悪意の先
あまり救いのない話です。
あれは、魔性だ。
一目見て、分かった。
小倉栞は、魔性の女だってこと。
運命の赤い糸というのは、事実存在する。
結ばれる場所は足首だったり小指だったり、諸説あるようだが実際は、身体の真ん中、臍より少し上の辺りから出ていることが多い。
普通の人には赤い糸は見えない。ただし俺の家はそれが見える人間が生まれやすい血筋で、俺と父は見える体質だった。総じてうちの男たちは、見える傾向にあるようだ。
赤い糸が意味するのが、結ばれるべき男女を繋ぐものってのは概ね合っているけれど、正解には少し足りない。
確かに結ばれる男女を繋ぐものでもあるけれど、稀に同性同士を繋いでいることもあるし、途中で相手が変わることも少なくなかったりする。赤い糸で繋がっていなくても、付き合っているうちに互いの糸が絡む事だってままあることだ。
つまり多くの人間にとっては、赤い糸はそこまで絶対的なものではない。赤い糸が途中から枝分かれして、複数の人間に繋がってることも割とよく見る光景だ。
勿論、例外はある。
ごくごくたまにだが、赤い糸で絶対的に結ばれた二人というものも存在するのだ。
そういう相手を持った人間の赤い糸は、すごく分かりやすい。他のものに比べて、一回り以上太いのがそうだ。
そんな糸は、他のものと違ってけして切れることはない上に、どれだけ遠く離れていても徐々に引き合ってゆき、いずれ出会う事が定められている。そうして出会えば一瞬で互いが運命の相手である事を理解して、心を寄せ合い死ぬまで離れることはない。
赤い糸が見えなくてもそういう糸を持って生まれた人間は、基本的に運命の相手以外に心を寄せることはない。
糸の存在に気づいていなくても、生まれながらどこかで理解しているのだ。
自分にはたった一人の相手がいることを。いつかその人に会えることを。
分かっているから、別のものに目を眩まされたりはしない。
ただし、魔性が絡むと話がややこしくなる。
魔性は他の人間と違って、最初から糸を持って生まれないし、途中で糸が生えてくることもないから、決して誰とも繋がることはない。
代わりに魔性は、糸を絡めとる。ぐるぐると他人の糸を体に巻きつけて、誰かの運命に成り代わろうとする性質がある。糸を絡め取られた人は、否応なく魔性に心惹かれてゆく。それはただ一人の運命を持つはずの、太い糸を持つ人間も例外ではなく。
別に構わないのだ。誰を惑わそうと、けして結ばれぬ糸を何本身に纏おうと、それが細いものならば。
けれど太いものは駄目だ。魔性に引っかかってしまったそれは周囲を、おしなべて不幸にする。太い糸の持ち主が、周りに影響を持つものであればあるほど、不幸は拡大して連鎖して悲劇を招くことすらある。太い糸だけは、本来の相手と結ばれなければならない。
だから糸が見える目を持つ俺の家は代々、魔性を見つけたら監視する役目を負っている。そしてもしも太い糸が魔性にからめとられたら、すみやかに糸を解さなければならない。
とはいえ、本当に糸そのものをどうにかしてしまう訳ではない。糸は見えても、触る力は無い。
出来るのは、本来の相手と引き合わせること。そして魔性の気を逸らしている間に、本来の二人をくっつけてしまうこと。
これが簡単なようで案外難しい。
魔性が魔性と呼ばれるのは、その性質だけではなく、人の心を魅了して惹きつける技を無意識に身に着けているからだ。何本もの糸を絡めとりその身に纏っているのに、それだけでは満足せずもっともっとと欲張って、離れてゆくものがあれば目ざとく気づき己の周りに留めておこうとするからだ。仮に心が離れようとも、使えるものは何でも利用して、縛りつけようとするからだ。
ただ引き離すだけでは終わらないことが多いが故に、魔性は面倒で厄介なのだ。
小倉栞が魔性であることには、すぐに気がついた。
同じ中学、同じ学年、しかもよりによって同じクラス。
入学式の時に気がついて、別の学校にすればよかったと後悔した。
それまでは別の人間が監視していたようだったけれど、当然のように俺に引き継がれた。
運が良ければ見える目を持っていても魔性に一生会わないやつだっているらしいのに、本当についてないとうんざりしたのは覚えている。
糸が見える人間は大抵魔性の事が嫌いで、俺も例に漏れず魔性のことが大嫌いだった。
一つでは飽き足らず何本もの糸を抱え込み、もっともっとと欲しがる魔性はどうせ、自分のことしか考えては居ない。意図して引き起こしているのではないとしても、魔性を位置づけられたやつらは寄せられる好意に溺れて驕って手がつけられなくなってゆく。
そして何より、糸を体中に巻きつけたその姿は、ひどくおぞましくて吐き気がする。
だから小倉栞のことも、大嫌いだった。
どれだけ偽善者の皮を被っても、その中身はどうせ醜いのだと話もせずに決め付けた。
小倉栞には、最初からいくつもの太い糸が絡まっていて、俺の中学生活はそれをどうにか解くべく奔走することに費やされたといっても過言ではない。
幸いにしてやつは猫を被っていたから、手当たり次第に食い散らかすようなことはしなかったから、そこまで苦労はしなかった。本来の相手に引き合わせてやれば案外あっさりと、絡みついた糸は離れていく。
気づいているのかいないのか、やつがそれを止めたことも一度も無かった。
だから少し、油断していたのかもしれない。
絡み付く糸が最初の半分まで減った頃、そのうちのひとつの持ち主が、動き出してしまった。
慌てて本来の相手を探し出して引き合わせようとしたけれど、残念ながら近くにはいない。運悪く海外に留学している最中で、ただの中学生の俺にはどうすることも出来なくて、家に報告して本来の相手と接触させる機会を待った。
不思議と焦っているのは俺だけで、周りは大丈夫だなんて無責任なことしか言わない。
もしもその態度に疑問を持って、考えればもう少し早く理由は分かったかもしれない。
だけどその時の俺は、日に日に近づいてゆく小倉栞たちの距離にはらはら焦りを募らせるばかりで、ちっとも分かってなかった。
それ、が。
わざわざ小倉栞と、太い糸の持ち主が心を通わせるまで、かなりの期間があったのに。
本来の相手と引き合わせるのが、なかなかうまくいかなかったのは。
うまく調整できなかったからじゃなく、ただ、ただ。
悪意が幾重にも積み重なった、八つ当たりの所業だと気づいたのは。
高校のとき。二回目を経験してから、やっと、だった。
魔性を監視する役目を負っている分、俺たちの家系は魔性がが引き起こす不幸に巻き込まれやすい。より大きな悲劇を起こさないよう、必死に歯車を直そうと奔走する間に、大事なものを失ってしまった人間は何人もいる。どうにか防いだものの余波は出て、表向き勤める会社が無くなって路頭に迷ったなんてよくある話で、下手したら幾人か命を落とす事だって無くは無い。恋人や家族を、失った人もいるのだと、聞いた。
だから見える俺たちは魔性が大嫌いで、憎しみは受け継がれ固くこびりついていって。
そうして積もりに積もったそれの矛先が。
魔性なのに魔性らしからぬ小倉栞に、向けられたのだ。
小倉栞は、離れてゆく糸の持ち主を手繰り寄せて引き止めることはしない。
傷ついて隠れて涙を流しても、殊更相手を責めることもせず、柔らかな強がりで心を覆って去っていった彼らが周りから槍玉に挙げられることがないよう、心を配りすらする。俺が出てわざわざ引き離そうとしなくても、小倉栞が一人で全てをあるべき流れに戻してしまう。
周りは不幸にならない。連鎖して悲劇に繋がることもない。
不幸になるのは、小倉栞だけ。
だから見えるやつらは、小倉栞をはけ口にすることにした。
魔性が傷つき震える姿を見て、鬱憤を晴らして哂うことに、した。
小倉栞が、誰かを好きになるまでわざわざ待って、本来の相手が近づくのを阻害すらして。
いい気味だ、と哂ったのは、俺の叔父にあたる人。若い頃に、魔性のせいで妹を亡くしたらしい。
だから殊更、魔性を憎む気持ちは分かる。
それでも。
俯く少女の横顔を見て哂うその横顔は。
魔性以上に、おぞましいものに見えた。
それでも小倉栞は、魔性だ。
周りを不幸にはしなくても、影響は与えている。
たとえば彼女の親友の、篠山千代。
彼女はごくごく普通の細い糸の持ち主だけれど、その糸はぷつりと途切れてどこにも繋がる気配がない。
たまに小倉栞に絡みつきそうになるけれど、そのたびまるで何かに引きちぎられるように、ぶつりと短くなってしまう。
見えるやつらはそれを、小倉栞のせいだという。必ずではないけれど、可能ならばき離すようにと、俺に告げる。
確かに小倉栞のせいではあるのだろう。けれど俺は、彼女を小倉栞から引き離すつもりはなぜだか起きない。
ささくれた断面は何かによって引きちぎられたのではなく、篠山千代自身が望んでしたことのように見えたから。
小倉栞は、魔性以上におぞましいものに目をつけられている。
大義名分を盾にした悪意に、魔性という分類しか見えない憎悪に。
もしも他の魔性が不幸を広げれば、何の関係もない小倉栞は、魔性という共通点だけで八つ当たりの的にされるだろう。
仮に二度と誰も好きにならないと小倉栞が決意したって、悪意は小倉栞に誰かを近づけるだろう。
一層彼女を深く傷つけるために。魔性が嘆く姿を見る、ただそれだけのために。
俺一人でそれを防ぐのは、おそらく、難しい。憎悪は俺が思っている以上に大きくて、下手に動けば監視を外される。魔性に魅入られたと判断されて、隔離される事もあり得る。
ならば、せめて。
篠山千代だけは、彼女の傍にずっと居られるように。
赤い糸は繋がっていないけれど、俺たちに見えないもので繋がっている二人は、悪意から見逃されるように。
そのためならきっと、俺は彼らの思惑に乗って、誰かを近づけることだってしてしまうかもしれない。
俺自身が、おぞましいものに成り果ててしまうかもしれない。
それでも、きっと。
篠山千代が隣に居る限り、小倉栞は笑うことが出来るだろうから。
せめてそうであって、ほしいと思いたいから。
自分勝手な決意と罪悪感の狭間、俺は、楽しげに笑う少女たち二人から、そっと視線を外して目を伏せた。
元々考えてた設定なものの、思った以上に胸糞が悪い話になってしまったような気がしないでもない。