序章
魔女はこの夜、満月の晩にだけ薬効の出る花を採りに浜辺へ降りて来ていた。
波の音を聴きながら砂浜をそぞろ歩いていると、白波をかきわけて何者かが這いずって来るのが見える。
長い年月を生きて、大抵のことには驚かなくなった彼女も、この時ばかりは少しばかりどきりと心臓が跳ねた。
そろり、そろりと正体を確かめるために近づいて行くと、雲に隠されていた月が世界をほの明るく照らし出す。
飛び散りきらめく水滴、銀色のうねる髪の艶めき、その肌の青白さ、さくら貝のような透き通る鱗。
それら全てが一体となった造形美に、心を打たれた。
人魚は、その細腕と尾の力で陸に這い上がり、まだ花びらの萎んでいるハマヒルガオの茂みまで到達すると、蹲り、苦しみだすので、魔女は、慌てて自分の家に飛んで帰り、必要な薬草やら、手拭いやらを持って戻ると、人魚の手助けを始める。
やがて人魚が産み落とした玉のような子は、魚の尾を持たなかった。茜色に染まる海で産湯を使わし、人魚の腕に赤子を抱かせると、真珠のような涙をほろほろと頬に伝わせながら、高貴な宝石の瞳でこちらを見上げる。
「助けてくださって、ありがとうございます。
このご恩はいつか必ずお返しします」
疲れはて、弱々しくも美しい声で人魚は言った。
「あなたはとても頑張ったわ。
お礼なんていいから、ゆっくりお休みなさい」
魔女はとなりに跪き、銀色の波打つ髪を優しく撫でる。人魚はふっと息をはいて目蓋を閉じた。
赤子の元気に泣く声が、静かな浜辺に波音と共に響く。
ふと、この子は海で生きていけるのだろうか?
と気になった。
人魚のことは、伝承の中にしか知らなかったし、どのように生まれ、育ち、なにを食べて暮らすのかもわからない。
先ほどは、深く考えずに人間と同じように手助けをしたが、無事に生まれて何よりだった。
今更にどきどきして、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着ける。
「あなたは、優しい人ですね。
お名前を教えていただけませんか?
私の名は、モモといいます」
「私は、レイナよ。
この近くで、薬草を売って暮らしているの。
ひとつ、聞いてもいいかしら?」
モモは、しっかりと頷いた。
「この子は、水の中で息が出来るの?」
レイナの問いに、モモは暫し沈黙し、やがて答える。
「出来ないと思います。
この子は、人間として生まれました」
もしかして、この子の父は人間なのだろうか。
それにしても、こんな大変なときに側にいてあげないなんて。
憤りの気持ちが沸き上がりかけたが、そばにいられない複雑な事情があるのかもしれないと思い直した。
「これから、どうするの?
海へ連れても行けないでしょう」
「尾を隠して、陸の上で暮らします」
レイナは、驚きのあまり目を丸くした。
「そんなことが出来るの?
乾いたら人の足に変化したりするのかしら」
「変化はしません。
魚の尾のままです」
「それじゃ、すぐにばれてしまうわ。
あなたの旦那さんは、どこにいらっしゃるの?」
「分かりません……」
目蓋を閉じ、そのまま深い眠りについてしまいそうな彼女と、その胸の上にいる小さな生命を見下ろして、レイナは迷った。
このままでは他の人に見つかってしまう。
彼女は一度、空を仰いだ。
紺色の中に、明星がひときわ明るく輝き、そして朝日に飲まれて消えていった。
レイナは、覚悟をきめた。
「私に任せて」
朝露に濡れたハマヒルガオが花開く。
桃色の花びらが、柔らかく潮風に揺れていた。
朝焼けの赤が全てを包み込んでゆく。
その日は、凄まじい風と雨の嵐となった。
人魚は、波の向こうに消えていく。
海辺の町では、一人の女が行方しれずになった。