二、ツタと甘味屋。
件の【甘味屋】とやらには思いのほかあっさりと到着した。
道すがらその辺の人に紙を見せつつ尋ねてみたら、てっぺんからつま先まで訝しむように見つめられたあと、ああ、とどこか納得したように頷いて親切に場所を教えてくれた。
あの女の子の言ったとおりだった。なんかちょっとこなれている。
目的地は大通りから一本道をずれた先にあった。
煉瓦造りの建造物が軒を連ねた一角。そこに、ひときわ不気味な雰囲気を醸し出している建物が存在していた。
念のため言っておくが、建物自体は普通なのだ。周囲と同じ煉瓦造りで、全体的に一昔前のモダン建築というか小洒落た外観をしている。二階建て一軒家くらいの大きさで、黒い三角屋根が可愛らしい。
ただ、そんな小洒落た外観をものの見事に台無しにするものがあった。
無造作にのびたツタである。ツタは外壁を這って大繁殖し、緑化計画に貢献していた。先にいった小洒落た外観というのは、ツタの存在を無視したうえでの感想である。
ツタの繁殖した壁に、隠れるように貼り付けられた小さな表札には【甘味屋】という楷書体で書かれた文字が記されている。甘味屋というからには、てっきり甘味を提供する店なのかと思っていたのだが――表札から推測するに苗字か屋号なのかもしれない。
この小さな表札よりも、壁を這うツタの方が自己主張が激しいのは如何なものなんだろう。そう言いたくなるくらいツタが邪魔だった。イメージとしては洋風なお化け屋敷を思い描いていただければ想像に容易いのではないかと思われる。
玄関口と思われる木製の扉の前には、四角く切り出された石造りの足場が置かれていて、しかもその両脇には人間サイズのハニワ――見た目はエジプトの壁画だったかに描かれた、歩ける寝袋みたいな生き物が近い――が得体の知れないオーラを放って鎮座していた。実際、後光がさすようにハニワの背後から光が漏れている。なぜいちいち光るのか。
扉には硝子がはめ込まれていたけれど、磨り硝子になっているので建物の中を窺うことはできない。つまり、中を見るには扉を開けるしかない。
いや、この状況から脱出したいのなら、この扉を開けるしかないのだ。
私は意を決してドアノブに手をかける。
すごく緊張していたけれど、一体何に緊張しているのか自分でもよくわからなかった。
「えーと、お邪魔します」
控え目な声音で前置きしてから、私は内開きの扉を押し開けた。次の瞬間、お世辞にも歓迎しているとは思えない、冷ややかな音が私の耳に到達する。
「なんだ君は」
――なんだ君はってか。
ちなみに私の祖父は懐かしのバラエティも大好きなので、その影響を受けた私もやや語彙が古めかしい。
まあそれは置いといて。私は木製の扉を開けて身を乗り出した不自然な恰好のまま、石像のごとく固まってしまった。
建物の中は薄暗い。奥まで見通せない闇の中に、はっきりと人の気配があった。声音からして男性だろう。おそらく若い男の人。
確実に歓迎されてないよねこれ。冷や汗が背中を伝う気配がする。
そりゃそうだ。いきなりこんなわけのわからない人間がひょっこり顔を出したら、条件反射で「なんだ君は」と言うに決まっている。
居心地の悪い空気に気圧されそうになりながらも、私はここに訪れた理由を口にした。
「ええと、ここに来れば私を助けてくれると聞いたので訪ねてみたのですが……」
消え入りそうな私の声に続けるように、大仰に溜め息を吐く音が聞こえてくる。
確実に迷惑そうだ。私を助けてくれるって偽情報じゃないのか。もしかして訪ねるところを間違えたかな。
俄然不安になった私は、扉を開け放ったまま上半身を引っ込め、壁に貼り付けられている表札と思しき板に視線を向ける。
そこにはやはり【甘味屋】という文字がしたためられている。もしかして同じ名前の別宅と間違えたのだろうか。不安な気持ちしかわいてこない。
「えーと、さっき甘味屋さんを訪ねれば私を助けてくれると教えてもらいまして……。えっと、ここ、甘味屋さんで間違いない……です?」
私の疑問に対する返答はなかった。
かわりに聞こえてくる足音に驚いて、私は建物の中に視線を戻す。すると、私のすぐ近くに誰かの身体があった。
驚きながら顔を上げた次の瞬間、別の理由でさらに驚く。
そこには百年の眠りも醒めるような美男子がいた。
「……君は文字も読めないのか?」
美男子は辛辣な言葉を吐き出した。
私が表札を再確認しているのに気付いたからこその発言だろう。なんだこの遠慮のない美形は。初っぱなから敵意むき出しなうえ、不機嫌さを隠そうともしないではないか。
切り揃えられた艶やかな黒髪の下にあるのは、彫刻品のように整った相貌だ。例によって例の如く、時代を間違えたような古めかしい格好をしている。書生のような格好と言えばイメージが伝わるだろうか。立て襟のシャツに袴を合わせるというハイカラ的服装だ。
彼は私に向かって無遠慮な視線を投げつけたあと、ある一点で視線を止める。
例の地図を握る私の右手。彼は流れるような動作で私からそれを奪い取ると、紙に視線をおとしながら苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。
「……あいつか」
ぽつりと放たれた言葉には、明らかな苛立ちが滲んでいる。
歪めた表情も芸術品のように美しかったが、なんだかやけに冷たい気がして私は苦手に感じた。
「あの、それで、こちらが甘味屋さんで間違いないでしょうか?」
聞きたいことは色々あったが、ここは下手に出てみることにする。もしここが甘味屋で間違いないのであれば、私を救ってくれるのはこのお宅――つまりこの男かもしれないのだ。粗雑な対応に憤慨したくなるが、そのせいで自分の首を絞める結果になったら困るのは私だ。
彼はちらりと私を一瞥してから、溜め息とともに口を開く。
「そう言っているだろう。君は察しが悪いだけでなく頭も悪いのか」
「……」
……いや言ってませんけどね!
と言い返したくなる気持ちを押さえつけながら、私は曖昧に笑って見せた。
百歩譲って「文字も読めないのか」発言が甘味屋であることを肯定していたのだとしても、はっきりとイエスをもらえなきゃ判断できるわけがない。
私の直感が告げてくる。この男、天敵だと。
まあいい。ここは譲ろう。この美形様に頼らないと元の世界に戻れないかもしれない。とりあえず冷静になろう。
逆を言えば「帰れる」なんて誰も一言も言っていないのだけど、それを考えると精神衛生上宜しくないので無視を決め込んだ。
冷静さを手放したら敗北である。敵前逃亡はしたくない。そうだ、笑顔を忘れるな。
不自然な笑顔を浮かべているであろう私を、彼は不気味なものでも見るような目つきで見下ろしてくる。そうだ、いっそ怯えるがいい。
「……まあいい。話くらいは聞いてやる。土埃が入るから中に入れ」
どことなく引っかかる言い方をしながら、彼は私を建物の中に招き入れてくれた。
私がここを訪れた時点で、彼は私の状況をある程度察していたようだった。
「一応名乗っておこう。僕の名前は草間灯千。ここの主をしている」
「えっ、名前、甘味屋さんじゃないんですか?」
「それは店名だ」
店の中に招き入れられた私は、部屋の中に置かれた布張りのソファに腰をおろしていた。
ご紹介にあずかった灯千さんは、三メートルくらい離れたレジカウンター横の椅子に腰掛けている。テーブルを挟んで向かい合わせたソファに座らないあたり、なんかこう、微妙に距離をとられている気がしないでもない。
目の前のローテーブルにはアンティークっぽいランプが置かれていて、本来光源があるべきところには一匹の金魚が泳いでいた。間接照明程度の明かりを放っている。
気にしようと思えばいくらでも気にすることが出来る環境だったが、私はそれらをあえて無視して口を開いた。
「私の名前は山本夢二です。このたびは急におしかけるかたちになってしまい、本当に申し訳ありません」
そこで頭を下げた私に、灯千さんは「まったくだな」と当然のように毒を吐いた。
それは確かにその通りなので、反論できるはずもない。ここも黙って受け流す。
「……それでなんですが、ここって一体どこなんですか?」
妥当な質問のつもりだったのだが、今の発言を耳にした灯千さんは不可解なものを見るような、いっそ馬鹿にするような、気の抜けた視線を向けてきた。
「君は大物なのか愚か者なのか」
なかなかに失礼な物言いである。
さすがに憤慨して睨め付けると、彼は艶のある黒髪を押さえつけるようにして肩を竦めた。
なんだろう、この物覚えの悪い生徒を目の前にしたような対応は。
「その二択だったら後者かもしれませんけど。でも実際に困っているので教えていただきたいです」
真面目に言ったつもりだったが、彼は私に放り投げるような一瞥をくれたあと、溜息混じりに口を開いた。
「ここは君の立場になって表現すれば“自分の世界とは異なる世界”というやつになるのだろうな」
「つまり異世界ってことですか」
「まあ、有り体な言い方をすれば、そうなる」
彼はあっさりと頷いて肯定した。
まさかとは思っていたけれど、こうも簡単に異世界であることを肯定されてしまうと驚きすら吹っ飛んでしまう。
そうか、ここは異世界か。
しかし灯千さんの発言に違和感をおぼえた私は、さらに質問を投げ掛ける。
「あれ、でも。異世界なのはなんとなく理解したんですけど、どうして灯千さんはここが“私から見て”異世界である、と認識しているんですか?」
ここが私の暮らす世界とは異なる世界だと言い切れるということは、こちら側の住人は【異世界】の存在を認識し、元いた世界を知っているということになる。
はて、と頭を捻る私に向かって、灯千さんはこともなげに告げる。
「君のような人間が迷い込むのは珍しいことではないからな」
「まじでか」
思わず素が出てしまった。
まじでか。異世界から人が来るのって珍しいことじゃないのか。
「君は【猫柳駅】の前に“気が付いたら立っていた”んだろう?」
「はい、そうです」
まったくもってその通りなので、私はぶんぶんと頭を縦に振った。
「君のように迷い込んだ人間の共通点だ。君たちは【空飛ぶ汽車】に乗ってやってくる。元々は【日本】に居た。【言葉は通じて文字も読める】がどこか【常識が違う】」
そう言って視線で指し示した先には、ランプの中で泳ぐ金魚の姿があった。
ええそうです。私たちの世界で金魚は光りませんし、汽車は空を飛びません。
それよりも、日本という単語がここで出てくるとは思わなかった。
この世界の人々は日本という国があることまで認識しているというのか。確かにこの世界はどことなく昔の日本に酷似しているけれど。
そんな思いが私の顔に浮かんでいたのか、灯千さんは私を見つめながら話を続けた。
「昔からこのようなことが度々あった。ここで言う昔というのは、こちらの世界での話だが。君たち日本人は遥か以前から何かをきっかけにしてこちらの世界に迷い込んでくる」
「日本人だけ……なんですか?」
そう尋ねてみると、彼は涼しげな目元を細めて僅かに首を傾げてみせる。
「君が日本人でないというのなら、初めての例外になるのだが」
「あ、間違いなく日本人です」
なんだかよくわからないが、ここに迷い込むのは例外なく日本人だけらしい。
なるほど、あの女の子が言っていた「慣れてる」ってこういう意味だったのかと今更ながらに納得する。慣れてしまう程度には、こちらの事情を把握しているらしい。
これはある意味幸運なことなのかもしれない。楽観的すぎるかもしれないけど。
「ヤマモトユメジ……だったか。随分と落ち着いているように見えるが、君は非常事態にも臆しない質なのか?」
うーんと腕組みしながら悩んでいる私の耳に、灯千さんの声が侵入してきた。
そうだ、状況を説明してもらっているのに、悠長に考え事をしている場合ではない。私は組んでいた腕を解いて灯千さんに向き直る。
「ユメジ、でいいですよ。いやまあ混乱はしていますけど、あまり慌てても仕方ないですし。逆にこちら側の人がこういう事態には慣れているみたいなので安心した部分もありますよ。言葉も通じますし」
ここで言葉が通じなかったらやばかったかなと思う。言語での意思疎通が可能って大変ありがたいことです。身振り手振りだけでは限界があるし。
現実とは別物かもしれないが、祖父のオカルトコレクションに触れていて本当に良かった。あれらの作品の登場人物はもっと物騒な体験をしている。あれのおかげで謎の耐性がついている気がする。
あと、今が夏休みで良かったと心の底から思う。時間的な余裕があるって大事だ。いやまあ、学業が休みでも、バイトは休みじゃないのだけれど。そうだよバイトどうしよう。それどころじゃないのはわかりきっているけれど、休みの連絡を入れなければならない。
「君は神経が図太いのだな」
どうしようと考えこんでいた私を観察していたらしい灯千さんが、どこか感心したように言った。
褒められている気がしないというか、十中八九皮肉に違いないが、返す言葉もないので黙っておく。
同じ言葉を知人からも言われたことがあるので耳がいたい。
「それで、ここが私から見て異世界であることはわかったのですが、帰る方法ってあるんですよね? バイトに行かなきゃならないことを思い出したので早く帰りたいのですが」
話の方向性を変えるつもりで、私は灯千さんに質問を向けた。というか、これがいちばん大事なことだ。
彼は整った顔を難しそうに歪めながらこちらを見る。
あれ、なんか嫌な予感。
「ないことはないが、難しいな」
「なんですと」
再び素が出てしまったが、灯千さんは全く気にしていなかった。