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観測の始まり[1]

Schrodinger Folks

-some borders and indefinite princess


novel&Illustration by KONNO Takashi

 目を開けていた、と気付くまでどれほどの時間が経っていたか。

 瞼の裏に流れる赤と緑色の不定形の靄がないのだ、と、記憶と経験が無限に重なった身体の奥から実感が引きずり出されて、吐く息に乗って、白く霞んで消えていった。

 ――と思っただけで、それは見えない。

 肌寒さと産毛をなぞる湿気から、吐いた息は白くなると直感したのだけど、白い息が見えないのは、目を開けていたのに何も見えないのは、つまり光がないからだ。

「ここは……」

 引きつりながら喉が声を絞り出す。なんて頼りない声音。もう何年も聞いていないような気もする。

 自分の声。

 何をいまさら、と頭の違うところが囁いた。自問はもう、言葉を覚えたときから始めていたから、この囁き声はよく知っている。その小さくて甲高い声は、見たくないものの陰から必ず聞こえてくる。

 その対話すらずいぶん久しぶりだ、と、時間感覚が告げた。

 そう、何をいまさら。

 ここは、だってさ。

 私は望んで、ここに閉じこもっているのではなかったか。

「私は……?」

 何をいまさら。

 つん、と痛んだ鼻で空気を吸う。肺が膨らんでいく。

 埃臭い。

 光もない部屋で、自分は一人立ち尽くしている。

 いまさら自分は呟いたりもしている。

 私は、ってさ。

 化粧石張りの床に裸足がぴったりと着いていて、じわりと湿気が潜り込み始めたのが分かる。

 よどんだ空気は部屋の中のなにも動かさず湿気を溜めていき、やがて磨かれた木を朽ちさせ、精緻な壁紙をたわませ、黒く吹かれた鉄を酸化させ、大がかりな廃墟を作り上げるのだろう。

 でも、何故、自分は、

 今まさにここに立ち始めた体で暗い部屋の真ん中にいるのだ?


 そんなことが脳裏に閃いたのも、

 もう一人の女の子が目前でこちらをじっと見つめているのに、気付いた後のことだ。

 なにをいまさら、とささやく甲高い声はもう聞こえてこない。





 光に満ちあふれた板張りの廊下を、黒いワンピースに短い丈のエプロンという女中姿の少女ががしゃがしゃと歩いている。

「あのうー! すいませーん!」

 大音声で窓ガラスがびりびりする、というのは自身の錯覚だ。とにかく声量を絞り出すイメージで、大きく息を吸って元気よく吐き出す。声に魂を込めなければ何事も為せない。

「誰かいませんかー!」

 特にこんな、誰もいない館の中から人間を引きずり出すには、

(大声を出すしかないのだ。そうじゃない? 頑張ってるんだよ私。ったく!)

 大声を出す彼女の名前はマコと言った。

 朝の陽気がきらきらと舞わせているのは足下から蹴り上げられている大量の埃で、吸い込むと途端に咳込みそうな不安でなんともたまらない気分になる。ぴょんぴょんと両脇にはねる金髪はとうに埃まみれだ。

 とはいえ絨毯を踏みしめる歩みを止めるわけには行かない。

「おーい! お願いだから、誰かー!」

 のっぴきならぬ事情があるのだ。

「私を雇ってくれるって聞いたんで、ここに来たんですけどー!」

 鞘入りの片手剣が、革剣帯の金具と擦れて、またかちゃんと鳴る。


 この巨大な屋敷に誰もいなければ、武装女中に働き口など無いことになってしまう。


「最初は控えめな音量だったんだよ。就職面接前にそんな礼節とか忘れませんって。お前地声でかいって長年ずーっと言われてんだもん、気をつけるよ。でもね、今は、大声出しても仕方ないじゃない。誰もいないんだから!」

 もちろん内心がだだ漏れる独り言だって、玄関の扉を開けてから三分くらいは控えていたのだ。

 マコは旅の武装女中である。

 未開拓地から湧き出る魔獣から人間の家財を保護するために、今の時代、人里には必ず武装した兵士が置かれる。

 それは都市国家が取りまとめる軍隊だったり、傭兵集団から派遣された人間だったり、それらの集団生活に適応できずに流浪する個人の武芸者だったり、出自はいろいろだ。一概に言うと、だいたい柄がよろしくない。

 マコはそのどれでもなく、もともとは雇われ女中として大陸中の屋敷を転々とする生活を送っていた。魔獣を追い払う剣は、一人旅をするときに覚えざるを得なかったのだ。

 おかげで履歴書に「剣技」の文字を添える事ができ、人里離れた屋敷などでは重用されることも数度あった。

「うう、前のお屋敷、すっごく待遇良かったのに」

 とうとう人探しを諦めて、廊下から視線を外して、悔恨たっぷりにうめく。屋敷の外は朝日に何もかも輝いた美しい丘陵と低木の黄緑色で、余計に気が塞がれていく。

 そう、前の働き口も、こういう風通しの良い霧と森に包まれた、気の利いた可愛い屋敷だった。

「働き始めたとたんに森からあんなでかい火狼が出てくるなんてあり得ないでしょ。立ち回ってるだけで火花出るに決まってるじゃない。それでお屋敷が燃えちゃって、ご主人一家が都のちっちゃい別宅に引っ越して、入りきらなかった使用人から辞めなくちゃいけなくなって、そんで真っ先に悪魔の鎌が脳天ぶち刺さったのが私ってことですよ。お役ごめんですよ。どーせみんな、私を地声のでかい剣振りマシーンとしか思ってなかったんだ。ちくしょう」

 突き進む歩みは過去から延びる蔓草に足を取られたように、一気にのろのろと鈍いものになって、マコはいよいよ灰色の天井を仰いで嘆き始めた。

「そんで二ヶ月失業して下宿も追い出されかけてもう私兎狩って森で暮らした方がいいんじゃないかと思い始めた時にギルドで手付かずの依頼票を見つけてヒャッホウとか私言っちゃってこんな急いで昼も夜も歩いて来てみたら、まったく! 何で幽霊屋敷なの!? 信じらんない! 馬鹿みたい! ってか私ばかじゃん! 憎い! 世界のバカ! もー!」

 やおら憎らしくなったこの屋敷の床をだん! と一度地団太踏んだところ、異常なほど大量の埃が塊となって出てきたので、マコは「うへぇ」情けない顔になって足を引っ込めた。

「何年掃除してないんだ……」

 少なくとも、今まで見たどんな酷い物置だってこんな「生活っぽくない」雰囲気は醸し出してはいなかった。雨風には曝されてはいないようだったが、森の中の使われていない猟師小屋との違いが何かというと、雨風には曝されていなかったただ一点だけとも言える。

 下手をすると、十年以上人が足を踏み入れていない館。

(そんなの、幽霊しか住人がいない廃墟とかと、似たようなもんじゃない)

 いざとなれば女中仕事から財宝捜しに目標を切り替えよう、とマコは覚悟した。

 ……だとしても、どのみち、この屋敷の住人の有無を確かめないわけにはいかない。

 かぶりを振って、マコは再び金属音を掻き鳴らして歩みを再開した。足はまだまだ元気だが、声帯はとっくに疲労の限界に達したので、もう声は出さないことにする。



 無言のまま、半時間ほどで二階建ての屋敷の隅々を歩き尽くすことができた。

 領主の使う屋敷とは聞いていたが、もともとが切り拓かれた森林地帯を大元とする、慎ましやかな領土しかない貴族のものだ。城と呼べるほど頑強でも、広大でもない。部屋の数だけは多く、かつてはそれなりの数の使用人が住環境の保全に勤しんでいたのだと思うが……。

 その部屋の全てに、人間の姿はなかった。

(もちろん白骨死体が積み重なってたってわけじゃないけど)

 想像の中でそんな益体もないフレーズが呟けるのも、一階の回廊の窓から朝の脳天気な陽光が降り注いでいるからだ。

「どうするかなあ……」

 日が傾き始める前に、立ち去るか、留まるか、決めないといけない。

 まさか、夜闇と共に、柱の影という影から亡者が這い出して、自分の首を絞め始めるわけではないだろうが……。

 マコは一階の回廊に戻り、ちょっと途方に暮れながら一歩一歩を重ねている。

 乾いた木と石と風化した壁紙でできた、どこもかしこも生活の痕跡のない館。

 その埃臭い一階と二階。

 館の外周をぐるり回る単調な廊下。左手には歪な表面が続く白壁、右手には明るい片開き窓。

 ふと……、

(地下)

 本当に、ただの思いつき。

(地下室はあるのかな?)

 意味のある疑問が立ち上がるのと同時だった。

 三メートル先の左、館の内側の方向に扉があるのに、マコは気がついた。

(見覚えない。見逃してたかな……)

 館は一通り歩き尽くした気がしていたのだが。

 マコは扉の前に立つ。

 赤土入りの塗料で錆止められた表面に、意匠も何もない無骨な鉄金具。個人的には馴染みのある、高貴な人間がくぐらない類の扉だ。

 ノブの直下に歪んだ形状の鍵穴が設けられてあったが、扉は蝶番を軸として、手前側に拳半分ほど傾いていた。

 鍵は掛かっていない。

 黒く鈍い鉄のノブを手前に引けば、ぱらぱらと塗装の欠片を剥離させつつ木戸がぎいと一声鳴き声を上げて、黒々とした口が白い漆喰の壁に開いた。

「…………なにこれ」

 今更だな、と思いながらも、マコは自分がたった今開けた戸口に向かって呟く。

 この戸口は、どこかおかしい。

 なにか分からないけど、背中の産毛がざざと逆立つのを予感する。

 背中には窓越しの焼け付く太陽。

 もう春は遠く、外の日差しはとっくに肌を黒く焦げ付かせるくらいだろう。蒸れるのを嫌って一月前に夏服を調達したのだが、半袖から覗く手袋の腕が一気に鳥肌立つ気がした。

 気どころではなく、はっきり冷気が洩れている。

「食料庫かな」ここは一階だ。降りる石階段が見える。

 視線を引き剥がして、今立っている回廊の、奥の方を見る。天井の高い、走り回れそうな少し広い空間が開いている。壁には外に出る頑丈な両開きの木扉が設えてあり、その辺りの埃の堆積に(この館のどこもかしこも、乾ききった土と、赤い絨毯からちぎれ飛んだ綿埃でいっぱいだ)真新しい靴跡が無秩序にスタンプされているのが見える。

 あそこが館の玄関だ。

 その足跡は回廊の奥の方へと続き、ぐるりと屋敷の輪郭をなぞってから、今自分の足の下まで続いているのだ。

「ついに一周しちゃったよ」マコはわざとらしく呟いてみせて、無意識をねじ伏せた。

 首をぐいと壁の穴に向け直して、(しょうがないじゃない、望み薄でも、行けるところがあるなら、行くしかさ……)いよいよ体をかがめて薄ら寒い階段を下り始めた。

 最初の足音が鳴る。

 足音が頭上20センチの石に反響してどこまでも地下深く潜り込んでいく。深度を増すたびに暗く、くぐもっていく、石の階段と靴底の擦過音。それを遅れて聞く、自分一人しかいないこの世界。

「辛気くさい職場だね」

 うんざりと眉根を一秒だけ寄せて、マコは足を落とす頻度を少しだけ早める。

 夏場でも一定の低温を保つために地下深くに造られる食料庫、マコにとってはいつでも馴染みの薄い一角だった。足先の感触が連想させるのは食料庫と厨房を直結する狭い階段、料理をホールに運ぶための薄暗く油染みた石畳の通用廊下、そこを一日中ひっきりなしに往来するのは揃いも揃って気難しい厨房の住人達。

 彼女達(だいたいが素晴らしい全幅を持つ女中だ)の縄張りをちょっとした油断で横切ると、結構な頻度で肩鎧とパイ皿がぶつかるものだった。丁度高さが合っていたのだ。

「殺すぞ!」と言われはしなかったけど、ひっくり返ったミートパイの湯気ごしに殺気たっぷりの眼差しを向けられるのはそこでしかできない特別な体験だったのだろう。特別な体験によくあることだが、二度と無いと思っていると数度繰り返し、特別なレッテルはありふれたものに張り替えられる。

 四回目で実際マコは殺されかけた。

 追憶の中にある喧噪はなんとも思い出たっぷりのボリュームで、今踏み下ろす足音の一つ一つごとに記憶から引きずり出されたネガティブな光景がほどよい混合比で出力されたマコの表情は――これは一時間前からたいして変わらない調子で――「どこを見てもうんざりだよ」とにかく、明るいものではなかった。

 かつん。

 ……階段の突き当たり。

 背中の斜め上からほんの僅かに滲み混んできた薄緑色の昼明かりも、いよいよ三歩先を境界線として完全に失われている。数年間かき回されていないような冷え切った空間は、狭い階段をそのまま狭い廊下に変えてどこともしれない直線方向へ伸びていた。

 マコは腰に下げた旅用の鞄から照明を取り出し、闇の不吉さに内心が無駄に焦るのをかみ殺しながら、右の親指で金色の着火レバーを押し込んだ。がちり、機構内の火石がこすれて火花を上げる。その一瞬に、廊下の奥が鈍い光点を返してきた。

「ん?」金具かなにか、

「扉かな?」

(よかった、わりと短い廊下だった)ほっと呼吸する勢いで、ようやく油芯に火が点る。

 橙色の炎がガラスフード越しに歪んだ光を発散させて、いやに遅い木霊のように墨色の石肌を視界に飛び込ませてきた。胸の高さに掲げた安物のランプとは対照的に、廊下の作りは上等だ。まるで貴族の生活空間のように、平滑に磨かれている壁と床。

(やっぱ、屋敷自体は依頼票が言ってるとおりだ)

 食料庫を連想した勘は、いまいちな違和感を引きずりながら、気軽に取り替えられる答も見つからず、五メートルの廊下の突き当たりで途切れた。二歩前で立ち止まり、マコは壁面を見つめる。緑に塗られた両開きの鉄扉が行く手を遮っている。閂止めが縄で縛られている。

「縄?」

 怪訝な声が漏れた。

 悪い想像に躊躇ったのはむしろ一瞬だった。ランプを左手に持ち替えて、左腰から伸びる革巻きのグリップを小指で握り、鋼と差し油が擦れる音を石壁に跳ね回らせつつ、抜剣。剣を保持する右半身を立ち足ごと軽く退き、一瞬刀身の光沢が激しい階差を付け目に緑色の残像を残す。

「やっ」

 落とした重心は一瞬に、最小限の動きで剣先を撫で突く。安い剣だが手入れの頻度が功を奏して、一撃で閂代わりの縄は落ち、「うわわっ」勝手に鉄扉が手前に開きだしてマコはこの場に及んで飛び跳ねた。

 濃い冷気に腕の鳥肌を起こしつつも、「…………」扉、闇の奥を見据える。

 扉から一歩踏み込む。

 途端、足音の反響が変わった。

(広い)

 思ったよりも、ずっと広い。広い部屋だ。

 冷えきった空気、黴臭い空気、湿気た空気、それらすべてが耳と鼻から体内に潜りこんで体温と攪拌される妄想をしてしまう。

 ランプが照らせる頼りない範囲には平滑な石床と、格子模様の描かれた天井と……振り返ると扉が口を開けている壁。壁紙は歳月と湿気で端々がたわみめくれ上がっている。床と接触している箇所から黒い染みがこびり付いていた。そこに散乱している木片は……椅子だったのだろうか?

 腐食している木々、繊維、それでもなお色を失わない壁紙の顔料、細く角度を連ねた赤い描線。金色の模様。年月の中で一度も日の光を浴びなかった証左だ。壁には黒ずんだ燭台掛けがいくつもいくつも打ち付けられている。

(食堂か、舞踏場だ)

 マコは無理矢理に判断した。

(こんな地下に?)

 部屋の中央……だと思われる方角に向けて、ゆっくりと歩き始める。天井に硝子玉で飾り付けられたシャンデリアがぶら下がっている。

 屋敷に人がいてまともに手入れされていた頃には(それが何十年前かは知らないが)、近かれ遠かれ多様な賓客が集まり、壁際に設えられたテーブルで(今は汚れた木片だ)葡萄酒とパン料理をつまみ(どうせ泡でも出た金色のやつでしょうよ、け!)、楽団が奏でる眠そうなリズムに乗せてシャンデリアの周囲でみんな踊っていたのだろう。

 ……これまでの職場では体験できなかった、そういう類の幻想を展開させつつ、マコは靴を鳴らしながら進む。踊るために来たのではない。

(この辛気臭い屋敷で働くために来たんだけど)

 どうして自分はまだ抜き身の剣を持ったまま歩いているのか……。

 視界に白いものが混じり、その細長い色が自分の腰に巻かれているエプロンとは違うと思った時にはもう反射的に右手の剣は斜め前に薙ぎ払われていた。

 肩の筋肉に引きずられて喉がひきつる。

 一秒で全部終わった、

「!?」

 息を呑むのはいつも決まって一番最後。

挿絵(By みてみん)

 グリップを通して軽い手応えが残っていた。マコの剣は紐を断ち切っていた。切れ端が足下に向かって落ちる。もう一端は部屋の奥、真っ黒い空間の目の高さから冗談みたいに延びていて、それは今、音も無く引っ込んで消えた。

 目を大きく見開いているのを自覚する。

(なに? なんだ、これ?)

 部屋の中央からマコに向かって細紐が伸びてきていた。思い出すとぞっとするほどの速さで。

 本当に紐?

 足下に飛び込んできた切れ端、目を落としそうになるのをこらえる。右半身を引いて剣を腰だめの高さに。ランプを手前に掲げる。

 部屋の奥は闇に飲まれて見えない。

(得体のしれないとこだとは思ってたけど、お化け屋敷だったなんて!)

「びびらすな! もーっ!」

 無理矢理怒って胸とこめかみのどきどき言う脈音をねじ伏せる。歩調を早めてマコは紐の消えた方向へ進む。

 分かっていた。

 もうとっくに、この屋敷を歩き回る意味は無くなっていた。

 ギルドの依頼票にだまされたのだ。

(領主の娘の世話役求む、なんて言ってさ)

 こんな廃墟で、それでも自分はなにを探しているのか。見つけたものと言えば、

(紐。ひもって! 紐だけってことないでしょ、よりによって)

 とっとと退散すべきだ。

 と、頭の片隅で囁くのはたぶん臆病風だ。

 理性じゃない。

 ランプの橙色が、行く先の空中に、ぼんやりと塊を写し出しはじめている……

(城主でも王女でも気むずかし屋のコックでもいいから、なんか見つけなきゃ色々かわいそうじゃない。おもに私が!)

 紐はここから伸びていたらしい。

挿絵(By みてみん)

 不定形の糸巻きが、悪い夢のような勢いでぐるぐると空中で回っている。子象くらいの大きさ。

(子象を見たことはないけど、そんなもんじゃない? なんだっていいわよ)

 近づくと耳鳴りが強まった。

 今気づいた。

 扉から一歩部屋に入ったときから、淀んだ部屋の空気には絹をひっかくような高音が希釈されて、耳にこびり付いていた。いいい、きいいい、と、白い紐の塊は回りながら意味のない軋みを上げている。

「…………」

 マコは目を逸らしていいものか、体勢を崩していいものかどうか二秒迷い、左手のランプをそのまま真下に落とした。革靴の甲で受け止めて床に落ち着ける(うまくいった)。

 剣先は落とさず、グリップを両手に持ち換える。馴染んだ重心の位置に多少息が落ち着く。

「なんだろ、これ」

 きい、きいいい、「私は服」いいいい。

 びっくりした。

(返事した!?)

 すきま風を無理矢理人の声にしたようないびつな声音で、喋っている人間の顔が想像できない。

 声は続く。

「私は服。見られる。見る。世界を分ける。不確定をくるむ。この子の可能性を留める……」

 脳裏がじりじりと張りつめてきた気がする。剣を構えて黙って聞いてはみたが、

「わけわからん」

 ぎいいいい、いいい、「無限に観測する」いいい……

 回転が止まった。

 ぎっちりと巻き固められていた糸車の輪郭がぼやけた。注視していると塊の奥を透視できそうな気がする。

 いや、確かに見える。紐の塊の所々に隙間があって、その奥になにか、金色の……

(ちょっと待って)

 脚が沈む。

(この糸車ほどけてない?)

 今度は意識が動きに先んじた。ほどけた紐の一端が天井を擦る大きな弧を書いて、こちらに伸びてくる。

(何がしたいんだ、もう)

 毒づく。

 早いことは早い、しかし

「見え見えだっての!」

 脇に一つステップ、開いた空間に剣を振り入れる。紐を叩き切る。次。飛んでくる紐が三本に増えた。

「よっ」

 足下を狙った一本を縄跳びの要領で(地元では二重飛びのディフェンディングチャンピオンだった)やり過ごし、狙いをずらされてまごまごしていた空中の一本を振り抜いた剣で捉える。

「はっ」

 踏み込んだ足を軸に遠心力で体を反転させる。ちょうど背中にもう一本紐が迫っていたので背中に遅れて体に巻き付いていた剣を握る右腕を「でりゃっ!」勢い強く半回転させる。グリップ越しに手応え。ぎゅっ、と靴底と石畳が悲鳴みたいな摩擦音を振りまく。一撃の結果を見ずに、最初スルーした足下の紐が空中で折り返しこちらへ飛んでくるのを脇目でにらむ。

 テンポと境界線はこちらの間合いだ。意識し、剣を小さい動きで突く。

 紐の先端がかすんだ。

「ん!?」

 紐が細く何条にも分かれた。それこそ本当の紐らしく、一本一本の糸に。闇にちらつくほど細く、ランプの明かりだけでは捉えきれない。マコの剣はそれらの数十本をまとめて削ぎ落としたが、数本の軌道はそれをくぐり抜けて、こちらの袖に潜り込んできた。

(「潜り込んできた」!)

 まじかよ、と言おうと唇をかすかに離した口から「うひゃひゃおわわッ!」けったいな叫び声が吐き出される。袖から脇下、胸、腹へとぐるぐる糸は螺旋を書きながら伸びていく。素早く巻き付けられていく。そしていちいち肌をくすぐっていきやがる。

「お、ちょ、うひゃっ、待っ、うひゃひゃひゃーっ!」

 悲鳴以外のなにものでもない。部屋中の反響に高音がきんきん跳ね回る。うるさいな、と冷静な自分が言う。

 がん! とすぐ後ろで金属音が鳴りびっくりして足元を見ると自分の剣が床石の境目に突き立っていた。最初の「うひゃ」で天井に放り投げたのがうまいこと突き刺さったのだ、と冷静な自分が言う。その自分だってよくよく考えるとちっとも冷静じゃない。

 冷静になってる場合か、自分。

 糸は大本の紐の塊から無限に伸び続けて、ぐるぐると微細に脇腹とか腰骨とかいろいろを摩擦している。

「なな、なにをす、う、うひゃーっはははっははっ」

 くすぐったくてむずがゆさで死にそうだ。

(落ち着け! 糸だろっ。糸で死ぬかっ)

 むりやり歯を食いしばり(痛い! 舌切った!)背後の剣を抜き取ろうと一歩――

「んぎっ」

 転んだ。糸が腿まで巻き付いて動かない。くすぐったさは過ぎ去ったが、とっくに上下半身の巻き固めが終わったかららしい。締め付け始める糸。

 ぎししっ、と軋む音は糸か、自身の骨か。

(私で煮豚でも作る気か、この糸車!)

 誰が豚だ。

 這ってでも剣を取らなければ。

 唯一自由な肘を冷たい石床に押しつけて半身を持ち上げる。

「痛!?」

 今度こそ予想外な声が出た。

 石床に押しつけた肘が、冷たい。

(冷たすぎる。違う、これ、肘じゃない)

 右の上碗だ。糸がまるで濡れた氷のような冷気を伝えてくる。肩から上半身。腰から脚。

「ぎにゃっ……!」

 体温の高さには要らぬ自信があったが、それが一瞬で薄い糸の層に奪われた。不条理だ。そういえば、あの糸車、こんなことを……

「あんた服とか言ってたんじゃないの。なんなの。寒すぎ」

 がちがち歯が鳴る。もう体が動かない。動かす気が失せている。

「私は服。世界を分ける。見られる、見る、階層に分ける」

「わからん……寒い……」

「今からおまえは見られる」

「なに?」

「可能性を演繹するものはまた世界に観測されるのだ」

「だか――」

 耳の奥が、きっ、と詰まり音が聞こえなくなった。軋む高音が思いの外大音声で地下室を満たしていたのだと思い出す。

(鼓膜が)完全な無音。(破れた!?)

 反射的に考えて体温のない体が強く震えた、気がしたが、床と接触している服越しの肩腰の感触がない。

 ランプは壊れていないはずなのにいつの間にか闇しか見えない。

(…………)

 気がつくとマコは自身の五感が遮断されていた。

 これを「気がつく」と言うのかどうかはわからなかったが(気絶と言い換えることだってできるだろう)、寒さすら感じていないことにマコは今まさに気がついた。

(死んだの? なんで? いきなりじゃない?)

 首を突っ込みすぎたなあ、と思った。

 掲示板に貼り付けられていた伝票一枚に目を留めて二度見てしまったために、こんな有様だ。

 手掛けたことのない仕事に期待したのか、依頼票の向こうにいる見たこともない他人に同情したのか、単なる偶然か気まぐれか、思慮や無意識の行き着く果てがこんなつまらない死に方だとしたら、後悔してもしきれない。

(なので、後悔はしないでおこう)

 しきれないことをしてもしょうがない。

 危険の露払いをして日銭を得る武装女中はもともと死にやすい仕事ではある。やり残しを少なくしとこうと心がけてきたおかげで、育った町にもこれまでの職場にも、そんなに未練はない。

 お姉ちゃんが仕込みに二日掛ける例の肉っぽいパイをもう何口かかじりたかったなー、とか、図書館に読みかけの刺繍教本があったなー、とか、そういうレベルの未練ばかり。それらをかき集めればどうにか生きる気力一人分になるという程度だ。

 そういうことを、床に突っ伏した金髪で女中姿の女の子が考えているのだろう……。

 少し離れたところに放置されたオイルランプが不安げに波打った光を放射している。その範囲に照らされているものは、ランダムな石組みの光沢のある床と、格子木で無限に正方形が埋め尽くされた高くない天井。

(…………)

 倒れたマコが床に投げ出した四肢、その左腕がまっすぐ剣に向かって伸びている。もう掌一つ伸ばせば刀身に指が届き、刃を慎重に避ければ怪我もなく引き抜くことができそうだった。この位置から見下ろすと距離感がよく分かる。

(あれ?)

(ちょっと待ってよ)

 その様子がここから見える。

(なんで私、倒れた私を見てるの?)

 マコは視界を動かそうと首を曲げようとした。……今の視界は動かず、倒れたマコが「ぐぬぬう」と呻いて首を曲げるのが見える。糸吊り人形を操っている気分だ。

 糸。

 倒れたマコの右袖口から細く白い糸がはみ出て、それがこちらの足下まで伸びているのが見える。ほとんど真下、視界の死角に隠れる寸前に、四方から糸がより集まって紐になっているのが判った。

 紐……

(まさか、これ)

 いまだ視覚以外の感覚がない中、マコの胃がぎゅうと締まるのを錯覚する。

(あの糸車から見てる光景? 目なんてあったっけ、あいつ?)

 蝸牛の目みたいに、紐で見ていたとでも言うのか。

(…………)

 当然声も出しようもなく、結果的に十数秒マコは絶句したが、状況はなにも動かない。

(どうしよう。あの私死んでないみたいだけど、この私も幽体離脱してるし、なにができる? 四角い紙でステッキを作る? 杉の葉っぱをいぶしたイワシで飾る? いかん、それどっちも、除霊のおまじないだ。幽霊の気持ちが今なら分かる。生きてる人間の方が怖いよ、ゴキブリじゃないんだから……。ええと、ええと)

 混乱している視界に金色の房が混じった。

 色の薄い、長い髪。離れて倒れているマコのものではない。この視界から見て、足下……身体の内側から脈絡なく生えているような、不自然な位置だ。

 思わずマコはそちらを見ようと、動く。

 唐突にぐりんと視界が動いて、胃のあたりが収縮する錯覚を感じる(今は内臓の感覚がない)。

 首ではなく、眼球の筋肉がこの怪物の視界を制御できるようだった。

「…………」

 それを見て再びマコは絶句する。

 予想していたのか、いないのか。

 ここは恐らく、ほころんだ糸車の内部。

 広くない空間にぴったり身体に沿わせるように、金髪の白い人影が目を瞑ったまま"しまわれている"。

(誰……?)

 マコよりも二・三歳幼いくらいの、恐らく女の子。日の光を三分も浴びていないなとマコが反射的に連想したくらい、色素の薄い肌がもろに見える。こんなうすら寒い糸車の中で、少女は裸だった。

(ああ)不意に納得した、(だから「服」か)

 そう思うと服の外は寒い部屋で、襟から首を引っ込めて暖かい空気の層にうずくまっている、そんな風にも見えてきた。だが……

 マコは瞬きを何度もしようとしている自分に気づいた。この視界に瞼はない。眼球を逸らさない限り、視界の中央に現実味の薄い人影が、闇の中白い四肢を放り出している。

 とても、まともな光景じゃない。

(悪趣味な)マコは毒づいた。

 地下で、裸の女の子を、縄で閉じこめているなんて……。

(なんてやらしい化け物!)

 率直な怒りが感覚のない身体を震わせる。瞬きのできない眼球を全裸少女から逸らして、離れて倒れている自身に向けなおす。

(こいつは私に何を見せようとしてんのか)

 わからないが、もうまっぴらだ。

 このままにしておくわけにはいかない。

 自分も、糸車の少女も。

「動けっ!」

 叫んだ。……魂に取り残された身体の方は「むにゃにゃっ」と呻いたくらいだが、反応はしてくれた。

 自分の肉体を観察する。姿勢と座標。斜め後ろに突き立った自分の剣。

(うつ伏せ。頭がこっちを向いてる。まず額で胸を持ち上げる。肘を背中の方に持ち上げる……)

 筋肉の反動も骨の硬さも感じられない視界の中で、空想の自身を動かそうとする。

 一行ずつ振り付けを実行する操り人形を連想しながら、どうにか身体を動かそうとする。ぎぎぎ、と音を立てそうな怖い動きでマコの身体が立ち上がった。表情もなんだか自分じゃないみたいで気持ち悪い。

 集中を途切れさせるとバランスを崩した身体は真後ろにひっくり返りそうだ。

(じれったい! えーと、重心落とすために膝をちょい落ち着ける。次は右後ろに半回転。右足を下げる、左足をひねる、ストップ。右腕、肘と手、上げる。すぐそこにグリップ。握る。……握る。握った? 強く握っといてね、落っことしちゃうから!)

 呼びかけるうちに操り人形のマコの身体は、早く動くようになってきた。

 呼びかけるように動作を思い浮かべた半拍後に、抽象的なイメージが肉体を駆動させる。

 言葉よりも先にマコが動き出す。

 髪が、スカートとエプロンの裾が揺れる。

 堅く握った剣が思い出したようにランプの光を跳ね返し、こちらの目を眩ませる。

(よし、よし。行けっ)

 女中姿の少女が、剣を振りかざしぎこちなくこちらに向かってくる。


 ……………………


 こちらって、誰だ?

 マコは一瞬混乱した。

 決まってる。

 自分の無意識は身体を動かし続けている。

 自分は目の前の女の子だ。

「境界を」

 だしぬけに声が聞こえる。

 誰だ?

 誰の声?

「境界をさがして」

 耳鳴りと一緒に、飛び込んでくる。

 誰の声?

「わたしの境界を見つけて」

 色の薄い髪が視界の左端からちらつく。

 気付くとそのなかに腕が伸びている。

 細く白い腕。

 まるで自分の腕のような位置から、両の手が見える。

 瞬きをすると明滅する視界。

 目を落とすと裸の痩せた腹と棒立ちの足が見える。

 糸車の中に閉じこめられているこの身体。

 唇がささやく。

「境界を、さがして」 

 誰の身体だ……?


 逡巡する大多数を余所に、マコの魂の切れ端が関係なく叫んだ、

(斬れっ!)

 武装女中の身体が動く。

 一直線の機械的な斬撃が白い閃光となって、マコの混乱した視界と意識のなにもかもを粉砕した。

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