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第5話 ルクセンブルクの雨の日

 ルクセンブルクにある日立研究所に通うようになって数日後、行きつけの理髪店の店長が家を訪ねて来た。珍しいこともあるものだと、ハンスが居間に通したが、理髪店の店長は椅子にも座らず気ぜわし気な顔で周りを見回す。


「ライルは、今、研究所じゃ、おらんよ」

「そうですか。あなたの耳に入れておいた方がいいと思いましてね」


 店長は、誰もいないというのに、声を落として言葉を続けた。


「ほら、私の店はいろいろな人が噂を持ち込むのに格好なものですから。そこで、耳にしたんですがね。あなたのきれいな甥御さん。彼を狙っている奴らがいるんですよ」

「産業スパイか、どこかの諜報機関かね?」


 ハンスもぎくりとして腰を浮かした。彼の正体に気づかれたのだろうか?


「スパイ? いえいえ、そんな大事じゃないですが……。何か、そういうのに狙われる理由でもあるんですか?」

「いや、訊いてみただけじゃよ」


 うっかり藪蛇になるところだった。


「この辺りにも、おかしな奴はいるもので。それが、あなたの甥御さんに目をつけたらしいんですよ。ほら、甥御さん、きれいじゃないですか。とてつもなく。女の子みたいに。で、彼を拉致して乱暴しようと、何人かで話していたのを聞いたって言うんです」


 ハンスは愕然とした。そっちの危険か!


「今までにも、彼にいい寄ったなんて話は聞くこともあったんですがね。なにしろ、ほら、クールビューティでしょ。甥御さん。クールどころか、北極海の氷山ですからね。あの無表情な目で、何か? って言われたら、誰だって瞬間冷凍です。一言も発せずに死亡確定です。誰も手出しできないですよ。怖くって」


 店長が自嘲気味にはははと力なく笑った。こいつも、その死者の一人かとハンスは眇めた目でみやる。


「でも、複数でかかられたら、瞬間冷凍も効かないですからね。危ないですよ。俺はそれ聞いたら、いてもたってもいられなくなってしまって……。とにかく、ハンスさんにお知らせしようと……」


 手を揉みしだき、店長は心から心配そうだった。


「よく知らせてくれたね。私のほうから、警察に連絡して、ライルを警護するよう頼み込もう。私も気をつけるよ。あの子に何かあったら、私は友に合わせる顔がなくなる」


 お願いしますよと、何度もしつこく念を押しながら帰っていく理髪店の店長を見送って、ハンスはTELを取ったが、ふと考えなおして車を出した。あの石頭の警察署長を説得するには、直接会った方が早い。


 忙しいですからとか、アポとってから来てくださいとか、うるさく騒ぐ警察の受付だの署員だのを押しのけながら、ハンスは署長室まで突破してきた。署長が、またかというようなうんざり顔でデスクの向こうから見上げて来た。

 署長のデボン・ヤンセンは、ハンスの一学年下で、すぐピーピー泣いてた甘ったれな子供だったものだ。それが、いまでは口ひげを偉そうにぴんと立てた警察署長なんだから、人生はわからない。


「いったい、何の用だね? 私は忙しいのだよ。シャフトナー博士」


 その腹にチョコレートを詰め込むのに忙しいんだろうと、膨れた腹を眺めながら思ったが、言葉にするのは控えた。一応、頼みごとに来ているのだ。だが、ベルトの穴を、また一つ開ける必要はありそうだなと考える。机の中にチョコレート詰め合わせの箱を隠しているのは知っているのだ。医者から甘いものを控えるようにと言われているだろうに。


「町の治安に関することだ。警察としては見過ごせないことだぞ」


 と、前置きを入れ、デボンに即座に逃げられないようにする。


「私の甥っ子が、不埒な連中に狙われているんじゃ。数人で襲う計画があるらしい。彼を警護してほしい」

「警察は個人的なボディガードじゃない。ハンスさん、それをこちらに持ち込むのは、筋違いだ」

「それで何かあったら、警察はどう責任取るつもりだね? 私が、こうして直々に頼みにきたのを、冷たく断ったと公表するぞ」

「脅す気か? 公務執行妨害で逮捕できるんだぞ?」

「ああ、逮捕するならしてみたらいい。あんたが、栗の木の上で降りられなくなって、私が助けてやるまでどうしていたか言ってもいいんだね?」

「そんな子供の頃の話で、私を脅そうとしても……」

「私が、親切にも替えのズボンを……」

「わかった! わかった! もう少し詳しく話してくれ」


 慌ててハンスの話を遮ってきたデボンに、にやりと笑いかける。デボンはうんざりした渋い顔を向けた。


 渋々と承諾したデボンだったが、ライルを見ると考えを変えたらしく警護をきっちりつけてくれた。

 ライルの朝晩の出勤と退勤の経路に、警察が見回りと称して見張りに就く。事件を未然に防ぐのが目的なので、警察が見張っていることは隠さない。特に、夜遅い時間に退勤してくるライルには、パトロールの警察が必ず声をかけてくれた。

 ライルが嫌がるかとハンスは心配したが、そういう警護には無頓着で一向に気にする様子はなかった。むしろ慣れているような感じだった。底知れぬ知識量といい、桁外れの知能と言い、バリヌール人とは想像以上にたいした種族なのかもしれないと、ハンスは改めて思う。


 しびれを切らしていたらしいならず者集団は、ある日曜日、ライルが理髪店に行った帰りを襲った。真昼間なので、無謀としかいいようがない。

 商店街をはずれ、公園のある区画へ出たところを数人が取り巻いた。


「何かご用ですか?」


 ライルがのんびりと聞く間にも、男達は彼を拉致しようと動き出し……、理髪店の店長が走ってきて、男をぶん殴った。花屋の女将さんがライルの腕を掴んで走り出した。初老の紳士がステッキで乱暴者の脚を払い、肉屋の親父が太い腕で叩きのめした。証券マンが警察に連絡を入れ、公園をジョギングしていた男達が逃げようとした不埒者を捕まえた。

 いつの間にか、町全体でライルを守っていたらしい。当人だけが、何があったのかいまだに訳が分からないままだった。

 どうもライルには、人を惹きつける何かがあるらしい。それが無条件で、彼を守り彼のために動こうとする形になるようだった。そろそろ、ライルを自分の所から巣立たせても良い頃かもしれないと、ハンスは考えるようになった。


 それから、ふた月も過ぎた頃、季節はまた春が巡ってきていた。ライルは17歳になっていた。だが、見かけはもう少し幼い印象がぬぐえない。目に不満そうな色がある。これに気づくのは、彼の世話をしてきたハンスだけではあったろうが、ライルにしては珍しい。ハンスは不審も隠さず訊いた。


「どうしたんだね? 何か、よほどの気に入らないことでもあったかな?」

「イオダイナモ計画が中止になったのです。資金を食いすぎるという理由でですよ。これが人類にとって、どれほど有意義な一歩になるか、理解しようとしないのです。この調子では、木星―太陽発電計画なんて、取り掛かるどころではりません。どうして、理解してくれないのでしょう」


 ハンスにはお馴染の良くありがちな結果だったが、きっとバリヌール人のライルには理解できないのだろうなと思った。


「実は、アメリカのアカデミーから、物理学の講師の依頼がきているのです。ハンス。僕は、そこへ移ろうと思います。イオダイナモ計画が中止された以上、日立研究所にいても意味がありません。この地球のために、僕はできる限りのことをしたいと考えているのです」


 ライルには何か計画があるらしい。彼の独立を考えていたハンスにも、良い機会だと思えた。反対する理由がなかった。ハンスの方にも、火星のマーズ大学から教授のポストの誘いが来ている。これも何かの巡り合わせだろう。ハンスは火星へ行こうと決心した。


 ルクセンブルグフィンデル空港で、ハンスはアメリカへ出発するライルを見送っていた。冷たい4月の雨が降る日だった。

 隣で、理髪店店長がぼろぼろ泣いていたし、花屋の女将もハンカチを濡らしていた。驚いたことに、警察署長のデボンまで見送りに来ていた。町中の半分が見送りに来ているんじゃないかと、ハンスは疑っている。取り立てて誰彼とお喋りしたりするわけでもなく、愛想よく笑うわけでもないのに、ライルはみんなに愛されていたらしい。

 ハンスの永遠の友であるレオンハルトも、物静かながら、優しい温かい人柄で、みんなに愛されていたものだった。


 ――君によく似ているよ。レオン。ライルはいい子だ。これからも、見守ってやってくれよ。


 雨の空の彼方へライルを乗せた飛行機が消えていくのを、ハンスはずっと見守っていた。

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