第三話 海の子守唄
借りたまま持ち帰って来てしまったコートを木のハンガーに掛けて、衣類用ブラシで埃を払う。
ここは、元は物置だった屋根裏部屋。
今は少し片付けて、木箱を並べて作ったベッドに布団を敷き、古いサイドテーブルや椅子を置いてある。
小さな窓から月あかりが差し込み、部屋を仄明るく照らしている。
窓辺へ寄って、外を眺める。
家々の屋根は深い夜の青に沈み、四角や三角の輪郭を青白く縁取っている。
町のあちこちにオレンジ色の灯りがぽつぽつと点っている。
丘や山はゴツゴツとした黒い輪郭でしかない。
遠くに暗い海と灯台の光りが見えた。
光りの線はゆっくりと海上を巡りながらその手を差しのべているようだ。少女は、その光に触れようとするかのように指先で窓に触れた。
私は、どこから来たのだろう?
去年の雪の日より以前に、どこで、誰と暮らしていたのだろう?
本当の家族が心配をしているのではないだろうか?
早く思い出さなければと思うのに、ずっとこのまま、ここに居たいとも思ってしまうのだ。迷惑をかけているのに違いないのに。
チャロは、膝を抱えて座り込んだ。
目を閉じて遠くに聞こえる波の音を聴きながら考えるうちに、いつしか海の子守唄を聴きながら眠りに落ちていた。
微かに風の気配がして、透明な小鳥の羽が、そっと頬を撫でた気がした。
□○▽△◇△▽○□
ここは、王国の辺境の港町。
白い漆喰の家々が坂の途上に建ち並び、石畳の細道が迷路のようにいりくんで、とても楽しい。
階段が沢山あるのが、ご老人方や荷運びのロバにとっては辛そうだなと、いつも思っている。
鮮やかな花鉢があちこちに置かれ、ベンチで世間話に興じる人々。
ゆったりのんびりとしている風にみえて、苦労も多い町の片隅に、オリビアさんと、その家族の住む家があった。
チャロはふわふわと広がる金髪を、いつも通りからまったり何本か千切れたり、四苦八苦しながら櫛でとかす。
後ろで一つに結ぶのが簡単で良いが、今日はオリビア姉さんのように三つ編みにした。お姉さんは一本だが、チャロは二本だ。
今日は、レモンの風邪も良くなってきたので、学校へ行くことになった。
オリビア姉さんのお古のシャツとスカート、カーディガンを羽織り、馴染みのブーツを履く。
出かける支度をしようと開いたカバンに、返されたテストがまだ何枚かあるのを見て、がっくりと項垂れる。
「絶望だ、こんなんじゃ、私、卒業出来ない……」
立派に卒業して、良いところに勤めて、チャロを拾ってくれたみんなに恩返しをしようと決めているのに。
のろのろと、カバンに必要な物を詰め直すと、手のひらを一つ打って、心機一転を図る。
『パン!』
「よーし、頑張るぞー、おー!」
「チャロ姉ちゃん、蚊でもいた?」
レモンが扉を開けて部屋に入って来た。
「蚊は、いないわね。あと、ノックしてね。今日は私、学校へ行くから、気合いを入れていたのよ」
「へえ。俺は、今日はまだ駄目だって。
早く、友達に会いたいな。今度の休みに、丘を歩いて遺跡まで行こうって、約束しているんだ――ごほっ、ごほ……!」
「咳をしているじゃないの。まだ、無理をしない方がいいわ」
「あーあ、今も、岬の魔女がいてくれたらなあ。こんな風邪、あっという間に治してくれるのに」
「岬の魔女って?」
「お母さんが、誰かが風邪を引いたり、怪我をしたりすると、よく言っているんだ。『ああ、岬の魔女さんが居てくれたらねえ』ってさ。薬草でよく効く薬を作ってくれたんだって。
オリビア姉さんが小さい時は、よくお世話になっていたんだってさ」
「へえ。すごい人が居たのね」
「あー、レモンだ。かぜは、なおった?」
マロンが部屋へ駆け込んできた。
「治ったよ」
「あと、もう少しね」
「あ、あのコート」
レモンが指差したのは、梁から吊るして乾かしていたお兄さんのコートだ。
陽に焼けたのか色褪せているが、元は深い茶色だったらしい。襟の裏側や縫い目の隙間など日陰になる部分が鮮やかな発色をしているので分かる。
「助けてくれたお兄さんのものでしょう? 早く返してあげないと、寒い思いをしているかもしれないよ」
「そうよね。でも、困ったことに、どこの誰なのかが分からないの。オリビア姉さんも知らないらしいし、レモンは、心当たりはないの?」
「うーん、チャロみたいな珍しい色の目をしているから、結構目立つと思うんだけど、そういう人の話を聞いたことがないよ。もしかしたら、旅人かな?」
「そしたら、困るわ。もう、旅立ってしまったとしたら――」
「チャロ、レモン、マロンー! 朝ごはんよ、降りていらっしゃい」
「はーい!」
オリビア姉さんに呼ばれて、子供たちと共に降りて行く。
チャロは、夕べの残りの野菜スープを温め直したものを器によそったり、コップに瓶からジュースを注いで皆に渡す。
パンとチーズを切り分けてそれぞれの皿に配っていると、横から姉さんがフライパンの上でジュウジュウ香ばしい音をさせている薄切りベーコンをフライ返しでその上に乗せていった。
彼女は壁に掛けられたカレンダーをちらりと見て、にっこりと笑う。
「今日あたり、お父さんとお母さんが帰って来るかもしれないわよ」
「本当?!」
「勘だけれどね。きっと、当たるわ」




