第二話 オリビア姉さん
レモンは、お兄さんの言った通り、熱を出して寝込んだ。
チャロは全く平気で、ぴんぴんしている。それでも、大事を取って学校を休むことになった。
桶に水を汲んで、洗ってある手拭いも持って寝室へ行こうとしたところ、マロンにスカートの裾を引かれた。
「レモンおにいちゃん、かぜひいたの? わたしもおみまい、いく」
「ごめんね、今いくと、うつるかもしれないのよ」
「うう、おみまい、いきたい」
チャロは困って、何かないかと居間を見渡す。
部屋の角に立て掛けてある通学カバンが目に飛び込んで来た。オリビア姉さんのお古である、丈夫な布のカバンの中には、これまたお古の学校の教科書とノート、筆箱などが入っている。
桶を一旦床に置き、カバンの中から返された点数の低いテスト用紙と、鉛筆を取り出した。テスト用紙をひっくり返して、まっさらな裏面を向けてマロンに差し出す。
「これに、手紙を書いたらどうかな?」
マロンは少し考えて、紙が千切れそうなくらいに勢いよく掴みとると、椅子によじ登り、大人しくテーブルで書き始めた。
後ろからそっと覗くと、個性的な大きな字で、
『レモン はやく けんき なてね』
と書いてある。
出来た手紙を受けとると、折り畳んでポケットに入れた。
「じゃあ、行ってくるわね。ちゃんと届けるから」
「うん」
扉の前にたどり着くと、なるべく音を立てないように古びた木の扉を開けた。
カーテンを透かして穏やかな光が差し込む。
ベッドの上の小人一人分盛り上がった掛け布団の下からは、静かな寝息が聞こえるばかりだったのでほっとした。
近づくと、顔の横に手拭いがあった。額に乗せてあったのがずり落ちたのだろう。
「うーん……」
眉根を寄せて、苦しげな様子だ。
悪い夢でも見ているのだろうか? 随分、魘されている。
頭を撫でると、少し汗ばんでいた。
持ってきた水桶を足元に置いて、冷たい水に手拭いを浸して絞る。古い手拭いと交換して額に乗せた。
「すー……」
少しは、楽になったかな。
呼吸が落ち着いてきたようだ。そうならいいなと思いながら寝顔を見つめていると、ややあって、彼は重たい目蓋を開く。
「あれ、チャロ姉」
「気分はどう?」
「少し苦しい。でも、チャロが来たら良くなったよ。
……ごめん。俺が危ないところに行ったから。チャロは、平気なの?」
「わたしは、とっても元気よ。
レモンのせいだけじゃないわ。私も、大切な弟と妹の世話を任されていたというのに、もっとちゃんと見ていれば良かったのよ。ごめんなさい」
「チャロは、悪くないよ。そうだ、魔物のせいなんだよ。引っ張り込もうとしてきたんだ。そんなに、端っこに行っていなかったのに……げほ、ごほ……!」
「さあ、もう少し、寝ていなさい。ああ、忘れるところだった。マロンから、手紙を預かっているの。気が向いたら読んであげてね」
「わあ、マロンから手紙なんて、初めてもらったよ。すごい字。ありがとうって、伝えてくれる?」
「いいわよ」
「あとさ、何で、テストの裏なの。ふはは……! ……けほ。しかも、二十五点」
「まあ、そこは気にしないで。バカは風邪を引かないって、本当かもしれないわね」
「それを、自分で言う人を、初めて見たよ。うはは。テストの裏を手紙にするなんて、オリビア姉さんに知られたら、怒られるよ」
「大丈夫よ」
その時、ノックの音がした。返事をすると、オリビア姉さんの声がした。
「チャロ、いるんでしょう? ちょっと開けてくれないかしら。お粥で両手がふさがっているの」
「いま、開けるわ」
年期のはいった木の扉を開けると、ふわりと良い香りが漂った。
彼女はエプロンをして、艶やかな黒髪の三つ編みを一本背に流し、両手にお盆を持っている。お盆の上の器からは、ほわほわと温かそうな白い湯気が立ち上っていた。
「具合はどう?」
「まあまあ」
「そう。酷くはないようで、よかったわ。
起き上がれる? お粥を作ったわ。
お母さんなら、もう少し上手く作れたんだけれど、今は仕入れで居ないし。これで我慢してね」
「何が入っているの?」
「お米と、魚と、レモンと、卵よ」
レモンは、黙って食べ始める。少しずつ減っていくお粥。半分くらい食べたところで彼は匙を置いた。
「もう、お腹いっぱい」
「そう。じゃあ、暖かくして、ゆっくり眠りなさい。そうすれば、すぐに良くなるから」
「うん」
レモンは布団にくるまって、目を閉じた。はみ出した手には、マロンからの手紙が握られている。
しばらくして寝息が聞こえてくると、オリビア姉さんは、ちょいちょいとチャロに手招きをした。二人で寝室を出たところで、彼女は声を潜めながら言う。
「手紙なんて、良いアイデアね。ただ、テストの裏っていうのがいただけないけれど。紙がないのなら、言ってくれればいいのに」
「ごめんなさい」
居候の身で、これ以上迷惑はかけられない。少しでも節約をしないと、と思うのだ。
「可愛い妹が初めて書いた兄への手紙が、テストの裏っていうのは、いただけないわ」
あ、そこなのね。
「遠慮しているのでしょう。でもね、私も、弟と妹の世話をほとんど任せているのだから、無料でベビー・シッターを頼んでいるようなものよ。もちろん、学校の時間以外にね。
だから、チャロは、気に病むことはないのよ」
「オリビア姉さん……。
ごめんなさい。信頼して任せてくださったのに、私は、役割を果たせませんでした。どう、償えばいいのか……」
「そう、深刻に捉えないで。助かったんだから、良いってことにしておきましょう。まあ、子供だけで危険な場所へ行ったことは良くなかったわね。次からは気をつけてちょうだい」
「次も、任せてくださるんですか?」
「もちろんよ。今は、あなたが頼りなんだから」
ぽん、と軽く肩を叩かれる。
チャロは、涙が滲んで視界がぼやけた。
お姉さんは腕組をすると、片手をすっとあげて自分の顎に指先を添えた。
「そうだ、助けてくれた人、人魚みたいに泳ぎが上手かったっていうじゃない? どんな人なのか、私も会ってみたいわ。お礼もしなければ。名前は聞いたの?」
チャロは、しまった、と額を押さえる。
「聞いていませんでした……」
また、出会えるだろうか? もし、出会えたら、名前をちゃんと聞いて、コートも返さなければ。
それから、唄のことも話したいな。




