11・西播怪談実記草稿(三方西荘の戦い)3-1
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同九月十一日頃(1553年10月17日頃)、深夜。
孫氏は云う、寡は衆に敵さず。少なれば即ちよくこれを逃れよ、と。
六韜は云う、少を以て衆を討つは、これ必ず暮れを待ち深草に伏し隘路を要せよ、と。
少数ならば戦うな。
少数ならば迎え撃て。
播州勢と但州勢の戦い様は、戦国期日本を通して、武経七書を通読した全国の兵法者を悩ませ続ける相反する思考のぶつかり合い。
播磨の軍勢は奇襲を狙い、後の時代に千町越えと呼ばれる険しい峠道を通る。
三方西荘を北上し、高取城下を右にどんびき岩(どんびき=ガマガエルの意)を目印に、福知川沿いを遡る。そこから段ヶ峰の麓まで辿り着けば、あとは間道伝いに笠杉山の背後から田路谷へ抜ける地図上での最短経路。
ただし、実際には約八里(32km)の勾配差の激しい山道をたった一昼夜で踏破するのだから、完全に通常の行軍可能限界を超えていた。
「若、一口飲まれますか」
「…………」
無言で進軍する播州勢は、一度、福知渓谷前で小休止を取る。
進軍前の軍議で提示されたもう一案。宍粟郡の北端・草置城から黒原に入り、神子畑の鉱山群に通じる道であればもっとずっと開けた広い街道を通ることも出来る。しかし、大きな街道を通る以上どうしても人の出入りが存在してしまう。
奇襲行動を山名の軍勢に察知されては元も子もない。
発見の危険性から神子畑ルートは廃案になっていた。
「もう少しで日暮れを迎えます。休めるときに休むことも戦です」
「……分かった」
日没後の行軍は危険を伴う。
夕闇を迎えて、猟師に扮した田路右馬允ら田路勢が軍勢の先頭に立つ。
田路勢の持つ極めて少ない光源を頼りに、播州勢は足場の悪い山道を影の如く駆け抜ける。進めば進むほどに、土地勘のない佐用軍は疲弊し、夜戦経験の乏しい政範にも余分な疲労が蓄積された。
一挙手一投足、宍粟の兵士達よりも遅い。頭では理解していても身体が付いてこないのだ。
政範が近くの木々に凭れ掛かると、がちゃがちゃと鎧具足が重く音を立てた。
北寄りの風はいよいよ強く吹きすさび、軍勢の立てる物音をかき消す手助けをしてくれていたが、進むほどに熟練の宇野の兵士とは距離が開く。
急がず慌てず、行軍に一定の速さを保つことが山岳戦では重要となる。次第に脱落者が増える佐用・上月の兵士らから見れば、宇野・田路らの兵が夜の闇に溶け込み、更に速度を増したように感じられた。
一応、田路の兵士らにも後続が後からでも追えるよう、道中の要所要所に裂いた布切れを巻き付けておくことも命じてあったが、途中で落伍した兵士らは、下手に動かず夜明けを待って追従するようとの指示が下されていた。
結局、翌朝までに無事に峠を越えた播磨兵は出立前の半数程度。
夜明け間近、二度の小休止を挟み田路谷まで抜けてみれば、山名軍は夢うつつ。
苦労の甲斐もあってか、山の夜気に当てられ山名兵らが気付いた様子もなく、焚き火を前に船を漕いだり眠たげに目をこすっていた。
値千金の好機。
「すわ掛かれっ」
宇野政頼の号令のもと、この日の会戦が始まった。




