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The Rose of May

作者: かずさ

 さほど広くはない庭の片隅に、肩に白い鳩を乗せたまましゃがみ込んだ。そっと指を伸ばして、こぼれ落ちそうなほど大きく開いた一つに触れる。

 上等の絹のような艶のある、まるで光を集めたように真っ白な花びら。それに満足して、覚えず微笑んだ。


 柔らかな風が、むせかえるような薔薇の香りを運ぶ。

 薔薇は、5月のものが一番良い。花は大きくて綺麗で、それから、香りも甘くて優しいから。


 しばらく薔薇の花を見つめていたが、やがて決心したように立ち上がった。やはりこのまま庭の片隅で咲き続けるよりはと、そう思って。


摘み取ってしまうのを惜しみながら、小さいけれど、一番綺麗な花に手を添え、棘に気を付けながら鋏を茎に当てた。ぱちん、と小気味よい音を一つ立てると、切り離された花が呆気なく手の中に落ちる。

 知らず知らず、そろりと息を吐き出した。


「お願いね?」

 棘が取り払われた花一輪をしっかりと受け止め、白い鳩は力強く羽ばたく。どこまでも澄んだ青い空は、そこだけぽっかりと白かった。

 見えなくなるまで見送ると、もう一度しゃがみ込み、花弁にそっと触れた。


 毎年のように、白い薔薇を一輪、彼に贈る。

 不思議に、いつもこの薔薇は彼の誕生日が訪れる頃に開く。それはやはり、この子たちがここに居るのは彼のお陰だからなのだろうか。



「じゃあ、何か花を育ててみる?」


 まだ小さかった頃、困ったように笑いながらそんな事を言ったのは彼だった。

 外へ出ることが許されなかったあの時、優しく別れを告げる幼馴染みを引き留めるのに、いつも必死だった。

 市場へ行くたびに何か珍しいものを買ってきてくれる父や、店番の合間に遊んでくれる姉に不満があったわけではないけれど。

 置いて行かれることが、ひどく寂しかった。戻ってくると知っていても、怖かった。彼らが変わってしまうんじゃないだろうかと。


「……花を?」

 また帰ってしまうのだ、と思っていた。

 困らせるのを承知で言った言葉だったのに、彼が返したのは別れの言葉じゃなかった。


「うん。僕も出来る限りは一緒に居たいけど、難しいこともあるから。だから、何か、夢中になってできることがあったら良いと思うんだ」

 僕がそうだったみたいに。

 最後に小さく呟かれた言葉を聞くと、幼馴染みが自分からずっと遠いところにいってしまったみたいで、悲しくなった。


「私に出来るかな……?」

 少しだけ不安になって、聞いてみる。

「きっと、大丈夫」

 そう言うと、優しく頭を撫でてくれた。

 それが嬉しくて、少しだけぎこちなかったと思うけれど、やっと笑えた。


 次の休みの日。私は父に連れられて、市場へと足を踏み入れた。

 私にとって、初めて目の当たりにする外の世界。

 飛び交う客引きの声。見たこともない果物や、綺麗な細工の髪飾り。

 気を抜けば何かに見とれて立ち止まってしまいそうな私の手をひきながら、父は言った。

「何の花が良い?」

 私は困ったように首を傾げた。何の花かまでは考えていなかったのだ。

 父はそれを見て、仕方がないとでもいうように笑うと、空いている方の大きな手で頭を撫でてくれた。


 一番にぎやかな通りから、だんだんと人気のまばらなところへ。父は迷いなくどこかを指して歩いていく。私はついていくだけで精一杯だった。


 やがて少し無骨な印象の小さな店に辿り着いた。

どうやら父の行きつけのところらしく、店主は父の姿を認めると、すぐにこちらへやってきた。

 私はなんとなく、父から少し離れて、店を見渡した。

 簡単なテントの下に花の苗やら種やらが無造作に積まれていて、父が店主と何か話している間、じっと見ていたけれど、どれが何の花なのかは、全くわからなかった。


 やがて話がついたのか、店主がしゃがみ込んで私と目を合わせてくれた。やさしい目をしていた。

「いらっしゃい。どれか気になる種でもあるかい?」

 一瞬戸惑って、後ろを振り返る。父は、ただ笑っていただけだった。


 しばらく迷った後に、おそるおそる一つの種を指さした。

「この種は、ペニチュア。色は咲いてのお楽しみ」

 店主は、知っているかな、と僅かに首を傾げて言った。

 私は頷いた。以前、鮮やかな紫色のものを、店で見たことがあった。


「さすが、よく、知っているね。……他には何かあるかな?」

 私は嬉しくなって、次々に色々な種について尋ねた。

 ひとつひとつ、店主は丁寧に答えてくれた。


 やがて、大方の種類を尋ねたところで。

「決めたか?」

 降ってきた、聞き慣れた声。

 声の主と、手の中の種とに視線を行き来させて、それからゆっくりと首を振った。

 色々説明してくれた店主には、少し申し訳なかったのだけれど、どれも違うような気がした。


 思い切って、店主に訊ねた。

「あの、白い花ってないでしょうか?」

 鮮やかな色の花も嫌いではないけれど、やはり一番好きな色を探してしまう。


 微かに店主が笑ったような気がした。

「あまり沢山は取り扱ってないし、少し値も張るけどね。おいで」


 言われるままについていった先にあったものは、綺麗な緑の苗木。

「薔薇、か」

 父が、それを見てうっすらと目を細めた。

「これが、薔薇になるの?」

 私は驚いた。薔薇もまた、店で沢山見たことがあった。でもこんなに細い苗から、あの大きな花が咲くなんて。

 それは、まだ蕾もついていなくて、本当に小さくて。でも、凛と真っ直ぐに立っていた。


「そうだ。……でも、お前にはまだ早い。育てるのは難しいんだ」

 父の言葉を聞いていたのかいないのか。きっと、聞こえたけれど心には落ちてこなかったのだと思う。私は何も答えず、ただ食い入るようにそれを見つめていた。

 きっと、父は、諦めたように微苦笑を浮かべて、私を見ていた。たとえ育てるのが難しいと聞いたとしても、私がこれ以外を選ぶ気はないのだと、わかってしまったのだろう。



 「家」という狭い世界に守られていることさえ知らないまま、ただ外の世界に憧れていた。

 そのときは、この苗がどこまでも広い世界へ誘ってくれる気がしていた。その思いこみがどれだけ残酷だったのかを、私はまだ知らなかった。


「……今も、あまり変わっていないのかな」

 なんとなく手持ちぶさたに空を見上げた。

 誰に向けて放った言葉なのかは、よくわからないまま。


 結局、この苗の世話をしたのは自分一人の力じゃなかった。

 ずっと隠されていた。自分一人でそれをやってのけていたように思っていた。

 事実を知ったときは、少しだけ悲しくて、そして悔しかった。初めて花が咲いたときの嬉しさを、とても良く思い出せたから、尚更に。


 見えないところで、傷つかないようにと、ずっと守られていた。

 守られていることに気付かないまま、そこではないどこかへいくことを望んでいた。


 今は、わかる。そして受け入れられる。

 私は確かに愛されていた。不安になることは、なにもなかった。ひとりじゃなかった。


 だけど、時々思う。

 「変わらない」ように守られて、冬を知らなかったら花は咲かない。

 いくら、その愛情を感じても、花が応えられないのだとすれば、それはどれだけ寂しいんだろう?


 私は応えることができているのだろうか。

 一瞬、家族の顔と一緒に浮かんだのは、他でもない彼の顔で。

 ああ、だから私はいつも彼にこの薔薇を贈るんだろうな、と思った。



 白い薔薇が彼に届ける言葉。

 尊敬の気持ちは、幼い頃から常に。

 純粋と、そして素朴。

 いつでもそうだった貴方に、相応しい言葉。


 それから最後の言葉。

 傍らにいることを願う、私の心。


 "私は貴方に相応しい"


 私が何も知らなかったように、貴方は知らない。私の願いを。

 知ってしまったら、もう今のままではいられない。


 この先、明かすことはないだろう、私の心。

 だから、この日だけは、この花に託そう。



 ――寂しげな彼女の表情を、真っ白な薔薇たちだけが見ていた。


(初出 2007.05.05)

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