11.妖精
チャロの視点です。
暗い独白があります。
「チャロアイト」
チャロは、深い眠りの底から浮かび上がり、呼ばれるままにゆっくりと目蓋を開きました。
「まったく、あなたという子は、勝手に私の薬棚から薬を持ち出して。強力な忘れ薬だったのよ。もう、解毒出来ないかと思ったわ」
「アンテ、アンテリナム……」
「どうやら、思い出せたようね」
天蓋ベッドの横に立っている妖艶な女性が、赤い唇の端を上げてにっこり笑っています。しかし、目の奥には海で溺れた時に見た暗闇が蟠っているようで、ぞくりと震えました。
「どうしたの? 私の可愛い子。あんな悪戯をして、記憶を失くした挙げ句に家を飛び出すなんて。
一度は赦すけれど、二度目は無いわよ」
チャロは、ガタガタ震えながら、こくりと頷きました。
「はい……」
それを聞いたアンテは満足そうに頷いて部屋を出ていきました。
カツ、カツ……と、足音が廊下を遠ざかって行き、やがて聞こえなくなるや、チャロはがばりと布団を捲って起き上がります。くらりと目眩がして周りの景色がぼやけ、倒れこんでベッドに逆戻りしそうになりましたが、手をついてなんとかこらえました。少しの間そのままでいると、段々と視界がはっきりしてきて、頭の揺れも収まってきます。
立ち上がり、白いネグリジェと裸足のまま部屋を歩きます。
「逃げなきゃ」
クローゼットの大きな扉を開いて、なるべく地味な服を探しましたが、あいにく、ヒラヒラしたレースの付いた鮮やかなドレスかモスリンの白生地に小花柄のワンピースしかありません。
仕方なくワンピースを着て、暗い色味のストールを羽織ります。靴下とブーツを履いて、手早く紐を結んでいると、カタリ……と、クローゼットの中から物音がして、ドキリと心臓が跳ねました。
「ハンガーが落ちたかなにかしたんだわ。大丈夫大丈夫」
チャロは気持ちを落ち着かせるように呟いて、靴紐を結び終えると、窓辺に寄って外を見ました。以前もここから壁の出っ張りを掴んで足掛かりにし、なんとか降りることが出来たのです。
「よし」
そっと窓を開きます。
『二度目はないわよ……』
頭の中にこだまする声を掻き消すように頭を振ってから、窓枠に足を掛けたそのとき、
「行かないで!」
甲高い子供のような声が後ろから聞こえて、チャロははっとして振り返ります。
足元に小さな人がいて、こちらをつぶらな瞳で見上げていました。背中に透明なカゲロウのような羽を持ち、髪は新緑色、耳の先は尖っています。絵本で見た通りの妖精がそこにいました。
「あの人を、見捨てないで」
妖精は、可愛い声でそう懇願してきます。
「あの人って、アンテのこと? それなら無理だわ、あの人は恐ろしい人よ。私はここにはいられない。そうだ、あなたも一緒に来る?」
窓枠から一旦足を下ろしてしゃがみ、妖精の若草色の目を綺麗だなと思いながら見つめました。
「あの人は、昔は愛する人の為に献身的に働いてきました。自分の心を殺してまでも、尽くしたのです。
しかし、ある時冤罪で国を追放され、その後に愛するひとは暗殺者に殺されました。故郷は海に沈み、彼女は一人ぼっちになってしまいました。
空いた心の穴を埋めようとしているうちに心がすり減っていったのです。もし、今あなたが行ってしまったら、あの人はさらにおかしくなってしまいます。
お願いです、どうか、見捨てないでください」
「……アンテは、恐ろしいことをしているの。
私が居たって止められないのだから、居ても居なくても同じことだわ。どうか、私を止めないで」
チャロはそれ以上妖精と向き合っていられず、立ち上がって窓枠に跨がり、外へ出てぶら下がりました。
手足を上手く使い壁を伝い下りると、秘密の抜け穴から塀の外へ出て、不審に思われないくらいの早足であえて人通りの多い道を行きます。
広場に来たとき、遠目にアンテの乗った馬車が見えて、とっさに複雑な造形の石像の陰に隠れました。誰にも見えない事を確認して、ため息をつくと膝を抱えてうずくまりました。
カラスの声が、広場の周囲に反響します。
カァ……カア……カア……
どうしたらいいんだろう。
妖精の切ないほどの願いを、私は聞き入れる事が出来なかった。
たとえ昔は良い人で、献身的に誰かを支えていたとしても、今は悪事に手を染めている。この目で見たのだ、他人に薬を飲ませて宝石に変えてしまうところや、他人の記憶を消して、間違った記憶を植え付けるところを。
アンテリナムは別名を魔女ジギタリスという。
彼女はチャロが幼いときに、孤児院から引き取ってくれた。
当初は、彼女のことが大好きだった。一緒に遊んでくれたし、字や作法など色々な事を教えてくれた。クッキー作りも教えてくれたし、目の色を誉めてくれた。けれど、それは裏の顔を隠していただけだったのだ。
ある日偶然にその現場を目撃して、世界はひっくり返った。目的の為なら、どんなに非情なこともする人だとわかったのだ。
それだけではない。彼女は、ずっと紫の瞳の人魚を追い求めていたことを知り、自分が、単なる代わりに過ぎないことを悟った。
いつかそのうち、この目をえぐり出されるかも知れないと思うと、怖くてならなかった。
そうして薄暗く狭い場所に踞っていると、不意に懐かしい声がしたのです。
「チャロ、どうして、こんなところに?
小鳥が元気ないぞ、大丈夫か?」
思わず顔を上げると、その人は焼きたてのパンの香りとともに、チャロの隠れている石の下を覗き込みました。




