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クリスタル

作者: 冴草

沼の観察は僕の毎晩の務めだ。

「沼」という一語からは、どことなく陰鬱で、荒れ果てていて、独特の煩雑さと臭気に満ちた水溜まりが想起される

だろう。そうだ。僕の見ているこの沼もまた、昼間はそうした汚い水盆のひとつとしか思えない。昼間は、だ。僕がうっとりと眺めるのはあくまで夜、この沼が正体を顕す時間だけ。「正体」。そう言った。

自宅の裏、道路を挟んだ向こう側は鬱蒼と茂った林だ。十数ヘクタールに渡って広がっている。自然を切り拓いて、苗木の代わりに人工建造物を植えるのが美徳とされる現代社会において、なぜこの邪魔っけな木々は失われぬままなのか。簡単だ。伐採を是としない持ち主がいるから。

二十年ほど前、ここはとある企業の私有林だった。いつか自社のビルディングをここに建てるつもりだったらしいが、その前に会社は倒産、売り払ったはいいものの管理会社の手元で宙ぶらりんになった林を引き取ったのが、現在の土地の権利者である某大手グループだ。今や日本でその名を聞いたことのないものはいないだろうという大企業は、荒れ放題だった林とその周辺の土地を丸ごと買い取り、郊外型のショッピングモールを作った。

その時、なんらかの理由で持て余されたまま、この自然林は今日まで存続している、というわけだ。「なんらかの理由」は、僕は知らない。近所の人たちもみんな知らないし、ショッピングモールのスタッフも多分知らないだろうとは思っている。

というわけで、僕がこうしてあの魔術的なうつくしさに心を浸すことができるのは、いかなる自社ビルもシネコンも建てられなかったおかげなのだった。

先人たちの努力が無駄になった過去に感謝しつつ、ぼんやりと呼吸し続けている。ちらと目をやった腕時計の針が二時半を指した頃、突如沼は光を放ち始める。鏡面に日光が当たった時のそれとは明らかに違う、もっとこう、息を止めて潜った水中から、真夏の陽光を視界いっぱいに受け止めるような輝きだ。見慣れた光景だ。しかし今宵も僕は感動して息を呑む。もう何ヶ月息を呑み続けてきたろう。

喩えるなら覗きに近いかもしれない。この感覚がだ。見目麗しい純なる乙女が肌着を脱ぎ、その艶やかな肢体を晒す様子を、藪の陰から窺う。随分大袈裟に聞こえるだろう。わからなくてもいい、だがしかし確かに、僕は身を隠しつつ美を犯す背徳に興奮している。ひどく。心臓が耳元で鳴っているような錯覚を覚える程度には興奮する。

沼が一際強く光った。朝日を受けた水晶のようだ。風のない夜更け、水面は波一つ立てず凝固したようでもある。いよいよもって幻想は美の極へと達し、歓喜が身体を否応無しに震わせる。恍惚と陶酔と悦楽とでもはや区別のつかないほどの快の混沌が精神をがぶりと呑みこみ急激に熱の回った脳が痒い。毎夜のことだ。毎夜のことだ、窓枠を掴む猛禽じみた手の指が疼くのもこの瞬間はただ与えられた現実感でしかない。

ふと、水晶の奥底の見通せないずっと内側に蠢く影が見えた。たくさんいる。何十何百と数えきれず優雅に硬質な透明を泳ぎ誘う。それらはしかし乙女の素肌の上で前足を擦り合わせる蠅と同じ邪魔者でしかなく全く嘆かわしい。いくら僕を呼んだところで無駄だ、僕は奴らのように中から外を見たいわけではないのだ。自らこのかけがえなく比類のない夜半の水晶に混じった不純物になるなどごめんである。そのとき草むらから黒い塊が這い出て水音が聞こえ輝く平面に波紋ができた。まるで蛾だ、また寄せられ呑みこまれて帰ってこられなくなった。そうして不純物になる。

息を吐いた。いつの間にか呼吸が止まっていたようだ。腕時計を見る。あと数分もすれば、やがて宝石はただの汚い水溜まりに戻る。その瞬間は見たくなかった。魔法が解けて老いる乙女の醜さをわざわざ改めるのは趣味ではない。僕は窓を閉め、カーテンを閉め、布団を整えて、寝た。


明くる朝、居間では母が「またひとり、夜中に出てったきり行方不明ですって」と不安げな声を出していた。父はううむと唸った。僕はトースターがパンをみるみる焦がしてゆくのを眺めながら、怖いねと言った。

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― 新着の感想 ―
[一言] うん、こんな場所にショッピングモールは立てられないですね(笑) いったいなにが起きているのかすべてを語らないのが短編の面白みだと思っているので、こういう作品は好みです。
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