シュレディンガーの猫
箱の中に猫を一匹入れておく。
その中に毒ガスを入れる。一定時間経った後、この猫は死んでいるか、生きているか。
恐らく多くは死んでいると考える。が、箱を開けるまでは分からない。もしかしたら、毒ガスを吸っても生きているかもしれない。つまり、箱を開けて確かめるまでは、猫が生きている状態と猫が死んでいる状態が共存していることになる。
シュレディンガーという物理学者が提唱した思考実験で、「シュレディンガーの猫」として知られていう。もっとも、実際は放射性物質などを使って、より確率論的な方法を取っているらしいが。
世の中は、「シュレディンガーの猫」であふれている。最たる例がくじ引き、とりわけ宝くじだ。
宝くじを買う。そしてその結果を見るまで、当せんした自分と当せんしていない自分を想像することができる。
何故人は宝くじを買うのだろう。「夢を買う」という人も結構いるが、宝くじを当てるために大金を費やす人もいる。しかし、当せんする人なんてほんの一握りだ。人はその先にある絶望に対して、どうしてそうまでして大金をつぎ込むことが出来るのだろうか。
以前聞いた話に、「数学者は宝くじを買うが、物理学者は宝くじを買わない」というものがある。数学の世界ではどんなに小さな、ゼロに近いような数字でも、「有」とする。しかし、物理学の世界では、そのような小さな数字は無視される……ということだかららしい。
「シュレディンガーの猫」の理論は、それに近い考えを持つ人もいれば、そうでない人もいる。少しでも可能性があるなら、その可能性を追求する人がいれば、そんな可能性の低いものは無視する人もいる。あらゆる可能性を考えるなら、どんなことでもゼロになるとは言い切れない。だから、ある程度は割り切る必要もあるのだ。
どんな物事も、箱を開けない限りは可能性が存在する。その可能性を追求し続けるだけでは進めないことも多い。箱の中の結果予測を受け入れることも、大切なのである。
……ところで、箱自体をなくしてしまった私はどうすればいいのだろうか。今はシュレディンガーの猫の理論で、2つの可能性が共存しているが、時が来ればそれは1つになる。箱を開けずとも結果は分かるのだが、その結果は悲しいものである。もう1月3日か。早いところ箱を見つけないと。
ついさっきの私の状態なのです。
ちなみに「箱」は見つけましたが、結果は残念な方向でした。