第2話 第一日目
小さな銀色の異星の宇宙船はライルを下ろすと静かに上昇して、夜の空に吸い込まれるように消えて行った。
「あの船は、どこへ行くのだね?」
ハンスは運転席に乗り込みながら、助手席に座ったライルに訊いた。白い色の柔らかな素材のつなぎの服を着ている。綿でも化繊でもなさそうだった。金属繊維か、それともとても細いガラス繊維だろうか。
ドイツ郊外の人里離れた森から自宅へと帰ろうとエンジンを始動させる。ライルは答えず、じっと車を凝視していた。相変わらず人形のような顔だが、気のせいか少し強張っているように思えた。その彼がようやっと口を開いた。
「揮発性燃料をガス化させて爆発させているんですか。ひどく危険なシステムです」
非難するような口調だった。
この辺りは道路が劣化しているので、車体が跳ねる。ライルはひどく緊張した様子で取っ手を掴んでいた。
「大丈夫だよ。爆発したりしないから。シートにゆっくり落ち着いてくれ。もう少しかかるからね」
少しライルの身体から硬さが取れたと思ったら、森のカーブした道から出し抜けに対向車が現れた。ひくっと身体を固くしたのが隣にいても解った。ライトが眩しかったと見えて、目を押さえている。
森を抜けて道路が良くなると揺れもだいぶ少なくなり、ライルもやっと身体から力を抜いたようだった。
「また、アステロイド帯の中に待機させます。この装置でいつでも呼び出せるのです」
唐突に先ほどの質問に答える。小さな装置を出して見せたので、ハンスが運転しながら視線を向けると彼はさっと前方を注視して再び身体を強張らせた。
ハンスは苦笑いする。家に帰ってから話を聞くことにしよう。早く帰り着こうとアクセルをふかす。深夜なのですれ違う車も少ない。速度をぐんぐんと上げて飛ばし始めた。
ライルはとうとう身体から無駄な力を抜くことができなかった。
山奥で宇宙船から出たライルを拾ったのが深夜だったので、ルクセンブルクのハンスの家に着いた時にはもう夜が明けかかっていた。その間ずっと緊張状態を続けていた同乗者はかなり疲労した様子だったので、用意しておいた二階の寝室に案内して休ませる。
一階のリビングに降りたハンスは、棚に置いている友の写真を見た。
「見たかい? レオン。君の子供だぞ。きれいな子だな」
サイドボードからグラスとウイスキーを出し、キッチンから運んだ氷を入れて、写真の友に掲げる。レオンハルト・フォンベルトは変わらぬ二十五歳のまま微笑んでいた。
***
「ハンス! 聞いてくれ!」
レオンが嬉しそうにドアを開けて入ってきた。ウイーン郊外の裏手にある古い家である。貧乏学生のハンスとレオンは、前の前の時代から壊されずに放置されている古い家を借りて住んでいた。設備は古いし、修理もあちこち必要だったが、アパートを借りて住むよりは安かったのだ。家は石を積んだ二階建てで十分な広さがあり、二人で家賃を折半すればかなり安く上がる。学問に熱意を持つ若い二人は、家賃より本や資料に金を使いたかったのだ。
夕食の準備にかかっていたハンスはびっくりして友を見た。栗色の髪、青い目の整った顔が喜びに輝いている。ふわりと優しく笑う、いつも物静かな男だったが。それが、喜びを堪えきれないように、フライ返しを持ったハンスに飛びついてきた。
レオンは細身で背が高く、抱き締められたハンスのグレーの頭は彼の胸の中に納まってしまう。顔を赤らめてレオンの抱擁から抜け出しながら、とび色の目を眇めた。
「いったい、どうしたんだ? 危ないじゃないか。調理中なんだぞ」
「ああ、ごめん。ごめん。あんまりうれしくて。第一次有人宇宙探査船の募集があっただろ? それに選ばれたんだよ!」
ハンスはびっくりした。そういえば、そんなことを言っていた気がする。どうせ、選ばれるはずがないと、無意識に思い込んでいたのだ
ハンスの中にあったのは、友の喜びに共感するより、彼が当分いなくなってしまうというショックだった。
***
はっとハンスは目覚めた。夢を見ていたのだと悟る。ずいぶん昔の夢だった。それなのに、あの時の胸を突き刺すような寂しさがまざまざと蘇る。
時計を見ると十二時になっていた。寝過ごしたかと心配する。寝たのが朝方だったので、まだ眠い。この年になると徹夜はきつい。急いで服を着替えると隣のライルの部屋に行った。
ライルの部屋は暗かった。まだ眠っているのかなとそっと覗くと、身じろぐ気配がしてライルがベッドから身体を起こす。ハンスはにっこりと笑って挨拶した。
「やあ、おはよう」
ライルは無言でハンスを見つめてくる。どうやら、朝の挨拶を知らないらしい。これは、一から手取り足取り教えてやる必要があるかもしれないと、彼は覚悟した。
「おはよう、と言うのは朝の挨拶だ。朝、初めて会ったら、まず、そう言って挨拶を交わすのだよ」
こくんと頷いたライルが口を開いた。
「やあ、おはよう」
これは前途多難だぞと、ハンスは密かに思った。
気を取り直したハンスはカーテンを開け、昼の光を部屋に入れる。ルクセンブルクも、住宅街からやや外れたこの辺りは緑が多い。五月の良い季節だった。
「君を、ライルって呼んでいいかな? 私はハンスでいいよ」
ライルのほうに振り返って訊く。
「はい。わかりました」
パジャマを着たままなので、用意しておいたその年頃のライルが着そうな服を渡す。と言っても、紺色のTシャツとカーキ色のチノパンだったが。
「これに着替えるといい」
ライルはすぐにパジャマを脱いだ。ハンスが目を見張る。下着もなく、平気で素っ裸の身体を陽光にさらした。そのまま、まず、チノパンではなくTシャツを手に取って身に着ける。裏返しだった。いろいろと教えることが多そうだと、ハンスは改めて覚悟した。
***
もう昼も過ぎていたが、ハンスは、トーストとミルク、目玉焼きにハムと野菜を添えて、食後のコーヒーも淹れて朝食を用意した。
洗面所で歯ブラシと格闘していたライルがやっと出て来た。寝癖で栗色の髪が変な形にぴんぴんと突っ立っている。ぼさぼさなまま好き勝手に背中まで伸びた長い髪を見て、散髪もしなければならないなと、心のスケジュールに付け加える。
その前にブラシの使い方も教えねばなるまい。いったい、これまでどんな風に過ごしてきたのだろう。あまりにもの非常識な日常感覚の欠如に、首をひねった。変わり者を自他ともに認めるハンスでさえも、5年間もの間たった一人で宇宙を彷徨っていたとは、さすがに思いもつかなかった。
席に着いたライルは、自分の前に用意された食事をじっと見ていた。いっかな手を出そうとしないので、
「朝食だ。食べなさい」
と、勧める。ライルがミルクを指さして訊いてきた。
「これは、動物の分泌物ですか? それとも、植物の乳質液でしょうか?」
そうか、彼にはきっと全てが初めてのものなのだなと、ハンスにも合点がいった。
「それはミルクだ。牛という大型の動物の乳だ。殺菌処理してあるから、飲んでも大丈夫だよ」
「乳ですか。哺乳動物なのですね。これを奪うことによって、本来与えられるべき幼体は栄養が不足しないのでしょうか?」
「乳を搾乳するために特化した動物のものだから、心配はいらないよ」
答えながら、この子は優しい気性なのかもしれないと思う。
「これは何でしょう? 卵のように見えます」
彼が次に指したのは、目玉焼きだった。
「それは、ニワトリという鳥の卵を調理したものだよ。おいしいから、食べてごらん」
すると驚いたことにライルは突然立ち上がって、さらに無表情のまま数歩テーブルから離れた。
「卵なのですか? 卵を食べるのですか?」
それから、聞きたくないという素振りでハムを指さした。その手がかすかに震えている。ロボットのように無表情な目に微かな動揺が浮かんでいる気がした。
「では、その平らな円形のものは、まさか、まさかとは思うのですが……」
「ハムじゃよ。豚という家畜の肉を……、どうしたんじゃね?」
ハンスはびっくりした。みなまで聞かずに、ライルが突然二階へと駆けあがって行ってしまったのだ。
二階へ行こうかどうしようか迷っているうちに、ライルが降りて来た。
「私の認識不足でした。当然予想してしかるべきでした。この歯と爪が付加された時点で、当然理解されるべきことでした。あなた方はガルドの方々と同じように、肉食もされるのですね。中座してしまって失礼いたしました」
朝の挨拶は知らなかったのに、食事の中座は失礼なことだと知っている矛盾にハンスは首を傾げる。
「私は、野菜とミルクとその表面を加熱処理している植物の種子から作られた四角形のものを食べます」
「これはパンというんじゃよ。小麦で作るものだ」
こうして最初の一日が始まった。