第4話 ある晴れた日に
霧が立ちこめ、しとしとと冷たい雨が何日か続いた後、久しぶりに晴れた。青空が広がり、太陽が暑いくらいの日差しを届ける。
階下へ降りていくと、コーヒーとトーストの香りがした。
「おはようございます。ハンス」
ライルが朝食の支度をしながら振り返って声をかけてきた。ハンスは既視感を覚えて階段を踏み外しかけ、慌てて体勢を直した。
***
「ハンス、おはよう。トーストが焼けているよ」
レオンが笑いながら振り返る。ハンスは朝が苦手で、朝食はいつもレオンが用意することとなった。入れたコーヒーカップをテーブルに置いて、取っ手をつまんでハンスの右側に向くように直す。そしてハンスの目の前へついっと押し出す。レオンの癖だった。
「目の前に置いてから、向きを変えるもんじゃないか? それとも、最初から向きを変えて出せばいいだろ?」
前に言ったことがある。レオンはそうだなと言って笑ったが、やっぱりその後も同じ所作を改めなかった。レオンのいれてくれたコーヒーを味わい、ハンスはやっと寝ぼけ眼の目を醒ます。
貧しい学生だから朝はパンとコーヒーだけだが、それでもハンスにとっては豊かな素晴らしい朝食に思えた。こんな朝食の時間を持てるようになるなんて、考えたこともなかった。
だが、いつかは終わりがくるもの。レオンはあと数日で有人探査船で宇宙へ乗り出すのだ。戻って来るのは、予定では半年後になる。半年もの間、また、一人ぼっちの朝食と一人ぼっちの生活になってしまうのだ。
だが、レオンは宇宙に出るのが夢だった。そして、有人探査船に参加すれば、多額の褒賞金が出る。それだけリスクが高いのだ。これまでの奨学金やローンを一挙に返済できると喜ぶ彼の顔を見れば、ハンスも行くなとは言えなかった。
出発の前日、準備のために宇宙基地へと行く彼を家から見送った。レオンはカバン一つ持って、ハンスに手を振って出かけて行った。それが、彼の姿を見た最後となった。
有人探査船の事故を聞いた時。
もの凄い加速で太陽系を突っ走って行ったと聞いた時。
ハンスはその時、どう思いどうしたのか何も覚えていない。
とにかく、家へ走った。二人で過ごした古い家へと駆けて行った。家に着いて扉を開き、中へ駆け込んでハンスは叫んでいた。
「レオン! レオン! 帰っているか? レオン!」
なぜ、そんなことを言ったのか。なぜ、家へと駆けて行ったのか。今でも判らない。だが、あの時、ハンスは家中の扉を開けて回り、部屋を巡り、友の姿を探し回ったのだ。いるはずもないのに。
どこかに、きっといるはずだと。あの優しい温かい笑いを浮かべて、お帰りと言ってくれるはずだと。
だが、レオンはどこにもいなかった。
もう、いないのだ。ハンスのたった一人の生涯の友は、愛しい友は、もういないのだとそう悟った時、ハンスは泣いた。ただ、泣いた。思えば、彼は生まれて初めて涙を流して泣いたのだった。
あの時の想いを思い出すと、今でも胸が引き千切られるほどの悲しみが蘇る。抑えようのない涙が零れてしまう。
「ハンス。ジャムは何がいいでしょう? イチゴですか? ブルーベリーですか?」
ライルのテノールの声にはっと過去の思いから立ち戻った。紫の瞳は感情を移さず、人形のように美しい顔がこちらを向いている。それでも、その彼の中にレオンの温かな優しさを感じるのは、気のせいなのだろうか? この子の中に、確かにレオンの証があると思うのは、独りよがりな固執なのだろうか?
ライルがハンスのコーヒーカップをテーブルに置いた。取っ手をつまんで、ハンスの右側にくるように直す。そしてつっとハンスの前に押しやった。
ハンスは目を見張った。慌ててライルを見やる。彼は自分のカップにコーヒーを注いでいた。
***
ハンスは、この日、ルクセンブルク大学で講義があり、久しぶりに出かけた。ついでに、ライルの履歴偽装工作も進める。自宅のPCを使って、これまでの履歴をうまくもぐりこませ、大学在籍に手をつけようとしていた。ネットへの侵入は全てライルが行った。彼は超一流のハッカーだった。どんなに厚いセキュリティ対策も彼にとっては子供だましらしい。彼の倫理感が強くて良かったと、ハンスはひとりごちる。でなければ、とんでもない犯罪者にも成り得ただろう。
地球の大学レベルはとっくにクリアしているバリヌール人なので、あとは学歴さえあればいつでも独り立ちできる。
その午後、大学の印章の入った入学手続き用紙などを携えて家に戻ったハンスは、庭の前に人だかりができているのを見て不審に思った。男も女も、一心に家の中を見ている。近寄って咳払いをしてやると、びくりとひるんで、みんな蜘蛛の子を散らすように立ち去った。
何を見ていたんだと庭に目をやって、頭を抱えた。
日当りのいいテラスに長椅子を引っ張り出して、美貌と裸体を惜しみなくさらしてライルが寝転んでいる。トランクスを穿いているだけでもまあ、幸いだった。
あの異星人は、自分が他人にどういう印象や感情を与えるのかまったく頓着していないのだ。裸体を恥ずかしがる感覚もない。いくら言い聞かせても、理解してもらえない。
見物していた連中の中には目つきの悪い奴らもいた。気を付けてやらねばならないかもしれない。
「ライル!」
少し非難をこめた強い口調で呼ぶ。はい、と几帳面な返事とともにライルが部屋に入ってきた。長く日光浴していただろうに、白い肌には日焼けの痕が一片もない。
「何をしていたんだね?」
「日光を浴びていました。ソルの太陽はスペクトルが豊富で心地よいです。光合成しやすいです」
「今、なんて言ったかね?」
「スペクトルが豊富で……」
「その後じゃ」
「光合成ですか?」
「光合成するのかね?」
「しないのですか?」
「普通しないじゃろ?」
「あの植物達はしていますよ。葉緑素で」
「あれは、植物じゃから……、君は植物なのかね?」
「地球の植物の定義から言えば、植物ではありません。維管束もないし、葉緑素もありません。なにより、セルロースで構成されていません」
「だが、光合成するのだね?」
「光エネルギーをATP回路に蓄積させ、そのエネルギーを用いて物質を合成するという意味で、僕は光合成をします」
ハンスには衝撃の事実だった。
世の中というものは、いつも想像の外側を超えていくものらしい。自分は変わり者だと自負していたものだが、どうしてなかなかの常識的な人間じゃわいと、最近とみに思うハンスだった。
幸いにルクセンブルク大学に無事編入の形で入学したライルは、たちまち必要過程をクリアして、階段を駆け上がるように四年期分を一年で終了させ、論文に着手し始めた。どんな分野の大学教授も、彼と論説して勝てる者はなく、逆に教えを乞う始末だった。いつのまにか、密かにライルがゼミを開き、教授連達がノートを手に集まるという形ができていた。講義をしてほしいと要請があれば、彼はどんな分野でも快く応じた。
彼が応じられなかった分野は、地球に関する事柄だけだった。社会学・歴史・生態系などを、どうやら個人的に教授してもらっていたらしい。ライルが大学に入って二年、地球に来て三年目に入る初夏、めでたく物理学と、なぜか医学まで論文が通って、博士号を取得した頃には、だいぶ地球の情勢にも詳しくなっていた。
その頃、ライルは大学を通して知り合った連中と、一大プロジェクトに着手し始めていた。ハンスには専門外だったが、木星の巨大な磁力圏を利用して発電し、ガニメデなどの惑星に大気を作ろうという巨大な構想だった。
「太陽系には潜在的な発電能力があります。太陽と木星を繋ぐ発電システムができれば、太陽系全てに豊富な電力の供給が可能になります」
ある晩、ライルがハンスに語ってくれた。非常に複雑なシステムだったが、ライルには自明の理だったらしい。これが完成されれば、人類は電力供給の悩みから永遠に解放されるばかりではなく、不安定な原子力発電や化石燃料に依存する必要もなくなる。
電力会社は軒並み破産じゃな、とハンスはにやりとする。昔、電気代が高すぎると言って、喧嘩したことがあった。電力会社は、それなら電気を止めるとまで言って脅してきたものじゃった。あいつらが慌てふためく顔を見たいものじゃ。
イオダイナモ発電プロジェクトに参画していたルクセンブルクの日立研究所に請われ、博士号を取得し大学を卒業したライルはそこへ就職した。家から通える距離で、ハンスも安心できた。まだ、ライルの『常識』には、多大な不安要素が多かったのだ。