クロトカゲ
普段、通勤通学に使ってる道とかで、あんた、こんな貼り紙を見たことないか?
『クロトカゲ 注意!』
ってやつ。
ポスター? なのかなんなのか、よくわからんが、黒地に白抜きの文字で、この言葉が書かれてる。ただそれだけの貼り紙だ。イラストとか写真とか、そういうのはなんにもない。
俺がいつも通ってた道にな、貼ってあったんだ、そういうのが。
しばらく前から目に付いてはいたが、一体それがなんなのか、俺にはよくわからんかった。
あんたは、どうかね。これだけ聞いて、どういうふうに想像する? 「クロトカゲ注意」の意味をさ。話を聞くだけじゃさっぱりだと思うかもしらんが、実際、この目で見たってさっぱりだぜ? ほんとに、この、10文字にも満たない文字だけだからな。情報、そんだけ。それ以外なーんもなし。
まあ、俺は、最初のうちはあんまり気に留めてもなかったんだがな。
何度もその道通って、何度もその貼り紙目にして、そうしてるうちに、どうにも気になってきたんだわ。
で、手掛かりないなりに、自分で頭絞って、考えてみた。
……あ。頭って、絞るもんじゃないっけ?
ああ、うん。「頭をひねる」か「知恵を絞る」か、どっちかだな。
え? 「頭を絞る」でも、やっぱ合ってる? あっそう。……うん、それは、まあいい。
とにかく、考えてみたわけだ。
「クロトカゲ」っつーのは、なんなのかって。
カタカナで書かれてたけど、漢字に直すとまあ、「黒・蜥蜴」だわな。いや、俺は読めねーし、書けねーけどな、トカゲって漢字。
まーあの、爬虫類のね、ぴるぴるしたやつ。え? ぴるぴるって言わね? トカゲのあの、尻尾のへんの動き。え? 嘘、俺んちだけ? マジで?
あー、まーとにかく。
俺が思ったのはな、こうよ。
トカゲがさ、その貼り紙のある道の、近所の家で飼われてて、それが逃げ出したんじゃねーのかな、と。もちろん黒い色のトカゲな。
たぶん、そのトカゲは危険なもんでさ。たとえば、凶暴な種類で、うかつに触ると噛みつかれて、肉を食い千切られるとか。そうでなきゃ、毒があるとか。
そういうのが逃げ出して、このへんの道うろついてるかもしれないですよー、見かけたら注意してねー、触らないでねー、って。そういう貼り紙なんじゃねーかと思ったわけ。
それならそれで、もっと具体的な情報書いとけよなーって。これじゃなんのことだか、パッと見わかんねーじゃん、って。文句の一つも言いたくなったけどな。そんでもまあ、自分なりに納得できて、すっきりして、さ。
はい、それじゃ、これからはこのへんの道通るとき、トカゲに気をつけましょーと。
一応、貼り紙の警告どおり「注意」しながら、俺は、それからも、相変わらずその道、通り続けてた。
駅から家までの最短経路だったんでね。危険なトカゲがうろついてるかも、と思ってもさ、「かも」だけじゃ、なかなか道変えようって気になんねーの。ずっとその道通ってたけど、一度も見たことはなかったしな、黒トカゲ。だから、たぶん、これからも大丈夫だろうと、タカくくってたんだよ。
で、だ。
それからまたしばらく経って。季節は冬になりまして、っと。
真冬の、夕暮れ時のことだ。
俺は、いつものように「クロトカゲ注意」の道を通って、家に帰るところだった。
でな。貼り紙のある場所に差しかかった、ちょうどそんとき……。
道端に、カラスがいたんだよ。
まあ、カラスくらいいるわな、どこにでも。別にめずらしいもんでもねえし。普通だったら、せいぜいちらっと見ただけで、そのまま通り過ぎてたと思う。
けど……。
なんでだか、そのカラスに、やけに目え引かれてさ。
立ち止まって、じっと、そのカラスを見たんだ。
そしたら、すぐにわかった。なんで、そのカラスに目を引かれたのか。
そのカラスな。
沈んでたんだ。
道に。
アスファルトの道路に。少しずつ、少しずつ、沈み込んでた。
だからさ、最初見た瞬間、なんかその見た目に違和感があったのは、カラスの足が、すごく短かったからなんだよな。俺が見始めたときには、そのカラス、もう、ほとんど足の付け根あたりまで、地面に沈んで、見えなくなってたんだ。
……いや。
……沈んでた。最初は、そう見えたんだが。
それが、足から上の部分にまでなるとな。どっちかっていうと、これ、沈んでるっていうより……溶けてる? そんなふうに、見えてきた。
カラスの体は、地面に触れたところから、どんどん溶けていってるみたいだった。なんつーか、アスファルトの道路が熱した金属板で、カラスの体がチョコレートでできてたら、きっとこうなるだろうな、って。そういう感じ。
溶けてくカラスを、俺は呆然として見てた。
途中から、カラスも羽をバタバタさせて暴れ出したけど、逃れられないみたいだった。
腹まで溶けて……胸まで溶けて……。もう、カラスの形じゃない、平べったい体から、首だけちょっと長く伸びたような、そんな、別の生き物みたいな見た目になって。
それで。
そのとき、妙なことに気づいたんだ。
いや、もちろん、すでに充分妙なんだけどよ。まあ聞け。
カラスの体が溶けていくにつれてな。
その、影が。
だんだん、盛り上がっていくんだ。
影の、頭のほうから、少しずつさ。まるで、今まで道路の中に埋まってたものが、ぐううって、ゆっくり、身を起こしていくみたいに。
カラスの体が、溶ければ溶けるほど……その影は……。
それは、影が、カラスの体を吸い取って、膨らんでいってるような。ちょうどそんな光景だった。
それで、最後には。
カラスの体は、ぜんぶ溶けて。
あとには、アスファルトの道路の上に、黒いシミみたいなのが残ってるだけで。
カラスの形の黒いシミ。
そう。カラスは、影になっちまったんだ。
カラスは、影に。
じゃあ、もう一方は、っていうと。
うん。お察しのとおりだよ。聞くまでもないだろう。
さっきまで「カラスだったもの」の隣には、真っ黒な色をした「カラスの影だったもの」が佇んでたさ。
その「カラスの影だったもの」は、すぐにバサッと翼を開いて、何事もなかったみたいに、飛び立っていった。
いやあ、もうさ。
気味がわりーのなんのって。
カラスはいなくなったけど、俺は、急いでその場を離れようとしたね。めっちゃ早足で。
え。いや、なんか、ああいうときって、走れないんだよなあ、なんとなく。こう、あんまりあからさまに逃げると、逃げるこっちも、むしろよけい恐怖が増すっていうか。うん。だから、できるだけ早足。で。
そしたらさ。
ちょっと行った先に、今度は、猫がいんの。
黒猫だよ。真っ黒な猫。
――の、胸から上だけ。
うん。その猫も、同じだった。
さっきのカラスと同じように、どんどん溶けていってた。
その横に伸びてる影が、むくむく、膨らんでいってた。
俺は、猫と影から、目を離せなくて。
そうして、俺の見てる前で、また。
猫は影に。
影は猫に。
なっちまった。
そこでな。俺は、ようやっと気が付いたんだ。
カラスと。黒猫と。影。
貼り紙の「クロトカゲ注意」ってのは――つまり。
気が付いた瞬間、俺は青ざめた。
なぜって?
そのとき、俺は、真っ黒なコートを着てたからさ。
俺は慌ててコートを脱いだ。
コートの下は、さいわい、黒い服は着てなかった。だから、たぶん、これで大丈夫だろうと……。脱いだコートは、持ってていいものかどうか、ちょっと迷ったけどな。けっこう高いやつだったし、捨てるわけにもなあと思って。まあ、たぶん大丈夫だろうと。コートは小脇に抱えたまま。そうやって、家まで帰ったんだ。
と、いうわけで、だ。
もし、あんたが「クロトカゲ注意」の貼り紙を見かけたら、気を付けな。その道は、もう通らないほうがいいかもしれねえ。
――俺みたいに、なりたくなけりゃあな。
ん。どうした? 何、怪訝そうな顔してんだ?
ふうん。あんた、俺の話を聞いて、俺が無事だったと思ったか? あのあと、家に帰り着いてからも、別に何事もなく、普段どおり元気に過ごせました。めでたしめでたし、って?
そうでもないぜ。だって、考えてもみろよ。俺は、あのとき――。
真冬の夕方に、上着を脱いで家まで帰ったんだ。
そりゃあ、風邪のひとつも引くってもんさ。
-完-