第九話 覚悟
今話は、レイン視点です。
レインの過去が語られます。
痛々しい描写がありますので、苦手な方はご注意下さい。
あの船に気がついたのは、灯器回転装置の重い分銅を、長い階段を上り下りしながら巻き上げ終わって、一息ついている時だった。
螺旋階段の中腹で小さな窓から海を眺めていると、チャロの乗っているであろう船が丁度見えたのだ。レインはそれを見たまま微動だに出来ないでいた。
あんな風は見たことがない。いや、以前王都に数年いた時に似たような気配を感じたことがあるような。
あの頃は、あまりに人が多くて用事もないのに外へ出るのは疲れるだけなので、ほぼアパートの部屋と職場と朝市の往復しかしていなかった。あの気配の持ち主が仮にあの街にいたとしても、すれ違ったことすら無いだろう。一度でも会っていれば直ぐに分かるはず。
近すぎず、遠すぎない場所に居たのだ。
チャロが心配だ。透明な小鳥たちの風を持つ純真な少女。
初めは『小鳥の人』としか認識していなかったが、出会いを重ねるうちに、その心と、姿がはっきりと見えてきた。
夜明けの雲のような金の髪。
己と似た色の瞳。
無邪気な笑顔。
弟妹思いなところ。
義理堅いところ。
押しが強いけれど、奇妙でしかない独白を嫌悪せずに受け流してくれたこと。
『また、歌をききたい』と、言ってくれたこと。
それらが積み重なって彼女の輪郭を形作っていく。もっと知りたいと思った初めての他人だった。
「レイン、何か悩み事かい?」
クローブが様子のおかしい孫に声を掛けた。
「おじいさん、あの船は、王都へ向かうんだろう?」
「ああ、そうだな。王都行きの舟だ。それがどうした?」
「……厭な予感がする」
それ以上何も言わないレインに、クローブは階段に腰掛け、隣に座るよう示した。
漸く身じろぎして同じように腰掛けたところで、彼は話を切り出した。
「どれ、少し昔話をしようかね」
脈絡もない切り出しにレインは僅に眉を潜めるが、おじいさんは気にせず続ける。
「レイナが、お前を連れて来た時のことだ」
レインは、目を見張る。
レイナは、母の名だ。本当の母では無いことは知っている。けれど、どのような経緯で引き取られたのかは知らなかった。
「ある満月の夜のこと。突然、あの娘は生まれたばかりの赤子を抱いて帰ってきたんだ。
『お父さん、この赤子は存在を知られたら悪者に狙われてしまうんです。
私は、この子を匿って、遠い所に暮らすことにしました。
ごめんなさい、お父さん。でも、いつかきっと戻って来ますから』
そう言って、飛び出して行ってしまった。
俺には、止めることは出来なかった。その後、凄まじい嵐になったからだ。灯台守としての仕事を放棄など出来る筈もない。なにしろ、沢山の人の命がかかっているのだから。
レイナがどこでどう暮らしているのかも、つい最近にレインが帰って来るまでは知らなかった。どこかで元気にやっているだろうと、信じるしかなかったんだよ」
レインは、唇を噛みしめていた。
「悪者とやらに、捕まっていないかが気がかりだったが、おまえが、こうしてレイナの伝言を携えて戻って来てくれた。
結局、レイナ自身は約束を果たせなかったが、おまえが来てくれたから」
それだけで、俺は幸せだ。
そう言って水を湛えた黒い目を向けた。
おじいさんの風は、大海原と似ている。包み込むような穏やかな日の海。
海は広すぎて恐ろしい時もあるけれど、人だから、丁度良い広さなんだ。
レインは膝を抱えて頭を埋めた。
「悪い予感とやらは、その悪者と何か繋がりがあるのかもしれないな。
俺は、おまえがこれまでどうやって生きてきたかを知らないから、ろくに相談に乗ってもやれない。それが、やるせなくてな」
「……」
ぽつぽつと、レインは話し出す。
昔のことを一つ一つ記憶の引き出しの奥の奥から引っ張りだしながら。
▽△▼▲◇▲▼△▽
小さい頃は大陸の王都から離れた田舎町に住んでいた。
山の近く。
レイナと共に薬草を売ったり、病気や怪我人を助けたりしていた。人が好きになったのはそんなレイナの影響だ。
やがて一人きりになってしまうと、遺言を果たす為に旅に出る。
レイナは人助けの為にほとんど稼ぎを使ってしまい、畑や山の幸だけで普段は暮らしていた。路銀は僅かだった。
そんな慣れない旅の途中で、安宿の相部屋になった客に財布を摺られた。全財産だった。風に頼りすぎて、見誤ったのだ。
その人も生きる為に必死だったのだろう。一見、綺麗な色の風にみえたのだ。豹変したのは、スリを働く寸前だった。犯人はあっという間に姿を消した。
無一文になったので、子供でも働ける仕事を探していたところ、怪しい自称錬金術師に目を付けられた。
ノウという名の彼は、王の囚われの身で、いつも、兵士を見張りに付けられているらしい。
『王の望むものを期限内に完成させなければ命がない、どうか、助けてくれ』
と、藁にもすがるように懇願されて、財布を摺られてもなお人を疑うことを知らなかったレインは、
『研究の助手として働かないか? 給料は弾む』
という申し出にすぐさま飛び付いたのだ。
これが誤りだと悟ったのは、怪しい薬の被験者にされた時だった。
しかし、もはや後の祭りである。簡単には逃げ出すことも出来ず、何日も熱や腹痛などに苦しみ、治ったと思えば、また違う薬を試される。
何とか隙を見て逃げ出すことに成功したが、身体はぼろぼろだった。
逃げ出す際に乱闘になって、死に物狂いで研究員を攻撃してしまった。もはや、ノウには一片の同情心も湧かなかった。
王都にある怪しい実験場を抜け出してから、ひたすら離れるように歩いたが、とうとう限界が来て倒れてしまう。
そのとき、拾ってくれたのが、新聞売りの少年だった。彼の名はトパーズと言い、夕と夜の境のようなオレンジ色の風を持っていた。
彼はアパートの狭い部屋をシェアしてくれ、仕事まで紹介してくれた。
帽子と冒険話が好きで、要領が良いが、ときどき、稼いだ金をたった一日でぱあっと使ってしまうという悪い癖があった。気に入った高い帽子を買ったり、道端に寝ている人にぽんとあげてしまったりする。
レインを拾ったのも、そんな気まぐれの一つなのだろう。
余り人と関わらなくて良い、荷物の仕分けや積み込みの仕事を始めた。
働くうちに、足腰の使い方や筋肉の要領の良い使い方を発見したりして、わりと楽しく働いていたが、なにぶん、仕事量が多すぎた。
朝から晩まで働いて、気絶するように眠った。睡眠は、足りていなかった。
耳は、都市にいる頃、自分で切り落としかけた。通りすがりの人に『悪魔』と言われてから心に亀裂が入り、そこからじわじわと悪意が侵食しているように思われて、苦しかったのだ。
ある日、働き詰めで夜もまともに眠れていなかったことで、冷静な判断力が失われていたせいだと今ではわかるが、当時は全てはこの耳のせいだと思い込み、果物ナイフを手にしてしまったのだ。
止めてくれたのはトパーズだ。
『な、なにをやってんだよ!
やめろ!』
彼はナイフをこの手から取り上げて隠した。
『おまえはもう、刃物を持つのは禁止だ』
レインが正気を取り戻したのは、彼のお陰だ。
その事件の後レインは直ぐに仕事を止め、本来の目的を思い出して、貯まったお金で船に乗りカモミール島に渡った。
◇※◇※◇※◇※◇
「そうか……苦労したな。
よく、一人で乗り越えた」
おじいさんは、孫の頭をぽん、と掌で覆った。
レインの目尻に涙が溜まり、ほろりとこぼれ落ちる。袖でぐいっと拭い、気持ちを切り替える。
「チャロの乗っている船に、気味の悪い風が纏わりついていたんだ。
それは、王都にいた頃に幽かに感じたことがある。
母の言っていた悪者がどんなやつかは知らないが、魔女であった彼女が、逃げ出すようなやばいやつだってことはわかる」
「気になるかい?」
「……」
自分はどうしたいのだろう? 気にならないと言えば嘘になる。
そんなとき、クローブは言った。
「おまえは、レイナに似ているよ。やりたいことをやればいい。後悔しない生き方をしなさい」
レインは、心を決めた。
参考 https://omaesaki-lighthouse.jp/toudaimori/




