11・西播怪談実記草稿(三方西荘の戦い)1-2
「若、聞いておいでですか」
「……ああ、聞いている」
身内の急死に気遣ってか、祖父は政範と同じ年頃の福原氏の子息を付き添いとして選び、年長の定尚は、時折土地の古潭や地名の由来などの話題を振って気を紛らわそうとしてくれていた。
幼少期を除けば、政範が兄と過ごした時間はあまり長くない。
兄が元服した時分には、佐用郡はまだ尼子氏の支配下。生まれたばかりの政範は遊撃隊を率いて国境で戦う父親の顔を見ることもなく、密かに家中の者に連れられ上月太平山城を脱出し、赤松総領家のもとに長く身を寄せていた。
やがて政範が十郎という自分の幼名を聞き分けられるようになる時分には、兄の方が鞍掛山に幽閉されるようになっていた。
物理的な距離は近くなったが、置塩から鞍掛山と直接兄と会う機会は年に数度。共に遊んで貰った記憶はない。主君赤松晴政から置塩城西の守護を仰せつかってからは、兄の身に起きた出来事の殆どが人伝てに聞かされた事ばかりになる。
「兄君のご不幸は……」
「いいさ、兄は最後まで七条の名誉を忘れていなかったと聞いている」
気にしないとは言えない。今は前を向くしかない。
揖保川上流、宍粟郡北部の安積の小さな橋を渡れば、そこからは先は安積氏の領地・三方西荘。播磨国宍粟郡安積保の主・安積氏の武勇の誉れは高く、百年前、嘉吉の乱の際には、赤松総領家随一の侍大将にして筆頭家老の安積氏の雄・安積監物行秀が、京都赤松屋敷にて室町幕府六代将軍・足利義教の首を刎ねている。
赤松総領家が一度滅びた後も安積氏の忠誠は変わらず、宍粟郡における親赤松総領家派の一旗として今は宇野氏を背後から脅かす存在となっていた。
「……ここの集落の者は、随分と勤勉ですね」
「何故わかる」
福原定尚によれば、農民の勤勉さは田の畦を見れば分かるのだという。
「きっとこの土地の民は、土地の広さに応じて年貢が定められているのです」
検地を行うことで、土地の生産高と課税割合が決められる。一度課税割合が決められれば、再度検地が行われることはそうそう無い。
隠し田は重罪であるが、こっそり田を広げることは黙認されていた。
農民たちは、毎年春の田作りの時に握りこぶしばかりの土地を畦道から削り、ほんの少しだけ田を広げていく。一年ではほんの僅か。しかし十年も続ければそれは秋の実りの際に大きな成果となって表れる。
そういう視線で田畑を見れば、集落全体の畦道がどこも細くなっているのが分かる。
「博識なのだな」
「否。全て、貴方の父から教えて貰ったことです」
事もなげに言っているが、知識を教えると教わるはまた違う。過去、尼子氏との戦闘で大きな被害を受けた福原氏の教育を買って出たのも七条家だが、その成果もまた大きな成果となっていた。
歳のそう変わらない定尚に、政範が一目置き始めるのはこの最初期の頃からだとされている。
「……さあ、若。安積氏の屋敷が見えてきました。行きましょう」




