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願わくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ
『叶うならば、二月の満月の夜に桜の下で死を迎えたい』。無類の桜好きであった西行の残した歌である。なるほど、死の間際に見る光景が満開の桜であるとは、どれほど情緒的で尊厳のあることだろうか。
しかしあれほど桜が美しくなければ、その青年も事件を目撃せずに済んだのかもしれない。
――月の明かりに照らされて、二組の男女が焦った様子で何やら言葉を交わしている。間に挟まれたるは、ひとりの少女。ブレザーの制服姿の彼女の首から伸びた縄は、真上にある桜の枝へと繋がっていた。
ミシミシと木の軋む音がする。少女の重みに耐えられなかった細い枝は、ペキリと根もとからへし折れた。
驚く男女の真下に、少女はどしんと落下する。首は不自然に伸び、肌は月の光の下にあってもはっきりと分かるほどに青白い。地面に衝突した弾みか、うっすらと目が開いていた。
数枚の花びらが舞う。――死んでいた。死体を見たことが無い者ですらそう確信できるほど、紛れもない死がそこに転がっていたのである。
ここでようやく青年は絶叫した。男女が振り返り、隠れていた彼に目を見張る。
三分咲きの桜が見下ろす、満月の夜の出来事だった。
「……で、こちらのご遺体は、お二人の娘である磯端夢様だと」
中年の男女――磯端信寿と磯端珠美は、陰鬱とした表情で警察官の質問に頷いた。手には一枚の写真が表示されたスマートフォン。化粧をしているものの、ビニールシートの下の遺体と同じ容姿の少女が、珠美と並んで写っていた。
「その通りです。夜になっても帰ってこず、仕方なく高校まで来てみればこうして首を吊っておりました。だから急いで体を下ろそうとした……それだけです」
「夜になっても帰ってこず、ですか。しかし、今の時刻はちょうど午前0時ですよね」珠美の言に、警官は訝しげに眉をひそめる。
「高校生の娘さんを迎えに来たにしては、だいぶ遅いように思いますが」
「本当のことです! わざわざ来てみれば、娘はこうして首を吊って……!」
「落ち着きなさい、珠美。刑事さんは詳しい事情を聞いているだけだろう」
「だって……!」
「私から説明します、刑事さん。恥ずかしながら、夢は不出来な娘でして。夜な夜な街を歩き回っては、素行の悪い者とつるむことも少なくなかったのです」
苦々しい顔を隠そうともせず、信寿は言う。
「それでも、いつも九時になるまでには帰ってきていました。結局は半端者、悪にも染まりきれなかったということでしょう。ですが、今晩に限ってはいつまで経っても帰ってこず……。方々を探し、やっとここで見つけたのです」
手遅れでしたが、と彼は最後に付け加えた。これには刑事も「残念です」としか返せず、重苦しい沈黙が訪れる。
――そして本来は、もう少し続くはずだったのだが。
「だから! 僕が来た時、絶対あのご夫婦は動揺したんだって!」
割って入ったのは、深夜をはばからない男性の大声。
「なんっでそれがわからないかなぁ!」
「そりゃあ実の娘が自殺をしていたんです。動揺するに決まってるでしょう」
「いやそれも正しいだろうだけど、僕の言う動揺はそういうのじゃなくて! もっとこう、ボボー……っとしてだな!」
「ボボーと言われましても」
「ああもう伝わらないね! 君では埒があかない、ただちに上の人を呼んできてくれ!」
「巡査部長ならそこにいますが」
「この僕が上の人といえば、警視総監に決まってるだろう!」
「そんなこと言われても」
理不尽かつ横柄な言いがかりに、若い警官が呆れ果てている。当然、刑事と磯田夫妻の目もそちらに向いた。
腕を組んでふんぞりかえっていたのは、思いの外小柄な青年。いやに態度が大きいものの小ざっぱりしたグレーのスーツベストを着用しており、どこぞのホテルマンを連想させた。
「えー……彼が第二発見者の帝王院スバルさんでしたね?」
情報を整理するため刑事が尋ねると、信寿は頷いた。
「え、ええ。間違いなくあの人です。私達が娘を木から下ろそうとしていた所、隠れて見ていた彼が悲鳴を上げました」
「なぜいい年した大人が高校にいたのでしょう」
「知りませんよ。本人に聞いてみても、要領を得ないことしか言いませんし」
「要領を得ない……」
「なんでも『違和感があったから来てみた』とか。深夜の高校に侵入する動機としては、あまりに不明瞭ですね。人のことを糾弾できる立場ではありませんが、叩けば埃が出てくるんじゃないですか」
信寿は、やれやれと首を横に振った。
「とにかく、自殺であることは誰の目にも明らかです」眼鏡を直し、彼はきっぱりと断言する。
「事件性はありません。娘はうちのかかりつけ医に診せ、死亡診断書を書かせるようにします」
「いえ、そういうわけにもいかないのです。自殺の場合は、警察らによる検視が行われ……」
「分かりませんか? 死んだとはいえ、嫁入り前の娘を警察の手には渡せないと言っているのです」
存外強い口調に、刑事は押し黙った。
「知ってますよ。この国の司法行政は、個人の宗教や性別に一切配慮無く死人の体を暴き尽くすのでしょう? 娘は社会的に苦しみ、とうとう自殺という道を選んだ。そんな彼女の尊厳を、どうしてこれ以上貶められましょうか」
「確かに我々としても心苦しい所ですが、一方で検視や司法解剖が隠蔽されかけた事件を暴く例もあります。お気持ちはわかりますが、法で定められている以上、例外無きものとお考えいただければ」
「娘は自殺だ! 疑う余地は無い!」
突然声を荒げた信寿だったが、刑事は臆するでもなく立っていた。その目はあくまでも冷静である。
「恐れ入りますが、現代日本においては適切な手順が踏まれない限り、“疑う余地”は残ります」
「どう考えても自殺である状況に、わざわざ警察の手を煩わせる必要は無いでしょう? どうしてもというなら……そうですね。私を恩人と仰ぐ者の一人に、かなり力をお持ちの方がいます。なんなら今ここでその者に連絡を取り、君の上司に働きかけてやってもいい」
「……」
実はこの刑事、こう見えて根の部分はかなり気性が荒かった。ゆえに売り言葉に買い言葉で、「やれるもんならやってみろ」と喉まで出かけたのであるが……。
「だったらその問題、寒咲名探偵に任せてみませんか?」
ひょっこりと、二人の間にさきほどの第二発見者が割って入ってきた。帝王院という名の彼は、トントンと人差し指でこめかみを叩く。
「奇遇ですねー、実は僕もすぐに連絡のつく便利な者を一人知っているのですよ。しかも其奴は名探偵! 幸の薄い顔をした冴えない男ですが、なかなかどうして筋がいい。今回の件についても、きっとお力になれると思います」
「コラッ、帝王院さん! まだ聴取が済んでませんよ!」
「おやおや、警察がそんな高圧的じゃいけないな。無辜の民の為身を粉にして働く。それが警察ってもんじゃ」
「皆さんのご協力あってのものに決まってんだろ!」
「ぎゃー!」
帝王院が別の刑事に取り押さえられる光景を前に、磯端夫婦と刑事は完全に毒気を抜かれていた。が、やがて落ち着きを取り戻した刑事が嘆息して言う。
「……わかりました。では磯端様よりその政治家とやらに連絡をして、警察上部に話をつけてください」
「おお、いいのですか?」
「いいも何も、結局我々現場の人間はルールに則るしかできません。そのルールを破ろうとするなら、上からの命令以外にありませんので」
「つまり、君たちが問題無く動けるようにしろと」
「そう解釈していただいて結構です」
信寿はしばらく刑事を見ていたが、やがて背を向けてスマートフォンを取り出した。その間に、刑事は組み伏せられた青年の元へ向かう。
「帝王院スバルさんですね?」
「ええ、そう名乗りました」
「さっきお話ししてた名探偵について、二点伺いたいことがあります」
「どうぞ」
「ちょ、早渡さん! まさかこんな奴の言うことを間に受けませんよね!?」
「巻こそ早くその人からどけって。ご協力いただいてる一市民の方だ。尊重しろ」
「お、流石一つでも肩書きがつくと対応が違いますねぇ」
「ぐっ……!」
巻刑事が渋々帝王院から降りるのを見届けて、早渡は改めて切り出す。
「一点目は、本当にその人物は名探偵でこの事件を解決に導ける能力があるのかです」
「何気に二つですね。まあよろしいでしょう。勿論! 名探偵の看板とその能力に嘘偽りはありません!」
「承知しました。……ならば、二つ目です」
堂々たる帝王院に一瞬何かしら思考を巡らせた刑事は、淡々とした調子で尋ねる。
「後払いでも、構いませんか?」
帝王院は、いまいち開きが悪そうな目でジロリと早渡刑事を一瞥した。しかしすぐに人差し指と親指でOKサインを作ると、にんまりと笑って返したのである。