよ。いい? 百万回好きって言っても一回愛したことにならないようにさ、百万回死んだからって一回本気で生きたってことにはならないんじゃない、かな?」

 永遠分の一。

 そうか、そうか……。

 ゴーン、と遠くで大きく時間が揺れた。

 あ、

 私は時計を見る。針は十二のところに二つがぴったり重なっていた。

「あけましておめでとう、ナッちゃん」

 杏奈が笑った。

 古びた年は死んだ。そして死の季節の次は再生の季節。また新たな年が生まれる。

「今年、二〇一一年もよろしく、ね」

 私はその言葉に頷いた。そして去年までは言わなかった言葉を初めて口にした。

「今年もよろしく」

 私は、そう、そうやって生きていく、その、覚悟。


 ※※※


 白いねこは、かわいいねこをたくさん産みました。

 ねこはもう「おれは百万回も…………」とは決して言いませんでした。

 ねこは、白いねことたくさんのねこを、自分よりもすきなくらいでした。


 やがて、子ねこたちは大きくなって、それぞれどこかへ行きました。

「あいつらもりっぱなのらねこになったなあ」

 と、ねこは満足して言いました。

「ええ、」と白いねこは言いました。

 そして、ねこはグルグルとのどを鳴らしました。


 白いねこは、すこしおばあさんになっていました。ねこは、いっそうやさしく、グルグルとのどを鳴らしました。

 ねこは、白いねこといっしょに、いつまでも生きていたいと思いました。


 ある日、白いねこは、ねこのとなりで、しずかにうごかなくなっていました。

 ねこは、はじめて泣きました。

 夜になって、朝になって、また夜になって、朝になって、百万回も泣きました。

 朝になって、夜になって、ある日のお昼に、ねこ泣きやみました。


 ねこは、白いねこのとなりで、しずかにうごかなくなりました。


 ねこはもう、けっして、生きかえりませんでした。

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