忘れられた政治家・石橋湛山
『一切を棄つるの覚悟』
「忘れられた」というより、「忘れてはいけない」政治家と言った方がいいだろう。
若い人はこの名前をご存知だろうか。私は日本の首相としてその名前を知っているに過ぎなかった。何しろ在任二ヶ月という短さだった。
石橋 湛山、1884年〈明治17年〉~ 1973年〈昭和48年〉早稲田大学を卒業。明治44年に東洋経済新報社に入社。大正14年東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任。
昭和21年、日本自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第一次吉田内閣で大蔵大臣、昭和22年衆院選に当選するも、GHQによって公職追放される。解除後、昭和29年より鳩山内閣で通産大臣を歴任、昭和31年、保守合同後、初の総裁となり、内閣総理大臣となる。
戦前は『東洋経済新報』に籍を置き、ジャーナリストとして活動。戦後、政治の世界に入る。簡単な略歴である。
図書館でふと彼の『評論選集』を目に留めることがあった。まずは、『一切を棄つるの覚悟』と題した評論文の一節を読んで貰いたい。
《我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか》
— 大正十年(1921年) 『東洋経済』社説
まずは、年代を見てもらいたい。軍閥が台頭してくる時代である。これは同年開催されるワシントン会議に向けて書かれたものである。この会議はアメリカ合衆国が主催した初の国際会議であり、また史上初の軍縮会議であった。表向きは第一次大戦後の平和秩序を掲げたものであったが、満州・中国に進出を目論む日本を牽制するものでもあった。
この小文を読まれただけで、湛山の寄って立つところを理解されるであろう。一貫して日本の大陸への帝国主義的膨張(これを大日本主義とした)を批判し、これに抗して、平和的な加工貿易立国論を唱えた(小日本主義)。
帝国主義的野望は百害あって一利なしと説く。富は貿易数値で表される(GDPなる数値がなかった時代)として、朝鮮や台湾の植民地、権益領地満州の貿易統計を挙げて、これら全てを足してようやっとインドとの交易額に並ぶ。アメリカやイギリスの交易額にはるかに及ばないとする。質においても、鉄、石油、機械と有用なものは英米から輸入、日本の輸出品である繊維等の軽工業品の一番のお得意は英米ではないか、ならば、これらの国と仲良くする方が利益とするのである。
そして、朝鮮や台湾、満州の権益領域を守る、それは国力以上の軍備を必要とし、国民に多大な負担と犠牲を強いるのである。一切を捨てればそれほどの軍備も必要とせず、それら余った資金、資材で、英米に追いつく産業を振興するが国富への近道であるとする。ワシントン会議についても相手に主導権を取られて泣くのではなく、ならば、戦艦の一艘、2艘のケチなことを言わず、朝鮮も、台湾も、大陸への野望も捨てると言ってみれば、相手も「アッと驚く為五郎」で、主導権を取れるのではないか!それぐらいの逆転の発想を持てと言っているのである。
英米と帝国主義的覇権を競っても、その行き着く先は悲観的事実しか待っていない。その後の悲劇を予見しているのである。やりようで、4つの島で十分やっていけると、戦後の日本を見通していたと言える。
英米といえども、他国、国民を永遠に支配下に置くことは不可能で、いずれ独立、自治を与えねばならないだろう。朝鮮の独立運動、台湾の議会開設運動、支那の排日運動はその前途の何なるかを語っている。これらの運動は、警察や軍隊の干渉圧迫で押さえつけられるものではない。それは資本家に対する労働者の団結運動を干渉圧迫で抑えられないのと同様である。と、『大日本主義の幻想』として書いている。
ならば、英米に先んじてやってみろ。朝鮮は無論、支那の人たちは言うに及ばず、植民地、属国になっている国々に尊敬され、それらの国が独立、自治を得て、ちゃんとした国になった時には一番の親善・顧客になってくれる、それぐらい先を見て商売しろと言っているのである。
歴史を予見することは難しい。しかし、近視眼的に見るから難しいのであって、大局的に見れば幾分見えるのではないかと、湛山の評論を読んで思うのである。
地方分権についてもこう書いている。
《元来官僚が国民を指導するというが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。国民一般が一人前に発達したる後おいては、政治は必然に国民によって行われるべきであり、役人は国民の公僕に帰るべきである。政治が国民自らの手に帰するとは、一は最もよくその要求を達成しうる政治を行い、一は最もよくその政治を監督しうる意味にほかならない。このため、政治はできるだけ地方分権でなくてはならぬ。できるだけその地方地方の要求に応じえるものでなくてはならぬ。現に活社会に敏腕をふるいつつある最も優秀の人材を自由に行政の中心に立たしめえる制度でなくてはならぬ。ここに勢い、これまでの官僚的政治につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義(特に文官任用令)というが如き制度は根本的改革の必要にせまらざれるを得ない。今や我が国はあらゆる方面に行き詰まってきた。しかしてこの局面を打開して、、再び我が国運の進展を図るためには、吾輩がこれまで繰り返しいえる如く、いわゆる第二維新を必要とする。第二維新の第一歩は、政治の中央集権、画一主義、官僚主義を破壊して、徹底せる分権主義を採用することである。この主義の下に行政の一大改革を行うことである》
— 大正十三年(1924年)『東洋経済』社説
湛山は、マルクスもエンゲルスも読んではいるが、社会主義者ではない。計画経済に計画通り行くか疑念を呈している。社会主義のいいところを取り入れていけば、資本主義の方に分があると見ている。骨のある自由主義者である。だから、主義に拘束されたくないし、また、主義が違うからと言って排斥、弾圧することを良しとしない。
当然、軍閥に対しても、歯に着せぬ批判を展開している。よくぞ、ここまでと思うが、健筆を振るえたのは、一記者ではなく東洋経済誌の社長になっていたからであろう。
『戦後の湛山』
戦前のことはこれぐらいにして、戦後の湛山について書こう。
終戦を迎えて、8月25日の社論『更生の門出』で、前途は実に洋々たり、と書いている。湛山の戦前書いてきたものを見た人はそれを理解するであろう。失ったものを見るのではなく、これから作るべきものを見るのである。湛山は評論の世界から実践の世界に入って行く覚悟を決める。
書いたように、昭和21年4月、日本自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第一次吉田内閣で5月大蔵大臣に就任し、戦後直後の混乱した経済、財政に取り組んだのである。戦前、金解禁の金融政策をめぐっての湛山の評論活動が評価されてのものであった。
自由党からの立候補したことについて、社会党からの誘いもあったが、主義に縛られそうに思い、その点自由党はてきとうだったと、記述している。
時は、ハイパーインフレで2月には新円切り替え・預金封鎖が行われていた。世間はインフレ抑制のためデフレ政策(緊縮財政・通貨増発の抑制)を言っていたが、「国民に業を与え、産業を復興し」「生産力の復興拡充こそが重要」と、積極財政を行う。1、石炭の増産支援、2、復興金融資金の設置を重要項目と掲げた。
しかし、GHQと意見を異にし、翌年5月公職追放にあう。戦前の彼の言動をよく調べればありえないことであった。過大な進駐軍経費(国家予算の3割)に異議を唱え、戦勝国アメリカに勇気ある要求をした “心臓大臣”と国民からは呼ばれるも、アメリカには嫌われたようである。
昭和26年、公職追放が解除されて、自由党に復党。昭和29年鳩山内閣で通産大臣。昭和31年保守合同後の初めての総裁選に立候補、1回目投票で岸信介が1位になるも過半数に達せず、決選投票で2位、3位(石井光次郎)連合で、7票差で総裁に選ばれ、石橋内閣が誕生する。副総裁の位置は功績から言って石井光次郎としたいところであったが、党内融和のため、1位の岸の処遇を言う勢力もあって、岸を副総理格の外相とする。
首相就任後、少し風邪気味であったのに、精力的に全国遊説に出かけ、体調を崩し、自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、「予算審議の国会に出て答弁出来ない首相では・・」と潔く、退陣し岸に後を譲る。
世間はその潔さに拍手を送ったが、多くの冤罪裁判を扱った弁護士、正木ひろし氏は「潔しとするかもしれないが、私的な感情で公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判している。私も同意見である。正木氏は余程残念であったのだろう。「国民の期待も考えろ」と言いたかったのである。
幸い大事に至らず、その後議員活動を続け、周恩来首相とも会談し、日中の国交、親善に尽くした。田中首相が日中平和友好条約を結ぶ前、湛山宅を訪れている。
歴史に〈もし〉がないのだが、何とか首相を続けていたら、どうなっていただろうかと考えてしまう。岸信介と安保条約は果たして・・と、思う。
岸信介は経済発展のためには対米従属路線、石橋湛山は冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張していた。アメリカの強い力のもと、その主張の実現には疑問符がつくのであるが、あの安保闘争の歴史はまた、違ったものとなったのかもしれない。
ちなみに、岸が主導した日米安保条約改定には、本会では議決を欠席した。
平和と軍備・憲法9条については、時代と共に幾らか変遷している。当初は世界平和の先頭に立つという意味でその理想を歓迎した。しかし、朝鮮戦争の勃発、冷戦を目の前にして、最低限の自衛軍備の必要、憲法改正を説き、非武装中立を無責任な理想主義とした。ただし、一国に偏った同盟関係でなく、軍備は極力最小にして、国際平和のためにはしっかりした国連軍の必要を説いた。
安倍首相の祖父は岸信介氏である。汝の敵にも敬意を払うほど広い心を持つことが、宰相の要件の一つであるならば、是非、石橋湛山を是非読んで貰いたい。
また、若い人には、かつてこのような政治家もいたということを、記憶に留めて欲しいと思うのである。
了
注釈:
岸 信介、1896年〈明治29年〉~〈昭和62年〉。旧姓佐藤。
東大を主席で卒業、農商務省、商工省に勤務。満州国総務庁次長、商工大臣、衆議院議員(9期)、外務大臣、内閣総理大臣などを歴任し、『昭和の妖怪』と呼ばれた。
満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ、その後、日本の商工省に復帰し、次官就任。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。戦前は「革新官僚」の筆頭格として、陸軍からも関東軍からも嘱望された。東條内閣の大東亜戦争開戦時の重要閣僚であったことから、A級戦犯被疑者として3年半拘留される。米国の方針変更により、サンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。政界に復帰し、弟の佐藤栄作も属する吉田自由党に入党するが吉田茂と対立して除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。
岸、佐藤家とも長州藩藩士の家系であった。岸は養父先であるが、信介、栄作の父である佐藤秀助は岸家から佐藤家へ養子に来ている。岸の娘、洋子の嫁いだ先が、安倍晋太郎である。
私の岸信介評
東条内閣の重要閣僚で、戦犯であった。安保条約は日本に必要であった。評価(悪評の方が多い)、功罪がこれほど分かれる政治家はいない。
私はただ、次を持って是としない。岸は安保条約反対の6月15日の国会デモに驚いて、自衛隊の出動を要請した。さすがに、防衛庁長官の赤城崇徳はこれを拒否した。