第一話
「へっへへ毎度ありぃ。ひぃふぅみぃ……っと、よしよし、話の分かるあんたで良かったぼらっばぁっ……!」
薄汚い布切れを纏った小柄な男は勢いよく吹っ飛ばされ、路地裏に詰まれた木箱の山へ突っ込んでいった。思いのほか派手な音を立てたが、表通りの喧騒と比べれば大したことは無い。そもそも路地裏の暗がりに人の気配はなく、例え誰かが居たとしてもあからさまに物騒な雰囲気を察して見て見ぬふりをするだろう。つまりこの場に、品の良い黒のジャケットを着込んだ獣を見咎める者などいなかった。
人を殴ったのは久しぶりだ。
殴った瞬間はまず、脳ミソの中で天使がラッパを吹き始める。それから顔がかーっと熱くなって、突き出した拳からは電流が迸り全身を感電させる。聴覚は支配され、視界の端では火花が散る。色鮮やかな多幸感。思考が白に染まる。息を荒げ、夢中になる。ぞくぞくした衝動が身体の枠を押し破ろうとする。天使がささやく。続けろ。やれ。もっとだ。殴れ。殴れ。殴れ。暴力を解き放て。
それらは全て生存本能の見せる錯覚に過ぎないと黒蛇は知っていた。
感情をコントロール出来なければ遅かれ早かれ命を落とす事になる。それを理解することはこの社会で生きるための前提であり、一種の礼儀作法と言ってもいい。ゆえに無作法者が生き永らえることは難しく、よほどの何かを持っていなければいずれ環境に従属することになる。ただの獣か、利口に尻尾をふる獣か、ここの人間は一分一秒刻みで振るいにかけられている。
(――私の事はそう伝わっているのか)
黒蛇は男をぶん殴ってからも眉ひとつ動かすことはなかった。少し乱れたジャケットを正したあと倒れた男のもとへ近づき、その襟首を掴んで無理矢理起き上がらせる。この情報屋もまさか接触してきた相手が、黒蛇本人であるとは思わなかったはずだ。男はひどく怯えた表情を浮かべている。ろくに抵抗を試みないあたり、まだ混乱しているのかもしれない。
「他に情報を流した人間はいるか。答えなければ殴る」
低く消え入りそうな、それでいて威圧感のある声でささやく。相変わらず面倒な手順だと黒蛇は思った。ただ人をバラすだけなら大した手間もかからない。強者の中にはその力を誇示することに魅入られ、執拗に弱者をいたぶる者もいる。しかし黒蛇は加虐趣味を持ち合わせておらず、死なない程度に焦らすという行為に魅力を感じなかった。行動はスマートに、痕跡を残さず最小限に。黒蛇の行動原理には、その命脈の法「隠匿」の本質が強く表れている。
目の前の男はしかし、ここまでして未だに状況を理解できていないのか、にやりと口元で笑った。直後、黒蛇の拳が飛ぶ。たまらず男が何かを喋ろうとしたところで、さらに五回ほど殴りつける。男の口や鼻からはだらだらと血が流れ始め、暴力をふるうたびに黒蛇の手袋を染めていった。黒蛇は少しだけ顔をゆがませる。手袋は金属プレートで補強されており、その溝に入った血液汚れを落とすのが面倒だという理由だけで黒蛇は表情を曇らせていた。黒蛇が特別、痛みや感情に不感症なわけではない。ただ、この街で生きていくということが人をそう変えてしまうに過ぎない。
「……た、頼む、やめ、てくれ。言ってない。本当だ、まだ誰にも言っていない……」
血濡れの腕を振り上げたところで、予期せぬ声に動きを止めた。
「たぁのしそーっすねぇ、あたしも混ぜてくださいよ」
罠か。直感的に後ろずさると、鼻先を何かが一閃する。そのまま突き当たりの壁にぶつかったそれは弾けるような音と共にどす黒い色の模様を描いた。粘性のある、なんらかの液体のようだ。しかし相当な圧がかかっていたのか壁の一部が捲れあがっている。
声のした方を振り返ると、フードを目深に被った何者かが目の前まで迫っていた。そのシルエットは周りの空間をわずかに歪ませ、鈍く淡い光を放っている。命脈の法が発動している。この国に伝わる特異な力。その本質を極めることで、何者をも寄せ付けない圧倒的な価値を持つという。フードの何者かが手のひらを突き出す。その瞬間発光が強くなった。二撃目だ。黒蛇は上半身を軽くひねって液体の弾丸をかわし、すれ違いざまに拳で一撃を入れる。相手もそれを読んでいたのか黒蛇の拳を器用にも蹴りつけ、その反動で宙を舞いながら距離をとった。跳んだ際の風圧でフードが捲れ、月の光に照らされた顔があらわになる。刺客の正体は女だ。煌めくブロンドの髪が目を惹く。異国の出身なのだろう。女の刺客自体はこの界隈では珍しいものでもない。近頃は子供のヒットマンを雇っているところもあると聞いた。命脈の法次第で、身体能力的なハンデはいくらでも補えるということだ。
情報屋と刺客の女が目で合図を交わし、情報屋は大通りの方へと一目散に駆けて行く。それから刺客は黒蛇の前に立ちはだかった。
「さっすが"黒の獣"、まさか生で"伝説"を拝める日が来るとは思いませんでしたよ。目があっただけで心停止だとか、ガッツポーズしただけで組織が滅んだとか、噂はかねがね聞いてるっす。太陽が黒蛇を恐れるあまり、黒蛇の周りにはいつでも影が取り巻いているってのは何度聞いても痺れますねぇ! いえね、あたし、あなたに惚れてこの世界に入ったクチなんすよ」
「それは惚れる相手を間違えたな」
黒蛇の声を聞いて、刺客の動きが一瞬固まる。返事があるとは思っていなかったのだろうか。
「え? おお? へええーーっ! あ、いやいや失礼、聞いていた印象とは違ったので少し驚いただけっす。そうですかそうですか。あなたに関しては情報が錯綜しまくってますからね。路上で猫とコロッケを取りあっていたとか、ひとけの無い公園の女子トイレに入って行っただとか。これでもあなたに会うためだけに金、コネ、能力、あらゆる手を使ってきたんすけどねぇ。あたしのような一介の小市民があなたを深く知るためには、本気であなたを狙っている巨大権力に潜り込むしか方法が無かったんすよ」
女の腕にはいくつかの三角形を組み合わせた紋様が刻まれていた。それは将国三結社の象徴。その紋を身体に刻めるのは三結社から実力を認められた一握りの者のみ。三結社自体は将国と敵対する反政府組織であるが、裏社会を温床に国も手に負えないほどの成長を見せ、最終的には金と地位を与え飼い慣らすしかなかったという。
「しかしそれは同時に、出会った時には惚れた相手をヤらなければならない悲しい定めを背負うということになるっす……。会いたい、でも会いたくない。揺れる心のアンビバレンス。ああ! 人の愛とは、なんと儚いものなのでしょう! いえ、ですがこれはきっと試練に違いありません。乗り越えてこそ、あなたへの愛がホンモノに昇華されるというものっす。運命に翻弄されたあたしの愛を、厚かましくも献身的なあたしの気持ちを、どうか受け取ってはもらえないっすか、ね!」
刺客が言い終わるや否や、黒蛇は腰から下げた両刃の短剣を引き抜いて刺客へと突っ込む。
「悪いが、そういう趣味は無い」
正面からの一撃が刺客の抜刀した短刀と勢いよくぶつかり、激しい金属音を撒き散らした。黒蛇は攻め手を緩めない。力に任せて右から左から斬撃を繰り出す。刺客はそれを身体さばきと短刀でひたすら受け流す。追い詰められそうになると手のひらから液体弾丸を飛ばし牽制、狭い路地の中で逃げ道を確保する。接近戦での技術は一流。自身の命脈の法を理解し、それと組み合わせる戦闘の完成度も高い。息の合った斬りあいが続く。刺客の動きはさながら興行師のようだ。
「いいっすね、いいっすねぇー! ますます惚れちゃいますよぉ」
しかし速度では勝っていても攻め手に欠ける。傍から見れば刺客の防戦一方であっただろう。事実、余裕な口ぶりとは裏腹に動きが鈍り始めていた。そろそろ幕引きだと黒蛇は思った。ステップを踏み勢いをつけた剣戟を叩き込む。長身の体躯、リーチを生かした頭上からの攻撃。刺客が短刀を構え、ふたつの武器が火花を散らすと思われた瞬間、黒蛇はその姿をくらました。
「な……っ」
刺客が背後にいる黒蛇の気配を捕らえたとき、黒蛇の短剣は既にその首元へと迫っていた。命のやり取りの瞬間。しかし両刃のそれが刺客の命を切り刻むより寸刻早く、まさに脊髄反射の対応で、刺客は命脈の法を解き放つ。一瞬にして全身が淡い発光に包まれ、その表面全てから隙間なく全方位へ液体の弾丸が発射された。これが刺客の切り札か。接近を誘い、避けきれない瞬間をひたすらに待ったうえでの必中確殺の一撃。
そうなっていたはずだ。相手が黒蛇でなければ。
「なっ、ありゃ、何したんすか一体……っ」
まるで何かに包まれるかのように急激に命脈の発光が収まり、路地裏が夜の闇に溶けていく。命脈によって生み出された弾丸も塵となって宙に消えた。「ちっ……」黒蛇の不本意そうな舌打ちだけが響き、その場は何事も無かったかのように静まり返った。刺客は空気が緩むその隙を逃さなかった。首筋の短剣を素手で押さえ、そのまま回し蹴りで黒蛇を払う。勢いのままに跳躍し距離をとり、いつでも飛び出せるような低い体勢のまま黒蛇をにらみつけた。流石に予想外の出来事だったのか、刺客の顔には確かな動揺が浮かんでいた。どうして命脈の法が途中で消えてしまったのか。未知という恐怖が刺客の心臓をきつく握りしめる。
「ピンチっす! 見張りはいいから、こっち手伝ってください!!」
刺客は大通りに続く道に向かって声を上げた。
しかし、それに呼応して姿を現した人物を見て刺客の女は絶句した。
「もう誰も来ませんよ」
鈴の鳴るような透き通る声は、まるで親しい友人と挨拶でもするかのように告げる。
「他の皆さんには"自害することの悦び"を理解していただきましたので」
――それが大量虐殺の冥王、天紅姫の力だった。




