惟子(ゆいこ)
密葬は夕方に終わった。二日間、嗚咽の絶えない葬儀だった。荼毘に付したばかりの遺骨をタクシーの後部座席に座りながら抱えている寺岡靖子の両目からは大粒の涙がぽたぽたと零れ落ちていた。骨壺はずっしりと重くて生温かい。それは人の肌に触れたときの体温のようにさえ感じたりした。靖子の夫である寺岡崇は妻の顔色を隣で見ていた。三日前に惟子がまだ生きていたかと思うと、悔しくてやりきれない気持ちが靖子の心をどこまでも苦しく締め付けているようだった。棺に納められていた惟子の表情が死んだばかりのときよりも打って変わって安らかであったことは靖子も崇も同じように認めたが、なぜ娘がこんなに若くして死ななければいけないのか、なぜ自分の娘がこんな目に遭わなければいけないのか、という疑問の数々を頭の一点に染みこませた途端、二人の脳裏には不愉快な気持ちだけがいつまでもしつこくこびり付くように残り続けているのだった。
二人を乗せたタクシーが動き出し、車体はがたんと音をたてて横に揺れた。運転手が自宅までお送りいたしますと夫婦に向かって小さな声で言った。靖子はまだ鼻をすすりながら泣いていた。崇が運転手にお願いしますと返事をすると、タクシーは火葬場の出口をゆっくりとくぐり抜けて車道の右手にあるトンネルをまっすぐ進んだ。そして三十分ほど東京の下町を南に向かって走ればすぐそこに江戸川区の自宅があった。これから骨だけになってしまった長女を我が家へ連れて帰るのだ。こんな虚しい話はこの先二度とない。あいつが生きているときにもう一度時間を戻してじっくり話を聞いてやることができたのなら。崇は何度も何度も自分たちが親の立場としてあまりにも大馬鹿な人間だと思えてしかたがなかった。
横殴りの雨が車のフロントガラスを急に叩きつけた。ひどく荒れた夕立だった。崇は死んだ魚のような目をしながら窓の外を眺め始めた。靖子は骨壺に顔をうずめたまましばらく涙を止めることができなかった。
寺岡夫妻の一人娘だった惟子は令和二年七月六日の深夜、二階の自室でひっそり縊死を遂げた。彼女は両親が寝静まったのを見計らうと、バスルームにあった数枚のタオルを細長く輪の形に結び付け、それをドアノブにかけて首を吊った。享年二十四歳だった。休日であったが昼過ぎになっても部屋から出てこないのを心配した靖子が二階に上がったとき、そこに変わり果てた娘の姿があった。娘の身体は宙に浮いていた。靖子は首をタオルにかけたままの惟子を慌てて床へ引き離すと、冷静を保てず狼狽して全身を震わせながら崇と一緒に救急車を呼んだ。救急隊員が駆けつけたとき、惟子はすでに心肺停止状態で応急処置にも至らないままその場で死亡が確認された。靖子と崇は救急隊員の指示により警察へ通報するよう言われた。夫妻は憔悴しきったせいで固まった表情をずっとしていた。やがて警察がやってくると、寺岡夫妻に対する事情聴取とその間に鑑識が行われ、上下紺色の作業着を着た警官たちが自宅の中へぞろぞろ入ってきて現場検証は入念に行われているようだったが、結果的に他殺の可能性がまったく浮上してこないとみて警察は二時間もかからないうちに捜査を引き揚げ、遺体を司法解剖のために病院へ搬送した。靖子と崇は気が動転していて、そのときのことはあまり憶えていない。憶えているのはただ首筋に帯状の深い痕をつけ、半開きの白目状態で下半身いっぱいに尿を垂らして床に倒れ込む、娘のあまりにも哀れで無惨な姿だけであった。
四十九日が終わり、やがて一年が経ち、そして四年、七年、十年と月日がどんどん流れ去っていくのだが、娘の命日がやってくるたびに寺岡夫妻の心は毎年つらかった。私なんかいないほうがいい、死にたい、消えてしまいたい、といった死をほのめかす殴り書きの遺書が自室の机の引き出しの中から後になって見つかったが、その原因を寺岡夫妻はいまだに把握できていなかった。それでも彼らが一つ思うことは、娘が何かに苦しみぬいてただひたすらそこから逃れようとしていたということだけだった。彼女は生きることよりも死ぬことのほうを楽だと捉えた。そして、直ぐ様それを実行してしまった。誰か他の人間のせいで。娘は誰かによって殺されてしまった。その人間に対して寺岡夫妻は何度も殺意が湧いた。娘を死に至らしめた人間が憎かった。靖子と崇は、自らの手で親よりも先に死んでいった我が子のことを最大の親不孝だと他人に罵ったこともあったが、いまではその事実を素直に受け止めてやらなければ娘の供養につながらないのではないかとふと思うようにもなった。けれども彼女の死を境に、寺岡夫妻の人格の歯車は次第に狂い始め、その後の彼らの人生は想像を絶するものとなってしまった。