一、空飛ぶ汽車と、光る金魚。
「……ここ、どこ?」
見知らぬ町の往来で、私はぼんやりとそんな言葉を呟いた。
もうもうと煙を上げる蒸気機関車が、汽笛を鳴らしながら空に向かって飛んでいく。
日没時刻を過ぎたばかりなのか、空は朱と藍の絵の具をひっくり返したような夕暮れ色に染まっていた。
往来に沿うように設置された柱には硝子の金魚鉢のようなものが備え付けられていて、その中では二匹の金魚がくるくると気持ち良さそうに泳ぎ回っている。金魚が外灯のように発光しているのはどういう原理なのだろう。私にはちっとも意味がわからなかった。
「わからん」
なるほど、わからん。
口に出したその言葉を、頭の中でも繰り返してみる。
大学の無駄に長い夏休みを利用して、空白だらけのスケジュール帳に大量のバイトシフトを詰め込んだ私は、さっそくスケジュール通りに行動を開始していたはずだった。
それなのに。
そのはずなのに。
気が付けば私は、見知らぬ不可思議な世界の往来に呆然と突っ立っていた。
自然と寄ってしまう眉間に人差し指をあて、くいくいと指先でのばしてみる。
おかしい。私はたしかバイト先の本屋に向かっていたはずなのだが。
くるりと踵をかえして背後を振り返ってみれば、なんとなくノスタルジックな気分に浸れる赤煉瓦でつくられた擬洋風建築物がそこにあった。壁には猫柳駅という文字。
親しみ深い漢字との再会に胸を撫で下ろすが、そこにあるのは見慣れた町の風景ではない。
もしかして通りを間違えたのかな、と都合の悪い現実は頭から排除しようと努めてみる。空飛ぶ汽車とか発光する金魚とか、都会ならよくある光景なのだろう多分。地方から都会に出てきて一年ほど経つが、アパートから大学、バイト先へ通じる道以外はいまだ未知の領域だ。“みち”だけに。
頭が現実から逃避しはじめたころ、呆然と突っ立っていた私の斜め後ろのほうから、鈴を転がしたような可愛らしい声が聞こえてきた。
「ねえ、あなた」
若干びくりと身体を震わせながら、声が聞こえてきた方向に顔を向けてみる。そこに居たのは、にこにこと可愛らしい笑顔を浮かべるおさげ髪の女の子。黒っぽい着物の上に、フリフリとした白いエプロンを身につけている。年の頃は私と同じくらいだろうか。大きな猫目がちの瞳が特徴的な可愛い子だった。
驚く私を笑顔のまま見据えながら、彼女はくりっと小首を傾げてみせる。
「もしかして、汽車で来た子?」
言葉の意味がわからなかった。
いや、言葉は通じているのだ。私の耳には流暢な日本語が届けられている。
言語での意思疎通は可能らしい。よかった日本語だ。ということはここ日本だ。いや待てよ、なんかおかしな台詞を聞いた気がする。私の頭のまわりに大量の疑問符が浮かんでくる。
汽車?
今度は私が首を傾げた。
確かに背後に駅舎っぽい建物があるが、私は汽車に乗った覚えなんてない。それどころか現在に至るまでの記憶がない。私の記憶はバイト先に向かっていたところで途切れている。
私の表情からなにかを察したのか、そこで彼女はエプロンのポケットからつづり紐で束ねた紙を取り出し、同じように取り出したペンで紙にさらさらとしたため始めた。
書き上げたそれをビリリと破り、彼女は魅力的な笑顔を浮かべて私の手に紙を滑り込ませる。
「心配しないで。カンミヤに行けば、きっとあなたを助けてくれるはずだから」
紙には【甘味屋】という文字と、簡単な地図のようなものが記されていた。
「……甘味屋?」
書かれた文字を声でなぞると、彼女は私に握らせた紙を覗き込みながら指先で詳細を示していく。
「現在地がここ。方向はこっち。わからないところがあったら、その辺にいる人に聞いてみるといいよ。大丈夫、ちょっと驚かれるかもしれないけど、私たちは慣れてるから」
そう言って女の子は目を細めて笑った。彼女の指先は往来の先を指し示している。線と丸印で描かれた簡易的な地図だったが、複雑な順路を辿らせようとしているわけではなさそうだ。
「私、これから仕事があるの。気をつけてね」
それじゃあねと片手を振りながら、彼女はくるりと身をひるがえした。唐突に現れた彼女は、現れた時と同じように唐突に去っていく。
私は遠ざかる彼女の背中を、ただただ呆然と見つめ続けていた。
あまり自覚したくはないが、どうやら私は見知らぬ土地に迷い込んでしまったらしい。
ぼんやりと突っ立ったまま、目の前に広がる見慣れない町並みを眺めてみる。
足早に通り過ぎてゆく人々は、和装と洋装が入り混じったような和洋折衷の出で立ちをしていた。例えるなら西洋文化を意識したハイカラさんのような恰好である。そういえばさっきの女の子も給仕さんのような恰好をしていたのを思い出す。
ザンギリあたまをたたいて見れば文明開化の音がする――だっけか。今その話は関係ないけれど。そもそも文明開化で汽車は空を飛ばないけど――とにかくアウェイ感が満載だった。
白昼夢でも見ているのかな。
空を走る蒸気機関車は、段階的に色変わりした空の彼方へと消えてしまった。汽車から吐き出された煙だけが寂しく上空に漂っている。せめて空に線路が浮いていてくれたら建設的な思考ができたかもしれないのに。現実は情け容赦ない。
私の周りに広がる景色は、どことなく懐かしい日本の風景を思い起こさせた。
心象としては、明治から昭和初期にかけての町並みが雑多に混在している感じだろうか。そのうえカタカナやひらがな、漢字で書かれた看板があちこちに立てられているものだから、私は一瞬タイムスリップでもしてしまったのかと勘違いしそうになった。
そう、まぎれもなく勘違いなのだ。現実は私の想像の斜め上をいく。
汽車は空を飛んでいるし、金魚は光っている。往来のあちこちに朝顔らしきもの――時間的に夕顔かもしれないが――が咲き乱れていて、それもなんとなく発光していた。日本の歴史を振り返ってみても、そんな事実が存在しているはずもない。というか、地球上のどこを探してもこんな現実にはお目にかかれないだろう。
可能性があるとすれば深海か。深海ってロマンに満ち溢れているし。
――モ○ダーあなた疲れてるのよ。
(デデデデンデデデデンデデデデンデデデデン……)
了解了解、なるほど把握。よし、ひとまず冷静になろうか私。思い浮かべた人物は某ファイルだというのに、どういうわけか夕暮れ地帯(ストレートな和訳)のテーマが頭の中を駆けめぐる。どうしてこうなった。混ぜるな危険。
ナウなヤングカテゴリーに属する(希望)女子大生たる私の精神構造は、オカルト好きの祖父からの影響を受けて、やや残念な感じに構成されている。
さて。散々現実逃避したが、そろそろ現実と向き合ったほうがいいかもしれない。
空飛ぶ汽車? 発光する金魚?
荒唐無稽もいいところだ。そんなもの現実にあるわけがない。少なくとも現代社会に存在するわけない。
あるとすれば。あるとするなら――
「……異世界くらいだわ」
私は溜め息を吐きながら、手の中にある紙に視線を落とす。
甘味屋――あの女の子の話を信用するなら、私を助けてくれるのはこの場所らしいのだ。
もっとも、今の私はこの小さな紙にすがるしか方法がないのだから、意地でもすがりつくしかなかった。